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3連休

明日からカレンダーでは3連休ですね(#^.^#)

更新ですが、とりあえず明日はお休みになります。
福島に行ってきます(*'ω'*)

一日挟んで月曜は幕張。

いや~充実のヲタウイークです(#^.^#)

更新お待ち頂いている方…申し訳ありません…

どなたか福島行く人いらしゃったら、ライブの感想とか聞かせてくださいね~

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78.

「まったく…んな事だと思ったわ。ひな、ちゃんと水分は摂ったの?」
「はい…あ。いっけね。アップの後、まだ飲んでませんでした。あれ?確かここに…」
「あ。ここ。私が持ってた…」
「萌咲も萌咲ね。ほんと、いったい何しにここ来てるの?」
「すみません、真子さん…」

7区から8区へ。平塚の中継所は、まもなく到着する先頭ランナーを迎えようと既に最高潮のテンションになろうとしていた。春どころか初夏を思わせる陽気につられて、沿道では例年を遥かに上回る観衆がつめかけている。

「こんにちは。ひななちゃん。はじめまして。」
「こ…こんにち…」
「ねえ、奈々。ちょっといきなりびっくりさせるような事しないでよ。それに、アンタも今日はサポートなんでしょ?もうすぐトップ入ってくるよ?」
「だってさ。ひななちゃん可愛いんだもん。」
下口ひななは、小嶋と一緒に現れた岡田奈々の姿を見て、直立不動になった。
細身の身体ながら熱のこもった走りを見せる、岡田は下口にとって憧れを抱いている一人だ。
「じゃね、ひななちゃん。またね。」
「は…はい。」
「ほら、奈々。ちょっとそこどいて。」

肩をすくめるようにしてその場を去る岡田を小嶋が笑顔で見送った。
口では辛辣な事を言っていながら表情は柔らかい。

「真子さん…今日なんか雰囲気違いません?」
後藤萌咲がペットボトルを持ったまま小嶋に聞いた。
「そう?っていうか、それ早くひなに飲ませて。」
「あ…すみません。」

「もう…ねえ、ひな。萌咲に何か言ってやって。」
「何かって…」
下口が口ごもるような顔になった。
後藤も何かモジモジしたままだ。

小嶋がくすっと笑った。その笑いがだんだん大きくなる。
おかしくて堪らないという感じだ。

やっぱり様子を見に来てよかった。
萌咲ったら、昨夜風呂に入りながらあれだけ言って聞かせたのに…
「あのね、私ね、昔はペコちゃんって呼ばれてたんだ。」
「ぺ…ぺこちゃん?…ですか?」
急に何を言い出すんだろう?後藤がきょとんとした顔になった。
下口と顔を見合わせる。
「なんか、いっつも笑ってるからなんだって。似てるって言われてたんだけど…失礼だよねえ?」
「いや、似てない事は…」
「ばか、何言ってるの?ひなってば。真子さん…ちょっとクールなイメージ持ってました。」
「クール?萌咲、なにそれ?怖いって事?」

クール…か。
やれやれ。私は後輩にそんな風に思われるほど笑ってなかったって事か。
アンタたちさあ、知ってる?「真子スマイル」って。
結構私、自分で可愛いって自信あったんだけど。

「笑い方って一度忘れるとなかなか思い出すのが大変になるんだよね。」
「はあ…」
下口も後藤もさっきから禅問答でも聞いているような顔になっている。

無理もないか。
でも、私と奈々…そして未姫…みんなとのストーリーを説明するには、今からじゃとても時間が足りない。

「ひな、萌咲。」
小嶋が右手で下口を、左手で後藤の肩を抱いた。
ぐっと強い力で二人を引き寄せる。
「いい?ひな。アンタが少しでも萌咲に悪いと思ってるなら…1区で萌咲が転んだのが、自分がけしかけたせいと思ってるなら…」
下口が頷いた。
そう…それが今の下口の気になっているところだった。喉元に刺さった小魚の骨のように。
「思ってるなら…?」
「思ってるの?」
横から後藤が割り込んで聞いた。
後藤にとっても、その事が下口への硬い態度のもとになっていることだった。
そんな事は決して思っていない。転んでしまったのは自分のせいだ。そのせいで、下口に変な後悔をさせてしまっているのでは…
「思ってるよ!でも…」
「私は、そんな事これっぽっちも…」

後藤の目が涙でいっぱいになっていた。
今にも零れ落ちそうだ。

「わーった。思ってるなら、走りで見せなよ。いい?ハチキャンの子たちの走り見たでしょ?いくみんは区間新。結衣だって渚沙だって。おかげで萌咲がすっころんだ事が大分薄れちゃってる。いいの?このままあの子たちだけにカッコいいまねさせといて?」
「いえ。いやです。」
「だよね?慶育のなまいきっずはアンタたち二人が元祖だろ?ひな、いい?萌咲に見せつけてやんな。そうだな…区間新くらい簡単に出してこいよ。」
「区間新…ですか?」

そのとき、大歓声が沸きおこった。トップの選手が長い直線の向こう側に姿を現した事で、あったまっていた中継所の空気は一気に沸騰点までヒートアップした。

「ひな…がんばって。今は、それしか言えないや。」
「わかった。でも、じゅうぶん。いってくるね。」

後藤がそっと手を差し出した。下口がそれを軽く握る。

それでいい。襷を繋ぐこと。駅伝はそれが一番…いや、唯一大切な競技だ。
でも、きっとその中で私たちはもっと大切なものを見つけていく。
そして、それはずっとずっと大切にしなくてはならないもの。

友達。
それは、きっと、一生の宝物だ。


「真子さん…なんか、突然島田さんっぽくなってません?」
「へ?島田さん?ちょ…萌咲、何言い出すのよ!」
小嶋が後藤の背中を叩いた。思いがけず力が入ってしまい大きな音が立つ。
「いったーぃ。えー島田さんに似てるって言われるの、そんなに嫌なんですかあ?」
「違う。違うって。もう、何だよー」

私が島田さんに似てる?
ぜんぜんタイプ違うと思うんだけど…

「真子さん、結構嬉しそうですけど?」
「うるさいよ。ったく…」


77.

長距離ランナーにとってもっとも必要なものは何か?

余分なものは筋肉さえも削ぎ落とした、走るという機能だけに特化した身体なのか。
長丁場の稼動にも心拍数を一定に保つ心肺機能か。
肺に取り入れた酸素を効果的に血液中に送りこむヘモグロビンの保有数か?
鍛錬とも思える環境に耐えうる精神力か。

様々な要素を挙げる者はいるが、どんな者からでも必ず共通して求められる事がある。

それは「気持ち」だ。

もう止まろう…こんな苦しい思いから早く逃げ出したい。
もう少しならペースを落としてもいいんじゃないか。

オリンピックで金メダルを獲得した選手でも、突き出たお腹で喘ぎながら走っているサンデーランナーでも、そう思わなかった事はないだろう。

そういう意味で、西野七瀬は「長距離選手向け」ではなかった。
高い身体能力、バランスの取れたランナー体系に恵まれた西野は入学当初から期待された選手だった。乃木坂駅伝部強化の第一弾の世代として入学した西野は最初の合宿で大きな挫折を味わった。
「スピードクイーン」
高校時代はそう呼ばれていた。
専門は1500。駅伝では3キロ程度の「スピード区間」を任せられる事が多かった。
しかし、箱根は最短区間の4区でも20キロ弱を走らなくてはならない。西野に与えられた最初の課題は「長距離への対応」だった。

頭ではわかっていても、身体がなかなかついてこない。長距離対応のトレーニングは実は負荷的には中距離を走るよりも軽い。しかし、コーチの松井玲奈は西野に中距離のスピードを持ったまま、20キロ以上を走れる力をつける事を求めた。
「瞬発力は天性のもの」とよく言われる。
西野に備わっている天性は特筆すべきレベルのものだ。「トラックで世界を狙える素材」。玲奈は設楽や日村によくそう言っていた。だから、徹底的に鍛えた。玲奈は自分の過去を西野に重ね合わせていた。きっと、この子はいつか化ける…いや、自分が凄い選手なんだって事を知る日が来る。

西野は毎日泣いていた。でも、一度も辞めると言い出した事はない。
そして「その日」は突然やってきた。

昨年の4区。未だ西野は15キロ以上の距離でベストの走りを出来ずにいた。
エントリーを不安視する声が大きい中、玲奈は西野を起用した。
そして…結果は出た。
追い風に乗った事もある。しかし、湘南路を駆け抜けた西野を捉える事が出来た選手は他に一人もいなかった。堂々の区間賞。「大器」は本番の大舞台で覚醒した。


「寝た子を起こしちゃったかもしれないなあ…」
玲奈がそう小さく呟いて監督車から後方に目をやった。
後方の視界が開けていた。第2中継車がいなくなったという事は後ろとの差がなくなったという事だ。小田原では2分の差があった。亞美だって決して弱い選手ではない。事実、今年に入ってからの学生ランキングでは飛躍に近い程の伸びを見せていた。逸材揃いと言われている今の3年生の中では目立たない存在ではあったが、成績の伸びとともに顔つきが変わってきた。今では、十分栄京のエースとしての自覚を持ちえているといってもいいだろう。

しかし…
「つう。後ろも来たよ?そろそろ、じゃれあいっことはお別れしようか。」
玲奈の声が拡声器から響く。

三人の先頭争い…いや、これは「争い」じゃないな…
まんまと峯岸さんにしてやられたみたいだ。
先に苦しい顔をし始めたのは、ウチの亞美と聖ヴィーナスの亜衿さんだ。
そこで勝負に出てもよかったはずなんだ。でも、峯岸さんからその指示は出なかった。よほど8区以降に自信を持っているのか…そう思ってた。でも…これは違うな。
飛び出さないんじゃない。飛び出せないんだ…
なら…残り3キロ。仕掛けるならここだ。

「行けるよね?つう。行けないって言うなら…」
玲奈の声が響く前に岩永はスパートをかけていた。

玲奈さんが何を言いたいのかよくわかってる。
つうは玲奈さんを鬼と思ったことなんて一度もない。
確かに、すっごく厳しい人だ。でも…本当に優しい人だ。
厳しい練習だって、ちゃんとそれが厳しくて辛いことなんだって自分でわかってくれてる。
だから、ガンバった時にはちゃんとほめてくれる。
つうは玲奈さんの喜んでくれてる顔が大好き。
速く走りたいとか、記録を伸ばしたいとか、勝ちたいとか…そんな事は正直あんまり興味がない。
ただ、玲奈さんにほめられると嬉しいし、あの優しい顔を他の誰よりもつうに向けて欲しいだけ。
あの笑顔を見れるなら、つうはどんな苦しくてもがんばれるよ。

岩永のスパートは強烈だった。
玲奈の読みは当たった。限界に近かったであろう聖ヴィーナスの1年生、横島は反応すら出来なかった。四ツ谷大の佐々木は前に出た岩永を見るのではなく、後ろに視線をやった。監督車の峯岸が大きく頷くのが見えた。そのまま岩永を追う事無く横島と併走を続ける。

佐々木の安定感は揺らぎのない本物の力だ。本来、岩永と何ら力の差はない。
しかし、ロードは…いや、駅伝というものには、普段目に見えない特別な「何か」が求められる。
今の佐々木には爆発力は望んでいない。残り3キロ。十分に与えられた仕事をこなしてくれた。
昨夜エントリー変更を伝えたばかりで、今日ここまでの走りが出来たのは佐々木以外いなかっただろう。


