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35.

先頭から遅れる事約1分。
後方の集団では相変わらず目に見えない駆け引きが続いていた。
前を逃げるのは、聖ヴィーナスと博多大。秋英はどうやらこぼれたらしい。すぐにこの集団が吸収することになるだろう。
監督車には、数人の監督もしくはコーチが1台の車に同乗している。呉越同舟とはこの事だ。戦略をめぐらせているのは、走ってる選手だけでない。何気ない会話の中から腹の中を探りあう…そんな事が繰り広げられている。

蒲田の踏み切り跡を過ぎた。残りは6キロほどだ。
もし、前を行く2チームを追いかけるなら、そろそろスパートの指示を出さなくてはならない。四ツ谷大の峯岸も、栄京女子の松井玲奈も、その指示を迷っていた。乃木坂の監督車に乗った深川もだ。お互いのマークはそれぞれこの三校だ。どこか1校が飛び出しているのなら、迷わずに追いかける指示を出しただろう。また、先に行くのが完全にノーマークの学校なら、これも迷う事はない。1区の区間賞など余り興味のあるものではない。すんなりこの体勢を維持するよう指示を出しただろう。勝負どころはもっと先にある。しかし…無視するには、博多大と聖ヴィーナスは危険ではないか?それぞれの思惑が何ともいえない空気を生み出す中、レースは淡々と進んでいった。


栄京女子にとって幾つか誤算があった。
もちろん、万全の体制で臨む事などなかなかできるものではない。各校それなりの誤算を抱えて本番のレースへ入っていかなくてはならない。
その一つが、この1区であり、古畑奈和だ。
今年の1区。乃木坂の生駒を除けば、過去の実績や持ちタイムでは圧倒的に他の選手を引き離す実力の持ち主だ。そもそも様子見や一発勝負の博打を仕掛ける1区にもってくるのでなく、2区や5区に配置するのがベストの布陣だ。しかし、コーチの玲奈はこの「エース」を1区に配する事を選択した。圧倒的な実力を持ちながら、この1年もっとも伸び悩んだのもこの古畑だった。特に故障を抱えたわけではない。成績も安定している。しかし…玲奈の頭からは不安がどうしても拭えなかった。
本来は貯金を作ってくれるべき存在の古畑が、こうして守りの走りをしなくてはならない事は、栄京にとっては大きな誤算なのだ。

しかし、それは同時に思わぬ収穫ももたらしていた。
乃木坂の生駒は今年の学生トップ10に入る成績を出している。乃木坂ではエース扱いとされてもおかしくない選手だ。もし自分が乃木坂のコーチを続けていたのなら…生駒を1区に使うのなら…間違いなく1区での貯金を狙っての配置のはずだ。深川だって同じように考えてもおかしくない。しかし…古畑への警戒が生駒の飛び出しを躊躇させていた。少なくとも、今時点、乃木坂に大きく遅れを取るという最悪の事態は避けられている。


監督・コーチ陣と選手の間に意思が統一されない事がままある。
多くの情報が集まる監督車の中と違い、走ってる選手が得る情報は限られている。しかも、全員が同じ情報をもらっても、その解釈と分析はその時の選手の心理状態や、消耗度合いによって大きく異なる。

残り5キロ。先頭を走る博多大・矢吹、聖ヴィーナス・福岡との差は48秒。

たったこれだけの情報でも、集団にいる17人には17種類の情報となる。
もう48秒も開いてるの?
よし、48秒か縮まったな…
え?残り5キロ?もう?
まだ5キロもあるの…?

選手の状態を100%シンクロして感じ取る事などできない。
なので、指示を出すのが難しい。だからこそ、指導力の差が出てくるのだが。

そんな中、たった一人。冷静に自らを、そしてチームの戦略を意識し続けて走ってる選手がいた。スタートして1時間がたとうとしていた。気温はぐんぐん上がっている。想定以上の発汗による消耗で、思考回路が上手く回らない選手が多い中、ただ一人表情を崩さずピッチを刻んでる選手が。

集団の一番センターライン寄り。スタートしてその位置を一度たりも外れていない。歩幅もピッチも呼吸も。ひょっとしたら心拍数さえもこの暑さの中一定を保っているかのように見えた。もちろん、表情はまったく変わらない。六郷橋の入り口に入った。この先多摩川を渡ったあと、急な下りがある。

アイボリーホワイトのシングレットシャツ。肩からかけたイエローの襷が汗で色を変えている。岡田彩花が軽く右腕を上げた。手の平を開いたまま二度三度横に振る。そして、その人差し指を前方へ指し示した。

「おっけー!彩花、残り3キロ、任せた。思いっきり前に出ていいよ。」
拡声器から峯岸の声が響いた。スパートの合図だ。
もうここまで来たら細かい戦略は抜きだ。選手が行けるって判断するのならそれを止める理由は何もない。


岡田の読みはあたっていた。読みというよりは「仮説」だ。
この集団、一見乃木坂と四ツ谷が仕切ってるように見える。
監督たちもそう思ってるはずだ。でも、実際は違うんじゃないか。
仮に、集団が動かないのが「戦略」ではなく…
みんな消耗しきって動けないのだとしたら…

岡田彩花の最大の強さは「冷静さ」だ。決して冷めている訳ではない。ただ、身の丈にあった走りをその場の中で出し切る事ができるだけなのだ。

走ってる時、その感覚がどんどん研ぎ澄まされていくように感じる事が稀にある。隣を走ってる選手の息遣い、足音、汗のかきかた…
間違いない。今、この集団は「動かない」んじゃない。「動けない」んだ。

クールな仮面を脱ぎ捨てた岡田のスパートは圧巻だった。
やられた!その空気が充満したのは一瞬の事だった。反応できた選手は誰もいない。ただ、一気に上がったペースにより縦長へと集団の形が変わっただけだ。
一定のリズムを刻んでいたストライドが飛ぶような歩調に変わる。六郷橋の下りを文字通り岡田は飛び降りるかのように駆け下りた。まず、先頭から遅れた市川を一気に抜き去る。後ろは振り返らない。

市川の読みはもう一つあった。前を行く博多と聖ヴィーナスの1年生。二人とも、この条件の中で区間新を出す力は…ない。必ず最後は失速する。なら…区間新に僅かに遅れるだけのペースで走ってる私が…

追いつけないはずがない。

この読みも当たっていた。
残り2キロの手前。二人の姿を捉えると、そのままこれも一気に抜き去った。南武線のガードをくぐった。沿道の歓声が二重三重になって沿道を埋め尽くして響いてくる。

もうすぐ…側道に入れば、ゆりあさんが待っている。
大きく手を広げて向かえてくれるはずだ。

岡田の顔にようやく笑顔が浮かんだ。
一仕事を終えた職人のような、満足しきった笑顔だった。


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