スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

107.

楽しくて仕方なかった。どれだけ飛ばしてるのか、なんとなく自分でも感じていた。
15キロまでは、1キロごとにラップをチェックしていた。でも、それもやめた。
記録とか、区間新とか…そんな事、どうでもよくなってきたからだ。

実際、秋元真夏は速かった。
区間記録を常に1分以上上回っていたし、そのアドバンテージは距離を重ねるごとに大きくなっていった。しかし、秋元自身はそんな事よりも、沿道からの声援がとにかく心地よかった。たぶん、表情はぐちゃぐちゃなんだろう。今にも破裂しそうな心臓。もうフォームとかそんな事を気にする余裕は何もない。それでも、たくさんの声援が自分の背中を押してくれる。


長い直線になると、前を走る選手の姿がチラチラ見え始める。
正直、ずっとこのまま一人で走ってたかった。観客の視線を独占できるから。
でも、そんな事は言ってられない。
今は、溢れ出すこの感情をおさえる事なんてできやしない。

もっともっと前へ。


「すごいね…」
「うん。大したもんだわ。」

大手町では乃木坂大の選手たちがビルの陰で小さなモニターを丸くなってみていた。
もうすぐトップが戻ってくる。四ツ谷大や聖ヴィーナスの選手たちは、もう通りに出て肩を組んで選手の到着を待っていた。テレビカメラがその表情を追いかける。ビルの間から差し込む日差しに照らされ、とても眩く見えた。
確かに秋元の走りは見事だ。
しかし…それは、この大手町の光景と同じ。
スポットライトを全面に浴びてのものではない。

「あ。まっつん。着いた?ああ、見えた見えた。こっちだよ、こっち。まいやんも。」
居駒里奈がかかってきた携帯を耳に当てて周りを見回した。
松村と白石の姿を見つけて手を振る。
「間に合ってよかった。まいやん、病院行かなくていいの?」
橋本奈々未が白石の肩に手を当てて顔を覗き込む。
白石が軽く頷いた。二人の顔に笑顔はない。

「みんな…あんな…私…」
松村が遠慮がちに声をかけようとして時、輪の中から小さなどよめきが起きた。
「すげっ…」
「なに、あのごぼう抜きの仕方。しかし、なんちゅう嬉しそうな顔してるの?」
モニターは秋元の姿を大写しにしていた。
四ッ谷大、聖ヴィーナスのトップ争いはまだ続いている。シード権争いはひとまずの決着がつき始めていたが、まだまだ予断を許さない。
そんな中、最下位を走る秋元に注目が集まっているのだ。

「みんなごめん。私がヘマしなきゃ…」
松村の前を遮るようにして白石が大きな声で頭を下げた。
「まなったんの走り見てたら…あそこで私が普通にさえ走れていたら、今頃は…」

白石の言葉に乃木坂のメンバーは再び言葉を失った。
もちろん、責めるつもりなんてない。しかし、みんなが思っていた。あそこで、大きなブレーキがなければ…

「仕方ない…では済まされないね…」
気まずい雰囲気に追い打ちをかけるようなセリフを言って立ち上がったのは、若月だ。
「ちょ…ちょっと」
桜井が隣で若月を肘でつつく。
「でもさ。それを含めて駅伝なんじゃないの?まいやん一人のせいじゃない。それが今の私たちの力なんだよ。まいやんが怪我の事を打ち明けられなかったのも、私たちが弱いせいだ。」
「いい事言うじゃないか。」
「え?監督?どうしたんですか?あの…監督車に乗ってたんじゃ?」
いつの間にか、設楽の姿があった。日村も一緒だ。
「ああ。深川と交代した。なんか、つまらなくてさ。まるで糸の切れた凧みたいに飛んでいっちまったしな。秋元も。それより…ここでゴールシーン見てたほうがいいや。」
「それより、桜井。今の若月のセリフ、キャプテンのお前が言わなくちゃ…なあ。」
日村の冷やかすような言葉に、逆に若月が苦笑いを浮かべた。

「ま、また一からやり直しだ。いいじゃねーか。まだみんな来年があるんだ。今年、こんな負け方したのは、誰のせいとかじゃねーぞ?俺たちが弱かったんだよ。単純にな。誰を恨むとか、そんな事言ってるヤツは…いねーな?」
設楽が静かな、しかし強い口調で言った。
全員が、小さく頷く。
「だったら顔を上げろ。ちゃんと見とくんだ。歓喜の輪の姿を。目を逸らすな。言い訳なんてするな。泣きたいヤツは泣けばいい。そして、その悔しさを呑みこむんだ。」


春の日差しが一段と強くなった。
大きな歓声が腹の底から響いてくる。


スポンサーサイト

106.

「後ろ気になるの?」
大島涼花が高島祐利奈の半歩後ろから声をかけた。
少し苛立ちが込められているようにも聞こえる。
高島は、ちらっちらっと後方に向けていた視線を、大島の方に向けた。
「そっちは…気にならないの?」
「別に。っていうか、アンタ今の状況わかってる?」

箱根駅伝はいよいよ終盤だ。終盤も終盤。往復200km以上…これまでに9人で繋いできた長い道のりももうあと僅かで終わる。しかも、二人が今走ってるのは先頭だ。総合優勝はもうこの2校に絞られたといってもいいだろう。

大島はこの場に及んで、遅れてしまった選手の事を気に掛ける高島が気に入らなくて仕方なかった。アンタが意識しなくちゃいけないのは、目の前にいるこの私じゃないの?

反逆児とかツッパリとか色んな風に呼ばれた。
みんな、ガキ扱い。
確かに、練習ではすぐふざけてたし、監督やOGの人たち、コーチや先輩の言う事なんて全然聞かなかった。
でも、段々と芽生えてきた「自覚」。
少し大人になった…そう自分自身感じ始めた頃だった。
走ってて楽しさを感じなくなっていったのは。

今日だってそうだ。栄京の山田を引き離したタイミング。
絶妙な判断だった。今までの自分じゃ到底考えられない。

今のチームを引っ張っているのは、どう考えても自分じゃない。
2区ではなーにゃがとんでもない走りをしたし、なっきーだって見事だった。
ずなさんだって、さややだって。

これでいいのか?
確かに、今ここで走ってるのはなっきーの戦略があってこそだ。
でも…でも…


「わかってないのは、涼花、アンタの方じゃないの?」
「は?なに?ゆーりん、言うようになったねえ?」

高島と大島は中学時代からのライバルだった。
強豪・四ツ谷大付属に進んだことから、駅伝では高島の方が目立った実績を残しているように見えたが、それはあくまでもロードでの事。トラックでの実績は間違いなく大島の方が上だった。

「わかってないって?どういうことなのよ。ねえ?」
「少なくとも、そんな詰め将棋をしてるみたいな顔をしてるアンタには負ける気はしないって事だよ。」
「詰め将棋?」
「後ろを気にしてる?そりゃそうだよ。私の相手は、みずほちゃんしかいないって思ってたからね。」
「私の事は眼中にないって事?」
「まあ、そういう事かな。」

日比谷通りを馬場先門の交差点で右折する。
残りは3kmだ。

高島はカーブを大きく曲がる遠心力を使って一気にスパートした。
大島を一歩から二歩引き離す。

「くっそう。ふざけんな!」
大島が必死の形相で追いかけてくる。
掴みかからんとする勢いで高島の横に並んだ。

そうそう。それでなきゃ。そうこなくちゃ面白くない。
涼花…ね。中学の時は、あんなに小さくてさ。
思わず小学生?って思ったくらい。
でも、一緒に走ったら速い速い。
ちっちゃな背中がどんどん小さくなってくのを見てるしか出来なかった。
でもね。走り終わったときの顔見て思ったんだ。
あのやんちゃな笑顔。私もあんな風に笑えたらいいなあって。


私、今日が最後なんだ。
もちろん、走る事は続けるよ。市民マラソンとかにも出ちゃうつもり。
でも…こんな風に、すべてを賭けて…
自分だけじゃなく、みんなの想いとか色んなものを受けて走るなんて一生ないと思う。津波のように押し寄せる大声援。絶対に負けたくないって必死の顔で一歩先を競うライバル。襷の重さ、絆の強さ。
もう二度と、私は感じる事はない。


だからこそ、最後の最後は、最高の相手と競い合いたい。
みずほちゃんも一緒だったら、それが一番良かったんだけど、それは仕方ない。
ね、私、勘違いなんてしてないよ。ちゃんと、今最も危険な相手が誰かってわかってる。でも、私が勝ちたいのはモヤモヤしながら走ってる大島涼花なんかじゃない。
全てを出し切って完全燃焼できる、最高に手ごわい大島涼花なんだ。


さ、行くよ。
最高のステージだ。
ほら、あんなにたくさんの人が手を振っている。
声を枯らして応援してくれてる。

パレードみたいじゃない?
二人だけのパレード。
手と手を取り合ってって訳にはいかないけど。

最高の花道だよ。
ね?


105.

箱根駅伝では、復路になると単独走になる事が多い。1区では20校が揃ってスタートするが、2区で集団が分断され始めると、そのあと多くの人数がまとまって走る事はそうある事ではない。
しかし…だからこそ、10区の終盤になってからの集団での駆け引きは実に難しい。先頭争いもそうだが、シード権を争ってる今の状況はなおさらだ。
秋英の岩田華怜、博多の穴井千尋、そして学連選抜・難波商科の木下。順位は9、10、11位。難しいのは、この中で「1番で入らなくてもいい。だが、3番目だとダメだ」という事だ。単純に三人の中で誰が勝つか…ではない。

走ってる選手は、ここまできて頭の中で細かい計算をする余裕など残していない。10区23.1kmのうち、残りはもう10キロを切っている。それでなくとも、この暑さだ。長距離を走るには暑すぎるだけでなく、全身が痺れるような緊張感は選手のスタミナを容赦なく奪い去っていく。


指原莉乃は監督車の中でじっと目を閉じていた。窓を開けてそとの風を頬に感じながら。沿道からの歓声、巻き込んでくる風が長い髪をかき乱す。

箱根5区の山登り。スタートしてすぐに大島優子との並走になった。国道1号の最高点にたどり着くまで…距離にして20km弱か。ずっとその間一緒に走ってた。前には島田晴香が走ってた。あの時…私はなんで勝てたんだろう?確かに、あの時…「ここだ!」って声に弾かれるように前に出た。何度も何度も振り返った。大島優子の姿がどんどん遠ざかっていった。あのとき…

そうだ。この人の声だ。

指原は隣の席で窓から身を乗り出して岩田に声をかけ続けている高橋みなみを見た。
あのとき、あのタイミングで指示を出してもらっていなかったら、私は前に出る勇気なんて持てなかっただろう。誰かに背中を押してもらわなきゃ…
指原は自分も窓から身を乗り出してみた。後部座席の窓は大きくない。意外に窮屈だ。首だけ出すのが精いっぱいだった。

三人が縦長になっていた。明らかにこの3キロ、ペースが上がっている。先頭を牽いているのは学連選抜の木下だ。後ろをまったく見ない。ほんのわずか遅れて岩田。穴井は木下と岩田がキープしている差よりのやや広めの感覚を前と開けている。

その時、穴井が後方に目をやった。監督車の方じゃない。それよりももっと後ろだ。

まずい…
指原は小さな窓から目いっぱい体を乗り出し、拡声器のマイクに向かって叫んだ。
「キャップ!前だよ!前。後ろなんて誰も来てないんだから!」

その言葉の一瞬だけ前だった。高橋が拡声器ではなく肉声で叫んでいた。
「いまだ!ここだ、華怜!」

三人の集団で見る必要がない後方に視線を送る。
それがランナーにとってどういう事なのか、高橋は熟知していた。指導者としては、まだ若いがその洞察力、視察力、判断力。経験だけは会得する事が出来ないもの。高橋が指導者として一流なのはそういった点に長けているからだ。
勝負勘と言ってもいいだろう。

高橋の感じ取ったポイントは正しかった。おそらくここしかない、絶妙のタイミングだっただろう。残り7キロ。シード権争いから一歩抜け出す事が出来た…はずだった。

しかし、高橋が指示を出したタイミングで飛び出したのは、木下百花ただ一人だった。岩田は木下がスパートをかけるのを、ただ見送る事しかできなかった。

「くっ…遅かったか…」
高橋はそう言って車の天井を見上げた。力が抜けたように後部座席のシートに身をうずめる。大きなため息のような深呼吸を一つした。
前方では、穴井が岩田をかわしていくのがみえる。

「お前なら…行けたのかな?」
「はい?どういう事ですか?」
指原は目を閉じた高橋の言葉の意味を図りかねて聞いた。
「いや、ここだー!って言った時にちゃんとお前は飛び出してくれたからな。」
「だって…たかみなさん怒るじゃないですか。言われた通り走らないと。」
「はははは、私、そんなに怖かったか?」
「怖かった…っていうよりうるさかった…かな?」

高橋はもう一度笑った。
こんな顔して笑うんだ?指原がそう思うほど、穏やかな顔だった。

選手は駒じゃないんだ。いくら、戦術を練ってもそれが正解だとしても、実際に走るのは選手自身だ。その時の体調や環境、心理状態もだろう。私は、監督としてこうしてふんぞり返ってて何か見えないものが多くなりすぎてたんじゃないだろうか?

「なあ、指原。これで、学連選抜が9位。お前んトコが10位だ。後ろとの差も大きい。華怜もココで終わりだろう。もうピッチを上げることなんてできそうにない。シード権争いは決まったようなもんだよな?」
「です…かね?」
「なあ。あの木下はやばいよ。たぶんシードとかそんな事なんかじゃない。きっと、もっともっと前を狙ってくんだと思う。そして、まだ余裕持ってるように見える。で?どすんだ?お前んトコは?」

穴井だって余裕があるとは言えない。しかし、木下についていけたって事は少なくとも、岩田にかわされる事はないだろう。セオリーで言えば「自分のペースで走れ」って指示を出すべきだ。


「キャップ!負けんな!あのヘンテコな髪型の子になんて。あと6キロちょい。あの子と一緒に前を追うよ!慶育をもう一回抜いてやれ!」
指原はそう叫んだ。

「さすがだな。これで…来年は予選会からか…」
「たかみなさん、予選会って甘くないですよ?」
「ああ。わかってる…って、わかってないんだろうな。きっと私たちは。でも、だからこそ、ここで一度味わう必要があるんだろう。指原、来年はいろいろ教えてくれよ」

「たかみなさん。それはできません。」
「ん?いいじゃんか。敵とはいえ、かつての盟友だ。予選会経験のある指導者としてアドバイスくらいしてくれよ?」
高橋の笑みに指原が真面目な顔で答えた。
「ワタシ…もう一回走ります。だから…指導者としてアドバイスする事は…できなくなります。」
「ほー。その気になったか?」


そう。あの子たちを率いて、もっともっと高いステージに登らせるという仕事はとてつもなく楽しいものだ。咲良もはるっぴも、美桜も芽瑠も、まどかだってなつだって。指導という名の肥料を与えればぐんぐん芽を伸ばしていく。
でも、同時に、あの子たちと一緒に走ってみたい。

「たかみなさん。秋英って確か9月入学の大学院生募集ありましたよね?」
「は?お前、ウチの大学院来るの?実業団とかじゃなくてか?」
「いえ。あの子たち…の敵として走りたいんですよ。箱根でね。できれば5区がいいかな?」
「来年のか?しかし…大学院は大学自体と別チームだぞ?そりゃ、箱根出場経験者でも大学院では別に出場資格が新たに得る事はできるけど…。ウチの大学院で本線出場なんてとても…」
「学連選抜って手があるじゃないですか。」
「まじか?」


博多大はもっと強くなる。もっともっと。
そのためには、もっともっと強い相手と戦わなくてならない。
私が…あの子たちの壁に自らなろう。


104.

箱根を走るランナーは、長距離走を競技としている中でもトップクラスの力を持ったものばかりだ。少なくとも、レジャーやレクリエーションのレベルでは、各校の襷を担う事などできはしない。

一方で、この箱根を最後に競技の世界から身を引くランナーは決して少なくない。今は空前のマラソンブームだ。走る事を生活の糧としなくとも、本格的なレースに出場する事は不可能ではない。実業団クラスで走ってもおかしくない記録を出し続ける者もいるにはいる。

しかし…こんな風に痺れるほどの緊張感を持って走る事…は一生ないだろう。
高島祐里奈は、それを身に染みるほど理解していた。
悔いがないと言ったら嘘になる。今も、迷いはある。
でも、今日を最後にするって決めたのは自分自身だ。親に敷かれたレールを安易に選んだなんて思っていない。確かに、レールは敷かれていた。まっすぐに伸びる継ぎ目の少ない緩やかな軌道のレール。でも、それに乗るって決めたのは自分自身の決断だ。

だからこそ、今日は負けられない。肩からかかった黄色の襷は、汗で色が変わっている。段々とその重さを増しているような気さえする。
もうこの先、選手としての「先」がないんだから。一緒にトップを争ってる二人には「先」がある。だから負けられない。負けたくないって思ってるに違いない。
でも、違うんだ。今日が最後だから。最後だからこそ、成し遂げなくちゃいけないものがある。

高島が勝負に出たのは、田町の先、芝の交差点を左折した直後だった。第一京浜から日比谷通りに入った瞬間、それまでビルに囲まれていた通りが、瞬間前が開けた状態になる。吹いていた南風は午後になり徐々に冷たさを纏った北風に変わっていた。正面からやや強い風が三人を襲った。

読み通り。高島のダッシュに反応したのは、聖ヴィーナスの大島だけだった。一瞬、不意をつかれたように栄京の山田が遅れる。
いや、むしろこの仕掛けを待っていたのは大島だった。明らかに、山田と高島はお互いを激しく意識していた。しかし、余裕があるのは高島…そう冷静に読み切っていたのも大島だった。3年連続の10区。タイム争いだけでなく、厳しい順位をしのぎ合った経験も持っている。どこかで、必ずどちらかが仕掛けてくる。

こんな風に自分が冷静にレースに臨んでるなんて…
山田を一気に後方に引き離しながら、大島は思わず苦笑いを浮かべていた。
どちらかというと、猪突猛進タイプだ。後先考えずに走ってた頃の方が全然楽しかった。でも…それじゃダメだって教えられたのは後輩からだった。
「能力のある人間は、それを活かす義務がある。」
内山奈月に言われた言葉だ。何を上段から…って最初は反発した。
でも、確かに…自分が高いステージに上がれば上がるほど…それがチームの力に繋がった。いろんな子があの子に乗せられてきた。
そして…その結果、今私が走っているのは、シード権を争うような場所じゃない。堂々と優勝争いの先頭を走ってるんだ。


監督車の中で、松井玲奈はこのレースが静かに終わっていくのを感じていた。
まだ、残りは6キロある。差はタイムにして数秒。今なら…ここで踏ん張れば…
傍目からはそう思えるかもしれなかった。
しかし、間違いなく、ここで前を追うのは無理だ。

ミスはなかった。選手たちにも、そしてコーチである自分自身にも。
多少のプラン変更はあったものの、ここまではほぼ順調にレースを運んできていた。一つ一つのピースを埋める作業は何の破綻もなかったはずだ。
しかし…それが駅伝だ。それが箱根だ。

山田みずほの背中が泣いているように見えた。
…あの子、どうせまた、私のせいで…なんて思っているんだろう。
積み重ねてきたものが、最後の一人に背負わされる。ある意味、駅伝というのは残酷な競技だ。200キロ以上を走ってきて、最後の最後…数秒の差で勝者と敗者が分かれる。区間だけで見たら、自分の方が勝っていても、ゴールテープを先に切れなかった悔恨は、かなりヘビーに10区を走ったランナーにのしかかる。
みずほは…キツイだろうな。しばらくは落ち込むかも。
でも、あの子には誰にも負けないガッツがある。逆境になればなるほど踏ん張れる。奈和や春香に負けないだけの素質を開花させるには…この負けはきっと糧になる。

惜しむらくは…来年、あの子たちを見てやりたかった。
今年の悔しさをバネにして、あの子たちにとっての最後の年、集大成として栄京最強のチームを作る事ができただろう。
今村の顔が浮かんできた。
悔しいが仕方ない。自分で言い出した事だ。
責任をきちんと取るのも、指導者として果たさなくてはならない役割だ。

「みずほ!何やってんの?まだいけるでしょ!顔上げな!前を見るんだよ!」
玲奈は拡声器越しに声を張り上げた。
きっとみずほは必死にそれに応えようとするだろう。
でも…玲奈が顔を上げろ…そう言ったのは、前を追えという意味ではなかった。
この悔しさを目に焼き付けろ…
最後の最後まで、鬼として。

鬼コーチの松井玲奈として、チームに与えた最後の指示だ。


103.