岩永についていったのは…ついていけたのは、先頭を争っていた二人ではなかった。
後方から疾風のように二人を抜き去った西野だ。
「七瀬…来たね?」
監督車を抜いていく瞬間、玲奈が西野に目線だけで話しかけた。

確かに今の七瀬は速い。乃木坂で今一番速いのはあの子かもしれない。
でもね、七瀬。ウチのつうだって相当なモンだよ。
「つう。後ろから七瀬が来たよ。つうも知ってるよね?七瀬は私が見出して、私が可愛がってきた選手。いい?私に笑って欲しかったら…七瀬より前で襷を繋ぎなさい。」

西野が岩永に並んだ。スピードが違う。一気に前に出ようとした時だった。
岩永が更にギアを入れ替えた。
大きなストライドの西野。小さな身体で小刻みにピッチを刻む岩永。
二人の身体が重なるように前を競う。

「玲奈…アンタ、怖いオンナだねえ。」
峯岸が玲奈の肩に手をかけて笑った。
残りは僅かだ。後方に選手は下がってしまったが、監督車の入れ替えは中継所近辺までお預けになる。
「怖い…?そりゃ、鬼って呼ばれてますけどね。峯岸さん。」
「いや、そういう意味じゃないよ。オンナ心を手玉に取るのが上手いって言ってるの。亞美ちゃん、必死じゃない。七瀬ちゃんを見るあの目…あれは嫉妬だよ。ジェラシー。アンタが可愛がってる子には死んでも負けない…って顔だよ。」
「勝つためですよ。勝つ為なら…何でも私はやりますよ。」

玲奈の目が妖しく光った。

つう、嘘じゃないよ。私はあなたの事が可愛くてしかたない。
だから…勝ちなさい。
勝って私を喜ばせて。



76.

2キロってこんな遠かったっけ?現役を退いても毎日朝10~15キロ走るのを日課にしてた。
ハーフ位までなら全盛期と変わらないペースで走る自信はある。
でも…たぶん無理なんだろうな。レースの緊迫感の中で走るのは、ぜんぜん違う。
たった2キロでもこんなにキツいんだから…

指原が息を切らしながら田島の横に立った。すでに到着しているドクターが水のペットボトルを差し出そうとしていた。
「すみません。ソレ、ちょっとこっちに頂けますか?」
指原はドクターからペットボトルを奪い取るようにした。
腰に手を当ててゆっくり歩いてる田島をしばらく黙って見つめる。

「芽瑠…腹痛いのか?」
田島が何度か小さく頷いた。
「苦しい…とかじゃないな?芽瑠…出そうなのか?」
指原は笑っていた。

ふざけてる場合じゃないですよ?何言ってるんですか?
こんな大事なときに…どうしようもないんですよ…私だって、こんな時にお腹が痛くなるって不甲斐ない思いでいっぱいだし。でも…茶化していい場面じゃないじゃないですか?

田島の顔に怒りが浮かんでくる。
腹痛は食べすぎて走った時に起きるような種類のものではない。
いくら大食漢の田島とはいえ、レース直前にお腹を壊すほど食べるなんてありえない。

「あははは。悪い悪い。芽瑠、笑ってみろよ。」
「笑う?さっしー。冗談が過ぎませんか?私…」
「笑えないか?じゃあ…大きな声で歌ってみろよ。ホラ、いつも打ち上げとかで歌ってるじゃない?あの歌。なんだったっけ?初恋は~エビフライ~ってヤツ。」
「エビフライじゃないです。それに…そんなメロディじゃないですし。」
「そうだったっけか?私、音痴なんでさ?なあ、歌ってみてよ。」

田島は指原をきっとにらみ付けた。
いいわよ。歌ってやるわよ。
ほんと、いったいこの場面で何を考えてるのか…

「初恋はバタフライ~つかまえないで~」
田島は歌った。大きな声でだ。
周りの観客やドクター、係員が一斉に驚いた顔を向ける。
「よし。芽瑠…いけるな?」
「はぃ?いけるって…さっしー、私は…」
田島がお腹の辺りをさすった。

あれ?
痛くない…
さっきまでキリキリしたような痛みと、小刻みな痙攣があったのに…
すっかり落ち着いている。

この気温の中、選手がもっとも警戒するのは脱水症状になる事だ。
水分補給は十分に行わかくてはならない。
しかし…一気に水を体内に取り入れるのには気をつけなくてはならない。
所謂「お腹がだぶつく」状態になってしまうのだ。腹痛と痙攣がおきる。
そして、その状態で走っていると症状は治まる事がない。痙攣さえ治まれば何とかなるのだが、それを抑えるにはいったん立ち止まって体をリラックスさせる必要がある。軽くマッサージでも出来れば簡単なのだが、レース中の選手に手を貸すとその時点で「失格」となってしまう。

「芽瑠。残り半分ある。そうだな…先頭はいいや。お、ちょうどいい。」
指原は目の前を通り過ぎていった選手のほうを指差した。
「ターゲットはアレだな。でも、まだ全開は駄目だ。また腹痛くなるから。」
「はい。わかりました。でも…」
「いーから。後にははるっぴだって、なつだってキャップだっている。大丈夫。みんなを信じるんだ。」

田島が小さく頷いてスタートを切った。
前を走るのは、秋英の森川彩香だ。その更に前方には遠く慶育の谷口めぐの姿も見えた。
森川は明らかに走りに制裁を欠いていた。谷口もこれまでの慶育の勢いを引き継いだ走りが出来ているようには見えなかった。二人とも、順位を下げていた。秋英にとっては、初出場以来守ってきたシード権確保すら危うくなってきている。

ここは凌いでくれ…何とか無事に次につないでくれればいい…
指原が後ろからやってきた監督車に乗り込んだ。


75.

「指原さん、すみませんが後続の監督車に乗り換えていただけますか?立命館と仏教大の監督と同乗して頂きます。」

早くそうして欲しかった。監督車から降りた指原は、苛立った表情で後ろを見た。
来ない…こんなに差が開いたのか…
最初の5キロ、博多大の田島芽瑠は区間記録をはるかに上回るペースで入った。
前の乃木坂とは1分強。先頭とは約4分の差があった。総合優勝の為にはこの7区が勝負だ。

田島は最初から飛ばした。それは指原の指示でもあった。
まだ2年生。しかし、指原は田島の事を「天性の長距離選手」と評していた。
事実、1年生から箱根に抜擢され5区を走った朝長美桜とともに博多大黄金期の一角を担う活躍を見せていた。抜群の安定感を誇る宮脇たち3年生。爆発力と将来性豊かな1年生の矢吹や田中といったメンバーも入ってきた。その中でも博多大の躍進は田島を中心とした2年生になる…そう指原は考えていた。

異変はすぐに感じられた。中間点手前、突然田島が右のわき腹を押さえた。最初は何とかキープしていたペースだったが徐々にそのスピードが落ちていく。大東大、順天堂大に抜かれた。
ランナーにとって腹痛は実に厄介だ。いったん始まってしまうと、ペースを落としてもなかなか治まらない。田島の腰がだんだんと落ちてくる。いつもの躍動感溢れるフォームは見る影もない。

来た!
指原が歩道から身を乗り出す。

しかし緩やかにカーブをする先から見えてきたのは、黒のシングレット姿ではなかった。エンジと紫のシングレット。立命館と仏教大のユニフォームだ。

「さっしー。芽瑠ちゃん、止まってるってよ。まだ2キロ以上手前。」
沿道の観客が指原に声をかける。手元のワンゼグの画面をこちらに向けてくれた。
腰に手を当てて天を仰ぐ田島の姿が大写しになっている。
「芽瑠!待ってて。今いくから。」
指原が駆け出そうとしたが、歩道は大観衆で埋まっている。反対車線は渋滞した車で身動きが取れない状態だ。
「指原さん、こちらへ。」
係員が手招きをする。「
監督車に乗れない状況ですので、やむをえないという判断です。センターライン沿いを注意して歩いて戻って頂いても結構です。ただ…選手が止まっている地点まで2キロ以上ありますが…」
「ありがとうございます!」
指原が駆け出した。相当重症に見えた。ドクターストップがかかっても仕方ない状況だ。
止まる事は構わない。ここで棄権するって選択、決して恥ずかしい事でも何でもない。

でも…
止めるなら、私の手で止めてあげたい…

沿道がどよめいた。
道の真ん中を指原が逆走し始めたからではない。

その躍動感のあるフォーム。大きなストライド…
ここまで通過したどの選手よりも、美しく…速かったからだ。



74.

7区21.3km。小田原から平塚までの区間、橋を渡る際の小さなアップダウン以外は殆ど起伏のないフラットなコースだ。しかし、実は過去に何度となく大きなトラブルが起きているのがこの7区だ。
その原因の多くは「気温」。もちろん、真夏の30℃を超えるような気温の中で走ることはない。だが、2月は「光の春」と呼ばれる。陽光は高い位置にあり、南風が入ってくる日には20℃を超える気温になる日もある。
往路は「春一番」の強烈な風が選手を苦しめた。しかし、今日はその風は優しく頬を撫でるような風に変わっていた。7区は往路とは逆に日差しを背中に受けて走ることになる。これが厄介なのだ。実は首筋に日差しを受ける事が選手にとってもっとも「体温」を上昇させてしまう要因になる。午後9時を過ぎ、気温が一日で一番上昇するのもこの時間だ。

選手は「熱」と「光」と戦う事を強いられるのだ。
箱根駅伝…そこに「楽な」区間は一つもない。



先頭の三人は6区の激闘の熱さをそれぞれ上手く吸収して走っていた。
時々先頭交代を行いながら、まるでペース走をしてるかのような安定したラップを刻んでいく。
その中で一番前に出る時間が長くなっていたのが、四ツ谷大4年生の佐々木優佳里だ。
平然と前を向いて走る栄京の岩永亞美、聖ヴィーナスの横島亜衿と比べて明らかに表情に落ち着きがない。前入れ替わりましょうか?そんな風に岩永が抜きにかかると、え?スパート?って全身で警戒感を顕にする。そうではない事を知ると、一瞬ほっとした表情を見せたかと思うと、今度はまだ遠く離れて見えっこない後ろを振り返ったりしてみる。

監督車の中で心配そうな顔になってきたのは、峯岸ではなく倉持と玲奈の方だ。
後ろから見ても、オロオロしながら走ってるのがわかる。時より振り返ったその顔は今にも泣き出しそうだ。今日、突然のエントリー変更で気持ちの準備が出来ていなかったのだろうか?

「篠崎さん、何かあったの?」
倉持が直球で聞いてきた。腹の内を探るつもり等毛頭ないのだろう。かつてのチームメイトだ。そんな腹黒い性格でない事を峯岸はよく知っている。
「ううん。単純に彩奈よりゆかるんの方が調子がよかっただけ。」
「そうなの?でも…」
「ああ。ゆかるん?アレね…いっつもそうなのよ。なんたって『ネガティヴの権化』みたいなものだからねえ。ま、あの顔で走ってる時はあんまり心配してないけどね。」
「そうなの?また三味線弾いてるんじゃないの?」
「いやいや。ないって。」
峯岸は苦笑するように笑った。事実、苦笑するしかなかったのだ。

力はエースクラスだ。ウチの中でも総合力では、大森美優と並んでもっとも安心できるメンバーの一人といってもいいと言える。だからこそ、エントリーではリザーブに回した。往路では茂木の体調不良を大森が見事にカバーしてくれた。もともとエントリーしていた篠崎は、数日前から神経性の胃炎の症状があった。ギリギリまで回復を待ったがベストの状態にはなれなかった。佐々木も、大森もいつ誰にトラブルがあっても出れるような準備を重ねてきた。そんな事が出来るのは、そうはいるものではない。そして、その対応が出来るメンバーを用意できる層の厚さが四ツ谷大の強さでもある。

「あの子はビクビクしてる位がちょうどいいのかもしれない…」
峯岸が独り言のように呟いた。
そのとおりだった。三人のペースが徐々に上がりはじめる。
苦しそうな表情になり始めたのは、岩永と横島の方だった。

73.

