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65.

「そうか…わかった。しかし…これは受け取らないぞ。」
「なんでですか?私はやっちゃいけない事をやったんですわ。乃木坂の陸上部員として…いえ、アスリートとして超えちゃいけない境界線を越えてもうたんです。チームの一員としている資格はありません。」
宿泊先にしているホテルの一室。設楽と日村は二人とも腕組をしたまま椅子に座っていた。
松村がその前に立っている。下は向いていない。まっすぐ前を向いて…壁を睨んでいた。
ガラステーブルの上には「退部届」と書かれた封筒が置かれている。

「受け取らないって言ったら受け取らないんだよ。日村さん、ちょっと何とか言ってよ。」
「…」
こういう時玲奈がいたらな…
何か気の利いた事を話さなくては…設楽が困った顔になっている。
「いいんじゃねーの?だって…もうやらないって決めたんだろ?」
「いいんじゃ…って。ちょっと日村さん。もう少し真面目に…」
設楽が日村をたしなめようとしたが、日村の顔は笑っていなかった。
口調はいつものちょっと無責任な感じだが、表情は真剣そのものだ。

「なあ。松村。速く走るって事はそんなに大切な事なのかなあ?」
「大切って…そりゃ…選手にとって速いって事は何よりも大切な事だと思いますけど。」

何を当たり前の事を言うとるん?
ウチ等選手にとって、速いって事は何にも優先される事だ。
でも…私は速くなかった。
乃木坂陸上部強化プロジェクトの初年度にスカウトされた私達の中で、麻衣と奈々未と「御三家」として扱われていた。確かに最初はメンバーの中でも抜けた力を持っているという自負があった。しかし、絵梨花、七瀬、一美…みんなどんどん力をつけてきた。キャップだって佑実だって・・・怖かった。そして弱かった。そして、私は禁断の果実に身を染めた…

「お前が明日走らないって自分から言い出したんだ。いいじゃんか。それで。あんまり深く考えるなよ。」
「日村さん…ひょっとしてお前…」
設楽が目を剥いた。そして日村の澄ました顔を見て納得した。

「日村さん…知ってたんですか?じゃあ…なんで?なんで何も言わなかったんですか?」
「俺が言って言う事聞いたか?なあ、松村。俺は見ての通り速く走るって事とは無縁の男だよ。学生時代、陸上やってたって言っても俺がやってたのは投てきだ。設楽さんみたいな専門家じゃない。でもな、投てきってのは完全な個人種目だ。すべての責任を自分で追う分、そりゃ気楽なもんだった。」
日村のいつになく熱が入った言葉に、松村も設楽も黙り込んだ。
日村は一口水を飲んだ。そして、二人の顔を交互に見て再び話始める。

「でもな。松村。お前の気持ちもなんとなくわかるんだ。プレッシャーなんて簡単なもんじゃないって事もわかる。でもな…お前は自分でそれが悪いことだって気が付いた。そういう訳でそう思ったかは知らん。でも、気づいたんだ。なあ、松村。いいじゃんか。人間弱いんだよ。そして間違うんだ。だったら…一回くらいやり直そうって思う人間に、神様も罪は下さんと思うよ。」
「でも…悪い事をした罰はうけなくちゃ…」
「それがコレか?」
日村はテーブルの上の退部届を手に取った。中を開く。

「あー…松村…ダメだ、これは。」
「え?ダメって・・?」
「退部届は、学校の正式なクラブだ。あて先は監督じゃなくて、部長でもある学部長先生だな。それから・・おいおい、誤字ばっかじゃないか。一心上の都合?一身上の都合の間違いだろ?こんなん受け取れるかっての。」
日村は退部届を破り捨てた。
細かく切り刻み、そのままゴミ箱へ放り入れる。

「退部なんかさせないよ。松村。明日は働いてもらうからな。芦ノ湖で補助員やった後はすぐ移動だ。そうだな。戸塚に行け。戸塚で補助員やったら今度は大手町な。ゴールを全員で見届けなくちゃいかんから。そして…そのあとに…」
「そのあとに?」
「みんなに頭下げろ。なんで6区を走るのを辞めたのか。自分で話せ。いいな。」

「日村さん…」
感心したように日村の名前を呼んだのは設楽だった。
電話で松村の告白を受けた。これからすぐに部屋に来る…
どう対応していいかわからなかった。どんな顔で会えばいいのかも。

それなのに、この男はずっとずっと前から松村の意変に気が付いていたのか…

「で…明日の6区。代わりに誰を走らせる?」
「そんなん、一人しかいませんよ。設楽さん、わかってるくせに。」
「だな…松村。わかった。今日はもう休め。」
「はい・・失礼します。」
心なしか憑物が落ちたようにすっきりした顔で松村が頭を下げた。

「呼ぼうか?」
「いや…いいわ。俺が電話かけるわ…えっと・・かきくけこ・・さ…あったあった。」
設楽がスマホを耳に当てた。
「お。斉藤か?斉藤飛鳥?俺だ。設楽だ。今から部屋に来てくれないか?…あ?違うって。そうじゃない。おい、誰がお前みたいな小娘を…ああっ!もういいから来い!レースの話だ。寝ようかと思った?いいから…だから、明日お前に走ってもらう事になったんだよ!え?何区かって?いいから来い!」

まったく…ホントにコイツで大丈夫なのか?
設楽は頭の中で、メンバーの顔を次から次に思い出してみた。

やっぱり…コイツだよな…
やれやれ…明日は監督車で忙しくなりそうだ…




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