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109.

陸上競技というのは実にわかりやすい。
1秒でも…いや、コンマ何秒…例えそれが1/1000秒であったとしても、先にフィニッシュラインを超えた者の勝ちだ。
単純で明確で、そしてそこには何も余計なモノなど挟み込む余地などない。
どれだけ苦労の末にたどり着こうが、その背景にどんなドラマがあろうが…

勝者は勝者。
敗者は敗者。

敗者の無念や悔恨…いろんな者を受けるからこそ、勝者は輝くのだ。


しかし、敗者にも称えられるべき敗者が間違いなく存在する。
敗者に送られる賞賛は、勝者の価値を高める事にもなる。


目前で聖ヴィーナスの大島涼花が歓喜のフィニッシュラインを超えた瞬間、四ッ谷大の高島祐利奈は肩からかかってる襷をぐっと握りしめた。
こみあげてくるのは、悔しさだった。
自分にとってのラストラン。仲間が最高の晴れ舞台を用意してくれた。チームにとっても悲願の総合優勝。それを託された事を心から誇りに思った。
しかし、及ばなかった。


みんなが待ってる。
私は、あそこに並んでる仲間に恥ずかしくない走りが出来たんだろうか?
みんな、泣いてるじゃないか。
その涙…きっと悔し涙だね。
未姫、やめなって。泣きながら笑ってんだか、笑いながら泣いてんだかわからない顔は。奈々は…絶対にこんな時泣かないね。でも、わかる。奈々が泣きたいのを我慢してる時の顔。
茂木…彩希…アンタ達の分まで必死に走ったつもりだったんだけど。

高島は、ぐっと空を大きく見上げた。
涙がこぼれるのを我慢しているように見えた。

しかし、次の瞬間、高島は満面の笑みを浮かべた。
輝くような笑顔だ。
そして、もう一度ぐっと襷を握った。

私は、謝らないよ。
全部出したから。確かに私は負けた。
でも、謝ったりしたらここまで全力で走ってきたみんなにも…そして、何より自分に対して失礼だ。私は、全てを出し尽くしたじゃないか。だったら、堂々と胸を張ろう。そして、この悔しさを仲間に託そう。自らが襷を繋ぐ事はもうなくても…きっと、想いは繋がっていくはずだ。


「高島ぁ!ラストだ!」
「ゆーりん!」
ひときわ大きな茂木忍と村山彩希の声が聞こえてきた。

そうだ。まだ終わってない。
あのテープを切るまでは…
最後の最後まで、何も残さないでこのレースを終えなくちゃ。

ふぅっ全身が軽くなった気がした。
白いテープがお腹の辺りに巻き付いてきた記憶がある。
そのあとの記憶がはっきりしない。

さすがに胴上げはされなかったけど、みんなに頭を叩かれた覚えがある。
かなり強く叩かれていたのに、全然痛くなかった。
でも、夢の中じゃなかった。
みんなの、泣き笑いの顔はしっかり覚えていたから。



108.

「あの…島田さん…いいんですか?」
「ん?なにが?」
小嶋真子が、島田の耳に手を当てて小声で話しかけた。
そんな事をしなくても、二人の会話なんて周りには聞こえないほど、ゴール付近は大歓声に包まれている。それでも、小嶋は背中に刺さるような視線を感じていた。
「だって、ほら…一応ウチ途中棄権じゃないですか?まるで、優勝したかのような騒ぎしてちゃ…」
「OGや後援会がうるさいってか?」
「ええ…」
「何?真子、そんな事気になるの?」
「いや…私じゃなくて。」

襷が途切れた1区以降、後続の選手が見事な走りを見せれば見せるほど、途中棄権の歯痒さを外野はぶちまけた。棄権した後藤萌咲を責めるような事はしない。心の中では、あの1区がなければ…そう思っても、1年生の後藤を責める事はさすがに忍びなかったのだろう。そして、その矛先は新参で外様のヘッドコーチである島田に向けられていた。

