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96.

ラストスパート。

良く聞かれるこの言葉。
駅伝やマラソンを走る選手もトラックの長距離の選手も、実は特別な練習をする事はほとんどない。
もちろん、長い距離を走った後、最後の数百メートルを全力で走る事もあるし、インターバルトレーニングでは心拍数をMAX域まで追い込んで走るなど、似たような状況でトレーニングを行う事は少なくない。
しかし、それは決してラストのスピードを磨く事を主目的にしたものではない。

箱根に出場するクラスの選手になると、1キロを3分前後…男子だと3分を軽く切ってくる。
良く沿道を自転車で追いかけようとする者がいるが、必死にペダルを漕いでもなかなか追いつけないというシーンを良くテレビで目にするだろう。
箱根では、そのスピードを20キロ以上に渡って維持しなくてはならない。
長距離選手は、この通常の走りを「有酸素運動」としてこなしている。血液中の酸素をエネルギー源とした運動だ。ラストスパートは、「無酸素運動」だ。エネルギー源は血液中の「糖質」に変わる。酸素と違って、糖質は運動中に自己供給する事ができない。燃え尽きてしまえば、そこで「ガス欠」となってしまう。
長距離選手の身体は、まさに「ハイブリッドエンジン」を搭載しているのだ。

向井地美音のハイブリッド・エンジンは、三人の中で最も小さな身体に積まれた高性能エンジンだった。しかし、そのエンジンを回すエネルギーは「気力」だ。
気合・根性…今の若い世代が最も忌み嫌う単語だ。

行ける。
勝てる。

最後の最後、私はちゃんと最後の一歩を前に出す準備ができていた。
なぜか、この子はずっと私に特別な感情をぶつけてきていた。
敵意?
いや…違う。敵意とは少し違う。
でも、なんとなくわかった。この子は違う。何かが違う。
最後の私の…この乾坤一擲のスパートを潰そう…
待ってたんだ。きっと。

5秒…10秒…
一度は完全に振り切った。周りは皆、そう思っただろう。
しかし、向井地は感じていた。
来る。もう一度。

まだだ。まだ、勝負はついていない。
そう、向井地は感じていた。
迫り来る川本紗矢の足音は、まだ遠ざかってはいない。




とうとうこの日が来た。
まさか、入学して最初の年にこんな場面に恵まれるなんて思いもしていなかった。
しかも、相手は向井地美音。
さっきの反応だと、私の事なんて覚えてないんだろうな。
無理もない。もう4年も前の話だ。

父の転勤で北海道へ引っ越す事が決まっても、私は東京に残りたかった。
でも、まだ中学生。進学先の高校も、わざわざ単身東京に残る程、何かをしたいという訳でもなかった。単に寒いトコ…そして田舎は嫌だ。そんな事とても言えなかった。
そんな時だった、隣の中学の陸上部の子が四ツ谷大付属高校のセレクションを受験するって話を聞いたのは。

あの子が?
ソフトボール部に在籍していた川本だが、校内のマラソン大会では敵無しだった。
地元の駅伝大会に駆り出されて出場した際に、その子とは同走したが、全然私の方が速かった。あの子がセレクション受けれるなら、私の方が…四ツ谷大付属は強豪だ。全国から選手が集まっているからちゃんと寮だってある。

そんなきっかけで受験したセレクション。
もちろん、結果は不合格だった。
「やっぱ、本格的に走ってきたサラブレッドは違うね。」
川本は、レベルの高いセレクションに半ば呆れたように、顔見知りの隣の中学の子に向かって呟いた。付き添いの親の姿も見える。きっと、小さなころから英才教育で、走る事だけを叩き込まれたエリートたちなんだろう…

「でも…あの子。陸上はまったくの初心者らしいよ?」
指差された先には、ひときわ小さな子がいた。
え?小学生じゃないの?
川本はそう思った。
「なんか、水泳の有名選手だったみたい。身体が大きくなれなくて駄目になっちゃったみたいだよ?」