「あー。彩さん!彩さんじゃないですか!どうしたんですか?あ。そっか、後輩の応援ですか?」
大手町のゴール付近、腕組みしながら大きなモニターを見つめていた山本彩にマスク姿の女性が声をかけた。所属している強豪実業団のネーム入りのジャージを見ずとも山本にはそれが誰の姿なのかすぐにわかった。

「応援って事でもないんやけどな。それより珠理奈、それ変装のつもり?」
「違いますよ。琵琶湖マラソンまでもうすぐなんで、単なる風邪の予防っす。」
かつて、箱根で襷を繋いだ仲間だ。8区を走った山本、9区を走った珠理奈。学連選抜の白い襷を繋いだ大切な仲間。
「木下って子、あの子もトライアスリートなんですか?」
山本は学生時代も今も、国内女子のトップトライアスリートだ。ワールドシリーズを転戦するプロのトライアスリートとして何度も世界の表彰台に登っている。学生時代も一人トライアスロン部からの抜擢だった。難波商科大はトライアスロンの名門校なのだ。

「そうなんよ。ワタシが勧めて駅伝走らせてるんやけどなあ…」
「って事は彩さん、期待の選手って事ですよね?」
「期待なあ…」
山本は小さくため息をついた。
確かに期待の選手だと思っている。普段から出身大学の場を借りてトレーニングしている山本の目に真っ先に留まったのが木下百花だった。トライアスロンは究極の個人競技だ。そして、何より寡黙なまでのストイックな姿勢が求められる。トップ選手には、食事や睡眠といった日常生活に及ぶ節制が求められる。
そんな競技にまさにぴったりはまる資質を持っているように見えた。どんなに苦しいトレーニングにも、どんなに苦しい場面でも表情を変えずひたすらまるで修行僧な表情で迎え立った。
しかし…あと一歩…何かが足りない。
山本は木下に駅伝を走る事を勧めた。
かつて、自分が何かを掴んだように。彼女も大切なものを見つけてくれるかもしれない。しかし、モニターに映る木下の顔は…いつもの彼女の顔だ。




しっかし、何をみんなムキになっとるんやろ?一つ抜かれたからって、人の顔恨みがましく見るのホンマ堪忍なんやけど…
そら、ウチだって駅伝って競技を馬鹿にしとるんやないで?ただなあ…しゃーないやん。一人ひとり力が違うんやから。必死な顔したってはよ走れる訳やないやん?
あー…しっかし、この襷ちゅうのは邪魔やわあ。肩にっていうか、体にまとわりついてくる感じが好かん。トライアスロンみたくゼッケンベルトにすればええやん。アタッチメントついとるから簡単にカチッってはめれるしな。第一、スタイリッシュや。

よっしゃ。追いついたで。秋英サンに博多サン。も一人は…へえ。スパートしたんか。でも、冷静に見てウチの方が持ってるスピードは上やな。ま、追いつけるやろ?


10区唯一といっていいアップダウン。八ツ山橋の登りの手前で木下は前の二人に追いついた。13キロを過ぎたあたり。残りは10キロだ。そのまま一気に追い抜きにかかる。しかし、博多大の穴井と秋英の岩田は、木下の後ろにぴったり張り付いた。


ちょ…ちょっと勘弁してえな。そんな近くに接近して走ると、足が絡んで転んでまうがな。荒い息がかかるのも気持ち悪いしな。だいたい、明らかに走っとるペースがちゃうんやから…


木下は二度三度と後ろを振り返った。追い抜いてペースを落とした訳ではない。むしろ、前の慶育・相笠を追おうとペースアップしたくらいだ。なのに、二人はしっかりと食いついてきている。表情はきつそうだ。しかし、木下にはわかった。まだこの二人…目が死んでない。

いったい、なんなんや?

木下が呆れたように首を横に振った瞬間だった。
まるで両脇を抱えられるような感覚を感じた。右から岩田が、左から穴井が、木下を挟み込むようにして横に並びかけたのだ。


二人の呼吸が聞こえる。と同時に、声が聞こえた気がした。
譲らない。ここは、絶対に譲れないんだ。


この三人の順位は9位、10位、11位。
つまり、この中の一人が…この争いに負けた一人だけが、シードを失う。
秋英は初出場以来守り続けたシード権。博多は、念願のシード権。絶対にここは引き下がれない。絶対に譲る事が出来ないのだ。


穴井が黒い襷を握りしめた。同じタイミングで岩田は汗で色が濃くなったピンクの襷に手を伸ばす。そして、何かそこから力を得ようと目を閉じた。


襷?この襷にいったいなにがある言うんや?
木下も思わず、自分のかけている白い襷に目をやった。ぐっと強く握りしめてみる。
汗で湿っているその襷。目を閉じてみた。
でも、何も伝わってこない。

彩さんが言うから、駅伝に出ることにした。あん人だけにはウチに有無を言わせん迫力と実績がある。きっと何かがある…そう思った。けど、ここまで…今日まで何もわからんまんまや。いったいウチに何を…


木下が目を開けると同時に、両脇の二人がぽんと前に出た。一瞬何が起きたのか木下には理解できなかった。油断はしていない。冷静に局面の分析もできていた。二人にスパートさせないだけのプレッシャーだってかけている。第一、そんな力はもう二人に残っているとは思えなかった。
それでも、二人は前に出た。そして、ぐんぐんその差を広げていく。
嘘やろ?この長い距離走ってきて、明らかに巡航ペースが違うのに…ここまで貯めておいたならともかく、この二人にそんな余裕はないはずや…


おいおい…ちょっと待てや。ここでウチが遅れたら、あかんやないかい。
下手したら繰上げ喰らいそうになった往路からここまで盛り返してきたんや。学連選抜は1年生や2年生ばっかや。シード権取ったら、来年あいつ等のチャンスが広がるやんか…

木下ははっとした。来年?あいつら?
なんで、この場面で他の連中の顔が浮かぶんや。8区を走ってきた同じガッコの藪下は、フラフラになりながらこの襷を運んできた。あいつとは、何度もショートのトラのレースで競ってきた。いつもヘラヘラしててあんな必死の顔できるんやって思った…他のガッコの子もみんなそうや。

木下はもう一度襷を握りしめた。
ダメだ。力なんて湧いてきやしない。
でも…だからこそ、あいつらに負ける訳にはいかない。

ウチがウチであるために…勝たなあなんのや。
そんな歌があったな…

木下が自分の頬を一度二度と張った。
再び三人が横一列に並んだ。

102.

こんなにすごかったっけ?
秋元真夏は、視線を泳がせるようにしながら走っていた。

10区は3キロを過ぎた辺りで多摩川を渡り、東京都へと入っていく。
蒲田・大森…国道1号線の沿道には文字通り鈴なりの観衆が押し寄せている。
去年は7区を走った。小田原から平塚への道。それでも初めての箱根、沿道からの暖かい声援には感動したものだ。
しかし…今年のそれは、去年とは比べようもない。
熱が違う。熱狂といってもいいのではないか?
秋元はそう感じながら走っていた。

余りにもドラマチックな鶴見での襷リレー。前との差は大きく開いたが、逆にその事が観衆の視線を秋元に注ぐ事につながっていた。

秋元のトラックでの成績は、はっきりいって「並」にも及ばないものであった。5000も10000も学生ランキングに入るレベルではない。それでもロードに出ると抜群の強さを発揮した。最初から飛ばしてそのままペースが落ちない。途中から泣きそうな顔になる。しかし…その顔になった時の速さは、決して「並」ではなかった。


観客は悲劇のヒロインを迎えるような、メランコリックな声援で秋元がやって来るのを待っていた。しかし、目の前を通りすぎるその姿に、その声援はすぐに驚嘆の声へと変わっていく。

速い。
なんだ?あの速さは?

明らかに、ここまで通り過ぎた19人のどの選手よりも速い。

秋元は、自分の体に説明のつかない力が湧いてくるのを感じていた。
飛ばしすぎだ…もうダメだ…
トラックだと、そう思った時には既にペースがガタ落ちしてしまっていた。
でも、ロードだと違う。
秋元は、いつもコースの端っこを走った。一番歩道寄りだ。
時には、観客が打ち振る小旗が体に触れる事もある。頬を切った事も何度かある。
それでも、敢えて一番観客の近くを走った。
沿道から発せられるパワーがまるで自分に乗り移ってくるような気がする。

そして…今日は一段とそのパワーが強い。
秋元は、まるで観客とハイタッチでもしながら走っているかのような感覚になってきていた。そして、その思いが強くなればなるほどストライドが伸びていくのを感じていた。


「まなったん!区間新、狙っちゃえ!」
大森の先で給水ポイントがある。マラソンの給水とは違って、テーブルが用意されている訳ではない。各校の補助員が伴走しながらドリンクを選手に渡すのだ。
選手と同じスピードで走らなくてはいけない。秋元にドリンクを渡したのは深川麻衣だった。
「区間新?狙えるんですか?」
「狙えるも何も、入りの5キロ。このままでいけばとんでもない記録が出るよ!」

10区の区間賞は先頭争いをしている選手から出る事は少ない。力を持っている選手でも「勝負」の駆け引きにその力を割く必要があるからだ。
しかし、それでも…いや、だからこそ、この10区の区間記録はなかなか破られることがない。

「いいんですか?」
「いいよ。構うもんか!いけ!まなったん!」
深川の言葉を聞いて、秋元が更にペースを上げた。

なに?今、笑ってたよね?
でも…今の、笑顔…
いつもの、屈託のない笑顔じゃなかった。
何か、どことなく背中にぞぞっとしたものが走るような。

あんな風に笑う選手がいた…どこかで見た事がある。
そう、何か制御されたリミッターを外してもらった怪物が覚醒するような。
誰だっけ?


深川がゆっくりと走るスピードを落とし、そして立ち止まった。
走り去る秋元の背中を見ながら、思いを巡らせた。
どこかで見た事がある。あの迫力…

須田…さん?
そうだ。栄京との合同練習で何度か見た。
あの笑顔だ。あの笑顔ですさまじい走りをするんだ。
髪を振り乱して、全身を躍動させて。

そういえば、前に聞いた事がある。
須田さんみたいに、走りたい。
須田さんは私の憧れだって。



初夏を思わせる暖かさ…いや、暑さの中、深川はぶるっと身震いをした。
早く大手町に戻らないと…
最下位の乃木坂大から、とんでもない記録が生まれる瞬間を見届けなくちゃ。


101.

「島田さん!こっちです!こっち。早く早く!」
「しーまーだーさん!島田さんってば!もー聞こえないのかなあ?」

聞こえてるよ。しっかし、大きな声だなあ。
ほら、周りが見てるじゃんか。あのさ、少しは自覚しろっての。
昨日まではともかく、もうアンタたちはその他大勢のランナーの一人じゃないんだからさ。その慶育のジャージ着てるだけでも十分目立つって言うのに…

大手町のゴール地点は、既に大観衆で埋め尽くされていた。
レースは10区に入っている。もう1時間かそこらで、今年の箱根も終わる。
そのラストシーンを見届けようとするファンのテンションは早くも最高潮に達しようとしていた。そんな中でも、響き渡るような声。小嶋真子や中野郁海の呼びかけに、島田は軽く苦笑いのような笑顔を浮かべた。


「おお、いたな、島田。探してたんだよ。」
頭を掻きがながら小嶋達が呼ぶ方へと歩き始めた島田の背中から声がかかった。
歩道の観衆の中からだ。
声の主はすぐわかった。でも、その姿がなかなか見つからない。
二度三度見回して、ようやく見つけた。

「優子さん、来てくれたんですか?才加さんも、あ、ちんさんも。」
「ちょっとー、ちんさんはないでしょ?アンタねえ。」

何重にもなって詰めかけた歩道の観衆の後ろの方にいた、大島優子、秋元才加、そして板野友美に島田が子供みたいな笑顔で話しかけた。かつての箱根のスター達の姿を見て、ファンが場所を譲るようにして前を開けた。

「え。まずかったですか?板野さん。」
「いーよ。今更、板野さんって言われてもこそばゆいからさ。」
板野が島田の肩を小突くように叩いた。

「いいレースだったな。」
大島が言った。視線はフィニッシュ地点に設置された大きなモニターに向けられている。島田も振り向くようにしてそちらに目線を送った。
「いえ…襷を、途絶えさせてしまいました。伝統の…」
「伝統?何らしくない事言ってるんだよ?」
そう言ったのは秋元だ。誰よりも、この緑の襷に誇りと想いを持っているはずの人だ。慶育といえば秋元才加だし、秋元才加といえば慶育だった。
「今の慶育に必要なのは、伝統や過去の栄光なんかじゃない。それに…な?優子。」
「あんだよー才加。せっかくカッコいい事言ってるんだから、最後まで言えよなあ。ったく。昔からそうなんだから。」

モニターでは相笠萌の姿が大写しになっていた。シード権争いの集団の先頭。グイグイ前を引っ張っている。テロップで名前は紹介されているが、その横に表示される「現在の順位」の所が「-」となっている。
何番目で入ってきても、その「結果」は「成績」とはならない。

「なんか…ともちん、そっくりの走りだね。」
「だよね。自分でもそう思う。」
大島が板野と顔を見合わせて笑う。

「似てるのは、走り方だけじゃないっすよ。クールに見えて、むちゃくちゃ熱くて。練習でもだらけた走りしてる子がいると、大きな声で怒ったりしてますから。」
「そうか…なあ、島田。」
「はい?」

大島が島田の顔をまっすぐ正面から見た。
急に真顔を向けられて、思わず島田が息を呑む。

「ありがとな。」
「へ?な…なんすか?優子さん。お礼言われる事なんて…」
「いろいろ言われたろ?ウチって結構昔の慶育らしさとか云々いう人多いしさ。後援会の人たちとか。でも…昨日と今日のあの子ら見てて思ったよ。これからさ。今ウチに必要なのはリセット…じゃないか?少なくとも、襷は途切れても、あの子たちはその後、一度だって気持ちを切らなかった。誰一人としてね。いいんだよ。それで。」

大島がモニターを指差した。
相笠が何度も何度も襷に手をやる。まるで、そこから放たれるパワーを受け取ろうとしているように見えた。

「な。あの襷。フラッシュグリーンの襷じゃない。繰上げのオレンジと白の冴えないカラーリングの襷だ。でもな。今、一番大切なものは何かって…お前たちはちゃんとわかってるじゃないか。それで…いいんだよ。」

大きな歓声が上がった。どよめきのような…まるで押し寄せる波のような。

『シード権争いの集団の中から、相笠萌が飛び出しました!10区ももう中盤。徐々に上がっていたペース。シード権争いのペース、そんなペースでは我慢ならない。まるで、そんな風に言わんとするかのようだ!何度も申しますが、慶育大学には順位はつきません。何番目でゴールしても。個人で区間何位で走っても。しかし…しかし、もっと大事なものがある。それを、ここまでの9区間で語ってきたのが慶育大学です。そして、この10区でも。博多大の穴井、秋英大の岩田…そして、後方から追い迫ってきた学連選抜の木下…相笠についていけません!」

「ほら。行けよ。みんな呼んでるよ?」
秋元が背中を押した。
島田が笑顔で頷いた。

リセット…
そう、今日は新しい慶育のスタートの日になるんだ。



100.

22秒。微妙な差だ。
5秒や10秒なら間違いなく最初からダッシュで差を詰める。
30秒以上開くなら、自分のペースを大きく乱してまで急追する事はないだろう。
1キロで5秒詰めていけば5キロちょっとで追いつける。

しかし、ここは10区だ。
他の区間以上に「勝負」が最優先される事になる。
次はない。ここでの順位ですべてが決まるのだから。

だから、栄京女子大の監督車から出た指示は「GO」だ。

実際に走ってる山田みずほもその事はちゃんと理解できていた。
しかし、山田が襷を受け取ったと同時に、いきなりのハイペースで突っ込んていったのは、そんな戦略上の事だけではなかった。


ゆーりんと一緒に走りたい。
ゆーりんが、ウチに来て走りたいって思ってたのは知ってた。
そして、それがおうちの事情でダメになっちゃった事も。
でも、大学に進んでからも私たちはずっと友達だった。
「栄京ってすごいよねー。熱いよねー。」
ゆーりんが、そんな風に言うから私も頑張らないとって思えた。
どっちかというと、杏実とか奈和とか春香とか…いかにも栄京らしいって言われてる子の方が、ゆーりんは好きなんじゃないかって思う。でも、いつも、私の事を気にかけてくれた。
「みずほちゃん、みずほちゃんって。」

玲奈さんに怒られた…そんな話をしたら「いいなあ。そういう厳しいトコ、玲奈さんらしいなあ。憧れるなあ。」って本気で羨ましそうな顔してた。
いいなあって…ホントに怖いんだよ?夢にだって出てくるんだから。
でも…きっと知ってるんだろうなあ。怖いけど、その何倍もあったかい人なんだって事。
同じチームで走れたら、どんなに楽しかっただろう。
どんなに心強かっただろう。

あのね。実はね。ウチの学校、今あんまりいい雰囲気じゃないの。
違うよ。チームがってことじゃない。そりゃ、連覇のプレッシャーがあるのも事実だけど、私たちはそんな事じゃ潰れたりしない。でも…聞いちゃったんだ。私。
今年、優勝出来なかったら玲奈さんがその責任取らされて…ひょっとしたら、私たちから離れなくちゃならなくなるって。
そんなの…そんなの栄京じゃない。ゆーりんもそう思うでしょ?