「いいんじゃないの?誰かが悪者っていうか…責任を取らなくちゃいけないのなら。それくらいしか私の仕事なんてないんだからさ。」
余計な心配すんんじゃねーよ。
島田はそんな風に笑って、小嶋の背中に腕を回した。

「そうそう。金栗賞、アンタらしいよ。」
「え?なんで?私の記録は公認じゃないんですよ?」
「まあ、金栗賞は最高殊勲選手賞じゃないからな。当然だろ。非公認とはいえ、アンタッチャブルレコードを大幅に更新したんだから。あの走りは多くの人の胸を揺さぶった。堂々とトロフィー受け取っておいでよ。」
金栗賞は、その年もっとも素晴らしい走りを見せた個人に与えられる賞だ。
箱根を走った選手に与えられる最高の栄誉といってもいい。

「まじどっか?すんげー。真子さん!やったあ!」
小嶋の背中に飛びつくように、横山結衣が抱きついてきた。
中野郁海、坂口渚沙、そして下口ひななもじゃれ合うようにして小嶋の周りに輪を作った。
「やばい…ちょ…ちょっと私…」
小嶋の目から大粒の涙が零れ落ちた。
私の力なんかじゃない。みんなが…みんなが私に力を与えてくれたからなのに…。

「真子さん。おめでとうございます。」
はしゃぐ周りから一歩下がったところで、後藤が笑っていた。
「萌咲…アンタね…泣かせるんじゃねーよ。はは…」

来年も予選会からだ。それは今年と変わらない。
ただ、確かな事が一つある。
今年、私たちはとてつもなく大きな財産を手にした。
RESETのために。



もみくちゃにされながら、小嶋がフィニッシュラインの方を見た。
岡田奈々と西野未姫が笑いながらこっちを見ている。
なじみの顔も見える。四ツ谷大付属の先輩や後輩たちだ。
肩を組んで、ゴールテープの向こうからやってくる選手達を迎えようとしていた。

「お・め・で・と」
岡田が口だけを動かして小嶋に言った。西野も隣で満面の笑顔を見せている。


なによ。なんでそんなに笑ってるの?
悔しい顔しなきゃいけない場面じゃないの?

先頭の選手が姿を見せた。
白地に英字で染め抜かれた聖ヴィーナスの文字。
ライトブルーの襷。
大島涼花の小さな身体がひときわ大きく見える。
既に2度3度、拳を空に突き上げている。

残り1キロ。渾身の力を振り絞った大島のスパートに、高島祐利奈も懸命に反応した。しかし、最後の最後、絶対に負けない…高島はその意志を足へと伝える事が出来なかった。

努力は必ず報われる。
誰が言った言葉だったっけ?
そう、確かに何かを成し遂げるには、それこそ血の滲むような努力が必要だ。
そんな事、わかってる。

日本橋を渡る前に離された。
徐々にその背中が小さくなっていく。

高島はその背中を見送りながらも、決して力を緩める事をしなかった。
もう届かない事はわかっていた。
諦めたらそこで試合終了ですよ…
そんな漫画のセリフが聞こえてきた。もちろん諦めた訳じゃない。
最後の最後まで力は抜かない。


今日で終わり…今年で終わりだからこそ、私は懸命に努力してきた。
やり残した事なんて何もない。
後悔がないと言ったら嘘だけど、もう一回同じ事をやれ…そういわれても「もう無理」って言いたくなるくらいの事をしてきた。
でも、だから勝たせてくれってほど甘くない事もわかってる。


でも…だからこそ、私は最後まで全力で走る。
胸がはち切れたって、足が折れたってもう構わない。
それが、ここまで襷を繋いできた仲間への…
ともに競いあってきた者たちへの、礼儀だ。

努力は必ず報われる。
そう…あの言葉には、続きがあるんだ。
むしろ、大事なのはその先のほうだ。

「私は、その事を人生をもって証明します。」
そうなんだ。
今日まで頑張ってきた事。
流した汗と涙。夢への全力。
そして今日の悔しさ。

それを人生の糧にして、これからも走る。

それを証明するために、もっともっと努力しなくてはならないんだ。


高島は顔を上げた。順光の中、両手を上げてテープを切る大島涼花の背中を目に焼き付けるために。


107.

