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89.

9区が「裏エース区間」と言われるようになって長いが、近年その意味合いは少しずつ変化してきている。花の2区と呼ばれる区間をひっくり返した9区。実はいきなり出だしに大きな落とし穴が用意されている。その落とし穴は、実に密やかにそしてこっそりと選手たちを待ち構えている。この落とし穴がやっかいな点は、落ちた選手がすぐにその事に気づかないという事にある。

「戸塚の壁」として、2区を走った選手を最後の最後で苦しめた急坂。この坂を9区の選手はいきなり駆け下りていく事になる。箱根に出るようなレベルの選手だ。当然ウォーミングアップは万全に済ませている。しかし、心肺機能のアップは出来ても「脚」のアップはそう簡単なものではない。まだレースのリズムが身体に染み付いていない序盤、いきなりの下り坂。
ここでリズムに乗り切れず、最後までペースをつかめないまま終わってしまう選手。
逸る気持ちを押さえられずにオーバーペースになり、いきなりかかった脚へのダメージのため、中盤以降失速してしまう選手。
毎年、様々な理由でブレーキを起こしてしまう選手が出るのがこの9区だ。

そして、何より「総合優勝」を左右する大きなポイントの区間でもある。
そのプレッシャーが選手を苦しめていく。


選手層の厚さと比例するように、かつての「往路重視」戦略を取るチームは減ってきているとはいえ、この終盤までエースを温存する事はなかなか難しい。ここまでの区間で「流れ」は決まってしまっている事が多い。いくら大エースを用意していても、ここまでで大差がついてしまっては、その効果は大きく減じられる。


そういう意味では、今年の9区はまさに「勝負を決する」舞台として十分だ。
優勝争いの行方は4校に絞られた。というよりは、まだ「絞られた」という表現は使えないだろう。しかも、残った4校はどこも力のある選手をエントリーしてきている。

観衆も、テレビのアナウンサーも、そして…走ってる選手自身も…
その高まりの中に身を晒そうとしていた。


優勝のかかった勝負どころ。後続とは大きく差が開いている。
まずは最初の急坂、そしてその後の長い下り坂。権太坂の「裏登り」…
アップダウンの続く危険な場所は様子見となってもおかしくない。
いや、むしろそれがセオリーだ。

しかし、さも当然のようにそれぞれがハイペースでこの9区に入っていった。
その中で、ひときわ小柄な身体を躍動させて一人の選手が前へと飛び出した。
四ツ谷大の向井地美音だ。
軽く笑みを浮かべているかのようなリラックスした表情。だが、ピッチ走法の足取りがまるで踊っているかのように坂を勢い良く下っていく。


最高っ。ほんとに最高。
これだ。これなんだ。この華やかさに憧れて私は戻ってきたんだ。


物心ついた頃から、一日中プールにいた記憶しかない。
毎日毎日、何往復もブイで区切られたコースを泳いだ。
クロール、ブレス、バック、バッタ…4泳法を入れ替わりで泳ぐとはいえ、一日中…しかも毎日。良く飽きなかったものだ。楽しかったんだ。毎回記録会のたびにどんどんタイムが速くなっていく。スイミングスクール内の大会、地区の大会、そして市や県の大会。どんどん会場が大きくなっていく。観客の数も。そして、いつの間にか向井地は日の丸をつけて泳ぐようになっていた。

ジュニアの世界チャンピオンスイマーになった向井地に壁が訪れたのは中学生になる頃だ。国際強化指定を受けていた向井地は、当然まだまだ記録を伸ばしてくる…そう期待されていた。
しかし、ある時期から突然その記録の伸びが止まった。タイム自体は伸びていた。しかし、今まで3つ上のクラスの記録を出していたものが、2つ上のクラスになり、1つ上に留まり…やがては、泳いでも泳いでも平凡な記録しか出なくなってしまったのだ。

水泳では、選手の「大型化」が顕著になってきていた。身体の大きな選手は長いリーチ、大きなキックで身体に恵まれない選手と比べて大きなアドバンテージをもっている。向井地の身体は…同世代でも小さい部類…いや、「かなり」小さな部類にしか成長を得ることが出来なかった。

泳ぐことを捨てたわけではない。泳ぐ事から捨てられてしまったのだ。


「よっ。有名人。」
勢いに乗って前へ前へ出ようとする向井地の横に、同じ1年生の川本紗矢が並んだ。
悪戯っぽい顔を向けて笑う。
「有名人って?誰の事かな?」
「みーおんだよ。アナタの事。北海道でも有名だったんだから。」
「それって、ランナーとして?」
「あはははっ。そう言われるの嫌い?」

嫌いじゃない。過去の栄光って言われようとも、それも私の残してきた足跡だ。
でも…今回はチャンスなんだ。
あの向井地美音が帰ってきた。しかも、今度は本物の世界を狙える存在として…
そう世間に言わせる事が出来る。

「ね?おしゃべりしたいの?だったら、私興味ないから。置いてくよ?」
「おー。さすが。噂に違わぬ毒舌だねえ。おしゃべりかあ…私もあんまり好きじゃないかな?」

この子…可愛い顔してるけど、かなりのモンだわ。
無駄口叩きながら、ちゃんと一定のリズムで脚を運んでる。
呼吸だって乱れてない。
川本…紗矢?北海道出身?
あー。そっか聞いたことある。確か高校は無名の学校だったはず。
同じ北海道の慶育の坂口さんとかと違って。
確か、なんだったっけ…そうそう。ハンドボールのジュニア代表とかって。
結構な学校が争奪戦したって。でも、こうして箱根を走ってる…
なんか、似たようなトコあるのかな?

「ねえ。後ろのおねさーんたち…ちょっと厄介じゃない?」
「厄介って…みーおんって本当に口悪いんだねえ。」
「あのさ。初めて会話していきなりみーおんはないんじゃない?」
「あはははっ。じゃ、私の事はさややでいいよ。みーおん。」

川本が一歩前に出た。
この子…本気?
かく乱しようってそうはいかないよ?

「で、どうなの?さややは?後ろ振り払うの?私についてくるの?」
「ん?何言ってるの?ついてなんか行かないよ?」
「そう…じゃ…私は先に行く…」

向井地の言葉を待たずに川本が一気にペースを上げた。
何やってるの?ついてなんか行かないって言ったじゃない?
向井地が厳しい視線だけで川本に喰ってかかる。

「ついてくるのは、みーおん。アナタの方。ぼーっとしてると置いてくけど。」
「へー。可愛い顔して、結構なモンなんだね。面白いなー。さやや。うん。面白いよ。」

二人のペースが上がる。下り坂を終える前に、徐々に後ろの二人との差が開いていく。



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