箱根駅伝を語る上で欠かす事が出来ないのが、数々の輝かしい記録だけでない。
途中棄権や大ブレーキ。選手の心に植えつけられる深い傷…
無責任な外野はそんな残酷なドラマさえ求める。
強烈な光と影とのコントラスト。筋書きのないスポーツだからこそ、それは人々の心を揺さぶる。

今年の場合、それは往路における慶育大の途中棄権だった。
過去一度も途切れる事のなかった名門の襷が途切れた。
涙にくれる後藤萌咲。何とか前に進もうとするその肩に、監督車を飛び降りてきた横山がそっと手を置くシーンは何度も何度もニュースで取り上げられた。
ドラマはそれだけでなかった。
途切れた襷。しかし、慶育のランナーは決して前へ向く事を放棄しなかった。
まるでそれが定めかのように、繰上げの襷を必死に繋いだ。
2区の中野郁海と5区の小嶋真子は参考記録ながら驚異的といわれている区間記録を大きく塗り替えたし、4区の田野優花も区間賞を取った四ツ谷大・西野の記録を上回るものだった。

そして、その小さな身体で山を駆け下りてきた坂口渚沙もその勢いを確実に身に纏っていた。同時にスタートした繰上げの4校だけでなく、20キロの間に更に5校もの選手を追い抜いてきた。
トップとの差は縮まっていた。さすがに区間新にあと2秒まで迫った聖ヴィーナス・内山のタイムを上回る事こそ出来なかったが、目の前には見慣れたユニフォームがいる。秋英学園大の田北が蛇行しながら中継所へのアプローチに入ろうとしているところだった。

6区でのブレーキは過去何度もある。途中棄権も少なくないが、その殆どが残り3キロになってからの区間に集中している。箱根の山は登りよりも、むしろ下りでその牙を剥く。ハイスピードで走る選手を路面からの衝撃が容赦なく襲う。そして、消耗しきった下半身の筋力は残り3キロの平坦路で選手の意思を伝える事を頑なに拒否するのだ。

ましてや、その中に競り合いの精神的消耗が加わるのだ。初めての箱根で、その厳しい状況に潰されてしまっても無理はない。名門・秋英の選手であってもそれは同じだ。

坂口が中継所の直前で田北をかわしていく。坂口も1年生だ。田北と同じようになっていてもおかしくなかった。紙一重の差だった。ナイフの背をギリギリの所でバランスを取りながら走っている。それが箱根6区の恐ろしさだ。


秋英のピンクの襷も何とかつながった。坂口から谷口めぐへと繋がれた繰上げの襷に続き、田北から7区の森川彩香へ。

来年のシード権は上位10校に与える。かつて2強と言われた慶育だけでない。結果が出なければ秋英であっても同じ目にあうのだ。森川の顔には相当な緊張があった。
今の順位は11位。
本来はこんな順位を競うために走っている場合ではない。
しかし…上位を争うよりも、もっと厳しい戦いになる…
それが箱根の「もう一つのドラマ」。
シード権争いだ。



小田原中継所 通過順位 (丸数字は区間順位)


1位 聖ヴィーナス大学  内山奈月①    -
2位 四ツ谷大学     込山榛香③   +0:02
3位 栄京女子大学    熊崎晴香④   +0:02
4位 乃木坂大学     齋藤飛鳥②   +1:47
5位 博多大学      本村碧唯⑦   +3:57

11番目 慶育大学     坂口渚沙    +9:07
11位 秋英学園大学    田北香世子⑮  +9:55


72.

全身がゾクゾクしてくる。鳥肌モノどころの騒ぎじゃない。
齋藤飛鳥はあくまでも「後の手」だ。
本来は6区で松村が力を発揮するのが乃木坂の元々の「戦略」だ。
もちろん、秋英や博多を振り切る事位は期待していた。

しかし…
区間記録を2分近く上回るペースで走る先頭に、1分遅れのスタートから追いつくなんて…
そう思ったのは設楽だけじゃない。テレビモニターを見つめる日村の顔からも笑顔が消えていた。
いったい、こいつのどこにこんな力が隠されていたのか…

大平台のヘアピンを齋藤は最短距離で回っていった。内側はもっとも傾斜が強い。まさに「飛ぶように」齋藤はそこを越えていった。あっという間に前の三人の背後につく。

不意をつかれたように三人が同時に振り返った。
お互い三人での勝負が始まる…そう覚悟を決めた瞬間だ。
齋藤がその間隙をつくように一気に前に出る。トップが入れ替わると同時に、残り6キロの勝負が三人から四人に切り替わったという事だ。

「よっしゃ。そうだ。前で走るんだ、齋藤。ここでも同じだ。お前は自分の走りをすればいい。」
設楽が齋藤にそう声をかける。6区の序盤で博多と秋英を振り切った時と同じだ。
齋藤は完全に覚醒した。
今のあいつについていけるランナーなど…いやしない。


そう思ったのは設楽だけではなかった。
もとより自分の走りが誰かを惑わせる事など自覚はしていない。
でも…いける。齋藤はここにきて、その思いを強くしていた。

今までどう走ればいいかがよくわからなかった。飄々としてて、何を考えてるのか見えないってずっと言われてるのも知ってた。私だって悩んでたんだ。みんな、私をほめてくれる。でも…肝心なところで重要な役回りを任せられるのは、きまってほかの子なんだ…

齋藤は三人を従えて山を駆け下りていった。
さっきと同じだ。
私は自分のフォームで…このままのペースで前へ進めばいい。


旧函嶺洞門を過ぎた。湯元の町並みが見え隠れし始める。
長かった下りが終わる。ここから先、中継所までは緩やかな下りになる。
しかし…急坂を下ってきた選手には、この区間が上り坂のような感覚に襲われる。

おかしい…さっきとは違う。
秋英と博多の子は、段々と気配というかそういうものが消えていくのがわかった。
振り返るまでもなかった。いつの間にか後方に引き離されていったのが背中に伝わってきた。
でも、今は違う。気配が消えるどころか、どんどん「気」が大きくなっていく。
気…殺気だ。
今にも喰ってかかろうっていう気が自分の背後から襲ってくる…

振り返っちゃ駄目だ。その瞬間…喉元に切りつけてくる。駄目だ。逃げなきゃ…
その思った瞬間だった。齋藤は一陣の風が渦を巻いて自分を巻き込むのを感じた。
一瞬目を閉じる。眩いばかりの光線が差し込んできたようにも思ったからだ。

目を開けると、三人の選手が自分の前に出ているのが見えた。
抜かれた?この一瞬で?
齋藤は目を丸くした。そして、三人の姿に目を奪われていくのを感じた。

足取りは軽やかとは到底言えない。急な斜度の変化に対応しきれていないのか、踵からの着地になってしまっているからバタバタという足音さえ聞こえてくる。上半身も大きく横にぶれているから、頭が激しく上下に動く。まるで短距離走…いや、違う。小学生のマラソン大会だ。長い髪をまとめた込山のポニーテールが激しく揺れている。熊崎と内山の髪が振り乱されてるのは風のせいなんじゃない。
フォームなんて代物じゃない。ただ本能のままに走ってる…それだけにしか見えない。

なのに…
なのに、なぜこんなに心を奪われるんだ?
なのに、なんで徐々に背中が遠くなるんだ?


齋藤の頭の中に、ずいぶん前に生駒里奈に言われた言葉が浮かんできた。
生駒にどうしても勝てない…力は変わらないと思ってた。
なのに、大事なレースになると絶対に勝てない。
「最後は気合だよ、気合。」
何を馬鹿なこと言ってるの?って思ってた。
気合なんてもので速く走れるなら…そんな非科学的なことなんて…

でも、今ならそんな言葉が胸にすっと入ってくる。
事実、目の前で繰り広げられている「戦い」の中に私は参加する事すら出来なかった。
ビビった?そうじゃない…
髪を振り乱し、汗を飛び散らせ、顔を歪めて…カッコなんかじゃなくとにかく前に進むことしか考えていない三人の姿を心から美しいと思ったんだ。
今の私に欠けてるもの…なんとしてでも勝ちたいって思う闘争心。
それはきっと「積み重ねる」事が必要なんだ…

気合…か。
いこちゃん、そんな簡単な言葉じゃないかもよ。
でも、よかった。この世界を見れて。この世界に触れることができて。
きっと…私は変われる。いや、変わらないといけないんだ。

設楽の電話が鳴った。日村からだった。
「うん…ああ。わかってる。いや、十分じゃないか?そう。まだ勝負は終わってない。この先、きっとこの勢いは生きてくるよ。」
そう、俺たちは…齋藤飛鳥は、今日ものすごいものを手に入れた。


残り1キロ。ここまで来たら、最後は気持ちの強いものが勝つ。
そんなセオリーを超えるもの展開で6区の先頭争いは幕を下ろした。
三人が全く同時で小田原中継所、鈴広の駐車場に入ろうとしていた。

「譲りません。全く譲りません。一瞬前に出た四ツ谷大の込山榛香の横に栄京の熊崎、聖ヴィーナスの内山が並びました。ラスト500m…さすがにペースが落ちました。しかし…しかし、闘志は決して衰えていません。前へ、前へ。今ようやく込山が襷を取った。熊崎も。内山は…内山は…取りません。その分スパートをかけた。襷をつけたままのスパート!区間新は?区間新は出るのか?さあ、一歩出た。内山が一歩出た!そして、今、襷を取りました。聖ヴィーナスが先頭で7区へ襷をつなぎます!2年生内山から1年生横島亜衿へ。そして、四ツ谷大の込山、栄京の熊崎、ほぼ同時だ。同時に襷が渡ります。四ツ谷は今日エントリー変更、4年生の佐々木優佳里、栄京は岩永亞美へ。激闘の6区は、最後まで激闘で先頭争いを終えました!」


先頭から2分遅れで乃木坂の齋藤が中継所にたどり着いた。いったんは追いついたもののトップからは結局2分近い差がついた。頭からタオルをかけられ、控え所に戻りながら倒れこんでいる三人の方を見る。何か話しかけようとしたが、それを思い留めた。
まだだ…ああやって、すべてを出しきる走りが出来るようになってから…そのときに、堂々と握手を求めよう…まだ私には来年もある。

「2秒だって。惜しかったですね。」
頭の上から声がした。内山はゆっくりと目を開けた。
込山の顔があった。思いっきりの逆光に思わず目を閉じる。
「惜しかったって…先に襷つないだのは私だったはずだけど?」
高校の2年後輩だ。顔見知った込山の屈託のない笑顔に思わず内山の顔が緩む。

「違いますよ。区間新まで2秒だったって事ですよ。」
込山の隣で熊崎が笑っている。
「狙ってたんでしょ?区間新。」
込山がそう言いながら取材陣に囲まれている須田の方へと目をやる。
「区間新か…そうだね。でも…そんな事途中からまったく考えてなかったよ。だって…アンタ等しつこくてさ。どうやって振り切ってやろうか…それしか考えてなかったよ。」
「お互い、しつこいですもんね。」
「こみ。アンタ、相変わらず生意気だね~」

三人の大きな笑い声に周囲から目線が集まった。報道陣がマイクを向けてくる。
その向こうで須田が笑顔で小さくVサインを作った。

やったね。よく走ったよ。
そうほめてくれてる気もした。
まだまだだね。亜香里の記録はそんな簡単に抜かせないよ。
そんな風に挑発されてる気もした。

やっぱり須田亜香里は偉大だった。
でも…だからこそ超える価値が。超える必要があるんだ。

内山は須田の方に大きく頭を下げた。

この2秒…絶対に来年は超えてみせる。

71.