楽しくて仕方なかった。どれだけ飛ばしてるのか、なんとなく自分でも感じていた。
15キロまでは、1キロごとにラップをチェックしていた。でも、それもやめた。
記録とか、区間新とか…そんな事、どうでもよくなってきたからだ。

実際、秋元真夏は速かった。
区間記録を常に1分以上上回っていたし、そのアドバンテージは距離を重ねるごとに大きくなっていった。しかし、秋元自身はそんな事よりも、沿道からの声援がとにかく心地よかった。たぶん、表情はぐちゃぐちゃなんだろう。今にも破裂しそうな心臓。もうフォームとかそんな事を気にする余裕は何もない。それでも、たくさんの声援が自分の背中を押してくれる。


長い直線になると、前を走る選手の姿がチラチラ見え始める。
正直、ずっとこのまま一人で走ってたかった。観客の視線を独占できるから。
でも、そんな事は言ってられない。
今は、溢れ出すこの感情をおさえる事なんてできやしない。

もっともっと前へ。


「すごいね…」
「うん。大したもんだわ。」

大手町では乃木坂大の選手たちがビルの陰で小さなモニターを丸くなってみていた。
もうすぐトップが戻ってくる。四ツ谷大や聖ヴィーナスの選手たちは、もう通りに出て肩を組んで選手の到着を待っていた。テレビカメラがその表情を追いかける。ビルの間から差し込む日差しに照らされ、とても眩く見えた。
確かに秋元の走りは見事だ。
しかし…それは、この大手町の光景と同じ。
スポットライトを全面に浴びてのものではない。

「あ。まっつん。着いた?ああ、見えた見えた。こっちだよ、こっち。まいやんも。」
居駒里奈がかかってきた携帯を耳に当てて周りを見回した。
松村と白石の姿を見つけて手を振る。
「間に合ってよかった。まいやん、病院行かなくていいの?」
橋本奈々未が白石の肩に手を当てて顔を覗き込む。
白石が軽く頷いた。二人の顔に笑顔はない。

「みんな…あんな…私…」
松村が遠慮がちに声をかけようとして時、輪の中から小さなどよめきが起きた。
「すげっ…」
「なに、あのごぼう抜きの仕方。しかし、なんちゅう嬉しそうな顔してるの?」
モニターは秋元の姿を大写しにしていた。
四ッ谷大、聖ヴィーナスのトップ争いはまだ続いている。シード権争いはひとまずの決着がつき始めていたが、まだまだ予断を許さない。
そんな中、最下位を走る秋元に注目が集まっているのだ。

「みんなごめん。私がヘマしなきゃ…」
松村の前を遮るようにして白石が大きな声で頭を下げた。
「まなったんの走り見てたら…あそこで私が普通にさえ走れていたら、今頃は…」

白石の言葉に乃木坂のメンバーは再び言葉を失った。
もちろん、責めるつもりなんてない。しかし、みんなが思っていた。あそこで、大きなブレーキがなければ…

「仕方ない…では済まされないね…」
気まずい雰囲気に追い打ちをかけるようなセリフを言って立ち上がったのは、若月だ。
「ちょ…ちょっと」
桜井が隣で若月を肘でつつく。
「でもさ。それを含めて駅伝なんじゃないの?まいやん一人のせいじゃない。それが今の私たちの力なんだよ。まいやんが怪我の事を打ち明けられなかったのも、私たちが弱いせいだ。」
「いい事言うじゃないか。」
「え?監督?どうしたんですか?あの…監督車に乗ってたんじゃ?」
いつの間にか、設楽の姿があった。日村も一緒だ。
「ああ。深川と交代した。なんか、つまらなくてさ。まるで糸の切れた凧みたいに飛んでいっちまったしな。秋元も。それより…ここでゴールシーン見てたほうがいいや。」
「それより、桜井。今の若月のセリフ、キャプテンのお前が言わなくちゃ…なあ。」
日村の冷やかすような言葉に、逆に若月が苦笑いを浮かべた。

