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60.

陸上競技にはいくつかの「アンタッチャブル・レコード」というものがある。
決して触れてはいけない…というよりは、決して破られる事がないだろう、という意味合いだ。
トラックのMJ、マイケル・ジョンソンが記録した400mの43秒18。カール・ルイスとの壮絶な戦いの末に生まれたマイク・パウエルの走り幅飛び8m95。20年以上破られることなく今も輝き続ける記録たちだ。
一方で、長距離界は常に驚異的な記録の壁が次々に打ち破られている。
男子マラソンは恐らく近年中に2時間を切る選手が現れるのではないかと言われているし、女子マラソンもその記録はここ10年で飛躍的に短縮されている。

この箱根駅伝にもそう呼ばれる記録の数々があった。
花の2区では、それまで10年以上破られる事がなかった記録が前田敦子によってあっさり塗り替えられるとその翌年、松井珠理奈が更にその記録を1分近く短縮した。
大島優子の3年連続の区間新はどれも、過去の輝かしい記録をただの平凡なタイムに変えてしまう圧倒的なものだった。しかし4年目に出した区間新を同じ年、同じ区間で走った指原莉乃はそれを遥かに上回る記録で大島を土につけた。6区の山下りでは「妖精」と評される走りで須田亜香里が常識では考えられない記録を出した。
しかし…それらの素晴らしい記録も…新たな新星の前に過去のものとなっていく。
それが、箱根駅伝だ。


今年もこの山中に新たな新星が輝こうとしていた。
一人は川栄李奈。もう一人は小嶋真子。秋栄学園と慶育。かつて「2強」と言われた名門のランナーだ。13番目、14番目で襷を受けた二人は、まるで別のエンジンを積んだマシンが走ってるような勢いで山を駆け上っていた。7分半あった差は、湯元で6分半に。そして斜度が増す毎に詰まっていった。

「小湧園です。乃木坂大の橋本が来ました。先頭との差は…今3分になろうとしています。小田原では1分50秒余りだったその差が開きました。しかし、しかしその足取りはしっかりとしています。淡々と…淡々と橋本が小湧園前を通過します。そして…そして!ここでなんと!なんと!」
アナウンサーの口調が絶叫調に変わった。そう。彼らが待ち望むドラマがそこにあったのだ。
まるで売れっ子のシナリオライターによって書かれたドラマのような展開が。
「なんと、川栄です。秋栄の川栄李奈が来ました。そして小嶋真子!1区では無念の途中棄権。伝統のフラッシュグリーンの襷は途絶えました。今つけているのは、その襷ではありません。しかし、その後の区間、見事な走りでここまでその想いを繋いできました。慶育大の小嶋。小田原では7分半ありました。その差。なんと小湧園前で…その差は3分7秒。3分!3分です!トップが見えてきました。故障明けを懸念された秋英の川栄。初めての箱根。その想いをぶつけるような走りの慶育の小嶋。その目線の先にあるのはいったい何か?前を走る乃木坂の橋本か、それとも…」

文字通り熱狂が二人を取り巻いた。そう…ドラマだ。
人々が求めているのは、ドラマチックな展開だ。
先を逃げる者の苦しみ、優勝候補が順当に勝つ事の難しさ。
それを知っていて、なお聴衆はドラマを求める。
そして…それが起きるのが箱根駅伝だ。


苦しい。いや、苦しいっていうのとは違うな。
走ってて苦しいのなんて、全然苦しくなんてない。
いや。違う。苦しいのは苦しいんだ。でも、辛い苦しさじゃない。
じゃあ、苦しい苦しさって何だ?
うーん…わけわかなんないな。私はいったい何を言いたいんだろう?