熊崎晴香、込山榛香、そして内山奈月。
三人の先頭争いは5キロ以上に渡って続いていた。
めまぐるしく先頭が変わる。駆け引きなんかじゃない。
三人の意地とプライドが激しくぶつかりあっていた。

実況のアナウンサーのテンションは復路開始早々のこの時点で早くもクライマックスに達しているかのようだった。

「先頭が小涌谷の踏切をを通過します。前に栄京の熊崎。その後ろに聖ヴィーナスの内山。あっと、ここで込山が、四ツ谷大の込山が前に出た!そして…ああっと、ここでまた後ろを振り返る。そして…笑いました。何度このシーンが繰り返されてるのでしょうか?まるで、挑発するように。抜き返してみろ!まだまだこの戦いは終わらない。まるでお互いが火花を散らしあうように。あーっ今度は内山だ。内山が…前の熊崎を押しのけるかのように込山に並んだ。内山も笑っている。しかし…その笑顔は余裕の笑顔では決してありません!そして…そして…5区の中間点の通過タイムが…」

絶叫調のアナウンサーが一瞬言葉を詰まらせた。
プロとしてはいかがなものだが、それが事の大事さを強調させた。

「6区の区間記録。あの『山の妖精』栄京女子大・須田亜香里が打ち立てた前人未踏の区間記録を、なんと1分半。中間点で1分半も上回っています。このスピードは脅威だ。脅威のスピードで山を下る先頭。果たして、このままの勢いでこの先進むことができるのか?」

興奮しているのは実況だけではなかった。監督車からひっきりなしに声が飛ぶ。もう怒号に近いものだった。最初は峯岸と玲奈の熱くなっている様をにこやかに眺めていた助手席の倉持も、もうすっかり顔を赤くしている。身を車から乗り出さんとしながら内山に声をかけていた。

もちろん、走ってる本人達の中にも熱いものが燃え盛っていた。
「ブレーン」としては冷静な内山の何かに取り付かれたような走りはもちろん、熊崎も込山も。


聖ヴィーナスに進んだ大和田南那、同じチームの向井地美音。エース区間の2区を走った大和田、裏エース区間とされる9区を任されている向井地。二人の四ツ谷大付属高の同窓生に比べ、込山の評価は最初決して高くなかった。
飄々とした走りながらも圧倒的な速さを見せる大和田。2区で見事な走りを見せた事で元秋英の前田敦子2世と呼ばれるようになっていた。向井地も小柄ながらパワフルな走りで大島優子2世の呼び声が高い。
込山はずっと焦っていた。トラックでもロードでも…なかなか二人との差は埋まらない。小さな大会では実績を見せてはいたし、「クセ者」として強豪四ツ谷大の6区を任されている。
それでも、自分はこのチームに必要とされているのだろうか?

居場所が欲しかった。チームの中でって意味ではない。
四ツ谷大の環境は最高だ。湯浅さんも峯岸さんも熱くて大好き。
先輩だって同級生だって競い合って強くなるって環境は私が望んだものだ。
「こみはるっていったら何々だよね」そんな風にいわれる何かが欲しかった。
内山さん、熊崎さん…こうして走ってるとわかる。
きっと、私たち三人って似てるんだ。こうやって大歓声を浴びると力がわいてくる。
沿道から自分の名前が呼ばれると、気持ちが高ぶってくる。
一歩一歩…路面からの衝撃を受けるたびに、こんちくしょう、負けるかって気になってくる。

こんな楽しいの初めてだ。
こんなに負けたくないって思ったのも。

このまま…このままずっと三人で走ってられたらな。


ちょうど三人が横一線に並んだ。真ん中の込山が両脇の二人に笑顔を送る。
熊崎が、内山が…笑顔を返した。

「ねえ、そろそろケリをつけなきゃいけないんじゃない?」
「ですね。でも内山さん、もう限界って顔してますよ?」
「だめだめ、熊ちゃん。それがきっとこの人の手なんだから。」
「そっか。騙されるとこだった。」
実際に言葉にしたわけじゃない。
そんな余裕は三人にはもう残っていなかった。
それでも、会話は成り立っていた。三人の気持ちがシンクロしていく。

大平台のヘアピンが近づく。外側を回り込むようにして走ってきた復路よりもアールの小さなカーブを最高速までスピードの乗った三人がカーブに飛び込んでいく。

カーブの最中に三人は同時に右斜め上に視線を走らせた。そして、同じ光景を共有した。
区間新を大幅に更新するかというハイペースで走る三人を遥かに上回るスピード。

乃木坂大の齋藤飛鳥の姿があった。

70.

全国区の人気を誇る箱根駅伝だが、北海道ではそれほどの大騒ぎをもって注目されているという訳ではない。駅伝自体に人気がない訳ではない。テレビで楽しむ「スポーツ」としては高い人気を持っている。2月の話題の中心はもっぱら箱根路を駆ける美しき女子選手たちだ。
ただ、そこを目指す選手は殆どいないのが現状だ。
小樽北照という高校駅伝常連の学校はあったものの、そこから大学に進学する者は極めて少ない。というのも、ある強豪実業団チームとの強力な連携関係が存在するからだ。
北海道の畜産物を管理販売する協同組合出資の企業を母体とするそのチームは、社会人駅伝の強豪だった。有力な選手を関東の大学に供給するのではなく地元に残す。最果ての地である北海道に残す為に目ぼしい選手の強化に中学…いや、小学校の至るまで手を貸すのが方針だ。

坂口渚沙もある意味、その「エリート養成」の中で育てられた選手だった。
学業も極めて優秀であった坂口は、畜産物の流通の仕事に就く事を視野に慶育大学の通信課程で学んでいた。だから、島田晴香からスカウトの話があったとしても、それは自分には縁のない事…そんな風に思っていた。
もちろん、箱根に憧れないわけではない。高校の時は慶育の田野のファンだった。
小さな体を目いっぱい使って走る田野のフォームに憧れた。どちらかというと控えめな性格だった坂口には田野のビッグマウスぶりにも強く魅かれる部分があった。


スタートしてすぐに一人旅になった。同時にスタートした他の4人をあっという間に置き去りにした。小学校から中学校。道内のタイトルと名のつくものは全て手にした。高校駅伝では「全国」のレベルを実感した。
十分いける…通用する。そんな自信もあった。次のステージは社会人…
そう思っていた坂口は、かなうはずのなかった箱根の晴れ舞台で文字通り躍動した。
おぼろげに抱いていた自信が、今現実になっている。

島田コーチっていったい何者なんだろう?
選手としての島田さんは良く知っていた。
いや、長距離を走ってる人間で知らない人なんていないと思う。
でも、急に現役を引退して指導者の道に進むってなっても、ちょっとの間表舞台から消えていた。今だってそりゃ名門・慶育とはいえ一介のコーチだ。島田さんの実績なら、すぐにどこかの大学に監督として迎えられても不思議じゃない。
それに…会社の社長にまで掛け合ったって聞いている。なんでも、酪農品の関東の主力ホテルや旅館への流通ルートを用意する代わりに、選手育成に慶育を一枚噛ませろって…そんな話、聞いたことない。そこまでして、私を迎えにきてくれたなんて…


「なぎ。また余計なこと考えとるんと違う?ほら、上向き。下りだからって下ばっか見取るとあかんって言われとったやろ?」
監督車から声がかかった。
坂口がはっとして前を向く。ちょっと長い直線になると前を行く選手が見える。今は二人の選手が視界に入ってきた。

小涌園の前に差し掛かった。坂口が一瞬圧倒されたような顔になる。
大観衆だ。北海道ではもちろん、高校の時に出た全国大会でもこんな熱狂的な観衆の前で走ったことなんてない。

「箱根って…どんなトコですか?」
北海道まで会いに来てくれた島田さんは、きちんと答えてくれなかった。
ただ満面の笑顔でこう言ってくれた。
一心不乱に毛蟹の身をほじくっていた顔を上げて。
「んーごめん。言葉じゃ説明できないわ。でも…さいっこうだよ。」
子供のような笑顔だった。口の端っこには蟹身がくっついたまま。
私も思わず笑った。そして、思った。
こんな風に私も語れるようになれるのかな?
こんな笑顔で最高っって誰かに箱根の事を。

また前を抜いた。

どこまで行けばいい?
何位を目指せばいい?

そんな事はいつの間にか頭から消えていた。

島田さん。わかりました。
最高です。
ここに連れてきてくれて…
私にチャンスをくれてありがとうございます。

苦しい…こんな苦しい思いをして走った事なんてなかった。
一歩一歩、足が地面につくたびに衝撃が体を貫く。
坂口の小さな体は文字通り「飛んで」いた。

でも、どうしてだろう?
こんなに苦しいのに。
こんなにキツいのに。

楽しくて仕方ない。


69.