「ま、また一からやり直しだ。いいじゃねーか。まだみんな来年があるんだ。今年、こんな負け方したのは、誰のせいとかじゃねーぞ?俺たちが弱かったんだよ。単純にな。誰を恨むとか、そんな事言ってるヤツは…いねーな?」
設楽が静かな、しかし強い口調で言った。
全員が、小さく頷く。
「だったら顔を上げろ。ちゃんと見とくんだ。歓喜の輪の姿を。目を逸らすな。言い訳なんてするな。泣きたいヤツは泣けばいい。そして、その悔しさを呑みこむんだ。」


春の日差しが一段と強くなった。
大きな歓声が腹の底から響いてくる。


106.

「後ろ気になるの?」
大島涼花が高島祐利奈の半歩後ろから声をかけた。
少し苛立ちが込められているようにも聞こえる。
高島は、ちらっちらっと後方に向けていた視線を、大島の方に向けた。
「そっちは…気にならないの?」
「別に。っていうか、アンタ今の状況わかってる?」

箱根駅伝はいよいよ終盤だ。終盤も終盤。往復200km以上…これまでに9人で繋いできた長い道のりももうあと僅かで終わる。しかも、二人が今走ってるのは先頭だ。総合優勝はもうこの2校に絞られたといってもいいだろう。

大島はこの場に及んで、遅れてしまった選手の事を気に掛ける高島が気に入らなくて仕方なかった。アンタが意識しなくちゃいけないのは、目の前にいるこの私じゃないの?

反逆児とかツッパリとか色んな風に呼ばれた。
みんな、ガキ扱い。
確かに、練習ではすぐふざけてたし、監督やOGの人たち、コーチや先輩の言う事なんて全然聞かなかった。
でも、段々と芽生えてきた「自覚」。
少し大人になった…そう自分自身感じ始めた頃だった。
走ってて楽しさを感じなくなっていったのは。

今日だってそうだ。栄京の山田を引き離したタイミング。
絶妙な判断だった。今までの自分じゃ到底考えられない。

今のチームを引っ張っているのは、どう考えても自分じゃない。
2区ではなーにゃがとんでもない走りをしたし、なっきーだって見事だった。
ずなさんだって、さややだって。

これでいいのか?
確かに、今ここで走ってるのはなっきーの戦略があってこそだ。
でも…でも…


「わかってないのは、涼花、アンタの方じゃないの?」
「は?なに?ゆーりん、言うようになったねえ?」

高島と大島は中学時代からのライバルだった。
強豪・四ツ谷大付属に進んだことから、駅伝では高島の方が目立った実績を残しているように見えたが、それはあくまでもロードでの事。トラックでの実績は間違いなく大島の方が上だった。

「わかってないって?どういうことなのよ。ねえ?」
「少なくとも、そんな詰め将棋をしてるみたいな顔をしてるアンタには負ける気はしないって事だよ。」
「詰め将棋?」
「後ろを気にしてる?そりゃそうだよ。私の相手は、みずほちゃんしかいないって思ってたからね。」
「私の事は眼中にないって事?」
「まあ、そういう事かな。」

日比谷通りを馬場先門の交差点で右折する。
残りは3kmだ。

高島はカーブを大きく曲がる遠心力を使って一気にスパートした。
大島を一歩から二歩引き離す。

「くっそう。ふざけんな!」
大島が必死の形相で追いかけてくる。
掴みかからんとする勢いで高島の横に並んだ。

そうそう。それでなきゃ。そうこなくちゃ面白くない。
涼花…ね。中学の時は、あんなに小さくてさ。
思わず小学生?って思ったくらい。
でも、一緒に走ったら速い速い。
ちっちゃな背中がどんどん小さくなってくのを見てるしか出来なかった。
でもね。走り終わったときの顔見て思ったんだ。
あのやんちゃな笑顔。私もあんな風に笑えたらいいなあって。


