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61.

「きたきたきたーっ!きたよ、なっきー!」
もうすぐフィニッシュだ。宿舎が芦ノ湖のゴールのすぐそばとはいえ、出迎えるためにはそろそろ出かけなくてはならない。しかし、名取稚菜と内山奈月はテレビ放送にくぎ付けになってままでいた。

芦の湯の手前、ついに聖ヴィーナスの伊豆田が先頭の栄京・惣田をとらえた。
ここから先、いったん急な下りを駆け下りてもう一度登る。国道1号の最高点を超えれば、5区は終わる。
箱根駅伝往路のフィニッシュまであと5キロだ。

ここまで飛ばしに飛ばしてきた惣田だったが、さすがにペースが落ちていた。
顎が上がり時々苦しそうに天を仰ぐ。
松井玲奈の出した指示はまさに的確だった。宮ノ下で後続を引き離した惣田はその後も快調に箱根の山中を駆け上がった。無理は承知の上だ。それよりも惣田の「走りたい」というモチベーションを最大限高揚させる戦略に間違いはなかった。そしてこの辺りで限界が来ることも。ただ、残りは下りだ。ここまでの貯金を何とか守ればいい…

しかし、誤算が一つだけあった。

伊豆田が速すぎた…いや、強すぎた。
まさか、聖ヴィーナスがここで上がってくるとは…

「ねえ、なっきー。そろそろ行こうよ。間に合わなくなっちゃう。トップで来るずなちゃんを迎えなきゃ。」
名取が興奮気味に言う。しかし、内山はさっきから黙ったままだ。
「どうしたの?ねえ。行こうよ。」

芦の湯でいったん下ったあと、二人は最後の登りに入った。距離はさほどないものの、かなり斜度のある登りだ。
ここで過去何度となく勝負が決している。かつて指原莉乃が大島優子を振り切ったのもこの場所だった。
「ここです!伊豆田さん、ここで引き離さなくちゃ…惣田さんは限界だ。いける!」
内山が呟いた。思わず両手を合わせ、それを強く握りしめる。

苦しい…息ができない。
いや、ちゃんと息はしてるの。じゃなきゃ死んじゃうし。
でも、酸素が入ってこない。人の身体は酸素がなきゃ動けないのよ…

隣にいた伊豆田が一歩前に出るのが見えた。
ああ…抜かれる…ダメだ…もう抵抗すらできない…

惣田がそう思った時だった。
ふっと全身の力が抜けた。もやがかかっていたような視界が突然クリアになる。
痺れたような感覚になっていた腕が勢いよく振れる。
アスファルトを蹴る感覚が戻ってきた。
そして…乱れていた呼吸が、まるで鼻づまりが治った時のように楽になった。

惣田の身体がぐっと前に出た。登りにも関わらず大きくストライドが伸びる。
ここまで見せてきた躍動感のある走りが戻ってきた。

「なに…あの子…完全に落ちたと思ったのに。なっきー、どういう事?死んだふりでもしてたの?」
「いや…違います。たぶん…」
「たぶん?」

セカンドウインド。
長距離走の世界では良く言われる事だ。
人間の身体は、負荷の高い運動を行い心拍数が上昇した状態が続いていると、やがて各器官が悲鳴を上げてくる。血液中の酸素を運動エネルギーの媒介に使う事の限界が来るからだ。ところがある程度その限界状態に耐えていると、やがて人の身体はその状態に適応しようとし始める。それまで50%しか取り込めていなかったものが、突然70%に…80%に…なってくるのだ。これを活かしたトレーニングを選手は取り入れている。しかし、極限の限界までの環境はなかなかトレーニングでは作り出す事が出来ない。緊張感に浸された本番のレースで稀にしか起きない現象が、今、惣田の身体に起きていたのだ。

伊豆田も奇跡的なペースでここまで登ってきた。その勢いはまだ続いていた。
二人は並んだまま最後の登りを終えた。

「行きましょう…わかにゃんさん…」
「え?なっきー、見ないの?こっからだよ。ずなちゃん、こっから…」
「行きましょう…」

内山が立ち上がったのを見て、名取も納得したように立ち上がった。
リモコンでテレビを消す。


「スペシャリストになるしかないんです。伊豆田さん。箱根に出たかったら賭けてみませんか?」
入学早々の内山にそう言われても伊豆田はニコニコしてそれを聞いているだけだった。
怒りを顕わにしたのは、大島涼花や高橋朱里の方だった。
「何入ったばかりの新米がそんな偉そうな事言ってるの?ずなちゃんはね…」
「じゃあ聞きます。今、箱根のメンバー決めるとして、お二人は伊豆田さんをメンバーに入れますか?」
「そ…そりゃ…でもさあ…こんなに頑張ってるんだからさあ…」
二人の言葉に歯切れの良さはなかった。
確かに、伊豆田は頑張っていた。きついトレーニングにも決して泣き言を言わず、いつも笑顔で周りを元気づけていた。チーム欠かせないムードメーカーであった。しかし、記録的にも力的にも…箱根で上位を狙う聖ヴィーナスのレギュラーメンバーに選ばれるには厳しい事は皆が感じていた。

「ね?スペシャリストって…私は何をすればいいの?」
「ちょ…ちょっとずなちゃん。こんなぽっと出の…」
「いいの、涼花。ねえ、なっきー。あなたは、あの四ツ谷大付属からそのまま強豪の四ツ谷大に進まずウチにやってきた。どこに魅かれたの?ウチの自由に自分の意見が言える、その雰囲気に魅かれて来たんでしょ?」
「はい…その通りです。」
「わかった。先輩がその雰囲気を壊しちゃいけないね。それに・・・わかってたんだ。私。このままじゃ絶対箱根になんて出れない。なっきー、やるよ。1%でもいい。私がこのチームに貢献できる事があるのなら…私はトライする。」

それ以来伊豆田は毎日坂を登った。聖ヴィーナスがある湘南から箱根はそう遠くない。箱根5区のコースを毎日のように駆け上がった。筋力トレーニングもひたすら登りに耐える為の筋肉を鍛えあげるメニューを組んだ。
当然、バランスは欠くことになる。トラックでの記録は全く伸びなくなった。むしろ走る度に記録が落ちていった。
しかし…確実に速くなっていた。登りに関しては。
チームの誰もが登坂走で伊豆田の前に出る事は出来なくなった。歩幅は小さいが力強く地面を蹴る独特のピッチ走法。強靭な心肺機能。すべてが「山を登るため」に作られたマシーンのようだった。

下りに入った。
残り5キロ、あとは転がるように坂を下りていくだけだ。

伊豆田はここで遅れた。
「登ること」に特化して鍛え上げられた身体は、下りを勢いよく駆けていく機能を持てていない。
あれほど力強かった走りは途端に頼りなさげな足取りへと姿を変えてしまった。

全ては内山の狙い通りの展開だった。
栄京にとって突然現れた内山の存在が誤算であったように、聖ヴィーナスの誤算は惣田の底力だった。
惣田がセカンドウインドを得て、登りでリードを許さなかった。

そこで、勝負は決まった。

5区は…往路は…
栄京女子大のものだ。

誰もがそう思っていた。



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