先頭でつば競り合いが始まった頃、1分ほど後方では第2集団が形成されていた。
乃木坂大の齋藤飛鳥が先頭に立ち、その後ろに博多大の本村碧唯と秋英学園大の田北香世子。
最初の登りを先頭とほぼ同じペースで駆け上がっていった。

「香世。行けたら行っていいぞ?そんなに速いペースじゃない。前とは1分だ。下りのうちに前に追いつくぞ?いけるよな?」
監督車から高橋みなみが声をかける。一旦は下位に沈んだ秋英だったが、5区川栄が見事なカムバック。区間賞の走りで再びトップを狙えるところまでチームを押しあげた。まだまだ今年の箱根は望みを持てる…
「香世?大丈夫か?どこか異常か?」
田北が右手を軽く上げて小さく横に振る。何かトラブルという訳でもないようだ。
らしくないな…高橋は首をかしげた。
隣の席に座っている指原のほうをこっそり見やる。そこには同じように戸惑いに近い表情を浮かべてる指原の横顔があった。
かつては師弟関係で結ばれた二人だった。指原の山の適正を見出し、そして抜擢。選手としての指原の名声を築いたのは高橋といってもいい。指導者になってから頭角を現し、今では高橋に並ぶほどの評価を得ている指原に対し、高橋もどう接していいのか迷うときがある。

「たかみなさん…田北ちゃんって、かなりのモンって聞いてますけど?」
もじもじとした空気を先に破ったのは指原のほうだった。
田北香世子…全国的にはほとんど無名の1年生とはいえ、秋英で6区を任される存在だ。指原のチェックリストには「研究心旺盛。様々な選手の特性を自らの走りに取り入れる吸収力の高さには定評あり」と書かれている。
「かなりのモンかはどうかだけど…そういうお前のトコのあおいちゃんもエラい慎重じゃないか?まあ、自分からばーっと行くタイプじゃないんだろうけど…いいのか?前を追えない力じゃないだろ?」
「ええ。そうなんですよ。コッチがはっぱかけないと、なかなか思いっきれない子なんですけど…でも…」

3位争いで駆け引きをしている場合ではない。博多大も秋英も追うべき相手は先頭のはずだ。
この6区…まずは先頭争いに加わる事は、総合優勝への最低条件だ。

芦の湯を過ぎた。後は一気に小田原まで下っていくだけだ。
しかし、三人の位置関係は変わらない。田北と本村はまるで何かに魅入られたような顔つきで淡々と前へと進んでいた。いつの間にか高橋も指原もその様子をただ見ている…まるで観察でもしてるかのような感じで眺めていた。


綺麗…なんだろう?この感覚は?
まるで、イメージDVDでも見てるような…
目が離せない。いや、目を離したくない。

田北はだんだんと自分の意識が遠のいていくような感覚に襲われていた。
熱中症やトラブルなどではない。
理由は…前を走る斎藤飛鳥だ。

まるで長距離を走るために神が作り賜ったような一切の無駄の無い体躯。
頭の小ささはまるで風の抵抗力を排する為のようだ。

昔から陸上選手の事に興味が強かった。
自分が速くなりたい…というよりは、単純に速い選手強い選手が好きだった。
小さい女の子がアニメのヒロインやアイドルの子に憧れや興味を持つように、田北の興味の対象は陸上選手だった。それは長距離を走る選手だけに留まらない。フォローレンス・ジョイナーの強さと脆さについて語らせたら一晩中でも喋り続ける事ができた。いつの間にか周りの友達を田北の事を「ヲタク」と呼ぶようになっていた。

その田北にとって、今目の前に…まさに目前に全ての理想を持ち得る存在があった。齋藤の走りは見るもの全てを魅了してしまうものがあった。

その状況を一人ほくそ笑むかのようにしてみていた者が二人いた。
一人は監督車に乗っている設楽。配車の関係で一人だけの乗車になった事は幸いだった。
にやけてる姿を誰にも見られずに済む。
もう一人はテレビ画面の前にいた日村だ。やはり、押し殺すような笑みを浮かべている。
傍から見たら、きっと気持ち悪いんだろうな…と思いながらも笑いが浮かんでくる事を抑えられない。

誰も気づいていないのか?そうだろうな…監督やコーチ…走ってる本人さえもだろう。
飛鳥と走った選手はみんなそうなる。
アイツの走りは「麻薬」だ。誰もが、目を奪われる。いや、心を奪われるっていうのかな?
フォームだけじゃない。走ってる時の表情、息遣い。
完璧だ。俺だって時々ぼーっとしてしまう時がある。ウチの選手でさえあいつと走るのを嫌がるくらいだ。いつの間にかアイツの走りに魅入られて、自分の走りが乱れてるって事に気づかないんだからな…
まったく…あれで、もっとむらっけが無くなりさえすれば、今すぐにでも学生長距離ランナーの大スターになれるっていうのに…

齋藤自身にその自覚はなかった。しかし、自覚はなくともその妖力を間違いなく発揮していた。時々併走する田北や本村ににこっと微笑みかけるような顔をする。それは決してけん制でもなければ、もちろん威嚇でもない。変な駆け引きでもない。
本来は臆病な性格だ。抜群の身体能力とセンスを持っていながらなかなか自信を持つ事ができない。そうして笑いかけるような表情を見せるのも不安からだ。まだ大丈夫なのかな?どうなのかな?ただ単に様子をうかがってるに過ぎないのだ。

しかし、笑顔を向けられた方はたまったものではない。
ちゃんと走ってるの?そんなフォームで?はあはあ言って余裕ないんじゃないの?
どこか相手に劣等感を持たせてしまう…それが齋藤の走りだった。


最初に異変が起きたのは田北だった。恵明学園前を過ぎる辺りでは10mほど置いていかれていた。田北はようやく我に返った。監督車の高橋もだ。しかし、いったん狂った歯車は簡単には元に戻らない。微妙なバランスのずれは大きな乱れとなって田北の走りから本来の切れを奪い取っていた。
そして、次に本村も遅れた。小涌園前に差し掛かる頃には齋藤の背中が遠くなり始めていた。


「おいおい、ここまでやるってのは予想外だよ?」
監督車で日村からの電話を受けた設楽がスマホに向かって話しかける。
「ああ。松村が離脱したから前を追う事は正直あきらめてた…ただ、恐らくは併走になる秋英と博多を潰せればそれでいいと…しかし…化けたかもしれないな、設楽さん。」
「化けた…?はあ。また一段と扱い辛くなるの?勘弁してよ。」

設楽は大きなため息をついた。
しかし…その顔からは笑みがこぼれそうになっていた。


更新

最近、夜更新してましたが、今日はお休みさせてください。
待ってくださってる方も…イルカナァッテオモイマシテ…
イナイトサミシイナァ…

明日また更新します('ω')ノ

68.

6区、20.8kmはある意味5区よりも過酷な区間だ。
序盤の5kmは5区のラストで駆け下りてきた急坂を逆に登っていかなくてはならない。
5キロは決して短い距離ではない。ここで思わぬ遅れをとったランナーが得意の下りで焦りのあまりペースをつかめずに終わるのはよくある事だ。

そして、標高差840mを一気に下る「山下り」。
トップスピードの選手は100mを16秒台という速さに達する。
九十九折のカーブを最短コースで駆けていく為には、テクニックも、そして勇気も求められる。路面から突き上げてくる衝撃は通常時の5倍に達するともいわれる。文字通り「タフネス」さが必要な区間だ。

復路は近年稀に見る僅差で選手がスタートしていった。
まず先頭で往路優勝の栄京女子の熊崎晴香が。5秒遅れで四ツ谷大の込山榛香。
スタートして100mするとコースはすぐに左へ直角にカーブを切る。
国道1号線の本線でのレースのスタートだ。
熊崎と込山はすぐに併走する形をとった。ともに1年生。初めての箱根。
手探り状態でのスタートだ。お互いのポジションをまるで打ち合わせでもするように何度か顔を見合わせた。センターライン寄りに込山、歩道寄りに熊崎がポジションを取った。

トップから1分1秒遅れで聖ヴィーナスの内山奈月がスタート。更にそこから1分半置いて今朝エントリー変更された乃木坂の齋藤明日香、10秒後に秋英の田北香世子が飛び出して行く。熊崎がスタートして3分弱。博多大の本村碧唯がスタートすると、芦ノ湖にはちょっとした静寂が訪れた。後続のスタートには少々間がある。20校の参加中5校はトップから10分以上の差を往路でつけられている。トップのスタートから10分後の一斉スタートだ。

その中でせわしそうに体を動かす一際小柄な選手が現れた。肩からはオレンジと白のストライプ、繰上げスタート用の襷がかかっている。
「君、君。復路は自校の襷を使って構わんよ?それは、こちらに渡しなさい。」
「あの…これで走ることはルール上問題ないって聞いたんですけど…」
「それは構わないが、そうは言っても自分のとこの襷で普通は走りたいもんじゃないのかな?」
「あ…すみません、もうスタートなので…」
陸連の役員に声をかけられていた坂口渚沙がスタートラインに駆けていった。

伝統の襷で何で走らないんだ?
これ以上恥を晒して何がうれしいっていうんだ?
色んな人がそう言ってるみたいだ。
それを全部、横山さんと島田さんがシャットアウトしてくれた。

この襷で走る…そう決めたのは、私たちだ。
真子さんが言った。伝統って今の私達に言われてもピンとこない。
でも、走ってみてわかった。この襷には今の私達にとって大切な何かが詰まっている。
だから…襷の色は違っても、私たちはこの襷をゴールの大手町まで運びたい。

「スタート1分前!」
同時繰上げスタートの召集がかかった。
坂口はその真ん中に位置を取った。しゃしゃり出たわけではない。
周りが自然に場所を譲ったような形だ。
実質の区間賞3つ。往路の圧倒的な走りは、慶育のただならぬ底力を誇示していた。


一斉スタートの選手が呼ばれた頃、先頭は早くも最初の登りの半分を過ぎようとしていた。
二人は明らかに隣を意識していた。元々は双方とも慎重なタイプではない。しかし、往路の波乱に富んだ展開が二人から思いっきりの良さを奪ってしまっていた。消極的になってはダメだ…背後の監督車からのそんな声がかかる。しかし…箱根山中の空気は重かった。二人に目に見えないプレッシャーとなってのしかかっていく。

そんな中、一人最初から全開でレースに入っていたのが3番手でスタートした聖ヴィーナスの内山だ。細身の体が弾けるようにして前へ進んでいく。まるで5区を任されたクライマーのような軽やかさだ。あっという間に前との差が詰まる。

出た出た。コレがなっきー本来の姿なんだよね。難しい顔で理論的な戦略を立てる「策士」としての顔もそりゃ頼もしいけど、こっちの方が百倍イキイキしてる。あのうれしそうな顔はどうなのよ?知ってるんだからね。スタート前須田亜香里に声かけられてたの。監督の私より、スター選手の励ましの方が効果あるって?まったく…
監督車の倉持明日香は腕組をしたまま柔らかな笑みを浮かべていた。
今のあの子に私が語ることは…何もない。好きに行け…そう笑っていてあげるだけでいい。

国道1号の最高点を過ぎて下りに入った。。ここでいったん短い登りを経たあと、後は一気の下りだ。ここで内山は前の三人に追いついた。そして一気に前へ出る。

抜く瞬間、内山は二人の間を割るようにした。両肩が二人に軽く触れる。
「へー…聞いてたとおり、強気な子だねえ。内山奈月かあ…いいねえ。私好きですよ。あんな子。」
監督車には複数の学校の監督が乗り込むことが常だ。その時々の順位や状況で何度か途中で乗り換えたりを繰り返す。今は1位の栄京・松井玲奈、2位四ツ谷大の峰岸、そして聖ヴィーナスの倉持が同乗者になっている。倉持に話しかけたのは助手席に座ってる玲奈だ。倉持はバックミラーに笑顔だけを返す。
「なんでウチに来なかったんだろ?真子といいこの子といい…」
峰岸もペットボトルの水を口に運びながら笑う。まだ序盤だ。焦る時間じゃない。
監督同士の間にもまだ穏やかな空気があった。

そんな監督車内の空気も、そして走ってる三人の空気をもぴりっとさせる行動を内山が見せた。
前に出ると、熊崎と込山の方を見ておいでおいでをするかのような手振りをして微笑んだのだ。

「なに、あれ?挑発してるの?」
「倉持さん…聖ヴィーナスはお嬢様学校で名を売ってるんでしょ?あんな事していいの?」
玲奈も峯岸も腰を浮かした。笑顔は浮かべたままだが、明らかに顔を赤くしている。
まったく同時に拡声器のスイッチを入れた。
「くまああああ!ナメた真似させてんじゃねーよ。ペースアップだ!目にもの見せてやりな!」
「こみ。大人しいフリはもういい。アンタのクレイジーっぷり思う存分はっちゃっけちゃっていいから!いけー!」
一流のアスリートは闘争心も人一倍だ。現役を引退して指導者になっても、そう簡単に丸くなることなんてない。倉持は思わず肩をすくめた。
まったく…わざわざ寝た子を起こすような事なんかしなくていいのに…

内山が挑発的な行動を取ったのには訳があった。

この6区…私は人生を賭けて下る。そう決めた。
「私を超えてみせて。」
須田さんがそう言った。
正直、私はまだその言葉の意味をつかめないでいる。
でも…須田さんがその後に言った言葉を私は聞き逃さなかった。

「熊ちゃん…あと、込山ちゃんかあ。面白そうな三人だね。」

考えてみたら、私たち三人って良く似てるのかもしれない。
感じるんだ。同じニオイがするっていうか…
何度かしか走ってるのを見た事なけど、そのときは…二人とも全力で髪を振り乱して走ってた。そして、何とも言えない表情をしていた。私も同じような顔をする事がある。
ほら…登りに入った。観衆が増えてくる。声援が大きくなってくる。
それにつれ、力がわいてくる。きっと、二人も同じでしょ?顔が輝いてるもん。

ひょっとしたら…
この子たちも?この子達も、須田さんに憧れて?