私、今日が最後なんだ。
もちろん、走る事は続けるよ。市民マラソンとかにも出ちゃうつもり。
でも…こんな風に、すべてを賭けて…
自分だけじゃなく、みんなの想いとか色んなものを受けて走るなんて一生ないと思う。津波のように押し寄せる大声援。絶対に負けたくないって必死の顔で一歩先を競うライバル。襷の重さ、絆の強さ。
もう二度と、私は感じる事はない。


だからこそ、最後の最後は、最高の相手と競い合いたい。
みずほちゃんも一緒だったら、それが一番良かったんだけど、それは仕方ない。
ね、私、勘違いなんてしてないよ。ちゃんと、今最も危険な相手が誰かってわかってる。でも、私が勝ちたいのはモヤモヤしながら走ってる大島涼花なんかじゃない。
全てを出し切って完全燃焼できる、最高に手ごわい大島涼花なんだ。


さ、行くよ。
最高のステージだ。
ほら、あんなにたくさんの人が手を振っている。
声を枯らして応援してくれてる。

パレードみたいじゃない?
二人だけのパレード。
手と手を取り合ってって訳にはいかないけど。

最高の花道だよ。
ね?


105.

箱根駅伝では、復路になると単独走になる事が多い。1区では20校が揃ってスタートするが、2区で集団が分断され始めると、そのあと多くの人数がまとまって走る事はそうある事ではない。
しかし…だからこそ、10区の終盤になってからの集団での駆け引きは実に難しい。先頭争いもそうだが、シード権を争ってる今の状況はなおさらだ。
秋英の岩田華怜、博多の穴井千尋、そして学連選抜・難波商科の木下。順位は9、10、11位。難しいのは、この中で「1番で入らなくてもいい。だが、3番目だとダメだ」という事だ。単純に三人の中で誰が勝つか…ではない。

走ってる選手は、ここまできて頭の中で細かい計算をする余裕など残していない。10区23.1kmのうち、残りはもう10キロを切っている。それでなくとも、この暑さだ。長距離を走るには暑すぎるだけでなく、全身が痺れるような緊張感は選手のスタミナを容赦なく奪い去っていく。


指原莉乃は監督車の中でじっと目を閉じていた。窓を開けてそとの風を頬に感じながら。沿道からの歓声、巻き込んでくる風が長い髪をかき乱す。

箱根5区の山登り。スタートしてすぐに大島優子との並走になった。国道1号の最高点にたどり着くまで…距離にして20km弱か。ずっとその間一緒に走ってた。前には島田晴香が走ってた。あの時…私はなんで勝てたんだろう?確かに、あの時…「ここだ!」って声に弾かれるように前に出た。何度も何度も振り返った。大島優子の姿がどんどん遠ざかっていった。あのとき…

そうだ。この人の声だ。

指原は隣の席で窓から身を乗り出して岩田に声をかけ続けている高橋みなみを見た。
あのとき、あのタイミングで指示を出してもらっていなかったら、私は前に出る勇気なんて持てなかっただろう。誰かに背中を押してもらわなきゃ…
指原は自分も窓から身を乗り出してみた。後部座席の窓は大きくない。意外に窮屈だ。首だけ出すのが精いっぱいだった。

三人が縦長になっていた。明らかにこの3キロ、ペースが上がっている。先頭を牽いているのは学連選抜の木下だ。後ろをまったく見ない。ほんのわずか遅れて岩田。穴井は木下と岩田がキープしている差よりのやや広めの感覚を前と開けている。

その時、穴井が後方に目をやった。監督車の方じゃない。それよりももっと後ろだ。

まずい…
指原は小さな窓から目いっぱい体を乗り出し、拡声器のマイクに向かって叫んだ。
「キャップ!前だよ!前。後ろなんて誰も来てないんだから!」

その言葉の一瞬だけ前だった。高橋が拡声器ではなく肉声で叫んでいた。
「いまだ!ここだ、華怜!」

三人の集団で見る必要がない後方に視線を送る。
それがランナーにとってどういう事なのか、高橋は熟知していた。指導者としては、まだ若いがその洞察力、視察力、判断力。経験だけは会得する事が出来ないもの。高橋が指導者として一流なのはそういった点に長けているからだ。
勝負勘と言ってもいいだろう。