私…似合わないかもしれないけど、栄京ってチームが大好きなんだよ。


六郷橋の手前。3キロ手前で山田が前を行く高島に追いついた。
聖ヴィーナスの大島涼花と並走している。

「ちょっと早くない?あんまり飛ばしすぎると先もたないよ?」
山田に声をかけたのは大島だった。
明らかに山田をマークしていたのだろう。
「ゆーりん。お待たせ。」
「おーそーい。」
意識してそうした訳ではなかった。しかし、結果的に山田と高島の会話は、大島を無視するような形になった。一歩下がった位置にいた大島をかわして山田が前に出て高島と並んだ事もあった。その瞬間、大島の闘志に火がついた。

「は?何?お待たせって。どういう事?何?私を誰だと思ってるのかな?同じ3年生って言っても、私はもう3回目だよ?この10区を走るのは。シード権争いの痺れる展開を勝ち残った事もある。アンタ達と年季が違うんだよね。いいや。仲良しこよしで走りたいって言うなら邪魔なんかしない。とっとと先に行かせてもらうからね?」

大島がペースを上げようとした瞬間だ。
前の二人の背中が一瞬で数メートル先に離れた。
まるで示し合わせたように。

ちょっと待った。って待つわけないか。
大島は苦笑した。そして、ぐっと口元を強く結んで前を見た。
参った参った。そりゃそうか。箱根の優勝争いだもんね。
背中からビシビシ伝わってくる。
お互い、負けたくないオーラ出しまくってさ。
でもね。忘れちゃダメだわ。

大島が小さく…しかし、凛とした表情で力強く声をあげた。
「っしゃ!」
観衆から大きな歓声が上がる。
あっという間に、山田と高島の前に出た。さらにそのまま二人を引き離そうとする。
まるで、日本橋を過ぎて大手町のゴール前にいるかのような駆け引き合いのようだ。

ついといで。
10区の楽しさ…アンタたちにとっては地獄かな?
最終区間の醍醐味をたっぷり教えてあげるから。


六郷橋を超えた。
今年の箱根は「大手町」決戦になる…

誰もが、そう思い始めていた。

99.

「なあ。ちょっと寒くないか?」
「そうですか?窓閉めたほうがいいです?」

居心地がよくないなあ…
指原莉乃は軽く肩をすくめた。


昨日の往路の視聴率は40%を超えたって聞いた。
今日もこの白熱の展開だ。テレビ局もスポンサーに対して胸を張れる数字が出るに違いない。
だったら…監督車を増やす費用なんて簡単に出るはずじゃないか。
一校一台の配置してくれなきゃ。
今、一番腹の底を知られたくない相手とこうやって並んでなきゃいけないってのは気まずくてしかたない。
大分の方言でいうと「飯盒悪い」って感じ。
ましてや、相手がこの人となると…

「どした?」
高橋みなみが窓の外に送っていた目線を指原莉乃の方へ振り向けた。
昔と変わらない、呑気なようで実は何かを感じているような表情だ。
「実はですね、たかみなさん。」
なんて、思わず答えそうになってしまう。
だめだだめだ。今は、この人は大先輩じゃない。ライバル…シード権を争う「敵将」なんだ。

「いえ。なんでもありません。」
「そうか。ならいいけど。なんか言いたそうな顔してたからさ。」

高橋はそう言うと視線をフロントガラスの方に向けた。
前方では三人のランナーが一塊になって走っている。

秋英の岩田華怜、慶育の相笠萌、博多の穴井千尋。
慶育は順位には関係ないので、実質は9位10位を争うグループという事になる。
8位を走る立命館大とは3分以上の差があるが三人の力からして、追えない差ではない。
むしろ、今の順位が11位以下であるのなら、スタートから全力で飛ばすべきであろう。
何しろ、ここは10区。アンカー区間なのだ。もう出し惜しみをしている局面ではない。

だが、指原も高橋も何が今一番優先すべきかを「指導者」として理解できていた。
ここはリスクを冒して前に上がる事ではない。ファースト・プライオリティはあくまでも「シード権死守」だ。順位を落とさなければそれは叶う。

「キャップ!後ろは振り向かなくていいから。前見て!」
「華怜。きょろきょろしないの!フォーム乱れてるよ?」
拡声器のマイクへ声を出したのは、二人同時だった。
何かがおかしい。明らかに何かに気を取られた走りに見える。集中力を欠いている?
そんなはずはない。自分たちがどれだけ重いミッションを抱えて走ってるか、わからないような子じゃない。しかし、明らかに何かに気を取られている。

「まったく…何をびびってるんだか…」
高橋が大きなため息をついた。
「ビビってる?」
指原が思わず聞いた。たかみなさん…わかってないんだろうか?
「ああ。正直、ここから3位以内とか目指すって訳にはいかんだろ?だったら、腹を据えて走ってればいいんだ。少なくともシードを失うなんて事には…」
「たかみなさん、気づいてないんですか?」

9区では私も気づかなかった。後ろから秋英が追い上げてきてるなんて。
惚けていた…訳ではないだろうけど、こんな車の中に閉じ込められているからだろうか?
感覚が鈍くなってきている。
だから、監督車の窓を全開にしたんだ。少しでも外の「空気」を感じたかったから。

「気づくって、何をだよ?」

三人の中で一人だけ落ち着いて走ってるのが、慶育の相笠だ。うずうずとした表情をしているが、それは他の二人の落ち着きのなさと明らかに違う。穴井と岩田は意識が後方に向いている。それは、守るべき順位があるから…に他ならない。
穴井も岩田も感じていた。後方からの「熱」を。
そして、指原も。

まだタイム差はある。しかし10区はまだ始まったばかりだ。
燻った火種が大きな炎となる事は十分あり得る話である。

「後ろが来ますよ。」
わざわざ教える必要はなかったのかもしれない。
しかし、指原は高橋にそう言った。
「なに?」
高橋が手元のタブレットに視線を落とした。
そこでは、現在の情報が詳細に得る事が出来るようになっている。

「後ろって…学連選抜の事か?」
「他にはいないでしょ?」

タブレットには12位の学連選抜が3人のグループから飛び出した事を知らせている。
しかし、9区の入山の快走でその差は大きく開いている。
慌ててこちらがリスクを取る必要などない…高橋はそう思っていた。

「普通の選手なら、いいんじゃないですか?スルーしても。」
「どういう事だ?確かに、学連選抜が10位以内に入れば、シード権は一つ減る。しかし…」
「そっちの華怜ちゃんも感じてるはず。ウチのキャップも、確かにヘタレだけど…臆病じゃないですよ。たかみなさんにはピンと来ませんかね?シードの重さってものが。」

高橋は指原の表情に思わず息を呑んだ。

誰だ?
誰なんだ。

学連選抜の10区…

「難波商科大の…木下百花…?そうか…あの子だったか…」
「たかみなさん、知ってるんですか?」
「ああ。知ってるも何も。どれだけあの子をスカウトしようと苦心したことか。」
「へー。天下の秋英が欲しがるくらいだ。さぞ、安定した力を持ってるんですね。」
「違う。」
「違うって?」

高橋が自分の席のほうの窓を全開にした。
拡声器ではなく地声を張り上げる。
「華怜!ペースアップだ!前との差は3分!シード守ろうとか小さい事考えるな。前を追え!いいな!」

「どうしたんですか?急に。そりゃ、私だって、危険を感じてますけど…」
「指原。お前…もう一回走れよ。」
「はい?なんか、話ずれてません?」
「お前は、やっぱりまだランナーなんだよ。いいじゃないか。もう細かい事をウダウダ考えなくたって。」
「だから。たかみなさん。話そらさないでくださいって。そんなに力あるんですか?木下って。」

指原の声が大きくなった。
秋英が欲しがるくらいだ。きっと警戒すべき相手なんだろう。

「化けモノだよ。」
「はい?化けモノって?」
「何をしでかすかわからない。だから…欲しかったんだ。」

指原は高橋の顔をまじまじと見た。

笑ってる…楽しみで仕方ない…そんな顔だ。

指原も監督車から身を乗り出した。
すでに三人のペースは上がり始めている。

98.

最後のランナーが襷を繋いでもう5分以上が経過した。
秋元真夏は、係員が乃木坂大学の名前を呼ぶ前から、スタートラインで9区の方を見て立ち続けていた。
鶴見の中継所には徐々に悲壮感が漂い始める。電光掲示では上段に現在のスタートからの通算時間、下段にはトップとのタイム差が表示されている。表示は17分から18分に変わろうとしていた。

秋元は目を閉じた。掲示されるタイム差を見ないようにするため…ではない。
トップはとうに通過した。シード権争いの白熱ぶりも、ここにはもう残っていない。
今、観衆の注目は間違いなくここに集まっている。


「ね?美味しいでしょ?」
遠くから声が聞こえたような気がして、秋元は苦笑した。
「注目されるの好きだもんね。きゃー、どうしよう?なんて言いながらさ。」
白石麻衣の声だ。

「なに?御三家さまの一角が、裏エース区間で沈んでいて、そんな言い訳するんですかあ?」
秋元が小さくつぶやいた。口元には笑みさえ浮かんでいる。

ミス・パーフェクト。
トラックからロードまで。中距離からハーフの距離まで安定した力を発揮する白石の事は、チームメイトだけでなくコーチの日村、玲奈や監督の設楽まで一目置いていた。
そんな白石に唯一突っ込みを入れるのが秋元だった。しかも、実に他愛もない事で。
「白石さんはぁ、汗をかいて髪型が乱れるのが嫌だから、スプリントが苦手なんですよねえ?」
「いいなあ。エネルギー効率がいいバディは。私がそんなに食べたら、もー太っちゃって大変。」
無鉄砲な秋元の突っ込みに、周りがヒヤヒヤする事も多かった。

「は?」
白石の顔つきが険しくなる。
周囲の空気が凍りつく。
「きゃー、こわいぃぃぃぃ。」
しかし、秋元がそうやって無邪気に笑っては、大げさに逃げる仕草をみせるのだった。


たぶん、白石に気を使ってとか、チームの雰囲気を推し量って…などといった気持ちは秋元にはなかったのだろう。だが、ある時期から白石に変化がおきた。抜群の走力を見せながら、競り合いになるとあっさり退いてしまうという事がなくなった。最後の最後まで粘る泥臭い走りができるようになった。
「へー。やれば出来るんだあ?」
そうやって、また毒づく秋元につんとした笑顔で応える。
白石を変えた…いや、本来持っていた力を顕在化させたのは、秋元だといっても良かった。


だから…

全部わかってる。あんなになりながらも、必死に前を向いている事を。
きっと、私には絶対に弱気な顔を見せたくないはずなんだ。
でも、ちゃんとわかってるんだから。
どんなに今、辛い思いをしてるかも。

ね?あと2分切ったよ。
そろそろ、あの角から姿見せなきゃ…襷が途切れちゃうよ?
そしたら、私…泣きながらスタートするからね?
みんなが、同情してくれる。私も、白石さんも悲劇のヒロインってトコ。

イヤでしょ?
見せてくれるよね?最後の最後、力を振り絞って襷を繋ぐ。
そしたら…主役は私じゃなくなる。

ね?早く。
白石麻衣でしょ?白石麻衣なら…間に合うよね?

秋元が目を開いた。

見えた。
ほらね。もう限界なのに、ダッシュしてる。
絶対に主役は譲らない…そんな顔してる。
それでなきゃ。それでなきゃ、私の尊敬する白石麻衣じゃない。


「残り100メートル。残りは…30秒を切った。乃木坂大の紫の襷。それを繋ぐために…白石が最後の力を振り絞ります。明らかにその走りには異変があります。しかししかし…歯を食いしばり目を見開いて。手には紫の襷。そして…その襷が10区の秋元真夏へ繋がります。今…確かに、最後の襷リレー!鶴見中継所、繰上げはありません。全校が時間内に襷を繋ぎました!残り4秒。実にきわどい…しかし、この4秒は余りにも貴重な4秒です!」

「お願いね。」
「わかってますって。」

何を託して、何を託されたのか…
短い言葉だった。
しかし、確かに二人は同じ思いを共有した。

思いの全て。
それが込められるのが、箱根の襷だ。




9区 鶴見中継所 順位 (丸数字は区間個人順位)


1位 四ツ谷大学     向井地美音②   -
2位 聖ヴィーナス大学  川本紗矢③    +0:04
3位 栄京女子大学    二村春香④    +0:22

9番目 慶育大学     飯野雅      +12:11
9位 博多大学      松岡菜摘⑨    +12:15
10位 秋英学園大学    入山杏奈①    +12:20 ※区間新記録

19位 乃木坂大学     白石麻衣⑲    +19:56

次回更新

いつもありがとうございます(*^-^*)

次回更新ですが、恐らく月曜になるかと。
諸々の事情デス。ごめんなさい。

でも、ちゃんと戻ってきますので~


ではでは。

97.

鶴見中継所の緊張感と高揚感がいったん収まった。
向井地と川本。四ツ谷大と聖ヴィーナスの息詰まるようなトップ争いから18秒だけ遅れて、栄京大の二村が襷をアンカーの山田に引き継いだ。

その後は大きく間が空いている。中継所の観衆は次に来るランナーよりも、モニターに映し出されるシーンに息を呑んだ。

乃木坂大の白石を襲ったアクシデント。
そして、激しさを増すシード権争い。
モニターはその様子を頻繁に切り替えて伝えていた。

博多大の松岡菜摘と慶育大の飯野は、9区の後半をほぼ並走したまま終えようとしていた。
8位で襷を受けた松岡は、順位を二つ落としていた。10位。
いったんは6位まで順位を上げたものの、その後は思うようにペースが上がらない。
明らかに精彩を欠いていた。
慶育の飯野も、8区下口の快走を受けて繰上げの襷を受け取ったものの、その勢いを自分のものにできないままここまで来ていた。前から落ちてきた松岡を吸収したのか、されたのか…



よくやった…
監督車の指原は胸を撫で下ろした。ほおっと大きく息をつく。
ここまで来ればなんとか大丈夫だ…

松岡の大きなストライドが徐々に小さくなっていく事に気づいたのは7キロ過ぎだった。
裏権太の細かいアップダウンにリズムが乱れてしまった事が、松岡の走りそのものを狂わせた。
頭の中で刻むラップと実際の差がどんどん広がっていく。
暑さの中で混乱した松岡は、ちょっとしたパニック状態に陥ろうとしていた。

「歩け!歩くの、なつ。いいから、止まって!」
指原は監督車を飛び降りて、松岡に大きな声をかけた。
このままじゃ、下手したら途中棄権だ。それくらい、松岡の状態は悪かった。
襷が途切れてしまえば、シード権どころの騒ぎじゃなくなる。
大丈夫。ゆっくりペースで…シード権内で襷を渡せればそれでいい。

あとは…キャップが何とかしてくれるだろう。

「1分41秒です。」
監督車には様々な情報が入ってくる。
ツール・ド・フランスのように、走ってる選手がインカムをつけている訳ではないが、その時々で必要な情報を欠く事は現代の箱根駅伝ではありえない。もっとも、その情報を選手に伝えるかどうかの判断の方が何倍も難しいのだが。

「1分41秒?」
指原は助手席に座っていた運営スタッフに聞き直した。
「前とそんなに差がついたの?残り5キロの定点でのタイム差ですよね?」
松岡のペースは確かに落ちている。しかし、慶育の飯野と並走を始めては安定してラップを刻んでいたはずだ。2分近い差がついた?前はそんなに飛ばしているのか?

「いえ…前じゃありません。後ろです。」
「え?後ろ?いや…むしろ後ろの方がもっと空いてたはずでしょ?」

博多大の指原が監督として…シード権を死守する事が、今一番大きな命題とされる指揮官が知りたい情報はシードを守るための情報だ。今は10位。ここから一つでも順位を落とすという事…それは、すなわちシード落ちを意味する。後ろとのタイム差は神経質なほど気にしていなくてはならなかった。しかし…戸塚ではその差が3分以上あったはずだ。松岡のトラブルで順位を落としたことで、抜き去られた前ばかりに気を取られていた。


でも…後ろにそんなに急追してくるような選手は…
指原は頭を振った。自分の甘い考えを打ち払うように。

いたわ…
一人だけ。


汗が頬を伝う。何度拭っても流れる汗が止まる事はなかった。
真冬の箱根では、そんなに頻繁に給水する事はこれまでの3年間ではなかった。
しかし、今回はそうはいかない。
定点での給水以外にも、監督車から高橋みなみが何度も降りてきては、走って水を渡してくれる。
ペースを乱したくないから、ストライドを緩めたりはしない。そのたびに、高橋は息が完全にあがるまでダッシュをしなくてはならなかった。

入山杏奈に与えられたニックネームは、どれも「冷たい」というキーワードがくっついていた。
クールビューティ。
アイスドール。
氷結のランナー。
表情を変えず、いつもクールに走る。
それが、彼女のスタイルだった。

いちいち訂正をするのが面倒だった。
だったら、与えられたイメージのまま走ってたほうが楽だ。
むしろ、「いかにも燃えてます」ってアピールするのってカッコ悪いって思ってたから。

でも、この1年は、そんな自分を変えてしまう程長く…そして苦しかった。
エントリーされた事が苦痛に思えた。最初は。
でも、昨日川栄の走りを見て思った。ああ…私も早く走りたい。
そして、今日走っててわかった。

こんな風に燃えてみるのも、悪くない。
いや、むしろ…楽しい。

スタミナは完全に切れていた。
陽炎のようなモヤが目の前を揺れている。
きっと気温が上がったせいじゃないだろう…
入山は、軽く手で高橋に合図を送った。

おいおい…残りもう3キロないんだぞ?
もう要らないって安心してたわ…
高橋は車を止めてもらって、監督車から飛び降りた。
何度目かになるダッシュを入山の方に向かってかけた。

二本持っていたペットボトル。最初の一本は受け取り損ねた。
もう握力がなかったのだろう。
高橋は走りながらボトルのキャップを外し、それを握りつぶしながら二本目を入山に差し出した。今度は上手く渡った。入山はすぐにそのボトルの水を頭からかぶった。

無造作に結んだ髪までが水で濡れる。冷たい水の感覚のおかげで、まるで生き返ったようだ。
入山は高橋に向かって、にこっと微笑みぐっと前に出た。
高橋がスピードを緩めた訳ではない。入山がペースを上げたのだ。

観衆が異様な盛り上がりを見せている場所を通り過ぎた。
あのユニフォームは…乃木坂だ。
何かトラブルなのか?
それを気にする余裕は、すでになかった。

あの街路樹の切れ目を左に曲がれば…中継所だ。
華怜が待ってる。
10位だ。コレを守れば…
シードは死守できる。


『慶育大の飯野が9番目に襷を繋ぎました。疲れました、1年生の飯野。3年生の相笠萌へ。途中棄権の慶育大。10区は自校の襷で走る事を許されています。しかし…しかし、ここも繰り上げ襷のまま走ります。まるで、自ら十字架を背負うかのように。しかし…見事です。ここまで誰一人として、失意の走りではありません。見事に、明日へと繋がる走りを見せています。そして、そのすぐあとに博多大の松岡。9位です。9位。戸塚よりは順位を一つ落としましたが、それでもシード権内。9位で、今、襷が繋がりました。そして…鶴見の中継所に大声援が起きます。なんと…なんと…なんと!秋英の入山杏奈!入山の姿が見えます。残り200メートル。戸塚では4分の差がありました。残り…100メートル。すごい表情だ!ものすごい表情だ。アイス・ドール入山杏奈が、初めて見せる必死の形相!』

アナウンサーの絶叫が響く。
もう声は枯れている。
プロのアナウンサーとしては失格なのだろう。
しかし…この場面を少しでもリアルに伝えるには…叫ぶ以外にない。
選手と同じように、彼も心を奮わされているのだから。

『今、襷が繋がりました。その場に倒れこむ入山。記録は?記録は…いや、これは確認するまでもない。圧倒的な区間新記録!かつて、あの栄京女子大の松井珠理奈が、学連選抜として走って叩き出した記録を大きく上回りました!」


大きく揺れる肩。荒い息。
目元は潤み、頬は紅潮して真っ赤だ。

補助員に入った市川愛美は、しばらく入山に声すらかける事ができなかった。
呆然と脇に立ちすくんだままだ。
そんな市川に気づき、入山がゆっくりと立ち上がった。

「くっそう…」
「え?あんにんさん、区間新ですよ?あの松井珠理奈さんの記録を塗り替えたんですよ?」
「区間新?そうなんだ…。でも、そんな事より…華怜に貯金作ってやれなかった…」
市川は入山の肩を抱きながら目を丸くした。

これが、エースの覚悟なのか。エースの姿勢なのか。
私も、いつか…こんな風になれるんだろうか?