面白い。須田さん…あなたを超える前に…
この子達と決着つけなきゃ…って事ですよね?

いいよ、行こうか。
「山の妖精」
その名を継ぐのは誰かって事を、今…この場で決めましょ。


お返事

本日コメント欄に書き込みをいただいております。
本来はそちらでお返事を差し上げるところですが、皆さんにもお聞きいただきたい事もありますのでこちらの記事でお答えする事をお許しください。

まず…最初にお礼を。
「四谷ファン」という名前から普段から私のお話を読んでいただいてる方だと存じます。
過分なお褒めの言葉も頂いております事にお礼申し上げます。

ですが、やはりどうしても触れなくてはならない事かと思います。

正直、貴方が(貴方が杉上さんという方と同一人物と思われている)千葉さんに大してどういう感情を抱いているかわかりません。しかし、私にとってその事はまったく関心のない事です。
事実、私はここに寄せられる様々な声は、私が自己で吸収し自己で判断するべき事だと思っています。ネット上で公開している以上、どんな声だって寄せられるリスクはありますし、誹謗中傷があったといってそれに対し必要以上に過敏になる事はできないと思っております。そのリスクを許容できないのであれば「公開」という選択をしなければいいのですから。
もちろん、度を越したものや、明らかに「脅迫」となる場合は別ですが、幸いにして、私は今までそういったものに脅威を感じた事はありません。そういった事が仮にあった場合には、自己の責任で解決を図りたいと思います。私のブログを守るのは、私の義務であり権利です。


一つ問いかけをさせてください。

ネットの世界ってどんな世界なのでしょう?
貴方は、貴方が敵対視されている方のリアルの姿をご存知ですか?
実際に会って、どんな方か、どんな考え方をしているのか、確かめた事がありますか?

私はネット上のコミュニケーションっていうものは、とても希薄で匿名性の高い信頼性に欠けるものだと思っています。ですが、そんな中でも真摯なやり取りができる方はいらっしゃいますし、実際貴方や私の周りにもいらっしゃいます。

私は、そんな方とのコミュニケーションを大切にしていきたい…そう思います。

ですので、私のお話にかかわるご意見等は、厳しいものから暖かいものまでウエルカムでお受けいたします。ですが、どなたかの事を蔑んだり、誹謗したりする事に対してのコメントを頂く事は固くお断りいたします。

よって本意ではないのですが、しかるべき時期にコメント欄を承認制にする事も考えております。


どうか・・・どうか、ご理解を賜りますよう、心からお願いいたします。




67.

三寒四温。春の頃の言葉だ。
寒い日が3日続いたと思ったら、4日暖かい日が続く。
そして、暦は春へと季節を進めていく。

季節外れの春一番が吹き荒れた往路の翌日。
芦ノ湖は穏やかな朝を迎えていた。
強かった風はおさまり、春の柔らかな日差しだけがそのまま残った。
年によっては風雪の中での山下り。観客は寒さに耐えながらの観戦になるのだが今年は様相が違う。
午前8時のスタート前。早くも集まり始めた観衆に、重苦しい冬装備は見られなかった。

主要校のエントリー変更は2人。乃木坂大が松村沙友理に代えて齋藤飛鳥を、四ツ谷大は7区の篠崎彩奈を佐々木優佳里入れ替えてきた。乃木坂大が復路有利…大方のその予想は松村の存在あってのものだった。テレビをはじめとしたメディアはその入れ替えの狙いを知ろうと躍起になって取材を行っていた。

「玲奈さん…乃木坂の齋藤さん・・ってどんな選手なんですか?正直、あんまり聞いた事ないんですけど…」
栄京の6区を走る熊崎晴香は既にグランドコートを脱ぎ捨てていた。上に軽いウインドブレーカーを羽織っているだけだ。山下りを走る選手はシングレットでなくTシャツを選ぶ場合が多いが、今日は違う。今日も暑くなりそうだ。
「うーん…素質的にはスゴイものを持ってるよ。下手したら乃木坂でナンバーワンはあの子かもしれない。」
「ナンバーワン…って?白石さんや、橋本さんとか生田さんよりもですか?でも…だったらなんで…」
「そこがあの子の良く分からないトコなんだよね。でも…みんな口をそろえて言うわ。飛鳥とは並走したくないって。」
「一緒に走りたくないって事ですか。なんか仕掛けてくるとか?カワイイ顔してそんな意地悪しそうな気はしませんけど…」
「そういうんじゃないよ。なんて言うか…あの子、よくこんな風に言われてる。『エース・クラッシャー』って。」

玲奈が遠くの方でアップを行っている齋藤の方を見て言った。
選手を入れ替える事は昨日の夜、設楽から連絡が入って知っていた。
齋藤を使う事も。
玲奈はそれ以上の事を聞かなかった。設楽は話したそうにしていたが、それを遮った。
私は、今日も栄京の監督車に乗る。今は、乃木坂は…ライバル…いや。敵だ。

「おっはよー!玲奈さーん。昨日はおめでとうございます!すごかったですねー、さりの走り。」
二人の背後から明るい声が響いた。周囲にいた観客がわっと声をあげる。
一瞬でその場が華やいだ雰囲気になった。
「あのさ…わかってるよね?今、結構緊張感いっぱいの時間なんだけど?あかりん。」
「あ。ごっめーん。あかり、熊ちゃんを剥げまそうと思って来たんだけど。お邪魔だった?」
「いや…邪魔とかじゃないんだけど…朝イチからそのテンションはちょっとね…」

「お…おい。須田だよ。」
「マジ?マジで須田亜香里?ちょ…俺、ファンなんだよな…」
「あかりーん!栄京の応援?」

現れた須田亜香里の周りにあっという間に人だかりが出来る。
握手を求めたり、スマホのカメラを向けたりと大騒ぎだ。

「あかりん。いつ帰国したの?こないだ確かフランスにいたはずでしょ?」
「はい。玲奈さん。昨日の夕方成田に着きました。なんか、テレビの取材なんですよね。今日。」
「しかし…相変わらずタフだねえ…。あかりんが取材って事は、やっぱ6区の注目選手はだれか?って感じか?」
「そーなんです。あかり、もう今じゃ下りだけじゃないんですって言ってるんですけどね。なんかスポンサーのご指名で。」

屈託なく話す須田に、それらしいクルーが声をかけてきた。マイクを渡われヘッドセットを頭につける。
「じゃあ、玲奈さん。あ、あとで熊ちゃんも取材させてね。注目選手の一人なんですかから。」
そう言って須田はその場を離れた。
「まったく…相変わらず賑やかな子だわ。」
玲奈が軽く肩をすくめた。

その様子をすぐ近くで眺めて…いや、睨むような視線で見ていたのは聖ヴィーナスの内山だった。
射るような視線を熊崎に真っ直ぐ向ける。
「なっきー…集中してるトコ悪いんだけど…」
遠慮気に名取が内山の肩をつつく。
「ゼッケン…シングレットの方に付け替えておいたから。」
「あ…ありがとうございます。あの…私、緊張してるみたいです。」
「なっきーが緊張?珍しいね。」

正しくは緊張とは違う感情なのかもしれない。
でも…スタート直前、正直内山の心にさざ波程度じゃない動揺があった。
動揺…それも違うな。
上手く説明できない。内山は胸に下げられている軽いプラスチック製のチャームにそっと手をやった。
はめ込まれている写真をそっと覗く。

「内山奈月…ちゃん。あ、なんて書けばいい?」
「あの…なっきーでお願いします。」
「うん。わかった。なっきーへ…と。」
「ありがとうございます!」
高校生になったばかりの内山にとって須田亜香里は大スターだった。
躍動感ある走り、まるで坂を舞うように駆け下りていく姿。
そして、最初から最後まで全力を出し切る須田の全てが、内山にとっての憧れだった。
ふいに一緒になった地方の記録会で須田と同走した内山はレース後、思い切って須田にサインをねだった。アスリートとしてもっとも尊敬する須田と話が出来て内山は天にも上るような気持ちだった。

「なっきー…ってさ、なんか昔のあかりに似てるかも。」
「へっ?えっ?私が・・・ですか?私が須田さんに?」
「あ。ごめんごめん。急に変な事言って。迷惑だよね…はははっ」
「とんでもないです!迷惑だなんて。こ…光栄です。」
リップサービスなのかもしれない。
でも、純粋な内山にとってその一言は天の啓示と同じ価値があった。
平凡な選手だった内山の人生はその日から変わった。
あの人みたいになりたい。あの人と同じようになりたい。

ファッション雑誌やティーン誌の代わりに須田の特集が組まれてるランニング関係の雑誌を買いあさり、ジャニーズのDVDの代わりに駅伝やクロスカントリーの映像を貪るように見た。

その憧れの須田が、今目の前にいる。6区をレポートするらしい。
今の私を…成長した私の姿を見てもらえる…
そう思うと、内山の胸は張り裂けそうになった。

「えっと。ちょっといいかな?レース前の集中してるトコ悪いんだけど。」
「え?えええぇぇぇぇえええ?あの・・は…はい、なんでしょう…?」
「あ、大丈夫。コレ、インタビューとかじゃないから。」
内山はその場で直立不動になった。
須田が思わずくすっと笑う。
「はははは。なんかごめん。どうしてもスタート前に一言励ましの言葉を言いたくて。」
「励まし?え…私にですか?」
「うん。なっきー、頑張って!」
「え?須田さん?あの…私の事ご存じなんですか?」
「ご存じもなにも…ずいぶん前だけど、サインさせてもらった事あったじゃない。その時言ったよね?あかりに似てるんじゃないかなーって。忘れちゃった?」

忘れるはずがない。あの日があったから、私は今日まで頑張ってこれたんだ。
でも…なんで?なんで須田さんが覚えていてくれたんだ?

「あのね…6区の注目選手を追っかけてレポするんだけどさ。なっきー…見てるからね。あんまり大きな声で言うと玲奈さんに怒られちゃうけど…」
「あの…私なんかが?注目選手?頑張ります!憧れの須田さんに少しでも近づけるよう…頑張ります!」
内山がそう言うと、須田がちょっとだけ真顔になった。
「なっきー。ありがと。憧れって言われると、本当に嬉しいわ。でもね…」
急に変わった須田の表情に内山も真面目な顔になった。
「なっきー。私に憧れてるなら…私を超えてみせて。」
「超える?超えるって…この6区で…ですか?」
「そう。もし、その気持ちがないのなら、今すぐ私に憧れてるって言葉は捨てて。いい?」
「は…はい。わかりました。」
「うん。よし!じゃあ、行ってこい!」

内山は須田に差し出された手を握った。
笑顔でその場を去る後姿を黙って見送った。

超える?憧れてるなら超えてみせろ?
超えれないから…超えれっこないから憧れなんじゃないのか…?