高橋の感じ取ったポイントは正しかった。おそらくここしかない、絶妙のタイミングだっただろう。残り7キロ。シード権争いから一歩抜け出す事が出来た…はずだった。

しかし、高橋が指示を出したタイミングで飛び出したのは、木下百花ただ一人だった。岩田は木下がスパートをかけるのを、ただ見送る事しかできなかった。

「くっ…遅かったか…」
高橋はそう言って車の天井を見上げた。力が抜けたように後部座席のシートに身をうずめる。大きなため息のような深呼吸を一つした。
前方では、穴井が岩田をかわしていくのがみえる。

「お前なら…行けたのかな?」
「はい?どういう事ですか?」
指原は目を閉じた高橋の言葉の意味を図りかねて聞いた。
「いや、ここだー!って言った時にちゃんとお前は飛び出してくれたからな。」
「だって…たかみなさん怒るじゃないですか。言われた通り走らないと。」
「はははは、私、そんなに怖かったか?」
「怖かった…っていうよりうるさかった…かな?」

高橋はもう一度笑った。
こんな顔して笑うんだ?指原がそう思うほど、穏やかな顔だった。

選手は駒じゃないんだ。いくら、戦術を練ってもそれが正解だとしても、実際に走るのは選手自身だ。その時の体調や環境、心理状態もだろう。私は、監督としてこうしてふんぞり返ってて何か見えないものが多くなりすぎてたんじゃないだろうか?

「なあ、指原。これで、学連選抜が9位。お前んトコが10位だ。後ろとの差も大きい。華怜もココで終わりだろう。もうピッチを上げることなんてできそうにない。シード権争いは決まったようなもんだよな?」
「です…かね?」
「なあ。あの木下はやばいよ。たぶんシードとかそんな事なんかじゃない。きっと、もっともっと前を狙ってくんだと思う。そして、まだ余裕持ってるように見える。で?どすんだ?お前んトコは?」

穴井だって余裕があるとは言えない。しかし、木下についていけたって事は少なくとも、岩田にかわされる事はないだろう。セオリーで言えば「自分のペースで走れ」って指示を出すべきだ。


「キャップ!負けんな!あのヘンテコな髪型の子になんて。あと6キロちょい。あの子と一緒に前を追うよ!慶育をもう一回抜いてやれ!」
指原はそう叫んだ。

「さすがだな。これで…来年は予選会からか…」
「たかみなさん、予選会って甘くないですよ?」
「ああ。わかってる…って、わかってないんだろうな。きっと私たちは。でも、だからこそ、ここで一度味わう必要があるんだろう。指原、来年はいろいろ教えてくれよ」

「たかみなさん。それはできません。」
「ん?いいじゃんか。敵とはいえ、かつての盟友だ。予選会経験のある指導者としてアドバイスくらいしてくれよ?」
高橋の笑みに指原が真面目な顔で答えた。
「ワタシ…もう一回走ります。だから…指導者としてアドバイスする事は…できなくなります。」
「ほー。その気になったか?」


そう。あの子たちを率いて、もっともっと高いステージに登らせるという仕事はとてつもなく楽しいものだ。咲良もはるっぴも、美桜も芽瑠も、まどかだってなつだって。指導という名の肥料を与えればぐんぐん芽を伸ばしていく。
でも、同時に、あの子たちと一緒に走ってみたい。

「たかみなさん。秋英って確か9月入学の大学院生募集ありましたよね?」
「は?お前、ウチの大学院来るの?実業団とかじゃなくてか?」
「いえ。あの子たち…の敵として走りたいんですよ。箱根でね。できれば5区がいいかな?」
「来年のか?しかし…大学院は大学自体と別チームだぞ?そりゃ、箱根出場経験者でも大学院では別に出場資格が新たに得る事はできるけど…。ウチの大学院で本線出場なんてとても…」
「学連選抜って手があるじゃないですか。」
「まじか?」


博多大はもっと強くなる。もっともっと。
そのためには、もっともっと強い相手と戦わなくてならない。
私が…あの子たちの壁に自らなろう。


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