それが、向井地美音との出会いだった。
その後の3年間。北海道に行った川本は、当然のごとく向井地とは交流を得る事はなかった。
しかし…ソフトボールからハンドボールに種目を変えても、心の中にはいつもあのセレクションでの、向井地の背中だった。
あんなに小さな背中から放たれるオーラ…凄かった…

聖ヴィーナスへは一般受験で入った。幸い、聖ヴィーナスの偏差値は、高校時代ハンドボールに明け暮れて勉強など眼中になかった川本にとって、極めて優しいものだった。
もちろんハンドボールの強豪校からの誘いもあった。しかし、川本は、ハンドボール部のない聖ヴィーナスで入学式の直後、陸上部への入部届けを提出した。

先にスパートをかけた向井地の背中。
一度は遠くなった背中が、再び近づいてくる。
中継所へのアプローチへと姿が消えた。
斜めに入り込むように側道へと入っていく。すぐ後に、川本も続いた。

計算どおり。
ここだ…ここで一気に…

その時だった。
川本は自分の目を疑った。

目の前で…向井地が羽を広げ…翔んだのだ。
躍動とか、そんな簡単な言葉では説明がつかない。
間違いなく、向井地の背中には羽があった。
自分には無い…。



あの時とは違う。
ひょっとしたら、あの時も前に出ようと思えば出れたのかもしれない。
でも、自分が向井地の前を走るイメージがまったく出来なかった。
今は違う。
鶴見の中継所へは、街路樹で区切られた側道を200m程走った先にある。
その側道へ入ってずぐだ。外側から回り込むように前に出る。
一瞬、彼女の顔を見るんだ。そして、ここでか~って悔しそうな表情を…一瞬だけ見たら、あとは後ろを振り返らない。ラスト…涼花さんに襷を渡す直前に軽くガッツポーズをする。

そこまでのイメージは出来上がっている。


僅か4秒とはいえ、負けは負けだ。
またしても、向井地の前に敗れ去った…
屈辱の思いのはずの、川本は10区・アンカーの大島涼花に襷を渡す瞬間、ガッツポーズをした。自然と浮かんできた笑顔もあった。
悔しい…
だけど、堪らない。
溢れてくる感情を抑えきれずに、川本は笑った。
彼女は、困難を前に胸躍る…一流のアスリートが必ず持ち合わせるという、その資質を得ていたのだ。


あと3年も…あの背中を追いかけていけるんだ。
まだまだ。
私はもっともっと速くなれる。あの背中を追いかけている限り。
そして…いつかは必ず、あの背中を抜いてみせる。


「す…すごいね…その小さな身体のドコにあんな力を残してたのよ?」
肩にかけられたタオルが全身を優しく包んでくれているような気がした。
ここまで…全身の力が抜けるほど、力を出し切れたことはなかった。
それでも、届かなかった。
今日は負けだ。川本は、向井地に手を差し出した。
「いやー。後ろからのプレッシャーきつかったからさあ。最後は…全然覚えてないや。」
差し出された手を両手で包むように握り返しながら、向井地が笑う。
屈託の無い笑顔とはこの事だろう。

「でも…強くなったね。すっごい上からな言い方ごめんね。中学の時は、今日みたいな迫力感じなかったもん。今日は…正直、駄目かと思った。」
「中学?え?」
「だって、ほら。セレクションのとき、一緒に走ったじゃない?四ツ谷付属の。」
「だって…あの時一回だけだよ?一緒に走ったの。」
「うーん。直感かな?あ、野生のカンっての?きっとこの子は、私のライバルになるって。そう思った。当たってたみたいね。嬉しい。また一緒に走れて。」
向井地が握った手に一段と力を込めた。
思わず、川本は頬が熱くなるような気がした。


ライバルか…
まいったな…。もっともっと鍛えなきゃ。


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