内山はじっと自分の手を見た。
須田の手のぬくもりが残っている気がした。


「復路の選手召集を始めます!エントリーされている選手は点呼に応じてください!」

間もなくスタートだ。
山の間から朝日が輝き始めた。湖面に反射して周囲を明るくしていく。

66.

そろそろ寝ようかな?羽田空港の夜景が見渡せるホテルのシングルルームで、高島佑利奈は読んでいた本を閉じてそのままベッドに身体を投げ込んだ。
明日はこの近くの鶴見中継所からスタートしていく。いったい何番目で襷が渡るんだろう…

その時、マナーモードにしたままのスマホが震えているのに気が付いた。
画面に表示されている着信相手の名前を確認して、電話に出る。

「もしもし。茂木?どうした?いや…寝てないよ。っていうか、アンタ同じホテルでしょ?こっち来れば?」
電話の相手は茂木忍だった。エントリーされていた3区への出走を取りやめ、今日は戸塚で補助員をしていた。明日は、鶴見の中継所で高島に付くことになっている。

「ん。いや、まだちょっと体調完全じゃないしね。風邪じゃないとは思うけど、万が一の事もあるし。」
「そっか。気を遣ってくれてんだ。ありがとね。」
「なに?似合わないって言わないの?」
茂木と高島はお互いを「相棒」と呼ぶ間柄だった。親友…ともちょっと違う。
もっともっと近くて、そして遠慮のない相手。

出会った時の印象は最悪だった。といっても、それは茂木の一方的な毛嫌いから始まっていた。
黙々とトレーニングに取り組み、自分に厳しく決して弱音を吐かない茂木に対し、高島はとにかく「軽く」見えた。サボってるわけではないとわかってはいたが、いつもへらへらしてるように見えた。
しかし、それが誤解とわかるまでそんなに時間は必要なかった。自らのスキルを上げるため、必死に色んなものを吸収しようとしていた高島は、日々飛躍的にその走力を高めていった。慶育大出身の仁藤萌乃、金町総合大…今は栄京女子大と合併したが…の卒業生の古川愛李…通好みの選手の走りを手本に、一見軽薄そうに見えたそのキャラの裏で、高島はストイックにトレーニングに取り組む子だった。

「言わないよ。だって、ホントは茂木、優しいもん。」
「なんだよ。急に。気持ち悪いなあ。」
「あははは。でも、本心だよ。ずっとそう思ってたからね。」
「今更かよ。今日はどうしたんだよ?やけに素直じゃね?」

茂木の言葉の後、一瞬の間があった。

「最後だからね…」

「そうだな…最後だからな…なあ…やっぱりか?あと1年じゃんか。来年は4年だ。あと1年は…」
「…」
電話の向こうで高島が鼻をすすったような音がした。
「おい。大丈夫か?まさか…風邪じゃねーよな?」
「違うって。大丈夫。でも、そろそろ寝るよ?明日…頼むね。補助員。」

あと1年…か。
いや…もう言うまい。高島が自分で決めた事だ。

最後のレース…大手町に…トップで戻ろうな。
最高のフィニッシュを迎えような。

茂木が電話を切った。
画面が待ち受けに切り替わる。

満面の笑顔の高島と、少し迷惑そうに身を引いた茂木の写真。
ずっとこの画面のままだった。

きっと、これから先も。


65.

「そうか…わかった。しかし…これは受け取らないぞ。」
「なんでですか?私はやっちゃいけない事をやったんですわ。乃木坂の陸上部員として…いえ、アスリートとして超えちゃいけない境界線を越えてもうたんです。チームの一員としている資格はありません。」
宿泊先にしているホテルの一室。設楽と日村は二人とも腕組をしたまま椅子に座っていた。
松村がその前に立っている。下は向いていない。まっすぐ前を向いて…壁を睨んでいた。
ガラステーブルの上には「退部届」と書かれた封筒が置かれている。

「受け取らないって言ったら受け取らないんだよ。日村さん、ちょっと何とか言ってよ。」
「…」
こういう時玲奈がいたらな…
何か気の利いた事を話さなくては…設楽が困った顔になっている。
「いいんじゃねーの?だって…もうやらないって決めたんだろ?」
「いいんじゃ…って。ちょっと日村さん。もう少し真面目に…」
設楽が日村をたしなめようとしたが、日村の顔は笑っていなかった。
口調はいつものちょっと無責任な感じだが、表情は真剣そのものだ。

「なあ。松村。速く走るって事はそんなに大切な事なのかなあ?」
「大切って…そりゃ…選手にとって速いって事は何よりも大切な事だと思いますけど。」

何を当たり前の事を言うとるん?
ウチ等選手にとって、速いって事は何にも優先される事だ。
でも…私は速くなかった。
乃木坂陸上部強化プロジェクトの初年度にスカウトされた私達の中で、麻衣と奈々未と「御三家」として扱われていた。確かに最初はメンバーの中でも抜けた力を持っているという自負があった。しかし、絵梨花、七瀬、一美…みんなどんどん力をつけてきた。キャップだって佑実だって・・・怖かった。そして弱かった。そして、私は禁断の果実に身を染めた…

「お前が明日走らないって自分から言い出したんだ。いいじゃんか。それで。あんまり深く考えるなよ。」
「日村さん…ひょっとしてお前…」
設楽が目を剥いた。そして日村の澄ました顔を見て納得した。

「日村さん…知ってたんですか?じゃあ…なんで?なんで何も言わなかったんですか?」
「俺が言って言う事聞いたか?なあ、松村。俺は見ての通り速く走るって事とは無縁の男だよ。学生時代、陸上やってたって言っても俺がやってたのは投てきだ。設楽さんみたいな専門家じゃない。でもな、投てきってのは完全な個人種目だ。すべての責任を自分で追う分、そりゃ気楽なもんだった。」
日村のいつになく熱が入った言葉に、松村も設楽も黙り込んだ。
日村は一口水を飲んだ。そして、二人の顔を交互に見て再び話始める。

「でもな。松村。お前の気持ちもなんとなくわかるんだ。プレッシャーなんて簡単なもんじゃないって事もわかる。でもな…お前は自分でそれが悪いことだって気が付いた。そういう訳でそう思ったかは知らん。でも、気づいたんだ。なあ、松村。いいじゃんか。人間弱いんだよ。そして間違うんだ。だったら…一回くらいやり直そうって思う人間に、神様も罪は下さんと思うよ。」
「でも…悪い事をした罰はうけなくちゃ…」
「それがコレか?」
日村はテーブルの上の退部届を手に取った。中を開く。

「あー…松村…ダメだ、これは。」
「え?ダメって・・?」
「退部届は、学校の正式なクラブだ。あて先は監督じゃなくて、部長でもある学部長先生だな。それから・・おいおい、誤字ばっかじゃないか。一心上の都合?一身上の都合の間違いだろ?こんなん受け取れるかっての。」
日村は退部届を破り捨てた。
細かく切り刻み、そのままゴミ箱へ放り入れる。

「退部なんかさせないよ。松村。明日は働いてもらうからな。芦ノ湖で補助員やった後はすぐ移動だ。そうだな。戸塚に行け。戸塚で補助員やったら今度は大手町な。ゴールを全員で見届けなくちゃいかんから。そして…そのあとに…」
「そのあとに?」
「みんなに頭下げろ。なんで6区を走るのを辞めたのか。自分で話せ。いいな。」

「日村さん…」
感心したように日村の名前を呼んだのは設楽だった。
電話で松村の告白を受けた。これからすぐに部屋に来る…
どう対応していいかわからなかった。どんな顔で会えばいいのかも。

それなのに、この男はずっとずっと前から松村の意変に気が付いていたのか…

「で…明日の6区。代わりに誰を走らせる?」
「そんなん、一人しかいませんよ。設楽さん、わかってるくせに。」
「だな…松村。わかった。今日はもう休め。」
「はい・・失礼します。」
心なしか憑物が落ちたようにすっきりした顔で松村が頭を下げた。

「呼ぼうか?」
「いや…いいわ。俺が電話かけるわ…えっと・・かきくけこ・・さ…あったあった。」
設楽がスマホを耳に当てた。
「お。斉藤か?斉藤飛鳥?俺だ。設楽だ。今から部屋に来てくれないか?…あ?違うって。そうじゃない。おい、誰がお前みたいな小娘を…ああっ!もういいから来い!レースの話だ。寝ようかと思った?いいから…だから、明日お前に走ってもらう事になったんだよ!え?何区かって?いいから来い!」

まったく…ホントにコイツで大丈夫なのか?
設楽は頭の中で、メンバーの顔を次から次に思い出してみた。

やっぱり…コイツだよな…
やれやれ…明日は監督車で忙しくなりそうだ…




64.

5区結果(○数字は個人区間順位)

1位  栄京女子大      惣田紗利渚③  -
2位  四ツ谷大学      岡田奈々④    +0:05
3位  聖ヴィーナス大学  伊豆田莉奈②   +1:01
4位  乃木坂大学      橋本奈々未④   +2:31
5位  秋英学園大学    川栄李奈①     +2:40
6位  博多大学       朝長美桜⑨     +2:58

※復路は時差スタート。慶育大は10分後の一斉スタート。

63.

最後の最後に勝敗を決するのは「気持ち」だとよく言われる。
特に高いレベルであればあるほど。もちろん、技術・体力…さまざまな欠く事が出来ないものがある。
しかし、本当の最後の勝負を決めるもの…

それは間違いなく

気持ちだ。

精神論や根性論を振りかざす指導者は疎んじられる時代だ。
ちょっと熱く語ったりすると、今どきの子供はついてこない。
そういって指導法を変えていった有名指導者も多い。

しかし、惣田紗利渚はそうは思っていなかった。
確かに、高校時代全く無名で大した記録も持っていなかった自分が飛躍的に記録を伸ばしたのは、栄京の科学的論理に基づいたトレーニングだった。筋トレから瞬発力そして持久力を鍛えるトレーニング。全てが分析に分析を重ねて、自分に合わせて組み立てられたものだ。
だが、その一つ一つをクリアして行くために最も鍛えられたのは、紛れもない「精神力」だった。

「自分に負けんなよ。記録で誰かに負けても、それはいつか超える事が出来る。でも、自分に勝てないヤツは、どんだけやっても強くなれないんだよ。」
玲奈は鬼だった。毎日毎日毎日…速くなれない事に対しては一度も怒られた事はない。
だが、少しでもだれたそぶりを見せると、まさしく鬼のような形相で詰め寄ってきた。

誰でも、どんな時でも…一流…いや超一流と呼ばれるアスリートであっても、試合やレースの時「あ。勝てないかもしれない」と思う事はよくある。しかし、そんな時支えになるのは、重ねてきた練習量だ。質じゃない。量だ。どれだけの汗を流してきたのか。競っている相手よりも、絶対自分の方が積み重ねてきたんだ。その想いが、最後の最後、相手を上回る・・しそれが出来たものこそが、紙一重の勝利をつかむ事が出来るのだ。

岡田奈々も小嶋真子も。決して想いが弱かった訳ではない。
ただ…ほんの僅かだった。いや、実際差はなかったのかもしれない。
もう一度全く同じシチュエーションだったら勝ったのは小嶋かもしれない。
岡田かもしれない。

だが、それは神様じゃないとわからない。
二度と同じシチュエーションなんて起きない。

だから…だから、スポーツは面白いのだ。

号砲が響き渡った。3校の選手が揃って出迎える中、惣田紗利渚がゴールテープを切った。

白いテープがお腹の所で絡まっている。
ホントはカッコよくポーズを決めてフィニッシュするはずだったのに。
まさか、最後あそこまで競る事になるなんて思ってなかった…
あー…でもいいや。トップだよね?勝ったんだよね?
私…一番でゴールしたんだよね?

