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111.

「松井。お疲れさんだったな。残念だったな…と言ったほうがいいのか?」
「いえ。設楽さんも日村さんも、お疲れ様でした。乃木坂の走り、ずっと見てました。10区のまなったんの区間新…あれで、来年またみんな前を向けますね。」
玲奈が設楽に静かに手を差し出した。柔らかな表情だ。

「なあ、松井。来年に向けて、やっぱり俺たちにはお前の力が必要なんだよ。どうせ、ご老公の事だ、今回の責任をお前に押し付けるつもりなんだろ?どうだ?これからは、ウチの専属って事でやっていかないか?お前が来てくれるなら、俺は監督の座から降りたってかまわないんだが。な、日村さん?」
「ああ。その通りだよ。設楽さんに聞いたよ。お前がハッパかけてくれたから、白石は立ち上がって襷を繋げたんだってな。な、いいじゃんか。お前は、もう立派な乃木坂大の一員だよ。」

設楽、そして日村と握手を交わしながら、玲奈は静かに微笑みを浮かべた。
「いえ。やっぱり私は栄京の松井玲奈なんだなって…思いました。ヘッドコーチとか、そんな肩書きじゃなくてもいい。用具係でもトレーナーでも…雑用でもなんでもやるって言ったら、いくらあの悪代官でも放り出しはしないと思いますし。」
「おいおい、ご老公から今度は悪代官かよ…そこまでして、なあ…日村さん。」
設楽が残念そうに顔をしかめた。
「ま。松井玲奈らしいっちゃーらしいな。」
日村が大きなお腹をゆすって笑った。


「じゃ…選手が待ってますんで…」
玲奈は二人に背中を向けた。
「こらー!何をメソメソしてんだよ!負けて泣くなって何度も言ったろ?みずほ!わかったら顔洗ってこい!今日は、全員焼肉連れて行ってやるから。トラジや叙々苑って分けにはいかないけど…」
「焼肉?まじっすか?私、ムチャお腹空いてるんですけど。」
ひときわ甲高い声がした。玲奈が思わず後ろを振り返る。
「いや…OGは勘弁してくれるかな?っていうか、むしろカンパしてくれるとかじゃないの?ましてや、アンタに焼肉奢るなんて口が裂けても言えないわ、真那。」
「玲奈さん、ちーっす!」
「ちょっと、なんで珠理奈までいるのよ…まったく…」

玲奈が肩をすくめたとき、見たくない人物の姿が現れた。
今村の顔を見て、表情が硬くなるが、それでも毅然とした顔を玲奈は向けた。

「おお、そんなトコにいたのか。なんか、記者が囲み取材をしたいって言っててな。お前を探してたんだよ。」
「はい…わかってます。すべての責任を負う…そういう約束でしたね。」
「俺は、こういうのは嫌いなんだよ。勝利監督インタビューの内容しか考えていなかったからな。」

わかってる。
大丈夫ですよ。ハラワタが煮えくり返る思いは残るが、約束は約束だ。
仕方ない。見事にこの敗戦の幕引きをして、あとはアンタに頭を下げればいいでしょ?
なんでもいいから、私を使ってやってくださいって。
涙の一つや二つくらい流してみせるわよ…

「それでは、今村監督、松井コーチに伺います。連覇を狙った今年の箱根。往路は見事に制しましたが、総合では3位に終わった訳ですが。すばり敗因は何だったんでしょう?」
いきなり?
まったく、どこの社よ?まずは「今の気持ちは?」とか聞くのが流れってモンでしょ?いきなり敗因はってさ…確かに、負けだけどさ…

玲奈がぐっと息を吸い込み、目を閉じた。
そして、目をかっと開く。一気に喋ってしまおう。そして、とっとと会見を終わらせるんだ。

「敗因?うーん、ウチは負けたのかな?」
今村が、とぼけたような顔をして記者に答えた。
周りを取り囲んだ記者の目線が、玲奈から一斉に今村に向く。
「ちょっと教えてほしいんだが。もちろん、ウチが連覇を狙って今年に臨んだ事は、みなさんも知っている通りだ。そして、結果は3位。しかし、これは負けなのか?負けたとしたら、ウチはどこに負けたのか。優勝した聖ヴィーナスか?2位になったライバル・四ッ谷大か?なあ、玲奈。ウチの選手はみな、見事な走りをしたじゃないか?」
「え…ええ。そうですが…」
玲奈は少し…いや、ものすごく驚いた。
目を丸くしたまま、今村の顔を見る。
「私は、今年が初めての箱根でね。戦略とかなんとかは、全然わからなかったからここにいる松井コーチにまかせっきりだった。しかしね、君。君に聞きたいんだが。」
今村は、一番前にいた一人の若い記者を指差した。
「どうだったかね?今年の箱根は?今年の栄京は?」
「はあ…いや、往路の見事な逆転優勝。復路も個々が全力を出し切った走りを見せてくれました。栄京らしさが復活していたと思います。だからこそ、3位という…」
「ふむ。ありがとう。みなさん。今年の結果は実に残念なものになりました。確かに競技は勝たなくては面白くない。しかし、勝負は時の運。全力を出して、栄京らしい走りが出来ての敗戦であれば、我々はそれを堂々と受け入れ、勝者を称えたいと思います。しかしながら、敗戦を糧にしなくては、これもまた意味がない。ウチの選手は多くが3年生以下。きっと、ここにいる松井コーチ以下、この悔しさを晴らすべく臨んでくれるであろうと期待します。」
今村がそこまで言うと、大きく頭を下げた。
玲奈もそれに倣う。

「さあ、もうよかろう?選手が待っているのでな。では、失礼。」
まだ何かを言いたげな記者たちに背を向け、今村は玲奈の背中を軽く押した。
「あ…あの、今村監督…」
「さて…と。これで来年は、どんな言い訳もきかなくなったって事だな。」
今村の表情は渋いままだ。
しかし、どこか緩んだようなところを感じる。

「まあ、俺には難しい政治の話とかなんとかが似合ってるんだよ。」
「政治の話?」
「ああ、お前らいっつも言ってたろ?関東の大学が有利な今の記録会日程とか、海自上設定とか。来シーズンは少しは西の大学も参加しやすくなるはずだからな。」
「いっつも陸連でそんな事ばっかしてたんですか?」
「お前、俺がこっちで何か企んでるとか考えてたのか?」
「いえ…そんなんじゃ…」

玲奈が下を向いた。
笑いが抑えられない。
この人には…いっぱい喰わされてたってことなのか…

「おーい。真那、珠理奈。みんなで焼肉行くよ!全員ごちそうしてやるから。」
「おーさっすが、玲奈ちゃん。ね?ね?どこ行くの?私、やっぱトラジがいいなー?」
「は?何冗談言ってるの?すたみな太郎に決まってるじゃん。」
「えー。またあ?」
珠理奈の声にどっと笑い声が上がった。
「おい。玲奈。俺も出すから、せめて牛角くらいにしようや。真那がいるから、一番安い食べ放題のコースな。」

春の日差しが傾き始めた。
大手町から少しずつ、熱が引き始めていった。


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