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58.

「奈々。落ち着けって。いいから。頼むから私の言う事聞いてって。とにかく…ペースを落とすんだ。これは監督命令だから。」
最初は穏やかだった峯岸の声が段々と大きくなる。
落ち着け…落ち着け…最初はそうだった。しかし、岡田のペースは全く落ちない。
とうとう、峯岸は監督車から箱乗りの姿勢で身を乗り出してきた。

調子は悪くない。いや…むしろ最近ないくらい足が軽い。
山に入ってもそれは変わらない。確かに呼吸は苦しくなってきている。
しかし、そんな事は当たり前だ。なんたってここは5区だ。
楽な走りなんてもとから考えていない。

でも…

岡田はいったん大きく息を吐いた。
隣で走ってる惣田も背後にぴったりついている朝永も、一見表情は変わらないように見える。
しかし汗の量が尋常でない。岡田もだ。
もともと汗っかきではある。それに加えこの暑さだ。

「アンタの気持ちはわかる。でもな…奈々。大丈夫だ。アンタは十分速い。」
峯岸が小嶋の名前を出したわけではない。しかし、峯岸にはわかっていた。岡田が惣田でも朝永でもなく、遥か後方を走る小嶋真子を意識していた事を。
「まったく…優子さんじゃないんだから。7分半なんてひっくり返せるわけないじゃんか。それに…慶育はどんなに頑張ったって順位なんかつかないんだ。幾ら真子だってモチベーションが続くわけないじゃんか。奈々…終わったんだよ。慶育は。慶育の時代は。」

峯岸は呟いた。少し寂しげな表情で箱根の山から見える青空を見上げた。
自分が走ってた時の慶育はまさに全盛期だった。大島優子、板野友美、秋元才加…そして、死闘のアンカー勝負を制した仁藤萌乃…本当に強かった。熱かった。
あのフラッシュグリーンの襷が途切れる日が来るなんて思いもしなかった…

必死の「説得」の甲斐あって三人のペースは落ち着いたものになった。後続では乃木坂の橋本が送れたという情報が入っている。伊豆田が驚異的なペースで前との差を追っているという情報は入っていたが峯岸は危機感を持たなかった。
大丈夫だ…往路のトップ争いはこの三人で決まる。


一方で博多大の指原は朝永への指示を迷っていた。
冷静沈着にして大胆不敵。博多大を僅か数年で全国屈指の強豪へと導いた指原の手腕は高く評価されていた。どの選手をどう育てるか。箱根に出るような学校へ進む選手は、どの選手もそれなりの力を持っている。一方で、真の開花をまだ迎えずにくすぶっている選手もいる。誰をどう育てるか。ベテランの監督でも思い悩むところを、指原は的確な指導で選手の力をどんどん引っ張り出していた。

ホントは行き当たりばったりなんだけどな…


まだまだ現役として走れる「力」は持っているはずだ。
今すぐ車から降りて走ったら、この子たちをぶっ千切る事だってできるかもしれない。
でも…なんか、先が見えなくなっちゃった。なんだろう?駅伝も、マラソンも…トラック競技も…熱くなれないんだよね。燃えてこない。
え?アンタ学生時代、燃えてたのかって?あんなに嫌だ嫌だってばっかり言ってたのに。
そうかもしれない…よくたかみなさんに怒られてたっけなあ。
私、やっぱり誰かに背中を強く押されないと、前に進めないのかな?
人の背中を押すのには容赦しないのに…


先頭の三人が大平台のヘアピンカーブを抜ける。まもなく中間点だ。
ここから宮ノ下の温泉郷への区間、もっとも斜度がキツいところになる。そして、箱根5区でもっとも沿道の歓声が大きくなる場所だ。箱根のファン…特に5区を見に来るファンは目が肥えている。箱根フリークはここで駅伝を見なければ素人だと持論をぶつモノさえいるくらいだ。

岡田と朝永は昨年もここを走った。狭い道路、急なカーブ。中継車がまるで身を縮めるようにして通り過ぎていく。すると…まるで雪崩だ。何重にも取り囲んだ観客の大歓声が選手を取り囲む。

「さり!前に出な。ペースアップだよ!ココ、踏ん張りどころだから!」
栄京の監督車の松井玲奈から大きな声で指示が飛ぶ。
惣田へのペースアップの指示だ。
指原も、峯岸も一瞬耳を疑った。

ここで?この先、まだまだきつい登りは続く。三人とも安定したペースをキープしてる今、ここでペースを上げる必要があるのか?
それとも、惣田の調子がそれほどまでにいいのか?もしくは、他の二人がもう限界と踏んだのか?

いや…玲奈。それはないって。
幾らアンタが鬼って言われてても、こっからスパートなんて…

指原も峯岸も同じ事を考えた。
そして、思った。行かせていい。
勝負はここじゃない。惣田は必ず落ちてくる。

惣田が一歩前に出た。ペースアップっていう程度のものじゃない。スパート…いや…ダッシュだ。あっという間に二人との差が開く。


苦しい…でも…登坂トレーニングなら何度でもしてきた。伊吹山、茶臼岳…八ヶ岳や野辺山で嫌ってほど坂は登ってきた。私が入学したのは、栄京の登山部かって?そんな冗談も聞こえてきた。でも、私は走った。どんなに苦しくたって構わない。走れる事の喜びに比べたら、どんな辛い事だって耐えられた。
私を速くしてくれたのは、間違いなく玲奈さんだ。栄京というチーム、そして仲間だ。今、玲奈さんは「飛び出せ!」って言ってる。その指示が正しいかなんて私にはわからない。
でも…玲奈さんがそう言うなら私は行く。今までそうしてきた。これからもだ。


「りな…!さーりな!さーりな!」
宮ノ下の観衆が皆で声を揃えて声援を送っていた。

さ…りな?
これか…これが、宮ノ下名物の選手コールなのか。
惣田紗利渚。
1年前は、きっとここにいる誰一人として私の名前なんか知らなかったはずだ。
今もそうかもしれない。栄京女子大の…ディフェンディングチャンピオンの栄京の5区を走る選手としての認識ならあるかもしれない。でも、ここの人達は、私の名前を呼んでくれている。
これだ…そうだ。
私が夢見ていたのは、この景色なんだ。
なんだろう。力が湧いてくる。脚が…腕が…全身の筋肉が奮い立つ。
いや…ちがう。奮い立ってるのは身体じゃない。心だ。魂だ。

「しまった…美桜。追って!後ろについて!」

指原ははっと我に返って朝永に指示を出した。
しかし…遅かった。惣田との差はどんどん広がっていく。

馬鹿…
私はいったい何をしてるんだ。
何で忘れてしまったんだ。

あの時…私も奮い立たされたはずじゃないか・
絶対的女王の大島優子よりも一歩先に入った宮ノ下。
あの時、世間の認知度も人気もダントツで優子さんのはずだった。
でも、宮ノ下のファンが先に名前を呼んでくれたのは、私の名前だった。
あの、まるで嵐のように…雪崩のように…津波のように…
押し寄せてくる莉乃コールを受けなかったら、この先走りきる事すらできなかったかもしれない。

玲奈…5区なんて走ったことないのに…
なんていう的確な指示なの?
そして、それに応えたあの惣田って子…


やられた…
こうなったら、箱根5区の残り12キロ弱は…追いつくには余りにも短い。



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