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70.

全国区の人気を誇る箱根駅伝だが、北海道ではそれほどの大騒ぎをもって注目されているという訳ではない。駅伝自体に人気がない訳ではない。テレビで楽しむ「スポーツ」としては高い人気を持っている。2月の話題の中心はもっぱら箱根路を駆ける美しき女子選手たちだ。
ただ、そこを目指す選手は殆どいないのが現状だ。
小樽北照という高校駅伝常連の学校はあったものの、そこから大学に進学する者は極めて少ない。というのも、ある強豪実業団チームとの強力な連携関係が存在するからだ。
北海道の畜産物を管理販売する協同組合出資の企業を母体とするそのチームは、社会人駅伝の強豪だった。有力な選手を関東の大学に供給するのではなく地元に残す。最果ての地である北海道に残す為に目ぼしい選手の強化に中学…いや、小学校の至るまで手を貸すのが方針だ。

坂口渚沙もある意味、その「エリート養成」の中で育てられた選手だった。
学業も極めて優秀であった坂口は、畜産物の流通の仕事に就く事を視野に慶育大学の通信課程で学んでいた。だから、島田晴香からスカウトの話があったとしても、それは自分には縁のない事…そんな風に思っていた。
もちろん、箱根に憧れないわけではない。高校の時は慶育の田野のファンだった。
小さな体を目いっぱい使って走る田野のフォームに憧れた。どちらかというと控えめな性格だった坂口には田野のビッグマウスぶりにも強く魅かれる部分があった。


スタートしてすぐに一人旅になった。同時にスタートした他の4人をあっという間に置き去りにした。小学校から中学校。道内のタイトルと名のつくものは全て手にした。高校駅伝では「全国」のレベルを実感した。
十分いける…通用する。そんな自信もあった。次のステージは社会人…
そう思っていた坂口は、かなうはずのなかった箱根の晴れ舞台で文字通り躍動した。
おぼろげに抱いていた自信が、今現実になっている。

島田コーチっていったい何者なんだろう?
選手としての島田さんは良く知っていた。
いや、長距離を走ってる人間で知らない人なんていないと思う。
でも、急に現役を引退して指導者の道に進むってなっても、ちょっとの間表舞台から消えていた。今だってそりゃ名門・慶育とはいえ一介のコーチだ。島田さんの実績なら、すぐにどこかの大学に監督として迎えられても不思議じゃない。
それに…会社の社長にまで掛け合ったって聞いている。なんでも、酪農品の関東の主力ホテルや旅館への流通ルートを用意する代わりに、選手育成に慶育を一枚噛ませろって…そんな話、聞いたことない。そこまでして、私を迎えにきてくれたなんて…


「なぎ。また余計なこと考えとるんと違う?ほら、上向き。下りだからって下ばっか見取るとあかんって言われとったやろ?」
監督車から声がかかった。
坂口がはっとして前を向く。ちょっと長い直線になると前を行く選手が見える。今は二人の選手が視界に入ってきた。

小涌園の前に差し掛かった。坂口が一瞬圧倒されたような顔になる。
大観衆だ。北海道ではもちろん、高校の時に出た全国大会でもこんな熱狂的な観衆の前で走ったことなんてない。

「箱根って…どんなトコですか?」
北海道まで会いに来てくれた島田さんは、きちんと答えてくれなかった。
ただ満面の笑顔でこう言ってくれた。
一心不乱に毛蟹の身をほじくっていた顔を上げて。
「んーごめん。言葉じゃ説明できないわ。でも…さいっこうだよ。」
子供のような笑顔だった。口の端っこには蟹身がくっついたまま。
私も思わず笑った。そして、思った。
こんな風に私も語れるようになれるのかな?
こんな笑顔で最高っって誰かに箱根の事を。

また前を抜いた。

どこまで行けばいい?
何位を目指せばいい?

そんな事はいつの間にか頭から消えていた。

島田さん。わかりました。
最高です。
ここに連れてきてくれて…
私にチャンスをくれてありがとうございます。

苦しい…こんな苦しい思いをして走った事なんてなかった。
一歩一歩、足が地面につくたびに衝撃が体を貫く。
坂口の小さな体は文字通り「飛んで」いた。

でも、どうしてだろう?
こんなに苦しいのに。
こんなにキツいのに。

楽しくて仕方ない。


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