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69.

先頭でつば競り合いが始まった頃、1分ほど後方では第2集団が形成されていた。
乃木坂大の齋藤飛鳥が先頭に立ち、その後ろに博多大の本村碧唯と秋英学園大の田北香世子。
最初の登りを先頭とほぼ同じペースで駆け上がっていった。

「香世。行けたら行っていいぞ?そんなに速いペースじゃない。前とは1分だ。下りのうちに前に追いつくぞ?いけるよな?」
監督車から高橋みなみが声をかける。一旦は下位に沈んだ秋英だったが、5区川栄が見事なカムバック。区間賞の走りで再びトップを狙えるところまでチームを押しあげた。まだまだ今年の箱根は望みを持てる…
「香世?大丈夫か?どこか異常か?」
田北が右手を軽く上げて小さく横に振る。何かトラブルという訳でもないようだ。
らしくないな…高橋は首をかしげた。
隣の席に座っている指原のほうをこっそり見やる。そこには同じように戸惑いに近い表情を浮かべてる指原の横顔があった。
かつては師弟関係で結ばれた二人だった。指原の山の適正を見出し、そして抜擢。選手としての指原の名声を築いたのは高橋といってもいい。指導者になってから頭角を現し、今では高橋に並ぶほどの評価を得ている指原に対し、高橋もどう接していいのか迷うときがある。

「たかみなさん…田北ちゃんって、かなりのモンって聞いてますけど?」
もじもじとした空気を先に破ったのは指原のほうだった。
田北香世子…全国的にはほとんど無名の1年生とはいえ、秋英で6区を任される存在だ。指原のチェックリストには「研究心旺盛。様々な選手の特性を自らの走りに取り入れる吸収力の高さには定評あり」と書かれている。
「かなりのモンかはどうかだけど…そういうお前のトコのあおいちゃんもエラい慎重じゃないか?まあ、自分からばーっと行くタイプじゃないんだろうけど…いいのか?前を追えない力じゃないだろ?」
「ええ。そうなんですよ。コッチがはっぱかけないと、なかなか思いっきれない子なんですけど…でも…」

3位争いで駆け引きをしている場合ではない。博多大も秋英も追うべき相手は先頭のはずだ。
この6区…まずは先頭争いに加わる事は、総合優勝への最低条件だ。

芦の湯を過ぎた。後は一気に小田原まで下っていくだけだ。
しかし、三人の位置関係は変わらない。田北と本村はまるで何かに魅入られたような顔つきで淡々と前へと進んでいた。いつの間にか高橋も指原もその様子をただ見ている…まるで観察でもしてるかのような感じで眺めていた。


綺麗…なんだろう?この感覚は?
まるで、イメージDVDでも見てるような…
目が離せない。いや、目を離したくない。

田北はだんだんと自分の意識が遠のいていくような感覚に襲われていた。
熱中症やトラブルなどではない。
理由は…前を走る斎藤飛鳥だ。

まるで長距離を走るために神が作り賜ったような一切の無駄の無い体躯。
頭の小ささはまるで風の抵抗力を排する為のようだ。

昔から陸上選手の事に興味が強かった。
自分が速くなりたい…というよりは、単純に速い選手強い選手が好きだった。
小さい女の子がアニメのヒロインやアイドルの子に憧れや興味を持つように、田北の興味の対象は陸上選手だった。それは長距離を走る選手だけに留まらない。フォローレンス・ジョイナーの強さと脆さについて語らせたら一晩中でも喋り続ける事ができた。いつの間にか周りの友達を田北の事を「ヲタク」と呼ぶようになっていた。

その田北にとって、今目の前に…まさに目前に全ての理想を持ち得る存在があった。齋藤の走りは見るもの全てを魅了してしまうものがあった。

その状況を一人ほくそ笑むかのようにしてみていた者が二人いた。
一人は監督車に乗っている設楽。配車の関係で一人だけの乗車になった事は幸いだった。
にやけてる姿を誰にも見られずに済む。
もう一人はテレビ画面の前にいた日村だ。やはり、押し殺すような笑みを浮かべている。
傍から見たら、きっと気持ち悪いんだろうな…と思いながらも笑いが浮かんでくる事を抑えられない。

誰も気づいていないのか?そうだろうな…監督やコーチ…走ってる本人さえもだろう。
飛鳥と走った選手はみんなそうなる。
アイツの走りは「麻薬」だ。誰もが、目を奪われる。いや、心を奪われるっていうのかな?
フォームだけじゃない。走ってる時の表情、息遣い。
完璧だ。俺だって時々ぼーっとしてしまう時がある。ウチの選手でさえあいつと走るのを嫌がるくらいだ。いつの間にかアイツの走りに魅入られて、自分の走りが乱れてるって事に気づかないんだからな…
まったく…あれで、もっとむらっけが無くなりさえすれば、今すぐにでも学生長距離ランナーの大スターになれるっていうのに…

齋藤自身にその自覚はなかった。しかし、自覚はなくともその妖力を間違いなく発揮していた。時々併走する田北や本村ににこっと微笑みかけるような顔をする。それは決してけん制でもなければ、もちろん威嚇でもない。変な駆け引きでもない。
本来は臆病な性格だ。抜群の身体能力とセンスを持っていながらなかなか自信を持つ事ができない。そうして笑いかけるような表情を見せるのも不安からだ。まだ大丈夫なのかな?どうなのかな?ただ単に様子をうかがってるに過ぎないのだ。

しかし、笑顔を向けられた方はたまったものではない。
ちゃんと走ってるの?そんなフォームで?はあはあ言って余裕ないんじゃないの?
どこか相手に劣等感を持たせてしまう…それが齋藤の走りだった。


最初に異変が起きたのは田北だった。恵明学園前を過ぎる辺りでは10mほど置いていかれていた。田北はようやく我に返った。監督車の高橋もだ。しかし、いったん狂った歯車は簡単には元に戻らない。微妙なバランスのずれは大きな乱れとなって田北の走りから本来の切れを奪い取っていた。
そして、次に本村も遅れた。小涌園前に差し掛かる頃には齋藤の背中が遠くなり始めていた。


「おいおい、ここまでやるってのは予想外だよ?」
監督車で日村からの電話を受けた設楽がスマホに向かって話しかける。
「ああ。松村が離脱したから前を追う事は正直あきらめてた…ただ、恐らくは併走になる秋英と博多を潰せればそれでいいと…しかし…化けたかもしれないな、設楽さん。」
「化けた…?はあ。また一段と扱い辛くなるの?勘弁してよ。」

設楽は大きなため息をついた。
しかし…その顔からは笑みがこぼれそうになっていた。


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