96.

ラストスパート。

良く聞かれるこの言葉。
駅伝やマラソンを走る選手もトラックの長距離の選手も、実は特別な練習をする事はほとんどない。
もちろん、長い距離を走った後、最後の数百メートルを全力で走る事もあるし、インターバルトレーニングでは心拍数をMAX域まで追い込んで走るなど、似たような状況でトレーニングを行う事は少なくない。
しかし、それは決してラストのスピードを磨く事を主目的にしたものではない。

箱根に出場するクラスの選手になると、1キロを3分前後…男子だと3分を軽く切ってくる。
良く沿道を自転車で追いかけようとする者がいるが、必死にペダルを漕いでもなかなか追いつけないというシーンを良くテレビで目にするだろう。
箱根では、そのスピードを20キロ以上に渡って維持しなくてはならない。
長距離選手は、この通常の走りを「有酸素運動」としてこなしている。血液中の酸素をエネルギー源とした運動だ。ラストスパートは、「無酸素運動」だ。エネルギー源は血液中の「糖質」に変わる。酸素と違って、糖質は運動中に自己供給する事ができない。燃え尽きてしまえば、そこで「ガス欠」となってしまう。
長距離選手の身体は、まさに「ハイブリッドエンジン」を搭載しているのだ。

向井地美音のハイブリッド・エンジンは、三人の中で最も小さな身体に積まれた高性能エンジンだった。しかし、そのエンジンを回すエネルギーは「気力」だ。
気合・根性…今の若い世代が最も忌み嫌う単語だ。

行ける。
勝てる。

最後の最後、私はちゃんと最後の一歩を前に出す準備ができていた。
なぜか、この子はずっと私に特別な感情をぶつけてきていた。
敵意?
いや…違う。敵意とは少し違う。
でも、なんとなくわかった。この子は違う。何かが違う。
最後の私の…この乾坤一擲のスパートを潰そう…
待ってたんだ。きっと。

5秒…10秒…
一度は完全に振り切った。周りは皆、そう思っただろう。
しかし、向井地は感じていた。
来る。もう一度。

まだだ。まだ、勝負はついていない。
そう、向井地は感じていた。
迫り来る川本紗矢の足音は、まだ遠ざかってはいない。




とうとうこの日が来た。
まさか、入学して最初の年にこんな場面に恵まれるなんて思いもしていなかった。
しかも、相手は向井地美音。
さっきの反応だと、私の事なんて覚えてないんだろうな。
無理もない。もう4年も前の話だ。

父の転勤で北海道へ引っ越す事が決まっても、私は東京に残りたかった。
でも、まだ中学生。進学先の高校も、わざわざ単身東京に残る程、何かをしたいという訳でもなかった。単に寒いトコ…そして田舎は嫌だ。そんな事とても言えなかった。
そんな時だった、隣の中学の陸上部の子が四ツ谷大付属高校のセレクションを受験するって話を聞いたのは。

あの子が?
ソフトボール部に在籍していた川本だが、校内のマラソン大会では敵無しだった。
地元の駅伝大会に駆り出されて出場した際に、その子とは同走したが、全然私の方が速かった。あの子がセレクション受けれるなら、私の方が…四ツ谷大付属は強豪だ。全国から選手が集まっているからちゃんと寮だってある。

そんなきっかけで受験したセレクション。
もちろん、結果は不合格だった。
「やっぱ、本格的に走ってきたサラブレッドは違うね。」
川本は、レベルの高いセレクションに半ば呆れたように、顔見知りの隣の中学の子に向かって呟いた。付き添いの親の姿も見える。きっと、小さなころから英才教育で、走る事だけを叩き込まれたエリートたちなんだろう…

「でも…あの子。陸上はまったくの初心者らしいよ?」
指差された先には、ひときわ小さな子がいた。
え?小学生じゃないの?
川本はそう思った。
「なんか、水泳の有名選手だったみたい。身体が大きくなれなくて駄目になっちゃったみたいだよ?」


それが、向井地美音との出会いだった。
その後の3年間。北海道に行った川本は、当然のごとく向井地とは交流を得る事はなかった。
しかし…ソフトボールからハンドボールに種目を変えても、心の中にはいつもあのセレクションでの、向井地の背中だった。
あんなに小さな背中から放たれるオーラ…凄かった…

聖ヴィーナスへは一般受験で入った。幸い、聖ヴィーナスの偏差値は、高校時代ハンドボールに明け暮れて勉強など眼中になかった川本にとって、極めて優しいものだった。
もちろんハンドボールの強豪校からの誘いもあった。しかし、川本は、ハンドボール部のない聖ヴィーナスで入学式の直後、陸上部への入部届けを提出した。

先にスパートをかけた向井地の背中。
一度は遠くなった背中が、再び近づいてくる。
中継所へのアプローチへと姿が消えた。
斜めに入り込むように側道へと入っていく。すぐ後に、川本も続いた。

計算どおり。
ここだ…ここで一気に…

その時だった。
川本は自分の目を疑った。

目の前で…向井地が羽を広げ…翔んだのだ。
躍動とか、そんな簡単な言葉では説明がつかない。
間違いなく、向井地の背中には羽があった。
自分には無い…。



あの時とは違う。
ひょっとしたら、あの時も前に出ようと思えば出れたのかもしれない。
でも、自分が向井地の前を走るイメージがまったく出来なかった。
今は違う。
鶴見の中継所へは、街路樹で区切られた側道を200m程走った先にある。
その側道へ入ってずぐだ。外側から回り込むように前に出る。
一瞬、彼女の顔を見るんだ。そして、ここでか~って悔しそうな表情を…一瞬だけ見たら、あとは後ろを振り返らない。ラスト…涼花さんに襷を渡す直前に軽くガッツポーズをする。

そこまでのイメージは出来上がっている。


僅か4秒とはいえ、負けは負けだ。
またしても、向井地の前に敗れ去った…
屈辱の思いのはずの、川本は10区・アンカーの大島涼花に襷を渡す瞬間、ガッツポーズをした。自然と浮かんできた笑顔もあった。
悔しい…
だけど、堪らない。
溢れてくる感情を抑えきれずに、川本は笑った。
彼女は、困難を前に胸躍る…一流のアスリートが必ず持ち合わせるという、その資質を得ていたのだ。


あと3年も…あの背中を追いかけていけるんだ。
まだまだ。
私はもっともっと速くなれる。あの背中を追いかけている限り。
そして…いつかは必ず、あの背中を抜いてみせる。


「す…すごいね…その小さな身体のドコにあんな力を残してたのよ?」
肩にかけられたタオルが全身を優しく包んでくれているような気がした。
ここまで…全身の力が抜けるほど、力を出し切れたことはなかった。
それでも、届かなかった。
今日は負けだ。川本は、向井地に手を差し出した。
「いやー。後ろからのプレッシャーきつかったからさあ。最後は…全然覚えてないや。」
差し出された手を両手で包むように握り返しながら、向井地が笑う。
屈託の無い笑顔とはこの事だろう。

「でも…強くなったね。すっごい上からな言い方ごめんね。中学の時は、今日みたいな迫力感じなかったもん。今日は…正直、駄目かと思った。」
「中学?え?」
「だって、ほら。セレクションのとき、一緒に走ったじゃない?四ツ谷付属の。」
「だって…あの時一回だけだよ?一緒に走ったの。」
「うーん。直感かな?あ、野生のカンっての?きっとこの子は、私のライバルになるって。そう思った。当たってたみたいね。嬉しい。また一緒に走れて。」
向井地が握った手に一段と力を込めた。
思わず、川本は頬が熱くなるような気がした。


ライバルか…
まいったな…。もっともっと鍛えなきゃ。


95.

「足首とか脹脛とか…違うな。そんな一時的なものじゃない。きっと腰か…股関節じゃないかな。今日急に痛めた云々じゃないよ。」
鶴見の中継所でテレビモニターを凝視しながら、高島祐利奈が誰に話しかけるでもなく呟いた。
既にウインドブレーカーを脱いでシングレット姿だ。
画面の左肩では午後の天気予報が表示されている。
東京地方の気温が、早くも夏日直前まで上がる事を報じていた。

「あのさ…高島。アンタ、今から自分が走るって事わかってる?」
「うぉっ?何?茂木。いるならいるって言ってよ。」
「っていうか、さっきからずっといるじゃん。甲斐甲斐しく世話やいてやってるの、誰だと思ってるんだよ。」
「あっはっはっ。ごめんごめん。なんか緊張しちゃっててさ。」
「緊張?どこが?ったく最後まで、どっか世話やかすんだからさ…」

本当に最後なのか…
信じられないのは、茂木だけじゃなかった。


四ツ谷大付属では決してエース格の存在じゃなかった。

だからこそ、高島は進学先として栄京女子大を選ぼう…一度はそう決めていた。
慣れ親しんだ環境よりも、新たな刺激を求めて。そうする事で自分の殻を破れるのでは…そう考えたからだ。しかし、その希望は叶えられなかった。
高島の父親は、都内でも屈指の私立総合病院の院長だ。二次の救急指定を受ける程の大病院だったが、健全な経営は高島家による家族経営の力によるものだ。

「走るのは構わない。本格的にやる事を止めようとは決してしない。しかし…高島家の者として、医学の道を意識して走る事。それが条件だ。」

大学に進む際、競技を続ける事に大反対の母を説き伏せせてくれた父が出した条件だ。
四ツ谷大には、本学キャンパスに程近い御茶ノ水に医学部を持っている。
栄京女子にはその環境がない。
高島は、四ツ谷大への進学を決めた。

3年が終わった段階での転部。そのためには教養課程で常にトップクラスの成績を残す必要がある。
四ツ谷大はスポーツだけの所謂「体育学校」ではない。一般受験の偏差値は早慶にこそ及ばないものの、特に理系のレベルは極めて高かった。
精鋭ぞろいの四ツ谷大で3年生にして、10区の重責を与えられるだけの鍛錬をしながら、高島は学業も決して疎かにしなかった。

そして…この箱根を最後に医学部へと転部。
同時に、スポーツ医学を学ぶために、UCLAへの留学過程を選択する事になっていた。
競技生活は到底続けられるものではない。


「茂木。風邪は?世話がやけるのはアンタのほうだよ。せっかく憧れの箱根のメンバーに選ばれたって言うのにさ。アンタみたいな自己管理がなってない選手を無くすために、私はスポーツ医学の道を選ぼうと思ったんだからね?」
「うるさい。ほんと、最後まで口が減らないんだから。」

「まった喧嘩してるう。仲良くしないとぉ。」
やはり既にシングレットシャツ姿になっていた、栄京の山田みずほが二人に声をかけた。
この後の10区にエントリーされている。

「みずほ!どこ行ってるかと思えば…お、ゆーりん。」
「宮前しゃーん。みずほちゃんの付き添い?2区、カッコよかったよ~」
「ありがと…っていうか、アンタたち、これから優勝をかけて戦うんだよ?そのあたり、ちゃんとわかってるのかなあ?」
山田みずほの補助員として、昨日2区を走った宮前杏実が両手に色んなものを抱えて現れた。
グランドコートまで着込んでいるせいで汗びっしょりだ。

宮前と山田とは、高校の時に栄京大で行われた体験合宿に参加して以来の付き合いだった。
高島が栄京への進学を断念してからも、大会等で顔を合わせる時には親しく会話を交わしたし、普段からメールのやり取りはほぼ毎日であった。
ほんわかとして、いつも柔らかな笑顔で話す山田。口は悪いが、竹を割ったような性格の宮前。茂木とは似てる部分が多かった。二村や古畑…退部してしまったが藤本や菅達とも同じ学年の気の合う、仲間たちだ。

「ねえ。最初で…最後なんだね。」
山田が少しだけ表情を曇らせて言った。
今日を最後のレースにする事は、山田にも宮前にも伝えてある。
「みずほ。だからって花を持たせようなんて思うんじゃねーよ?」
「もう。わかってるって。」

「宮前しゃん…みずほちゃん…あのね。」
高島が何かを言いかけたとき、中継所に押しかけた観客から一段と大きな声が上がった。
モニターで、向井地がスパートをかけ聖ヴィーナスの川本を振り切ろうとしているシーンが大写しになったからだ。

「行こうか。はるたむも最後は粘ってくるでしょ。きっと…10区はしんどい思いする事になりそうだよ?」
「ゆーりん…今…?」
「うん?どした?」
「いや。何でもない。」

さっき何をいいかけたの?
そう聞きかけて山田は、その言葉を胸の奥に引っ込めた。

最後だから…ゆーりんの最後だから、私は絶対に勝つからね。
もう陸上はいいや。みずほには敵わないやって思い知らせてあげるんだから。
ゆーりんは、まるで手品師みたいだった。
気弱な私をいっつも励ましてくれた。
同級生が次々に大舞台に抜擢されるのに、私にはなかなか順番が回ってこなかった。
でも、そんな時には必ずメールをくれた。
私はみずほちゃんの走りが大好きだよって。
みずほちゃんが、悔しいとき、私も悔しい。
みずほちゃんが、嬉しいとき、私も嬉しいって。

だから。
今の私がいるのは、ゆーりんのおかげ。
チームは離れてても。襷の色は違っても。

でもね。
だから、今日は私が勝つよ。
そして、覚えててもらうんだ。

それが、ゆーりんに…
大切な友達…仲間への最高の贈り物だと思うから。





94.

「まいやん…どうした…の?」
コース上に飛び出した松村がこっちに向かって歩いてくる白石の方へ駆け出した。
すぐに係員に取り押さえられる。無理もない、今の松村は突然コース上に現れた「侵入者」だ。
警察に突き出されても止むを得ないレベルの「暴挙」といってもいい。

その姿を見て、すぐに設楽が声をかける。
「おい、松村。そのリュックに刺さってるポカリを白石に渡してくれ。係員さん、すまない。その子はウチの補助員だ。給水の為の伴奏なら許されてるはずだよな?俺は水しかもってないんだよ。」
その声で、松村の両腕を押さえていた係員がぱっと離れた。
松村が再び駆け出す。

「まいやん?痛いん?どっか痛めた?大丈夫なん?」
「ちょっと…なんでココにいるのよ?ちゃんと見てて…って言ったでしょ?」
「見とったわ!見とったから…慌ててココに来たんや!」
「ちっ…こんなカッコ悪いトコ見られるとは…」

白石は笑った。額には普段見ないような種類の汗が浮いている。
この暑さの中、顔が真っ青だ。

「どこ?どこが痛い?」
「触らないで!」
白石の大声に、思わず松村がびくんとなった。
補給の為にボトルを渡すところまではいい。しかし、下手に手を差し伸べるとその時点で棄権とジャッジされてしまう。
ただ…これ以上走るのは無理だ。残りは3キロ。しかし、今の白石は脚を引きずっている…というより、明らかに深刻なダメージに全身が襲われているように見える。今すぐ止めて担架に乗せて病院に直行しなくてはならない…と判断するほうが適切だろう。
なぜ…なぜ、設楽は止めないのだ?このトラブルになって、かれこれ10分以上は経っているはずだ。普段の設楽なら…いや、まともな指導者なら選手がなんと言っても無理やり止めさせるべきのトラブルだ。

「沙友理。いいから触らないであげて。」
低いトーンの声が背後から聞こえてきた。
振り向かなくても声の主はわかった。しかし、松村は振り向いた。
なぜ…?なぜ、アナタまでココにいるん?今は…トップ争いしてる自分のトコの選手放っておいて…玲奈さん、なんでアナタが?

