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31.

大手町のビル街からわずかに覗く空は、まさに目が痛いほど晴れあがっていた。
沿道で小旗を持ち、スタートを今か今かと待ちわびる人たちは、上着を脱いで手に持っている。
まだ朝7時前。スタートまで1時間ある。普段は寒さに身を凍えさせなくてはならない時間だ。

「い…いいんですか?島田さん。ほら、みんな他のガッコの子はアップしてますよ?ね?萌咲も少し体を動かしときたいんですけどぉ…」
1区を走る後藤萌咲がグランドコートの前んぼ部分を大きく開いて、身体をそわそわしながら動かしていた。
スタートラインの後方の道路…日本橋方面へ向かって何人かの選手が早くもダッシュを繰り返したりして、アップを始めている。どの選手もグランドコートを既に脱ぎ捨てていた。

「いいんだよ。それよっかのんびり横になるなり、音楽聴くなりしてリラックスときな。点呼前10分くらいで何本かダッシュ入れときゃそれでいいよ。ただし、その時にいったん心拍だけしっかり上げておくように。」
「はあい。わかりましたあ。」

「おっはよ。あれが噂のなまいキッズの一人?意外といい身体してるじゃない?」
突然背中から声をかけられた。
島田が振り返り、声の主を確認して笑顔になる。
「おはよ、さっしー。そう。後藤萌咲。結構ああ見えて速いよー」
「知ってるって。しかしまあ…思い切ったオーダー組んできたねえ。アンタが組んだんでしょ?」
「ははは。苦肉の策だよ。何しろ選手層薄くてさ。1年生頼りってトコ。それより、さっしーだって。」
「ん?私?いや、ウチは特に奇異を衒った事してないよ。1区に1年ってトコはまあリスキーっちゃあリスキーだけど。」

戦前の大方の予想は、連覇を狙う栄京女子大を僅差で四ツ谷大が追い、乃木坂大がそれにどこまで食い下がるか…というものであった。しかし、指原の顔を見て島田は確信した。間違いなく、この人は一番上を狙っている。ウチみたいな一発勝負、丁半博打のようなものじゃない、確固たる戦略を持っての優勝狙いだ。

「小嶋…真子ちゃん。5区になんだ。」
「そう。ねえ、さっしー、前にウチの真子の事、前田さんに似てるって言ったじゃん?」
「うん。言った。」
「あれってどういう意味?」
「んー特に意味ないよ。ただ単に似てるかなって感じたから。」
指原の所に、博多大の1区に抜擢された矢吹奈子が駆け寄ってきた。
小さな身体とあどけない表情に騙されちゃいけない。1区にエントリーされた中でも、確かな力を持っている選手だ。

「悪い。そろそろ行くね。あ…前田さんだけじゃないよ。あの子はね…」
「うん。わかってる。だから5区に使ってみた。」
「そっか…こりゃ手ごわい存在になりそうだね。」

指原はそう言って右手を差し出した。
島田がその手を強く握り返す。気合だけは負けないよ…
そうメッセージを込めたつもりだった。しかし、指原の握手の力は島田の予想を遥かに超えて強かった。

さっしーも気合入ってるんだな…
そう思いながら、島田はゆっくりと慶育大のグランドコート姿が何人かまとまっているところへ歩いていった。
監督車に乗り込む横山もコートを脱いでジャージの上下だけの格好になっている。
後藤は…いつの間にか姿を現していた、下口ひななと談笑していた。
明日、8区を走る同期のメンバーの姿に、後藤の表情がようやくリラックスしてきた。

「だから、あそこだって。あの角。」
「あの角って、スタートしてすぐ?左に曲がってくトコ?」
「そーだよ。あそこをトップで回ってくとその年の総合優勝が取れるんだって。」
下口が後藤の背中に手をまわして、スタート地点の先を指さしている。
箱根駅伝は、大手町の読売新聞社前をスタートする。
そのあと、ほんの数十メートルで日比谷通りに入るため、90度左折をする。
スタート直後だけに、まだ全ランナーが固まったままだ。1区は21.3km。スタート直後、いきなり一歩先を急ぐ必要はない。それでも毎年、各校のランナーは我先に最初のコーナーに飛び込んでいく。
「最初の左折時、先頭でまがった学校がその年の総合優勝を勝ち取る」
そんなジンクスが選手やファンの間で語られるようになったからだ。

実は、ジンクスやおまじないなどではない。
スタートラインには前年の順位順に選手が並ぶ。
前列左に昨年の優勝校。2位がその右隣。予選会からの出場校は2列目からのスタートだ。
単に力がある学校の選手が最短距離でコーナーに入っていけるからなのだ。

それでも、毎年各校の選手はトップで左折しようと凌ぎを削る。
アスリート…特に長距離走を走る選手は、縁起を担ぐ事が多いと言われる
競技時間が長くなるほど、その間何か拠り所になるものが欲しいのかもしれない。

「わかった、ひな。あの角の先頭、絶対に私が取るから。」
「おいおい。無茶すんなよ。そんな事しなくたって…」
島田は後藤と下口のいたずらっ子っぽい表情を見て、言葉をひっこめた。

鳴り物入りで慶育入りしてきた、二人だが決してここまでの道は順風ではなかった。
特に後藤は、入学直後の記録会で好成績を連発し、将来を大いに期待されたものの、夏前に早くも最初の壁にぶち当たり、大きくリードしていた1年生エースの座を下口に激しく追いかけられていた。しかも、大会前にはハチキャンのメンバーも加入してきた。
晴れ舞台の箱根1区。
何か思い切った事が欲しいと思っても仕方ない事だと思ったからだ。

「さ。私はスタート見届けたら、すぐ小田原に向かうから。由依。頼むね。」
「おっけい。わかったわ。」
横山が後藤の背中を二度三度軽く叩いて、監督車へと向かっていった。

後藤が脱ぎ捨てたグランドコートを受け取った下口が軽くガッツポーズを見せる。
島田が差し出した拳に後藤が軽く拳を合わせる。

またちょっと表情が硬くなった。
仕方ないな…初めての大舞台。しかも、1区の雰囲気は独特だ。
しかし…後藤がこの空気を糧にしてくれたら…
来年以降、これ以上心強いものはない。

「選手召集!各校の1区出場者は点呼を受けてください。1番…栄京女子大学!」

点呼が始まった。

後藤の記憶は、そこで一度途切れた。
自分が点呼で呼ばれた事も。
スタートラインに並んだ事も。
号砲が鳴り響き、大歓声がビルの谷間に響き渡った事。
最初のコーナーを先頭で曲がろうと、スタートダッシュした事。

そして、見事先頭で左カーブを身体を傾けて曲がった事。

夢中だったのだろうか?
何も覚えていない。

「萌咲!もえっ!大丈夫か?しっかり!萌咲っ!」
コーチの声が聞こえる。観客の騒めくような…悲鳴のような声にかき消されそうになりながら。

島田さん?
後藤ははっとなって我に返った。
真っ青な空が広がっている。

空?
なんで私、空なんて見てるの?

慌てて身体を起こした。
声の方向を見る。沿道の観客にまじって島田の姿があった。
こっちに大声で何かを叫んでいる。
前方を見た。選手たちの大集団がどんどん離れていくのが見える。

私…どうしたんだ?
いったい、ここで何をしてるんだ?

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