次から次って言葉が適切かわからない。実際、追い抜いていったランナー一人ひとりにもちゃんと想いってものがあるんだろう。でも…
小嶋真子は不思議な感覚の中走っていた。
今までと何かが違う。いや…そうじゃない。ずっと忘れていた感覚だ。
何か遠くに置き忘れてきてしまったような感覚。懐かしい感覚。

前にいるのは…橋本さん?そう。あの薄紫のシャツに濃い紫の襷。あれは乃木坂だ。
乃木坂のエース、橋本さんだ。
前しか見えない。いや、隣を走ってる川栄さんの事が眼に入らないわけじゃない。意識が前にしか向かないんだ。高校の時にはそんな経験なかった。いつも1区を走ってた。どれだけ後ろを引き離すか…それしかなかった。大学に入っても似たようなものだ。いつ失速するか…そればっか気になっていた。今は、前しか見えない。前しか向けない。

楽しい?…それも違うな。楽しくなんてない。実際、今にも口から心臓が飛び出しそうだし、太ももはパンパンだ。登りに強くなるためには太ももが太くなきゃだめだって言ってたのは瀬古さんだっけ?あの人も、時には正解を言うんだな。私の太ももは確かに太いし。
いや、そんな冗談はどうでもいい。でも…シンプルだ。本来、長距離を走るってこういう事だったのかもしれない。中学の時、一人で箱根を走ってみた。5区を登ってそのまま6区を降りた。あわせて50キロ近く。フルマラソン以上の距離だ。「なんでそんな苦しい事するの?」友達に変態扱いされた。それが心地よかった。「変でしょ?私って。」自虐ネタにしながらも、人ができない事が出来る事に堪らない快感を持った。

誰のために走ってる?自分のため?チームメイトのため?
そんなことばっか考えるようになったのはいつからだったっけ?
確かに、今私は色んな人の想いを背負って走ってる。
この襷が重いのは、みんなの汗がしみこんでいるからだけじゃない。萌咲の無念が込められてるからだけじゃない。そんなもの全てを抱えて走るから…だから、駅伝は面白い。それだけでいいんだ。

奈々が待っている。さっきから色んな情報を遮断していた。
誰がトップで差がどれくらいで…
そんな事は見たくも聞きたくもなかった。
でも、わかる。すぐ近くに奈々がいる。そして、私が来るのを待っている。
そう…待ってくれてる。襷が繋がろうが順位がどうだとかは、大きな問題じゃない。

「さんきゅ。楽しかったよ。」
ふと、隣の川栄から声がかかった。
マズい。余計なことを考えすぎた。のぼせ上がってたら簡単に置いていかれる。
故障明けとはいえ、相手は学生ナンバーワンの実力の持ち主だ。
「何言ってるんですか?先には行かせませんよ。まだまだ。まだ最高点まで4キロあります。5区は登りだけじゃない。置いていこうってそんな事許しませんからね。」
小嶋の答えに、川栄が笑顔だけで答えた。

小嶋は気づいた。微かに川栄の走りにずれが生まれている事に。
それまではほとんどなかった上下動が生まれている。
「川栄さん…やっぱり脚が…?」
「行けよ。いいから。言っとくけど同情なんていらねーよ?」
「は…はい。わかりました。」
言われるまでも同情なんかしない。故障も不調も…それを含めて駅伝だ。
「真子。」
不意に下の名前で呼ばれて小嶋はどきっとした。
「はい。」
「今日は負けにしとくよ。あー残念。でもね…必ず…」
「はい。また絶対どこかで一緒に走りましょう。競い合う場は箱根だけじゃありませんよ。」
川栄かきっと将来日本を代表するランナーになるだろう。私も必ずその舞台へ駆け上がる。
小嶋はそう川栄に誓った。
「まけんじゃねーぞ?私を置いていくからには…わかってんな?」

「はい。トップまで行きます!」
小嶋は再び前を向いた。恵明学園の子供たちが演奏する鼓笛隊の音が聞こえてきた。
登りが終わるまであと3キロ。芦ノ湖のゴールまで8キロ。

参ったな。これでトップに立たないわけにはいかなくなった。
小嶋の目がまた輝いた。


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