玲奈には、同じ経験があった。
ラストランとなった4年生の時の箱根。玲奈は7区を走った。
股関節の故障を抱えたままの出場だった。
何とか誤魔化しながらも、最後に力尽きた。
それでも、襷をつないだ。
あのブレーキが無ければ優勝できていたかもしれない。
でも…自分の想いを受け継いでくれた。その想いがあったからこそ、今の自分がある。
白石の気持ちを一番理解できているのが、玲奈だった。


「もう…みんなで大げさなんだから。」
白石は笑顔のまま前へ進んでいた。ゆっくりと…ゆっくりと。
「無理やって。なあ、監督。玲奈コーチ。ええやないですか?ここで棄権したって。いくら箱根言うても、まいやんの将来棒に振ってまで襷繋げる必要なんてないはずと違いますか?玲奈さん!何とか言うてやってください!」

松村は今にも白石に飛び掛らんとしていた。
もういい…誰も止めないなら、私が止めてやる。
こんなところで…こんな事で、大切な私の目標を…何よりも大切な友達を失わす訳にはいかない。

「こうなる事は覚悟の上だった…んだよ。さゆりん。」
「覚悟の上って…何言うとるん?だいたい、まいやん、今まで怪我らしい怪我なんて…」

松村の脳裏に今までの情景が瞬時に浮かんだ。
走りはじめる前…走り終わった後…お風呂上り、普段テレビを見ながら…
いつも股関節を丁寧に…丁寧すぎるくらいストレッチしている白石の姿。
「アンタ待ってたら、日が暮れるわ。夜が明けるわ。」
いつも、そんな風に憎まれ口を叩きたくなるほど…丁寧だった。

「嘘や…まいやん、今まで一回だって怪我とか故障とか…言った事ないやん…」
「嘘…つくの上手いでしょ?」

馬鹿だ。
なんて、私は馬鹿なんだ。

私はいつも「あの子には敵わない」なんて弱音ばっか吐いていた。
華麗なフォームも、力強いストライドも、抜群の安定感も、圧倒的な瞬発力も…
すべては、故障を隠しながら手に入れた努力の賜物なんじゃないか。
それなのに、私は自分の弱さを棚に上げて、自分の才能の無さのせいにしてた…
私が一番真似しなくちゃいけないのは…手に入れなきゃいけなかったのは、この「強さ」だったんだ。

シード争いを繰り広げる選手たちが脇を通過していく。
途中棄権の慶育も、大きく遅れた博多大も…それに追いすがっていく秋英も。
白石の方に目もくれない。
無視してるのではない。一歩間違えば、自分もああなってしまっていたかもしれない。
駅伝とは、そんなリスクと隣り合わせなのだから。

「…まいやん…あと2キロや。こっからなら這ってでもいけるな?」
松村が白石からポカリのペットボトルを受け取った。
きっと睨み付けるような表情で前を向く。この先には、鶴見の中継所がある。
「松井。ありがとう。もう行ってくれ。」
「はい。わかりました。沙友理。麻衣。今度ゆっくり話しよう。」

運営車に玲奈が乗り込んだ。設楽は、白石と松村の後ろを歩き出す。
「監督。車に戻ってください。ちょっと走りますから。私にとってはジョグペースですけど…監督にはキツいと思うんで。」
「おい、走らなくてもいい。あと2キロだ。このまま歩いていこうや。」
「駄目ですよ。だって、いらいらしてますよ。あの子が。」
「秋元か…」
設楽が頭を掻いた。確かに、イライラしながら…いや、違うな不安そうな顔で…泣きながらかもしれない。白石の到着を待ちわびる秋元真夏の顔が思い浮かぶ。
「いや…案外、ニヤニヤしてるかもしれんで?」
「そうかもね。注目浴びて美味しいとか言って。」
「急がんと。繰上げスタートなんてさせたら、一生何かと言われるかもしれへん。」

もうトップは襷を繋いでしまっただろうか?
復路は、トップが通過して20分経ったら繰り上げスタートの措置が取られる。

それはそれでドラマチックだ。きっと、秋元はほくそ笑んでスタートを切るだろう。

絶対にさせねーよ。まなったん。
白石が歯を食いしばった。脚を一歩一歩前へ…前へ。




93.

戸塚の中継所からタクシーを拾って大船駅まで。松村沙友理はそこから東海道線の電車に乗った。
一番近いのは東戸塚だが、まだ交通規制が敷かれている。大船に戻ったほうが時間的には早い。
「一緒に行けばいいじゃん?」
8区を走った桜井と一緒なら、駅まで運営車で行ける。
「ああ…私はいいよ。補助員はひめたんなんだから。」
そう言ったのは、もちろん遠慮もあった。一人で白石の事を考えたかったという事もある。
大船から東京駅まで行って歩いて大手町まで。
ゴールには間に合うだろう。その間、ゆっくりと先ほどの白石の姿を頭の中で思い起こしたかった。


電車は空いていた。7人がけのベンチシートには2人しか乗客がいない。
窓からは暖かな春の日差しが差し込んでくる。
松村はそっと目を閉じた。

すごかった。速い…というよりも、強い。
きっと、あの強さに私は憧れ…そして畏れたんだ。
たぶん、まいやんはあのまま圧倒的な走りで9区を終えるんだろう。
区間新…くらいは軽く出そうな感じだった。
10区…も、まなったんがいる。先頭で来て、あの子が張り切らないわけがない。
ましてや、大観衆の10区だ。観客が多ければ多いほど力を出す子だ。




「おいおい…これ、やばくね?」
「あー、こうなったらもう無理だよ。止めてやったほうがいいって。」
「故障?前半飛ばしすぎ?おい、音声出せよ。何がどうなってるかわからねーよ。」

うるさいなあ…
電車の中でワンセグ見るのはいいけど…

ちょっとウトウトしたのかもしれない。
松村は目を開けて、向かい側に3人並んで座っている同じ年くらいの男性3人組の方を見た。
結構目つきが悪くなってる事は自分でもわかっていた。

「あー。まだ残り5キロくらいあるんだろ?慶育に続いて乃木坂もかあ。」
「今年の箱根はきっついよなあ。なあ、やっぱ暑さのせいか?」

もう一度目を閉じようとした松村が、弾けるように席を立った。
自分の携帯を見る事なんて頭に浮かばなかった。
男たちの前に立ちはだかり、手を差し出す。
男たちは、一瞬何の事かわからず顔を見合わせたが、松村の鬼気迫る表情に慌てて自分たちが見ていた携帯を差し出した。

奪い取るようにしてそれを受け取った松村が、画面をにらみつける。
音量を上げた。社内にアナウンサーの絶叫が響く。

「あーっと…やはり駄目です。一度は走り出した白石ですが、再び歩き始めました。これは…瀬古さん、これはやはりどこか痛めてるんでしょうか?」
「そうですね。脱水症状…という感じではありませんね。表情はしっかりしています。これは…痛みを耐えている顔でしょう。」
「先ほど、横浜駅を通過する時に瀬古さんが指摘された所でしょうか?一瞬表情が曇ったというか、歪んだというか…」

アナウンサーと解説者が懸命にこの事態が引き起こされた原因について推理を深めていた。

故障?
そんな事があるのか?
いや、あるはずがない。いつもと同じ…いつも以上に綺麗なフォームだった。
決して無理なんかしていない。リラックスして、それでいて緊張感があって…
松村が先ほどまでモニター越しに見ていた白石の姿からは、今の姿は想像すらできなかった。

画面の右肩に表示されるキロ表示を見た。
19.8km…
9区は残り3キロ余りである事を知らせている。

「横浜~。横浜に到着します。お出口は左側です。」
社内アナウンスが流れた。
「ありがとな。あ…ごめんな。」
「あ…アンタ。乃木坂の…?」
恐らく松村が着ていたジャージの背中に書かれた大学名でわかったのかもしれない。
男に礼をして、松村は電車から飛び降りた。

京浜東北線に乗り換えた。
次の電車が来るのがひたすら長く感じる。
まるで、田舎のローカル線じゃないか?なんで電車来ないんだよ?
僅か2分の待ち時間が、そう思えるほど長く感じた。

横浜から新子安までは6分だ。
京浜東北の青いラインが走る電車を飛び降りると、松村は走った。
全力だ。混雑する歩道で何度も人にぶつかった。
怒鳴り声を上げる者もいた。それでも構わない。
松村の目線は、走りながらもワンセグに注がれている。

監督車から降りてきた設楽が覗き込むように白石の表情をうかがっている。
その横を、三人の選手が相次いで通りすぎていくのが見えた。
テレビ画面がその手段…トップ争いに切り替わる。白石の姿は、画面右下の小さなワイプの中に収納された。
四ツ谷大の向井地がほんの少しだけ前に出ている。それを追う、聖ヴィーナスの川本。栄京の二村はやや遅れた。前の二人とは10秒の差がある。
終盤を迎えた9区の先頭争い。総合優勝の行方を左右する場面だ。中継がそちらにシフトするのは仕方のない事だと思っても、松村は小さな画面の中で状況を確認し辛くなった事に舌打ちをした。

携帯をポケットに突っ込んだ。
全力で走る。
国道1号線が見えた。沿道では大観衆が旗を打ち振っている。
松村は、その人垣をまるで飛び越えるかのようにして掻き分けた。
係員の制止を振り切って、コースへと飛び出す。

右手を見た。
すぐそこに白石の姿があった。



92.

優勝をめぐる戦い。そして、シード権をめぐる戦い。
秋英の入山杏奈は、そのどちらからも大きく遅れて9区のスタートを切った。

15位。
入山はこんな順位に秋英の名がある事を今まで見た事も聞いた事もなかった。
しかし、これは紛れもない事実だ。
10位に入れなければ、翌年、これも秋英駅伝史上始まって以来の予選会で本戦の出場権を勝ち取らなくてはならなくなる。
自分にとっては、最後の箱根だ。後輩を思う気持ちがないわけではないが、普通に考えれば、シード権争いから4分以上離されたここから、ひっくり返すなんて事はどう考えても「無理」な話だ。
ましてや、自分は故障で長いブランクを抱えている。
今の自分のベストを尽くせば、責められる事なんてないはずなんだ。

しかし、入山は最初の3キロを飛ばしに飛ばして入った。下り基調のコース。それでなくともペースが上がる。
重力に落とされていくような走りになってしまっても、自然とタイムは速くなる。

「頑張れ!頑張れ!」
「行け!行け!」
走っていく方向から色んな声が聞こえてくる。
前とも後ろとも大きく差がついてしまった。順位的にもドラマチックなものではない。
それでも観衆は熱い声を送ってくれる。
箱根では15位っていうのは、あまり意味を持たない順位だ。
中継車もついていないので、定点以外でテレビに一度も映らないって事も少なくない。
それでも、間近に選手の走りを目にすると、声を枯らさずにいられないのだ。

しかし、入山が通りすぎると、沿道からは他の選手が通った時と全く違った反応が起きた。

ほおっというため息のような声。
春どころか、初夏を思わせる陽気の中、吹き抜ける爽やかな涼風。
そして…速い。
選手を一番間近で感じるのは、沿道で声援を送る観衆だ。
そして、その速さをリアルに感じ取れるのも。

「あんにん、大丈夫か?飛ばし過ぎはダメだぞ?」
たかみなさん…何度同じ事言ってるんだろう?
でも…らしいかな。

たかみなさんが、すごい選手だったってイメージは正直私の中にはない。
日本の長距離界を牽引する、前田敦子さんや篠田麻里子さんなんかと、秋英黄金期を作ったメンバーって事はもちろん知っている。でも…私が知っているのは、メガフォンやハンドマイクで怒鳴ってる姿…監督として全幅の信頼を寄せられるたかみなさんの姿だ。
「秋英らしく」
よく、たかみなさんがそう言っていた。
自分なりに何度も何度も考えてみた。なんだろう?秋英らしさって。
名門?強豪?常勝?
常に結果を出し続ける…それが「秋英らしさ」なんじゃないのか?

最上級生になった時に事故にあった。
自らの意思に反して走れない。そんな経験は、今まで一度もなかった。
練習にも顔を出さず、一人リハビリの毎日を過ごした。
このまま走れなくなってもいいのかな…あんな苦しい練習しなくてもいいんだから。

怪我も癒えた。最初は怖かった。
自分の身体が自分の身体じゃないみたいな感覚…

「無理です。私には…責任持てません。」
エントリーが発表された時、私とりっちゃんは、たかみなさんに言った。
レースどころか、記録会にすら出れなかった。今年の学生ランキングに、私達の名前なんてなかった。
最後まで走り切れるかどうか、まったく自信すらなかった。

「あんにんとりっちゃんが出て、ダメなら仕方ないじゃん。二人がいない秋英なんて秋英じゃないしね。」
「いや…ちょっと待ってください。秋英らしくっていうなら…勝たなきゃ意味ないんじゃないですか?」
「意味?あるよ。この半年の二人の苦しさを、私はちゃんと見て来た。なあ、あんにん。勝つことってそんなに大事な事かな?勝つって…誰に?」
「大事に決まってるじゃないですか。勝つって…当たり前の事を何言いだすんですか?」

たかみなさんは笑っていた。
穏やかに笑っていた。

「責任なんて、そんなつまんない事言うなよ。そんなん、私が取るよ。っていうか、取らせてくれよ。監督なんて、それくらいしか仕事がないんだからさ。」
「でも…」
「ずっと次世代を担う存在って言われてプレッシャーを背負ってきたんだ。最後の最後、何とか間に合ったんだ。思う存分、好きに走ってこいよ。なあ、あんにん。私は思うんだよ。いつからウチは名門なんて言われるようになったんだろうなあって。勝つって事なんかより、自分が今持てる全力をぶつけて走る。みんな、最初はそうだったんだよ。いいじゃんか、ビリになっても。そしたら…またイチから出直すだけだよ。」

入山は後ろを振り返った。
たかみなさんの期待に応えなくちゃ。
でも、それは順位を上げる事なんかじゃない。
私の…今まで見せれなかった姿。
それを見てもらわなきゃ。

私は、走るのは大好きなんだ。


前方からハンディカメラを肩に持ったカメラマンを後ろに乗せたバイクが戻ってきた。
入山の前に位置を取る。

その向こう…3人の選手が見えて来た。

3人か。
あれを抜けば…

11位だ。

91.

「すごい…これが…まいやんの全力なん…?」
戸塚の中継所にはまだ熱気の余韻が残っていた。
全てのランナーが通過して、係員が撤収を始めても、設置されたモニターには二重三重の人だかりができていた。松村沙友理はその中に大写しになっている白石麻衣の姿に釘付けになっていた。

この走りだ…この姿なんだ。
長いストライド、微動だにしない頭の位置。完璧な弧を描いて左右対称に振られる腕。まるでアップテンポのポップスを歌っているかのような安定したリズム。表情はあくまでも穏やか…いや、美しいといってもいい。私は、これほどまでに美しい走りをするランナーを他に知らない。
これが…白石麻衣なんだ。

この姿をずっと見てきた。魅せられてきた。
「御三家」。そんな風に、この人と並び称される事が嬉しくて仕方なかった。
でも、それはいつしか重荷に変わっていった。
彼女と肩を並べるに相応しい力をつけなくては…
「ミス・パーフェクト」のまいやん。「クール・ビューティ」と呼ばれたななみん。
私にはいったい何があるんだろう…?

焦りもあった。迷いもあった。
でも、一番は自分の弱さだ。それを癒す薬は「毒」だった。
私は、毒に蝕まれた。

一言も慰めようともしてくれなかった。
励ます言葉じゃなかったのかもしれない。
きっと、怒ってたっていうよりも呆れていたんだろう。

沙友理なんて呼ばれたのは、出会ってちょっと仲良くなった頃以来だ。
まだ余所余所しい友情が結ばれたばかりの頃…


栄京の二村を引き連れるようにして、裏権太坂を登っていく。
先行した向井地と川本が驚いたように、横に並んだ白石を見る。
白石は二人の存在すらを無視するように、そのまま一気に前に出た。


『先頭がここで入れ替わりました。権太坂の頂上付近。9区の出だしでいったんは差をつけられた乃木坂大学の白石。登りに入ってギアを完全に入れ替えました。表情を変えません。変わりません。あーっと更に…更にペースを上げたのか?向井地と川本…そして、追走してきた栄京の二村を…置き去りにします。下りに入って…これは?こらはスパートなのか?早くも勝負に出るのか?乃木坂の白石!近年稀に見る接戦の箱根駅伝。終盤に切り札を残していたのは乃木坂大なのか?』


松村はそのシーンを見届けると、ゆっくりとモニターに背を向けた。

大手町に行かなきゃ。
きっと、私たちの襷は…あの紫の襷は、トップで帰ってくるんだ。



------------------------------------


「やられた。」

三人の指揮官は、監督車の中で同じタイミングで同じ思いを抱いた。
栄京の玲奈。四ツ谷の峯岸。そして、聖ヴィーナスの倉持。

ここが最大の勝負のヤマだ。
ここで遅れる事は、決定的なディスアドバンテージを負う事になる。
往復217.9kmに及ぶ箱根駅伝。その長丁場がほんの一瞬で勝負を決する瞬間というものがある。

今年は間違いなく…今だ。
駅伝は最後まで何が起こるかわからない。
しかし…必ず逃してはならないポイントがある。

それがわかっていながら、指揮官は誰も指示を的確に与える事ができなかった。

走ってる選手も同じだ。
白石に食いついて追い上げてきた二村は、権太坂の頂上で更にギアを入れ替えた白石についていこうとした。その背中に思わず手を伸ばしそうにさえなった。
先を争うように競り合っていた、向井地と川本は一瞬何が起きたのかすら理解できなかった。
そのまま、まるで沿道で声援を送る観衆になったかのように白石の後姿を見送った。

それほどまでに、白石のスパートは圧倒的だった。

長距離ランナーにとって「前が見える」という事はモチベーションを保つ上でとても大事な事だ。それまで見えていなかった前を走る姿を視界に捉えると、俄然追い上げる気力が湧いてくる。
しかし…さっきまで目の前にあった背中が見えなくなる…
トップとの差が開くと、間に第2中継車が入る。
その大きな姿で前を走る選手の姿が消えてしまう。

緩いカーブに入ると、中継車の陰から前を走る白石の姿が何とか見えていた。
しかし、その姿がやがて完全に視界から消えた。

誰もが思った。
「今年の箱根は…乃木坂のものだ。」


90.

