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36.

四ツ谷大の岡田彩花が鶴見の中継所に襷を運びこもうとした、ちょうどその時、島田晴香は小田原の中継所に到着した。
すでに控え所に入っていた小嶋真子の姿を見つけ、軽く手を上げる。
普段は宴会場として使われているスペースが大会用に開放されていた。各校の選手やサポートの部員が思い思いにスペースを取って出番に備えての準備を行っている。壁際には大きなモニターがあり、駅伝中継を映し出していた。

『今年の1区、最後の最後、四ツ谷大が先頭を奪いました。ここまで力を貯めていた岡田彩花、一気のスパート。見事。見事な終盤の切れ味。終始クールな表情でレースを進めていた岡田。あー笑顔です。満面の笑顔。笑顔でリレーエリアに入って…」
毎年の事だ。テレビ中継…特に、襷リレーの時はその絶叫調のアナウンスが酷さを増す。一番興奮しているのは、観客でもなく選手でもなく…かつては甲子園を熱狂させた、あのアナウンサーの彼かもしれない…

テレビ中継を見ていた島田と小嶋が思わず見つめあったとき、そのハイテンションを更に上回る絶叫が横から割り込んできた。
こんな絶叫が割り込んでくるとき…
それは、間違いなく「アクシデント」の時だ。

『放送席!放送席!こちら、第三中継、バイクです!大変なことが起こりました!』
中継がトップの襷リレーから瞬時に第三中継のカメラに切り替わる。バイクの後部座席に座った入社数年目の若手アナウンサーが泣くようなトーンで叫んでいる。

『ゴールまで僅か800m。残り1キロを切っています!慶育大の1区、後藤。後藤萌咲。六郷橋の下りで一人集団から遅れた後藤。徐々にペースが落ち、やがては歩くようなスピードに…あ、今、止まりました。完全にその足が止まってしまいました!スタート直後に転倒がありました。その後、集団に喰らいついていた後藤。ここにきて…限界なのか?やはり、ダメージは大きかったのか?』

「島田さん!」
小嶋がそう叫ぶ前に、島田が携帯を耳に当てていた。
すぐに横山の声が飛び込んでくる。
「どうした?転倒のダメージか?」
「たぶん、そうや…ぜんぜんそんな素振りはなかったんや。六郷の…六郷の下りで急に…」
「あと…800mか…くっ…」

テレビ画面では、膝に手を当てて喘ぐ後藤の姿を大写しにしていた。1区から2区への襷リレーはあっという間に終わった。1位の四ツ谷大以外は、ほぼ2分以内に襷が繋がった。その模様は、小さなワイプ画面で紹介されていた。

「由依…」
「わかってる…わかってるわ。」
横山の小さな声の後で電話が切れた。
画面に監督車から降りてきた横山の姿が映し出される。

「島田さん…萌咲…怪我ですか?」
「うん…いや、膝の傷が痛むとかじゃないと思う。それが原因なら、ここまで走ってこれなかっただろう。」
「じゃ…な…」
小嶋はそこまで言うと言葉を止めた。
島田の顔が涙で濡れていたからだ。

「なんで…なんで気づいてやれなかったんだ…ちくしょう…なんで…苦しかっただろうに…くっそ…私は指導者失格だ。由依…申し訳ない。もっと怪我の状況とその後の伊対処をきちんと伝えておくべきだった…辛い役回りをさせちゃって…」

島田の言うとおり、膝や頭の打撲がクリティカルな影響を及ぼしたわけではなかった。しかし、転倒の遅れを取り戻すのに、予想外に時間を要してしまったこと。その後の集団のハイペース。そして、この暑さ。
給水は定量摂っていた。しかし、想定を超えた状況への対応が取れていなかった。傷のせいで発汗もダメージもシミュレーションを超えるものだった。もっと怪我による影響の蓄積に配慮するよう、横山にコミュニケートしておくべきだったのだ。ほんの些細な事が重なってしまった。しかし、それは決して軽視していい事ではなかった。

後藤の体は激しい脱水を起こしていた。
こうなったら、もう一歩も先へ進む事などできない。
立っている事さえ出来ないのが普通だ。
それでも、後藤の身体は中継点の方へ向いていた。

『慶育大の後藤。完全に止まってしまいました。伝統のフラッシュグリーンの襷。ここ数年、シード確保はならないものの、かつてその箱根駅伝の歴史において、この襷が途切れた事は一度たりとしてありませんでした。途中棄権だけでなく、繰上げスタートすらありません。その…その伝統の襷が…今、ここで途絶えてしまうのか?』

アナウンサーの絶叫が激しくなる。
小田原の控え所は、その激しさと反比例するかのように静けさを増していた。

「由依…早く…早く止めてやってくれ。」
「島田さん…萌咲は…萌咲…」
「真子…萌咲をよく見とくんだ。いいな?」
「はい…」

『ああ、ここで…横山監督が、後藤の肩に手をかけました。その体を抱きかかえて…泣き崩れる後藤。慶育大学、途中棄権!慶育が、まさかの途中棄権です!箱根史上、初めて。そのフラッシュグリーンの襷が途絶えます。ああ。無念、後藤無念。動けません。横山監督の目にも涙が見えます。』


「島田さん…もう、泣かないでくださいよ。」
「あ…?ああ。大丈夫だよ。」
「お願いします。ストレッチ手伝ってください。」
思わず座り込んだ島田を小嶋が上から見下ろしていた。
厳しい…が、どこか柔らかい表情だ。
「ああ。わかったよ。」
「島田さん。私たちの箱根はまだ終わってない…そうですよね?」

テレビの画面では、スタートした2区のエース争いではなく相変わらず後藤の姿を映し出していた。観客はいつでもドラマを求める。たとえ、それが残酷な悲劇であったとしても。

小嶋はその姿をしっかり見据えて、そして背を向けた。

そう、私たちの箱根は終わっていない。
ここから、始まるんだ。もう一つの箱根が。


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