「ねえ…さゆりんと喧嘩でもしてたの?」
「ん?別に。何、こんな時に?」
「うーん。なんかいつもの二人じゃないなあって。仲良しだったでしょ?アナタたち。」
「はるたむって…ホントにいい子だねえ。」

いきなり全開で9区に入った先頭の二人と対照的に、栄京の二村春香と乃木坂の白石麻衣は静かに最初の急な下りを降りていった。まるで滑るように。
しかし、幾ら静かに立ちあがったとはいえ、優勝をかけた「戦い」だ。
そんな中で、幾ら何度も行っている合同合宿で見知った仲とはいえ、ヨソの内情に首を突っ込んでくるなんて…しかも、どうやら真面目に心配しているらしい。

「いい子…かあ。」
何度そう言われてきただろう。
今の3年生が、入学時からずっと言われ続けてきた事だ。
奈和、つう、えごちゃん、みずほ…個性が強いって言われてる杏実だってなるだって、実は余り羽目をなかなか外せない「優等生」だ。辞めていった子達…ななちょだって、美月だって、さやだって…少しは図々しさを持ててたら、もっと違った道があったかもしれない。

激しく熱い走り…それが栄京の伝統でありカラーだ。
それに背いてきたつもりはまったくない。でも、いつも言われてきた。
いい子過ぎるって。


「ねえ。いいの?もうあんなに先に行っちゃったけど?」
白石がちょっとだけ顎で前を行く二人の方を指し示す。
タイムにして20秒…ほどだろうか。その背中が徐々に小さくなっていた。

早くも5キロを過ぎた。コースはここから「裏権太坂」を登っていく。
3キロ以上続く権太坂の登り。実は2区よりも難しいのがこの裏権太の登りかただ。距離・斜度ともに2区の方がハードとされがちだが、9区は斜度に細かい変化がありペースをつかむのが難しい。常にギアを入れ替えて走る「テクニック」が要されるのだ。
下りを自重してきた二人にとって、ここで何かを仕掛けなくてはならない所だ。

「まいやん…何か迷ってる?」
「へ?私が?迷ってるって何を?さっきから何言ってるのよ。レース中だよ?」
「いや…前出たいなら出ればいいじゃん?一緒に前追おうってなら、そう言えばいいし。」
「…」

迷ってる?私が?
そういえば、何か身体も重い気がする。
この暑さのせい?
いや…違う。暑さは確かに苦手だけど、真夏に走ってるわけじゃない。
ちゃんと水分も取ってるし、体調も万全だ。
なのに…なぜか身体が思うように動かない。
さゆりんに「見ときな。150%の全力見せるなんてカッコいい事言っててこれじゃあ…」

「まいやん!何を肩に力入れてるの?」
拡声器からではなかった。玲奈の肉声が響き渡った。
「見てられないよ。まったく…はるたむもだよ。そんなダラダラ走りに付き合ってるくらいなら、今すぐ歩いたら?」

とうとう雷が落ちたか…そんな風に玲奈の怒号を受け止めたのは二村だけだった。
自分に檄が飛ばされた事に白石も驚いたし、監督車で玲奈の隣に座っている設楽も目を丸くした。
確かに玲奈は乃木坂のコーチを兼任している。合同合宿での指導も、乃木坂をここまで強くしたのも、玲奈の力があった。しかし、この箱根はあくまでも栄京のコーチとしての立場を貫いていたはずだ。

「見てられないってよ。で?どうすんの?私は前の二人を追っかけるけど。玲奈さん、あれ以上怒らせるとまた面倒だからさ。」
二村が最終確認をするかのようなトーンで聞いてきた。
白石は、大きく首を回し目を閉じた。両肩をぐるぐる回して、リラックスしようとする。

そっか…見てられない…か。
確かにそうだ。150%?よそ行きの150%なんかに何の意味がある?
自分らしく、自分の走りで限界を超えなきゃ。
じゃなきゃ、あの子…さゆりんへのエールなんかになりゃしない。

「はるたむ。前の二人追っかけるって?」
「うん。そうだよ。もう行くから。ランデブーはここまで。」
「そうだね。仲良く併走は終わりにしよう。でも…」

白石が頭の上に乗せていたアイウエアをかけた。
一瞬で二村を後方に引き離す。
まるで、高級車が高速道路でギアを変えずに一気に加速をかけたかのようだった。

「ちょ…なに?油断させておいて…って事?」
「違うよ。はるたむ、前の二人を追っかけるって言ったから。」
「言ったよ?でも、ペース上げるって事はまいやんも同じ考えなんでしょ?」
慌てて二村がダッシュをかけ、白石に追いついた。
そのままペースを上げていく。

「私は…前の二人なんか見てないよ?」
「え?」

そう。相手は前の二人なんかじゃない。
確かに手ごわい相手だ。隣にいるはるたむだって。

でも、私が追っかけなくちゃいけないのは…
今日までの自分だ。今、この瞬間の白石麻衣だ。
それを超えなくちゃ。

さゆりんが簡単には追いつけないところまで走らないと。
それが…私のあの子への友情の証だ。

89.

9区が「裏エース区間」と言われるようになって長いが、近年その意味合いは少しずつ変化してきている。花の2区と呼ばれる区間をひっくり返した9区。実はいきなり出だしに大きな落とし穴が用意されている。その落とし穴は、実に密やかにそしてこっそりと選手たちを待ち構えている。この落とし穴がやっかいな点は、落ちた選手がすぐにその事に気づかないという事にある。

「戸塚の壁」として、2区を走った選手を最後の最後で苦しめた急坂。この坂を9区の選手はいきなり駆け下りていく事になる。箱根に出るようなレベルの選手だ。当然ウォーミングアップは万全に済ませている。しかし、心肺機能のアップは出来ても「脚」のアップはそう簡単なものではない。まだレースのリズムが身体に染み付いていない序盤、いきなりの下り坂。
ここでリズムに乗り切れず、最後までペースをつかめないまま終わってしまう選手。
逸る気持ちを押さえられずにオーバーペースになり、いきなりかかった脚へのダメージのため、中盤以降失速してしまう選手。
毎年、様々な理由でブレーキを起こしてしまう選手が出るのがこの9区だ。

そして、何より「総合優勝」を左右する大きなポイントの区間でもある。
そのプレッシャーが選手を苦しめていく。


選手層の厚さと比例するように、かつての「往路重視」戦略を取るチームは減ってきているとはいえ、この終盤までエースを温存する事はなかなか難しい。ここまでの区間で「流れ」は決まってしまっている事が多い。いくら大エースを用意していても、ここまでで大差がついてしまっては、その効果は大きく減じられる。


そういう意味では、今年の9区はまさに「勝負を決する」舞台として十分だ。
優勝争いの行方は4校に絞られた。というよりは、まだ「絞られた」という表現は使えないだろう。しかも、残った4校はどこも力のある選手をエントリーしてきている。

観衆も、テレビのアナウンサーも、そして…走ってる選手自身も…
その高まりの中に身を晒そうとしていた。


優勝のかかった勝負どころ。後続とは大きく差が開いている。
まずは最初の急坂、そしてその後の長い下り坂。権太坂の「裏登り」…
アップダウンの続く危険な場所は様子見となってもおかしくない。
いや、むしろそれがセオリーだ。

しかし、さも当然のようにそれぞれがハイペースでこの9区に入っていった。
その中で、ひときわ小柄な身体を躍動させて一人の選手が前へと飛び出した。
四ツ谷大の向井地美音だ。
軽く笑みを浮かべているかのようなリラックスした表情。だが、ピッチ走法の足取りがまるで踊っているかのように坂を勢い良く下っていく。


最高っ。ほんとに最高。
これだ。これなんだ。この華やかさに憧れて私は戻ってきたんだ。


物心ついた頃から、一日中プールにいた記憶しかない。
毎日毎日、何往復もブイで区切られたコースを泳いだ。
クロール、ブレス、バック、バッタ…4泳法を入れ替わりで泳ぐとはいえ、一日中…しかも毎日。良く飽きなかったものだ。楽しかったんだ。毎回記録会のたびにどんどんタイムが速くなっていく。スイミングスクール内の大会、地区の大会、そして市や県の大会。どんどん会場が大きくなっていく。観客の数も。そして、いつの間にか向井地は日の丸をつけて泳ぐようになっていた。

ジュニアの世界チャンピオンスイマーになった向井地に壁が訪れたのは中学生になる頃だ。国際強化指定を受けていた向井地は、当然まだまだ記録を伸ばしてくる…そう期待されていた。
しかし、ある時期から突然その記録の伸びが止まった。タイム自体は伸びていた。しかし、今まで3つ上のクラスの記録を出していたものが、2つ上のクラスになり、1つ上に留まり…やがては、泳いでも泳いでも平凡な記録しか出なくなってしまったのだ。

水泳では、選手の「大型化」が顕著になってきていた。身体の大きな選手は長いリーチ、大きなキックで身体に恵まれない選手と比べて大きなアドバンテージをもっている。向井地の身体は…同世代でも小さい部類…いや、「かなり」小さな部類にしか成長を得ることが出来なかった。

泳ぐことを捨てたわけではない。泳ぐ事から捨てられてしまったのだ。


「よっ。有名人。」
勢いに乗って前へ前へ出ようとする向井地の横に、同じ1年生の川本紗矢が並んだ。
悪戯っぽい顔を向けて笑う。
「有名人って?誰の事かな?」
「みーおんだよ。アナタの事。北海道でも有名だったんだから。」
「それって、ランナーとして?」
「あはははっ。そう言われるの嫌い?」

嫌いじゃない。過去の栄光って言われようとも、それも私の残してきた足跡だ。
でも…今回はチャンスなんだ。
あの向井地美音が帰ってきた。しかも、今度は本物の世界を狙える存在として…
そう世間に言わせる事が出来る。

「ね?おしゃべりしたいの?だったら、私興味ないから。置いてくよ?」
「おー。さすが。噂に違わぬ毒舌だねえ。おしゃべりかあ…私もあんまり好きじゃないかな?」

この子…可愛い顔してるけど、かなりのモンだわ。
無駄口叩きながら、ちゃんと一定のリズムで脚を運んでる。
呼吸だって乱れてない。
川本…紗矢?北海道出身?
あー。そっか聞いたことある。確か高校は無名の学校だったはず。
同じ北海道の慶育の坂口さんとかと違って。
確か、なんだったっけ…そうそう。ハンドボールのジュニア代表とかって。
結構な学校が争奪戦したって。でも、こうして箱根を走ってる…
なんか、似たようなトコあるのかな?

「ねえ。後ろのおねさーんたち…ちょっと厄介じゃない?」
「厄介って…みーおんって本当に口悪いんだねえ。」
「あのさ。初めて会話していきなりみーおんはないんじゃない?」
「あはははっ。じゃ、私の事はさややでいいよ。みーおん。」

川本が一歩前に出た。
この子…本気?
かく乱しようってそうはいかないよ?

「で、どうなの?さややは?後ろ振り払うの?私についてくるの?」
「ん?何言ってるの?ついてなんか行かないよ?」
「そう…じゃ…私は先に行く…」

向井地の言葉を待たずに川本が一気にペースを上げた。
何やってるの?ついてなんか行かないって言ったじゃない?
向井地が厳しい視線だけで川本に喰ってかかる。

「ついてくるのは、みーおん。アナタの方。ぼーっとしてると置いてくけど。」
「へー。可愛い顔して、結構なモンなんだね。面白いなー。さやや。うん。面白いよ。」

二人のペースが上がる。下り坂を終える前に、徐々に後ろの二人との差が開いていく。



88.

兒玉遥は最後の最後まで下口ひななを振り切る事ができなかった。
いつ落ちるか…いつ落ちるか…
前を走る兒玉がハラハラするくらいの悲壮感を漂わせて下口は走っていた。

そっか…この子にも走らないといけん理由がちゃんとあるとね。

兒玉が下口を引き連れて…はっぱをかけるような事を言ってまで牽いてきたのには意味があった。
この子の持っている「何か」に追い立てられるように走れば…
ともすれば、もういいや…って思ってしまいそうな自分の弱さを消し去れるような気がしたからだ。

兒玉の感じていたとおり、下口には「走らなくてはならない」訳があった。
1区で転倒…慶育が途中棄権となる後藤の転倒を招いたのが、自分の無責任なけしかけによるもの…って気持ちはもう薄れてきた。スタート前に見た後藤萌咲の顔が浮かんできた。

「がんばって。」
もえきゅんはそう言ったんだ。
がんばろう…そう言われた事は何度もあった。
でも…あんな顔で「がんばって」なんて言われたのは初めてだったような気がする。

初めて会ったのは、入学前の合同練習。
憧れの慶育大。憧れの大島優子さんの母校からスカウトを受け、私は有頂天だった。
誰にも負けない…負ける訳がない。そんな風に思っていた私を衝撃が襲った。
はじけ飛ぶようなフォーム。躍動感というよりは、無駄に動きが大きい、中距離の選手かと思っていた。でも、顔合わせを兼ねたトラックでのタイムトライアル。5000mの間に私は周回遅れにされてしまった。衝撃というよりも屈辱だ。飛ばしすぎじゃない?張り切りすぎなんだよ…そんな風に思っていた自分が井の中の蛙って事を思い知らされた。

監督やコーチ、先輩からフォームの問題点を指摘されてもなかなか自分のものにする事ができない。何かというと「萌咲はね…」「萌咲はこうできたんだけどね…」。いつも萌咲と比べられてきた。
でも、一度も不貞腐れた事なんてない。むしろ、嬉しかった。
今まで「ひななは大丈夫だよね?」そんな風にばかり言われてきた。
誰かの背中を追いかける事に慣れていなかった。
でも…
堪らない。まだまだ私は速くなれる…そう思うとゾクゾクしてきた。

「よう走った。ひな!頑張ったな。でもな…ここまで来たら…前に出んかい!」
監督車から横山の声が飛ぶ。

前に出る?
そうか…兒玉さんは、私より確か10秒弱後ろで襷を受け取ってるはずだ。同着なら区間記録は私の負けになっちゃう。真子さんに言われたんだっけ。区間新狙えって。記録には残らないけど…
あれ?今、私、どれくらいのペースで走ってるんだっけ?

下口は手元の腕時計を見た。しかし、数字は目に入ってくるがそれを「読む」事まではできなかった。ただ目線を時計にやっただけだ。
「ひな!いいから。とにかく8秒!8秒だけでいい。その横で走ってる子を引き離すんや。ええな?それで真子との約束は守れるで?」

「由依…アンタいい指導者になる…いや、なったよね。そう…記録になるかならないかは関係ない。むしろ…関係ないからこそ、大事なんだよね。」
車中で隣に座っている指原がつぶやく。身を乗り出して声を枯らしている横山には届いてはいなかったが…指原は微かに笑って拡声器のマイクを手にした。
「はるっぴ。どうする?その1年ぼーず。アンタを引き離すってよ?舐められたもんだね~。いい?このまま行けば区間新は間違いない。でもさ…いいんか?『事実上の区間賞は慶育の1年生です』なんてテレビで言われるんだよ、きっと。そんなんで許せるんか?なあ、博多大のエースとして?」

中継所の手前、僅か数十メートルの所で兒玉が前に出た。
僅か3秒差で博多大の襷が9区に繋がる。
慶育の繰上げ襷がその後だ。



「だ…だめだった…」
下口が悔しそうに走っていく飯野雅の背中を見送った。
その背中を抱くようにして中野郁海がタオルをかける。
「だめじゃないよ。すごいよ。兒玉さんに11秒遅れの区間2位相当。二人とも区間新記録だってよ。」
「区間新…か。とりあえず、最低限真子さんに言われた事はできたって事でいいのかな?」
「うん。さっき真子さんから電話入ったよ。」
「真子さんから?何だって?」
「とっとと着替えて大手町迎えって。…待ってるよ…だって。」
中野がにやっと笑った。
何を言いたいのか、よくわかる。下口も同じような笑いを返した。
「それ…真子さんから?島田さんからじゃなくて?」
「ね…私も思った。」


肩を抱き合って笑う二人のすぐ脇を突風が吹きぬけた。
暖かい…いや、暑いほどまでに上がった気温にもかかわらず、冷たい吹き付けるような風だ。

「な…なに?今の?」
下口が目を細めるような仕草をした。
フィニッシュ地点では、秋英の中西智代梨が補助員や係員に囲まれていた。
タンカも運び込まれている。

「秋英学園にとっては、まさに試練の箱根となりました。8区・中西、最後の最後に力尽きました。前との差を着実につめてきていた中西。最後の最後、残り僅かでスローダウンしてしまいました。4人に抜かれて、15位での襷リレー。前を行く大東文化大との差は1分。シード権内の10位、立命館大との差は3分に広がりました。」

自分の最低限の仕事をする…
自分を押し殺す事でリスクを抑えていたつもりの中西だったが、箱根はそんな臆病な考えに牙をむいた。最後は失神状態になりながら中西は中継所にたどり着いた。
箱根でなければ、ここまでの消耗をする事はなかっただろう。
だが、箱根でなければ、ここまでたどり着く事はできなかっただろう。

それが、箱根の魔力であり、魅力なのだ。



8区→9区 戸塚中継所 (丸数字は個人区間順位 タイムはトップとの差)



1位グループ

   聖ヴィーナス大学    高橋朱里②      -
   四ツ谷大学        岩立沙穂③      -
   乃木坂大学        桜井玲香④      -
   栄京女子大学      北川綾巴⑤      -


8位  博多大          兒玉遥①     +10:18  ※区間新記録 
9番目 慶育大学        下口ひなな   +10:21

15位 秋英学園大学     中西智代梨⑱   +14:04 

87.

花の2区の最大の難関が良く言われる「権太坂」ではなく、残り1キロの急な登りであるように、5区山登りの勝負を決めるポイントが箱根山中の九十九折を登っていく区間ではなく、実は残り5キロの下りであるように…
8区には最後の最後で選手を篩いにかける難所が用意されている。

遊行寺の坂を一気に上り詰めた聖ヴィーナス・高橋朱里、四ツ谷大・岩立沙穂、栄京女子大・北川綾巴の三人。一度も縦になる事無く横並びの併走のままだ。
通常、複数のランナーが集団で走るとき、併走=様子見のゆったりとしたペース・縦になって走る=ペースが上がっている…と見るのがセオリーだ。しかし、今は違う。三人の意地と負けん気、そした何よりもこの中で誰よりも早く、--それがたとえ1秒であっても--次の選手に襷を繋ぎたいという気持ちが交錯していた。誰かが一歩前に出ると、ほかの二人が更に前へ出る。その繰り返しだ。
腕がぶつかる。肩が触れる。荒い呼吸は徐々に嗚咽のような、叫びのような、何とも表現しようのないものへと変わっていく。

「白熱する2位争い。それが、それがついに先頭争いへと変わります。ついに、ついに三人がトップの乃木坂大・桜井を捕らえます。戸塚で待つ9区を走る精鋭へと繋がる襷。最初にその襷を渡すのは…今、乃木坂の桜井が三人に飲み込まれます。」

今日の実況は大変だ。
何度も何度も「信じられない」場面が訪れる。
まだ若いアナウンサーは、生の場面を実況するには乏しいボキャブラリーを熱で補おうと声を荒らげた。朴訥なその叫びは、見るものの心を不器用ながらも奮わせた。
彼も、かつては5万人の大観衆を熱狂させた男だ。百の言葉で飾るより、今のこの場面を熱い叫びで表現する方が相応しいことをアスリートとしての感性で受け止めていた。

「譲らない。譲りません。桜井。乃木坂のキャプテンです。3年生ながらチームを引っ張るキャプテン。ここで前を譲るわけにはいきません。さあ、残り1キロ。残りは僅か1キロです。しかし…この1キロが…時間にして僅か3分ほどでしょう。しかし、選手にとっては何とも苦しい…苦しい1キロです。四人が…四人が完全に横に並びました。こんな場面は見たことがありません!すごい…すごい…まったく言葉がありません。」


「言葉がないって言う割には…ずいぶんだね。上重さんって。」
「まあ…いいんじゃない?箱根らしくってさ。」
まだ薄手のウインドブレーカーを羽織ったままだ。
アップは済ませていたが、額に軽く汗を浮かべている位だ。この暑さの中涼しげな表情で、入山杏奈は川栄李奈が持っているワンセグの画面を覗き込んでいる。
「智代梨は?」
「うーん。さっきからずっと先頭争いしか写してなかったからね。藤沢の定点では、10位まで1分切ってたはずだけど。」
「りっちゃん、違うよ。10位との差じゃなくてさ。」
「あんにん…大丈夫?無茶はだめだよ?」
「うん。無茶はしないよ。襷途切らせちゃったら元も子もないからね。でも…」

入山が川栄に持っていたタオルを渡した。かわりにペットボトルの水を受け取り、一口それを飲む。
お互い怪我に苦しんだ1年だった。それでも…何とか、最後の箱根に間に合った。
このレースに臨むにあたって感慨深い思いでいるのは、すでに5区を走り終えた川栄も入山も同じだっただろう。

「でも?」
「あんな走りをりっちゃんに見せられちゃ…ね。無茶はしないけど…結構無理はするつもりだよ?」
「珍し。」
「珍しい?何が?」
「だって、そんな風に熱くなるのって見たことなかったし。」
「何言ってるの?私だって燃える時はあるんだから。」

今時のモンは…
監督の高橋みなみが、そんな風に愚痴っていた事は良く知っている。

確かに、私は闘志とかやる気とか熱意とか…そんなものを表に出すのが苦手だ。
十夢や華怜なんかの方が、たかみなさんが言う「秋英らしさ」を持ってるんだろうな…
でも、私だってちゃんとわかってる。あのピンクの襷を継ぐ意味を。
再起不能…そんな風に言われた怪我から1年。苦しかった。地獄の苦しみを見た。
今までだって、苦しいことはたくさんあった。地獄の毎日だ…そんな風に思ってた。
でも…本当の地獄はそんな事なんかじゃない。
りっちゃんがあんな顔で走ってるのを初めて見た。
決して綺麗なフォームなんかじゃなかった。でも…初めて、他人が走るのを見て「綺麗だな」って思った。あんなに汗だくで、口から涎までこぼしながら…でも、美しかった。

「頼むよ。秋英の最終兵器。」
川栄が入山の背中を軽く叩く。口に含んだ水を思わずこぼしそうになって、入山がちょっと困ったような笑顔で振り向いた。
「ちょっと。もっと綺麗な言い方ないの?」
「綺麗って…どんな風に?」
「リーサル・ウェポン…とかさ。」
「り…りーさる…うえ?」
「はははは。りっちゃんに横文字は無理だったね。」
「もー何言ってるの?お…トップが入ってきたよ。」


---------------------------

気持ちやテクニック、スピード…すべてが互角だった。最後の最後、僅かの差を決するには、その時々に色んな要素がある。今日の、この場面、四人にその差はなかった。持てるもの全てをここに置いていこう…その気持ちの強さまでまったく同じだった。
まるで、訓練されたラインダンサーがステージでステップを踏むように、中継所へのカーブを四人は併走したままで曲がった。同時に9区のランナーへ襷が渡る。

襷を渡し終えた4人は、その場に倒れこんだ。
まったく同じように、空を見上げながら地面に大の字になる。

「すごかったなあ…こんなの初めてだわ…」
「朱里さん、初めて?私もですよ。ふふふふっ。」
最初に口を開いたのは、高橋朱里だ。隣の岩立沙穂がその声に答える。
「なんか、アンタがそう言うと…」
「もう。なんですかあ?」「
「なんか、いやらしーって言いたいんですよね?」
二人の話に割り込んできたのは、北川だ。上半身だけを起こして、9区のランナーが走り去った方にぼんやりと視線を向けたまま。
「なんか、私ってすごく腹黒キャラになってません?」
「え?違うの?」
桜井も会話に入ってきた。

特に健闘を称えあったわけでもない。固い握手を交わしたわけでも、お互いの肩を抱き合うわけでもない。しかし、四人の中には同じ感情が共有されていた。走ってる間、色んな事を語り合った。言葉に出したものは僅かだったかもしれない。しかし、万の言葉よりも同じ空気を感じ、同じ風を切り裂いてきた四人の中に生まれたものは、どんな言葉をも超えていた。

「ね…私たち、こんなトコで寝っころがってたら邪魔じゃない?」
急に高橋が我に返ったように身を起こし、後ろを振り返った。

「大丈夫みたいよ。ゆっくりしてても。」
春の陽気の中、すっとその空気を引き締めるような風が吹いた。
入山杏奈が四人の傍にいつの間にか立っていた。
「どうせ…次なんてしばらく来ないんだから。」

「入山さん…?」
「みんな、すごかったね。うん、すごかった。あなたが綾巴ちゃん?」
「は…はい。ありがとうございます。」
立ち上がろうとした北川に入山がそっと手を差し伸べた。
その手を借りて北川がゆっくりと立ち上がる。
「綺麗なコ…」

北川が息を呑んだ。隣の桜井も、岩立も高橋も。


春の日差しのような笑顔を入山が浮かべていた。
しかし、彼女がまとっていたオーラは、厳しく…そしてどこまでも涼しげだった。



86.

先頭集団が中継所に飛び込もうとする頃、慶育の下口ひななと博多の兒玉は並んで遊行寺の坂を登り終え国道1号線に入ろうとしていた。

下口を捕まえたのは、浜須賀の交差点を過ぎてからだった。
ようやく…とは思わなかった。下口に追いつく前に3人の選手を抜いていたからだ。
14位で受け取った襷。今は11位。あと一人抜かなくちゃシード権内にすら入れない。

兒玉は下口の斜め後ろにつけた。
こうして追いついたという事は、間違いなく下口のペースが落ちているからだ。
一気に抜くこともできたかもしれない。まだまだ前を追う事が必要だ。下口に勝つ事が目的ではない。いくら指原の指示で仮想の敵としてその姿を追ってきたといってもだ。
私に与えられたミッション…それをまだ完遂できてはいない。

それでも、兒玉は下口についた。しばらくほぼ併走の形で走る。

慶育のなまいキッズ。そう聞いていた。
ウチにもいるんだよなあ。何を言っても聞かないわがままっこが。
なんていうか、ジェネレーションギャップっていうのだろうか?たった2学年しか違わないのに、何を考えているのかぜんぜんわからない…

しかし、兒玉が見る下口の顔は想像とぜんぜん違った。
必死。
そう必死な顔なのだ。
まるで何かに追い立てられているような顔。
目を剥き、髪を振り乱し、流れる汗は留まる事すらなかった。呼吸も荒い。
こんなんで、残りの7キロ余り…遊行寺の坂を含めた登り基調のコースを走りきる事が出来るんだろうか?

「はるっぴ。どうした?もう限界か?足が止まったぞ?」

指原に言われても、兒玉はすぐペースを上げる事が出来なかった。
いや、上げなかったといったほうがいいだろう。

「行くよ。ついてこれるよね?」
自分の息もずいぶん上がってしまっている。出来れば、声なんかかけたくなかった。
敵に塩を送ったつもりなんてない。幾ら順位に関係ないとはいえ、自分の前を走っている以上、相手はすべて敵だ。破り捨てなくてはならない相手だ。

「行けんとか?勘違いしたらいけん。アンタを引っ張ろうなんて気ばなか。ただ…」
「一緒ならもっとペース上げれる…ってことですよね?」
下口がにこっと笑って答えた。
「ほう、まだ死んどらんかったと?」
「ええ。…ちょ…っと休憩してただけですよ。で?私が前牽けばいいんですか?」
「生意気ば言いよると。潰れてもしらんとよ?」
「構いませんよ。でも…潰れるのは中継所に入ってからです。」

兒玉と下口が顔を見合わせた。お互い頷き合う。
「あんたら順位とか記録とか関係なかとでしょ?どこまで上がれば気が済むと?」
「兒玉さん、そんな事考えてるんですか?シード権争いとか?」
「関係なかったい。で?どこまでいく?」
「一つでも上に。」
「おっけい。それ、乗ったとよ。」

二人のペースがぐんぐん上がっていくのを、遥か後方で中西智代梨が視界に捕らえていた。
その差は…1分といったところか。
中西も3人を抜き、秋英の順位を12位まで押し上げていた。
当面のシード権争いのライバルは前を行く博多大だ。恐らく博多に勝たなければ、名門・秋英の初出場以来続いていたシードの座は無くなってしまうだろう。
しかし、それは…自分の仕事ではない。
自分の今の仕事は、最後の最後…秋英がシード権を守れる順位でフィニッシュできるようお膳立てをする事だ。自分自身が博多より前に出る事ではない。
今からでも、なりふり構わず前を追えば追えない事はないだろう。リスクを犯してスパートをかければ、追いつき追い抜く事だって不可能ではない。しかし、今はそのリスクを抱えるべきではない。中西は自分を押さえた。たぎる気持ちと、自己の欲求を胸の中にしまいこんだ。
元々はそんな慎重なタイプではない。むしろ、がむしゃらに突っ走っては周りをハラハラさせるような走りこそが持ち味であった。

でも、今の私がかけているのはピンクの襷だ。
伝統を守る。古めかしいかもしれない。つまらない考えかもしれない。
でも、それが私の箱根だ。自分にやれる事をやる。
それが、私がここにいる存在価値なんだ。

それに…うちには…秋英には…
今の状況をひっくり返すだけの、武器をちゃんと用意している。


85.

「沙友理。悪い。水じゃなくてそっちのドリンク取ってもらえる?」

シューズの紐を何度も何度も締めなおしている。緊張のせいだろう。表情が硬い。
でも…きっと緊張だけじゃないんだろうな…
まいやんが私の事を沙友理って呼ぶのを久しぶりに聞いた。
きっと、怒ってるんだろう。

「こっちな。ごめんごめん。」
「ごめん?って何謝ってんの?」
「いや、渡すドリンク間違っ…」
「そんな事じゃない。」

白石麻衣がきっとした表情で松村沙友理の方を見た。
睨みつける…といってもいい。

そうか…奈々未から聞いてるんやな。
怒り狂ってもしゃーない…チームを裏切るようなことをしたんだから。

「あのな。まいやん…」
「違うよ?怒ってるのは、沙友理が間違った事をした事じゃない。ううん。いや、もちろんそれもダメ。絶対に許せない。でも、本当に私が怒ってるのは、なんで私らに相談してくれなかったの?って事。沙友理から信頼されてるって思ってた自分が情けなくて怒ってるんだよ。」
「ごめん…」

戸塚の中継所では徐々にテンションが高まってきていた。
先頭は乃木坂の桜井だ。しかし、その後方には聖ヴィーナス、四ツ谷、栄京が猛追してきている。勝負の舞台は残り5キロ以内に入ってからになってきている。

そんな中、すでに乃木坂の9区・白石はウインドブレーカーを脱ぎ捨てていた。
春の陽光が眩しい。

「あのさ…口でなんて言っても今は無理。」
「わかってる。…わかってるよ。」
「いくら頭を下げても、土下座したってね。」
「…」

白石がオークリーのアイウエアを付けた。長い髪を後ろ手で縛り直す。
ゆっくりと屈伸を繰り返し、気合を入れるかのように何度も何度も両手で自分の頬を叩いた。
こんな風に気合を入れる白石の姿を松村は初めて見るような気がした。

「見といて。」
「ん?」
「ワンセグでも、あそこにあるケーズ電器でも。どこでも見れるでしょ?」
「まいやんの事…?」
「そう。沙友理、もう一回やり直すんだよね?弱かった自分に勝つんだよね?奈々未は信じるって言ってたよ。でも…それって並大抵じゃないよ。いい?私たちは止まらない。沙友理の事、待ってなんかないからね。もっともっと先に進んでる。沙友理はゼロどころかマイナスからのリスタートなんだ。」
白石は松村の方を向いていなかった。アイウエアの目線は、これから桜井がやってくる中継所の入り口に注がれている。しかし、その言葉には熱があった。想いがこめられていた。

「私は待たないからね。今の自分に満足すらしてないんだ。沙友理を待ってなんていられない。追いかけてくるなら好きにすればいい。」
「うん…」
「私たちは仲良しクラブなんかじゃない。そうだよね?玲奈コーチが言ってた。私は、あの人の事認めてないわけじゃないんだよ。あの人の言葉には迫力がある。何かを成し遂げた人じゃなきゃ持てない説得力がある。沙友理、アンタも自分の言葉に説得力を持たせたかったら…わかってるよね?」
「うん…」
「じゃあ、ちゃんと見てて。今の私の100%…いや、120か150かわからないけど…全部を出してくるから。見せつけてやるから。」


「乃木坂大学!それから、聖ヴィーナスも四ツ谷大も…栄京も準備お願いします。僅差…いや、同時かもしれません!横一列でラインに並んでください!」
係員の声がかかる。

4校での9区の戦いか…
こんな接戦って、ここ近年なかったんじゃない?

白石が肩にかけていたタオルを松村に投げた。
視線を向けないまま、手の平をそっと差し出す。

「いってらっしゃい。」
松村がその手に自分の手のひらをそっと合わせた。
「これから戦争に向かう兵士に、そんな辛気くさい事しか言えないの?」
白石がぱーんと松村の手を叩いた。
「ぶっちぎったれや!栄京も四ツ谷も…ヴィーナスも!」
「っしゃ。」

歓声が大きくなった。
9区の戦いが始まる。





84.

浜須賀の交差点を左折する。海沿いの道に別れを告げ、コースは緩やかに登り始める。
ここから先5キロはダラダラとした上り坂が続き、残り5キロでは遊行寺の坂が待ち構えている。
スタートして3時間。昼前になり、気温は一段と上がっていた。

先頭で乃木坂の桜井が通過して1分。栄京の北川が交差点を曲がっていった。
その差は徐々に広がっている。桜井が区間新を上回るペースで徐々に独走態勢に入り始めていた。
そして、北川のすぐ後ろ。約10秒で聖ヴィーナスの高橋と四ツ谷大の岩立が通過した。

一向に前を牽かない岩立に、高橋は諦めて腹をくくっていた。
この子は、間違いなくしたたかで計算高い。自分が勝つ為に何をすればいいか、どう走ればいいか…ちゃんとわかってる。たとえあからさまであっても、一向に気にしないのだろう。
「少しは前牽きなさいよ」
そんな風に言ったってまたあの笑顔でかわされて終わりだ。
だったら…アンタが勝負をかけるポイント…どうせ遊行寺でしょ?
わかってる。そこで、アンタを逆にぶち抜いてやるんだから。


----

「綾巴。いい加減にしなさい!」
監督車から、この区間初めて玲菜の怒号が響いた。
来た…やっぱり、私も怒られるんだ…
仕方ないわね…こんな情けない走りをしてるんじゃ…
前に離されただけじゃなく、後続にも追いつかれちゃった。
でも…言い訳をするわけじゃないけど、みんなが凄いんです。
私だって一生懸命走ってるんです。本当です。ほんとなんです…

「アンタさ。よーく考えてみな?何のために走ってるの?」

なんのため?って…
そんなの、チームのために決まってるじゃないですか…
ん?チームのため?
そうよね。そう…強豪・栄京女子大の一員として恥ずかしくない…
みんなの期待に応えるため。
それ以外何があるっていうんですか?

「顔上げな。そして、周りをよーく見て。」

あ…確かにいつの間にか下を向いていた。
猫背になって胸が窮屈なフォームになるのが私の悪い癖だ。
でも、周りを見ろって…?

浜須賀から藤沢橋にかけては、交通の便が良く駅から近い事もあり多くのファンが集まる場所だ。緩やかに上っていく道は僅かに右にカーブを描いている。選手はまるでスタジアムの中を走っているかのような感覚を覚える。今年は天候の良さもあって例年以上の観衆が押し寄せている。

北川の父親の実家はこの先、遊行寺の坂を登りきったところにあった。
住宅街にある古い一軒家だ。
「箱根駅伝のコースのそばに家があって駅伝に熱を上げないなんてありえない」
父の口癖だった。真冬の冷たい風の中、父に連れられて選手が通過するかなり前から待機するのが、幼い頃の北川の正月と2月の3連休の記憶だった。缶の甘酒の暖かさを手袋の中で感じていた。そして…選手が近づいてくると自然と大きくなってくるワクワクした気持ち。
1時間以上も待ち続けて、選手が通り過ぎるのはほんの一瞬だ。それでも、目の前を通り過ぎていくランナーを見て幼い北川の胸はときめいた。そして、いつかは自分も…そんな風に思うようになったのはごく自然な事だった。

そんな話を玲奈にした事がある。あれは、セレクションの面接のときだったっけ?

「がんばれー!がんばれー!」
遊行寺が経営している幼稚園の子供たちだろう。お揃いの黄色い帽子を被った子達から黄色い声援が飛んだ。北川はその一人ひとりの顔を見た。不思議だった。もう15キロ以上走ってきた。すごく苦しい15キロだった。でも…その顔を見て…北川は笑った。そして、軽く子供たちに手を振った。

そうだ。私は走る事が好きだ。
そして、憧れの箱根を…しかも8区を…幼い頃から憧れ続けたところを今走ってるんだ。
前との差?後ろに追い上げられている?
そんなこと、どうでもいい。
今の私は、あの頃私が憧れていた、あの輝いていた選手たちなのか?
冗談じゃない。こんな情けない格好で…ここを走ってていい訳がない。

すっと背筋が伸びた。長いストライドで跳ねるようにして坂を登っていく。
後ろから並びかけた高橋と岩立が一瞬顔を見合わせた。

勝負だ!
三人が横一列に並んだ。

遊行寺の坂が、その前にそびえ立っている。


83.

先頭から遅れること約11分。優勝争いからは大きく離されてしまったが、走り過ぎる選手への歓声が止むことはなかった。むしろ、熱を増してきている。
観客は知っているのだ、むしろ先頭争い以上に、ここで走ってる選手が重いものを背負っているかという事を。

襷を受け取った博多大の兒玉遥は最初から飛ばした。
区間記録とかそんな事はどうでもいい。
とにかくまずは前にいる選手のうち4人を抜くこと。そして、後ろの秋英との差を広げること。
それだけは最低限の仕事として、どんな事があってもやらなきゃいけない。
そう、どんな事があっても。


「指原はやっぱり凄かね。就任したばっかでくさ、早々に結果ば出しよると。」
「古か考えしか持てんと指導者やなか。打つ手打つ手がぴったりはまりよる。たいしたもんたい。」

確かに、博多大はさっしーが来てから強くなった。
OGも講演会の人も、熱心なファンもみんなそう言う。
私だって、その事に異論なんてまったくない。さっしーが持ち込んだトレーニング手法は間違いなく私たちの記録を伸ばしたし、さっしーの立てた戦略は悉く成果をもたらし、強化策を打ち出したばかりの博多大を一躍強豪校へと躍進させた。

でも、私には…私たちにもプライドがある。
咲良も、キャップも…まどかもなつも…あおいだって、みんな関東の強豪からの誘いがあった。
名門の慶育や秋英。中京圏を中心にしかスカウトをしない栄京から声がかかった子だっている。
それでも、私たちは博多大を選んだ。そして、そこにやってきた指原莉乃。大学駅伝のスーパースター。憧れの存在だ。でも、だからこそ、私たちの力を認めさせたい。宮脇といつも話していた事だ。チームメイトであっても、ライバルだ。このチームを強くするのは…私たちだ。

今年は、ひょっとしたら上位を狙えるかもしれない…
心の中に、そんな気持ちもあった。
でも、箱根はそんなに甘くない。予選会を経て、本選に全員がベストで臨むという事は相当な事だ。トップで通過したとはいえ、予選会の厳しさは過酷を極めた。本戦を睨んで調整しながら…なんて事じゃ到底太刀打ちできない。
だから、今年はどんな事があってもシード権を確保しなくてはならない。
今年走ったメンバーはほぼ全員来年も残ることになる。私たちの本当の目標はシード権の確保なんかじゃない。優勝だ。そのためにも…だ。


まずは前にいる慶育。途中棄権してるから順位的には直接関係ない。
ただ、目障りなだけだ。前を追うからには、厄介は少しでも排除しなくては。

兒玉の思惑としては、慶育の下口をあっさりとパスする…はずだった。
差は5秒ほどだ。襷を締めるのが苦手だったこともあっていったんは10秒弱に広がったが、そんなのは問題ない。すぐに追いついて追い抜く…

ところが、一向に下口との差が縮まらない。一つにまとめられた茶色ぽい長い髪が小刻みに揺れるのをずっと同じ大きさで視界の中に入れていた。その背中は大きく迫ってくるどころか、むしろ遠ざかっているかのように思えた。
焦っているのか?早く追いつかなきゃ…そんな焦りが走りに影響を与えているのか?
兒玉は後ろを振り返った。普段はあまり後ろを見る事はない。ましてや、走り出したばかりだ。後ろとの差を確認する事に意味などない。
しかし、今は頭の中を整理する必要があった。自分の走りを的確にとらえなくては…
何度も何度も失敗した経験から学んだ事だった。

後続の秋英・中西との差はむしろ広がっていた。
監督車の指原が前を指差す。
何を後ろなんて見てるんだ?前だろ?見なきゃいけないのは。
そう言われてる気がして、兒玉はすぐに前を向いた。

白と緑を基調にしたユニフォーム。フラッシュグリーンの襷。
慶育のすぐ前に紫のユニフォームが見えた。佛教大だ。かなりの差をつけられていたはずの佛教大の姿がもう目前に迫っていた。

「はるっぴ。前を行くのは1年ボウズなんて考えるなよ。速いよ、あの子。半端じゃない。いい?はるっぴ。あの子をターゲットにするんだ。アンタが一番負けたくない、一番手ごわいランナーだと思いな。んで…絶対に負けるな!」
指原の声が飛んだ。

納得した。そして、兒玉は頭のネジを巻きなおした。
一番私が負けたくない…一番手ごわい相手…

前を行く下口の長い髪…
兒玉の視線の中で、その姿が変わっていく。
ショートカット、均整の取れた身体。
そういえば、背中を追いかける事の方が多かったような気がする。

私が絶対に負けたくない相手…
宮脇咲良を、私はこの8区で絶対に追い抜くんだ。

82.

「ちょっと、アンタ大丈夫なの?息荒いよ?おとなしく休んでろっての。」
「大丈夫ですよ。大丈夫…それより…朱里さん…?」
「わーってるって。心配すんなよ。ほら、切るよ?ちゃんとアップしとかないと…って言いたいんだろ、なっきー?」
まもなく襷がやってくる。ちゃんとスタート前に2回心拍を170以上まで上げておくこと。
内山に何度も何度も言われていた。

まったく可愛くない子だわ。いっつも私にくっついては、チクチクチクチク…言いたい事言いやがって。なんだよ、朱里さんは本気出したらスゴいんですって。今までだって本気で…
6区を走り終えた後の消耗は相当なものなのだろう。耳元から聞こえてくる内山の声は荒々しく乱れている。高橋朱里は思わず笑みを零した。

「ありがとね。」
「はい…?あの…今、なんて言いました?ありがとう…って聞こえたんですけど?」
「ったく…じゃな。後で大手町でな。」

襷を受けてしばらくの間、高橋はそれを肩にかけるのを忘れていた。
いかんいかん…思わず笑みを浮かべる。
スタート前に内山と電話で交わした言葉を思い出していたせいでもあった。

1年生の頃から「期待の星」そういわれ続けてきた。
慶育の田野優花などとは良く比べられたものだ。しかし、ここまでの3年間、高橋はその期待に決して応える成績を残したとはいえなかった。もちろん、コンスタントな記録を出してはいる。しかし、周りが期待したのは学生陸上会の次世代を担うに相応しい活躍だった。

大人しいタイプの選手が伝統的に多い聖ヴィーナスではあったが、特に高橋は闘志を表に出すことが苦手だった。決して燃えていない訳ではない。しかし、いつもどこか冷めている…そんな風に捉えられる事が多かった。そして、いつしか高橋自身も自分の事をそんな風に自己分析するようになっていた。
そんな高橋に幾度となく話しかけてくる後輩ができた。

「朱里さんは凄いんです。」
「何が?私、苦手なんだよね。アンタみたいな熱血タイプ。」
「熱血なんかじゃないですよぉ。ただ、朱里さんには…」
「汗かきたくないんだよね。余計な汗。」
「そうやってクールぶってるの似合わないですよ。ね?」
「だからさあ…これ以上速く走ろうって頑張るのなんてさ…」

うぜーよ。
そう言って追い払えばよかったんだ。
いくら封建主義が皆無といってもいい聖ヴィーナスだって、先輩後輩の上下関係は存在する。
でも、罪のない顔で目をキラキラさせてる内山をどうしても嫌いになれなかった。

「朱里さん。速く走ろうなんて思わなくてもいいですよ。朱里さんは。」
「は?何言ってんの?」
「速いって知ればいいんですよ。自分の事。」

たぶん…私は乗せられちゃったんだろうな?
まんまとあの子に釣られちゃったって事なんだろう。

でも、悪くない。
ほら、こうやって目の色を変えて…2分半も先にいるトップに追いつき…いや、追い抜いてやろうなんて思うのって。
せっかくこうやって箱根を走ってるんだ。一度くらいは襷を渡したあと、ぶっ倒れる姿をカメラに抜かれてやってもいいか。


あっという間に、前を行く四ツ谷大の岩立沙穂に追いついた。
30秒の差があったはずだ。まだ3キロも来ていない。

ん?もう?
確か、この子も決して力のない子じゃなかったはずだ。
3年生…学生ランキングに名前が入ってたのを見た覚えもある。
調子悪いのかな?

高橋は岩立の横に並び、一瞬横を見た。
一気に抜くつもりだった。明らかにペースが違う。
なのに、気になった。
違和感?いや、違う。もっと仰々しいというか、なんというか…
まるで罠を仕掛けた猟師が身を潜めているような感覚。

岩立は笑顔だった。そして、一言高橋に向かって言った。
「はーやーいー。もう来ちゃったんですか?うふふふっ。」

高橋の背中に一瞬冷たいものが流れた。
柔らかな笑顔。にこやかな表情。
そして、その裏に隠された確かな企み。

この子…わざと追いつかせたんだ?

「さ。いきましょ?二人でなら…きっとイケますよ。」
岩立のいたずらっ子のような顔に高橋がクールな笑顔を返した。
「私、速いけど?ついてこれるなら、ついといでよ。」

腕を振った。ストライドを伸ばした。
高橋がぐっと胸一つ前に出た。
岩立がまったく驚いた素振りもせずについてくる。

高橋は気づいていた。
こんなにワクワクしながら走るのは…

初めてだ。


81.

「人生はマラソンだ」

そんな風に言われることがある。
合宿所の玄関に飾られている、サイン入り色紙にもそう書いてある。
もっとも、その人がどれだけスゴイ人なのか知らないのだけど。

先頭で襷を受けた栄京女子大の北川綾巴は、500mもいかないうちにあっさり乃木坂大の桜井玲香に並ばれた。
しばらく…といっても1キロもせずに、徐々にリードを許し始ていく。
北川は悩んでいた。強豪・栄京女子大。メンバーが大幅に入れ替わったといえ、今年も優勝候補の最右翼だ。戦力の充実した3年生中心に錚々たるメンバーがエントリーに並んでいる。
その中で、北川はかなり早い時期からレギュラー入りを名言されていた。その事でコーチの玲奈と、監督の今村が言い争っているのもよく耳にした。

玲奈コーチは、まだ早い…そう言っていたに違いない。
私もそう思う。
学生ランキングにも入っていない。上位どころか、5000でも10000でも私の記録なんて、箱根レベルじゃ平凡そのものだ。だけど、なぜかみんな私に期待する。
期待されるのは悪い気分じゃなかった。最初だけは…
OGや後援会、そして熱心な栄京ファンは私を色んな人と比べた。
松井珠理奈さん。矢神久美さん…箱根の舞台で華々しく活躍した大先輩と。
私なんかがなぜ?
何度も何度も自問した。自分に本当にそんな期待に応える事が出来るだけのものがあるのか…

「綾巴?ねえ綾巴?どっか異変ある?」
監督車から玲奈の声が飛ぶ。

鬼…そんな風に私は一度も思った事なんてない。
いや…むしろ、玲奈さんは私には何も言わなかった。
嫌われてる?って思った頃もあったくらいだ。

「大丈夫です。」
綾巴は手を振って玲奈に合図を送った。

「なあ。あの子だろ?お前が言ってた北川って。」
監督車の後部座席で設楽が玲奈に聞く。
平塚でトップ二校が同乗する事になった。
「ええ。そうですよ。」
「合同練習とかでもずっと見てたけどさ…あの子をお前がどうしてそんなに買っているのか、いまだにわからないんだけどな。確かに綺麗なフォームだけどさ。雰囲気的には栄京よりもウチに多いタイプじゃねーか?」

確かに…
北川はそれまでの栄京にはあまりいないタイプだった。
だが、玲奈は逆にだからこそ、新しい栄京時代を作るのに欠かせない存在だと思っていた。

覚醒。

この子は絶対に化ける。
栄京に進んできた選手の多くは松井珠理奈という「栄京らしさ」を作った選手に憧れ、その後姿を追う。
しかし…珠理奈を超えるには、珠理奈の背中を追っていてはだめだ。
全く違うタイプが大化けする事が必要だ。

「そっちこそ。ちょっと見てないうちに堂々とした走りになったじゃないですか。」
「あん?ああ…桜井か。まあ…キャプテンだからな。」

北川と桜井の差は3キロで20秒ほど開いた。一気にではないが、徐々に北川を引き離している。
ここ3年、陸上部を強化する方針の中、乃木坂には素質に恵まれた選手が集められた。新興の学校だけに高校時代の華々しい実績を持った選手はそう多くはなかった。それでも、中には1年の時から頭角を現す橋本や白石、生田といった選手はいた。そんな中桜井はキャプテンに指名された。リーダーシップを発揮するなら、橋本や若月といったいかにもリーダータイプは他にもいた。
桜井は、いまだに自分がキャプテンでいる事の違和感を拭い去れずにいた。

しかし…いつまでもそんな事は言ってられない。
2区で高校時代からのチームメイトの若月が、やはり同級生の宮前と激闘を繰り広げた。
テレビモニターで見た二人の姿に、桜井は自分がどこかに置いていかれたような気さえした。
負けられない…負けたくない…負けない…

眠っていた負けん気に火が付いた。

太陽が昇るにつれ、じりじりとアスファルトを焼くようなにおいがしてくる気がした。
まるで夏みたいだ。
気温は20℃を遥かに超えているはずだ。沿道の観衆は初夏の装いになっている人すらいる。
もっと…もっと暑くなれ。もっともっと厳しい条件になれ。
この8区。私より速い人はいくらでもいる。
後ろから来る聖ヴィーナスの高橋さん、四ツ谷大の岩立さん。
栄京の北川さんだって。

でも…暑くなればなるほど…ものを言うのは「速さ」じゃない。「強さ」だ。
速さなら、今の私はまだまだ力不足だ。
でも、強さなら負けない。
我慢比べなら絶対に負けない。

5キロ。
後ろの北川との差が30秒に広がった。

80.

箱根駅伝が面白いのは、単純に優勝の行方を楽しむだけではない所だ。
各区間それぞれにドラマがあり、出場する選手すべてに物語がある。

「天国と地獄」

そう評されるのがシード権争いだ。

本戦で10位以内に入った学校には翌年の箱根出場権…すなわち「シード権」が与えられる。
10位に入れなかったチームは翌年、予選会に回らなくてはならない。
予選会に参加するのは、今年シード権を失ったチームだけではない。
憧れの晴れ舞台への切符を手に入れようと、虎視眈々狙いを定める数十校との戦いに臨まなくてはならないのだ。本戦の常連だった学校がシード落ちし、そのあと長きにわたって本戦に戻ってこれなくなったという事は少ないない。そして、その戦いは熾烈を極める。かつて2強の一角を占めていた慶育のここ数年の苦戦も、その厳しさを如実に物語っていた。

初出場でシード確保を果たせなかった博多大にとって、その厳しさを身に染みて感じた1年だった。
初出場を勝ち取った年よりも何倍もキツい1年だった。そして、予選会をトップ通過できたからこそ…今年こそは絶対にシードを勝ち取りたい。その想いが強かった。

いったんはブレーキを起こしたと思われた田島芽瑠だったが、その後の10キロを安定した走りで押し通した。ベストの走りには程遠かったが、それでも慶育・田口、秋英・森川と三人のグループを形成して8区へと襷を繋ごうとしていた。
大丈夫…8区にはエースが控えている。
指原がこの展開まで予測していたとは到底思えないが、博多大は8区にエース・兒玉を用意していた。
いったん流れを失ったチームがそれを取り戻すには、並大抵の力では及ばない。
それが駅伝の怖さであり、おもしろさだ。

一方で悲壮感を漂わせて走っていたのは、秋英の森川彩香だった。
名門・秋英の一員として走る事。それは、誇りであり誰もが憧れる事だ。
しかし、今のこの展開が森川に足枷をかけていた。
現在の順位は14位。小田原で襷を受け取ってから、3つ順位を落としていた。
この後の8区には実力者の中西智代梨、9区にはエース・入山が控えている。
しかし、秋英がシード落ちを危惧するポジションで走る事を誰が想像していただろうか?
その事を一番感じていたのは走っている森川だった。
伝統のピンクの襷が、彼女を苦しめていた。

長い直線の先に中継所が見えた。
最初に襷を取ったのは慶育の谷口めぐ。谷口も田島も明らかに本来の調子ではない。
この暑さで完全に体調に支障をきたしての走りだ。
しかし、森川は違った。給水に失敗したわけではない。脚や腰にも何の異変もない。
監督車からの高橋みなみの掛け声は届いていなかった。
名門・秋英の礎を築いた高橋の声は…今の森川には重かった…

三人の中で最初に襷を繋いだのは慶育の谷口。同じ1年生の下口が満面の笑みで襷を受け取った。
その場に崩れ落ちるのを出迎えた小嶋真子と後藤萌咲がしっかりと受け止めた。
恐らく、あと5メートルも走る事は出来なかっただろう。最後の最後までエネルギーを燃やし続ける事が出来る。
それもまた、箱根の魅力であり「魔力」でもある。

数秒遅れて、博多大の田島が3年生・兒玉へと襷を渡す。
最後はフラフラになりながら、秋英の襷も8区の中西に繋がった。


平塚中継所 7区終了順位(丸数字は個人区間順位/タイムはトップとの差)

1位    栄京女子大学   岩永亞美②
2位    乃木坂大学     西野七瀬①       +0:05
3位    四ツ谷大学     佐々木優佳里④    +2:02
4位    聖ヴィーナス大学 横島亜衿⑥       +2:32


14番目 慶育大学      谷口めぐ          +12:04
14位   博多大学      田島芽瑠⑳        +12:11
15位   秋英学園大学   森川彩香⑩ +12:20



79.

元来、陸上競技というのは「個人種目」である。
その中でもたとえば100×4リレーやマイルリレー(400×4)のようにチームワークが求められる種目はわずかにあれど、長距離では世界的にみてメジャーな競技はない。
駅伝は日本発祥の競技であり、オリンピックはもちろん、世界陸上や世界選手権でも種目に取り上げられてはいない。
しかし、日本では抜群の人気がある。
区間賞はもちろん称えられるが、それ以上にチームの襷を前に渡す事が何よりも大事とされる。
過去には一つの区間の区間賞を得ずに総合優勝に輝いたチームもある。

個人種目として考えた時に、今回の「勝者」は岩永亞美ではなく西野七瀬だ。
1分40秒後ろから乃木坂大の襷を栄京大とほぼ並べて中継所まで運んできた。
見事な区間賞だ。

しかし、7区から8区への襷リレー、ガッツポーズを見せたのは岩永であり、悔しくてたまらない表情だったのは西野だった。ほんの僅か、たとえその差が10秒であったとしても、岩永は西野に「勝った」のだ。
それは、タイムなんかじゃない。そして、実は僅かでも先に襷を渡せたことでもなかったのかもしれない。

もともと素材は一級品だった。同期の中だけでなく、近年栄京女子に入ってきた選手の中でも。
幼げでどこか頼りない外見とは違い、内に秘めた闘志もあった。
あとは…自信だけだった。
後続から追いつかれても、そこで自分の仕事を見失わない。駅伝を走る選手には欠かせない事だ。
しかし、自信の無さはレース中に己を見失う事につながる。

玲奈さんの期待に応えなきゃ…
岩永のモチベーションはそこにあった。
しかし、同じように玲奈の寵愛を受けたであろう、西野との一騎打ちの中で何か今までになかった感情が芽生えていた。
この子に負けたくない…いや、違う。勝ちたい。

陸上競技だけではない。
全てのアスリートに絶対必要な感情。

その気持ちが岩永の背を押した。
もちろん、その気持ちが西野になかった訳ではない。
ただ…今日はそれがほんの僅かだけ、岩永の方が強かった。
ただそれだけの事だ。

「握手しましょうよ。」
先に声をかけてきたのは西野の方だ。
「うん。お疲れ様。区間新記録おめでと。」
岩永がにっこりと笑って西野の差し出した手を握った。
「悔しいよ。」
握手した手を強く握り返しながら西野が言った。
笑顔はなかった。本当に悔しそうな顔をしている。
区間新記録を7秒更新したのに…だ。

「悔しい?なんで?そりゃ最後は私が…」
「わかるでしょ?今日は、私の負け。でも、次は負けないからね。」
「うん。言いたい事はわかる。ね、西野さん…?」
「ななせ…でいいよ。同じ学年なんだし。」
「うん。ななせ。私達、友達になれるような気がする。」
「へ?友達?」

急に何を言いだすんだろ?私は、宣戦布告のつもりで言ったのに…
ほわーんとして…さっきまでのあのすさまじいオーラは何だったの?
殺気すら感じたのに。

「友だち…?あの、私達ライバルだよね?合同合宿とかもしてるし、そりゃ知らない間じゃないけど…」
「うん。なんかね、杏実とそっちの若月さんとか見ててさ…私も…ね。」

岩永の顔を見ていると、いつの間にか西野の顔も和らいできた。
「あのさ、走ってる時、すっごい顔で私の事見てたじゃん?怒ってるのかと思ったよ?」
「うーん…ちょっとヤキモチかな…怒ってたんじゃなくて…」
「ヤキモチ?何?何の事?岩永さん。」
「私の事はつうでいいよ。ななせ…玲奈さんの事どう思ってる?」
「玲奈コーチ?どしたの?うーん。尊敬してるよ。選手としてもそうだし…」

「やっぱ、私達、友達になろ。そして…友達だから…絶対に負けないよ?」
「おっけい。そうだね。つうとなら、そういう関係でいれるような気がする。なんでだろ?」

二人が肩を抱き合って笑った。

二人がフィニッシュして1分半。3位で佐々木優佳里が入ってきた。
引き離された後も終盤自分のペースを落とすことなく走り切った。聖ヴィーナスの横島とは30秒の差をつけての襷リレーだ。
四ツ谷大は佐々木から岩立沙穂へ。聖ヴィーナスは横島から高橋朱里へ。トップの栄京・北川綾巴、乃木坂・桜井玲香。4人による史上稀に見る激闘と言われる事になる8区の幕が静かに上がった。

Page top
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。