まだ実感らしいものはなかった。しかし、まるでスローモーションのように駆け寄ってくるメンバーの顔を見て、惣田はどこかほっとした気持ちになった。5区にエントリーされた事。みんなはどう思っていたんだろうか?去年に続いての連覇は誰もが願う事だった。しかし、今年は戦力的に劣る…そんな風に言われ続けてきた。
特に5区を無名の1年生に任せなくてはならない状態はどうなのか?・・・と。
それは先輩たちにとって、とても辛い声だっただろう。
「本当にあの子で大丈夫なんですか?」
私に気を使って、私の前では決して言わなかったけど、みんな玲奈さんにそう言っていたのを私は知っていた。
でも…これで…これでみんな安心してくれる…かなあ?

「さりなあぁああああ!」
「惣田ちゃああああん!」
1区を走った古畑が。2区で魂の走りを見せてくれた宮前が。
3区で見事な躍動を果たした江籠が…みんなが駆け寄ってくる。
どの顔にも笑顔があった。そして、こらえきれなくなった涙があった。
「やったぁあああああああああ!」
惣田を取り囲んだ三人から大きな声が出た。もうすぐ市野もやってくる。
4人の三年生とちょっと年のいった1年生。
惣田は声にならない叫びをあげていた。
顔は涙でくしゃくしゃになっている。

良かった…本当に良かった。
諦めないで…本当に良かった。
夢なんかじゃない。そう。これは紛れもない現実なんだ。
でも…今はしばらくこのまま時間が止まっていて欲しい。
まだレースは終わっていない。明日もある。
浮かれてなんかいちゃいけない。きっと玲奈さんはそう言うんだろうな…

でも…今は、この喜びに酔いしれたい。



5秒遅れで岡田と小嶋は同時にフィニッシュラインを超えた。
本来は往路順位を確定させる為に行われる写真判定は実施されなかった。
慶育が前でも後ろでも、順位に影響はないためだ。

「私の方が前だったよね。」
フィニッシュエリアでタオルをかけられた小嶋が岡田に笑って話しかけた。
「いや…私の方が早かった。見えたもん。ほんの数センチだけど、私のシューズがアンタよりも前に出てた。」
岡田が手を差し出した。笑顔だ。
「あのね。ゴール判定は胸が通過した時点で決めるんだよ?知らない訳じゃないでしょ?胸の差だったら…間違いなく私の勝ちでしょ?」
小嶋も笑顔で岡田の差し出した手を握った。

「真子。お疲れ。」
「あれ?未姫。もう来てたの?」
4区を走った選手は5区のゴールに間に合わないのが通常だ。
しかし、連絡をどう取って駆け付けたのか・・・・小嶋に声をかけたのは四ツ谷大の4区を走った西野だった。
「えへへ。カッコ良かったよ。真子。」
「ちょっと、先に私をねぎらうのがチームメイトってもんでしょ?」
岡田がちょっと頬を膨らませて言った。
「だって、なーちゃん。負けちゃったんだもん。せっかく私がトップで襷渡したのに。」
「ごめんね。言い訳も出来ないや…」
「だね。強かった。ほんとに。」

三人はまだ歓喜の輪を作っている栄京のメンバーの方を見た。
「明日もある。それに…あの子たち全員…来年もいるからね。来年は絶対に…」
「そうだね。私もまだまだ頑張らなきゃ。来年こそは…」
「真子…アンタ、来年何しでかす気?」
西野の言葉に小嶋がきょとんとした顔になった。
何をしでかす気って…?

「とんでもない区間新だよ。指原さんの記録を2分も上回ったってさ。」
大きなブランケットを持った田野優花が笑顔で立っていた。
中野郁海も隣にいた。輝くような笑顔を見せている。
そして、その横には後藤萌咲の姿も。
「萌咲。あのさ…」
「小嶋さん!お疲れ様でした!」
後藤が勢いよく頭を下げた。そのままの姿勢で動かない。
小嶋はしばらくその姿を見ていた。じっと見たままでいた。
後藤が顔を上げない気持ちが痛いほどわかった。
でも…私も、こんな風に素直だったら…
こうやって頭を下げれてたら…、もっと楽だったのかな?
でも…そうだったら、今日みたいに痺れる走りを経験する事なんてできなかったのかもしれないしな。

「萌咲。」
「は…はい。」
小嶋が後藤の前にかがんで下から顔を見上げた。
「明日は…ひななのトコについてやりな。いいな?」
「は・・はい。さっき、田野さんに言われました。」
田野がウインクを送ってきた。

さすが田野さん。ちゃんとわかってる。
そう。今一番つらい思いをしてるのは、ひななかもしれないんだから。

「それから…明後日から特訓だよ。覚悟しときな?」
「は…はい。わかってます!しごいてください。私…私、絶対に来年は…」
後藤の目に涙が浮かんできた。
「よし。風呂だね。風呂入ろう。せっかくの箱根じゃん。ゆっくり温泉入ろうよ。」
小嶋が後藤の肩を抱いた。


3位にはこの区間、一躍シンデレラガールとして現れた伊豆田が入った。4位には乃木坂の橋本。いったんは抜かれた秋英の川栄を再び下りでかわした。調子が上がらない中、必死の粘りで繋いだ見事な走りだった。
博多の朝長は5位まで落ちた。上げて下げて…山中でのめまぐるしい展開が、彼女の走りから本来の躍動を奪い去ってしまっていた。それでも、トップとの差は3分以内。十分復路に希望を残せる差だ。

芦ノ湖の喧騒が静まり始めた。どことなく、まだざわめきを残した静寂。
明日の朝には、再び熱狂がここを包み込む。

季節外れの暖かさ。柔らかな春の日差しが、芦ノ湖を照らしていた。
ちょっと高台になっているホテルのテラスから湖面を見下ろしていた、一人の少女が長い時間座っていた椅子から立ち上がった。意を決したような表情だ。

ポケットの中からスマホを取り出した。しばらくその画面を見つめていたが、大きく息を吸い画面のロックを解除した。

もう部屋に戻っているだろう。
画面に橋本奈々未の電話番号が表示される。

「私や…うん。おつかれやったな。見事やったで。…ええって。アンタは最低限果たさなきゃいけない事をきちんとやった。…なんか感動したわ。」
松村沙友理は湖面に目をやりながら話した。
そして一瞬間を置いて、大切な話を切り出した。


「あのな…今から、設楽監督のトコ行ってくる。」



お知らせ

さっき上げた62話、ちょっとだけ書き直しました。
なーちゃんとこじまこが、いずりなを抜くシーンを書き忘れていて…

すみません(;´Д`)

明日は幕張メッセ。
そういや、先週も幕張に行ったなあ…
生ちゃん、ななせまる、可愛かったなあ(#^.^#)
HYDEもカッコ良かったし。

明日は…みおたぁああああすぅ!と握手です(*^-^*)

62.

九十九折を繰り返す5区。ほとんど先行するランナーの姿を確認する事は出来ない。
情報戦が重視される近年の箱根では、監督車に次から次へと詳細な情報が入ってくる。
そしてその情報は逐一選手に送られる事になる。
しかし、岡田奈々はその情報を意識の中ですべて遮断していた。それを知ってか途中から峯岸も何も岡田に伝えなくなった。ただ…励ますだけだ。
峯岸もわかり始めていた。奈々が前を追わなかったのは、反応できなかったんじゃない。
チームオーダーを無視して自らの意志で判断する。これまでの岡田には考えられない事だった。

何かが変わるかもしれない…
予感にも似た感覚を峯岸が包んでいた。

来た。

意外と遅かったじゃない?もっと…そうだな。芦の湯辺りかと思ったけど。
まあ、いいや。残り5キロ。前との差は…2分無いんじゃない?
たった5キロか…

「お待たせ。」
「遅いよ。」
「何言ってるの。7分半だよ。」
「わかってるよ。ったく…あ、待っててやったんだけどね。」
小嶋の屈託のない笑顔に岡田が苦笑で応える。
7分半…まったく、どんだけなんだ。正直悔しい気持ちも強い。
こんな大差を詰められるほど、私と真子には力の差があるのか…
でも、岡田は笑った。苦笑を本当の笑顔に変えた。
レース中に岡田が笑うなんて…今まではなかった事だ。

「あのさ。疲れてるトコ悪いんだけど。休んでる暇はないよ?」
「疲れてる?アンタ、誰に言ってるの?そんな事より、行くよ。残り5キロ。あとは…」
「下るだけだしね。」
「下る?奈々、違うって。こっから先は…飛ぶんだよ!」

最高点を過ぎた。岡田は一瞬、小嶋の背中に羽根がはえたような錯覚を起こした。
急な下り坂を、落ちていくような…いや、違う。そう飛んでいくようなスピードだ。
岡田も飛んだ。

ここだ。
ここなんだ。

ぐんぐん加速していく。重力とこれまで選手を苦しめていた強い風が、今度は追い風となって背中を押す。
一歩一歩、着地のたびに激しい衝撃が身体を貫く。頭の先まで響いてくるようだ。
踵が、膝が、腰が…全身が悲鳴をあげ始める。
それでも、岡田は一歩一歩前に進むたびに全身に力が漲ってくる事を感じていた。
まるで、前を走る小嶋真子が発する強力なエネルギーにシンクロするかのように。

初めて会ったのは、高校入学前の秋だった。推薦で強豪四ツ谷大付属高への進学が決まった岡田は練習生として四ツ谷大グラウンドでの大学高校合同の練習に参加していた。そこで、ひときわ強いオーラを放っている子を見つけた。いつもニコニコしてる子だった。人の良さそうな・・・それでいて周りにいる人をすべて笑顔にするような太陽みたいな笑顔。
しかし走り出すとその顔つきが一変する。やはり練習生として参加していた西野未姫もそして岡田も、中学では敵なしの速さを誇っていた。しかし、小嶋は別格だった。高校のレギュラークラスと肩を並べて走る力を既に備えていた。
この子と一緒のチームで走れる…
その喜びは、どこか「憧れ」にも似た感情だった。

3年の冬。辛い形で最後の大会を終えた岡田たちは、更に大きなショックの中卒業式を迎える事になる。
小嶋…そして内山と橋本。全員で四ツ谷大に進むとばかり思っていた。
そして、行き場のないやりきれない気持ちを、いつしか小嶋への恨みのようなものにすり替えて誤魔化していた。

岡田の表情がゆがんでいた。今まで、こんな風になりふり構わない走りをした事があっただろうか?
最後までペースを崩さず…確実に次に繋ぐ。それが岡田の駅伝への「哲学」だった。
そのためには、冷静に確実な走りをする。生真面目すぎるって事は何度も何度も言われた。
でも、駅伝は個人種目じゃない。自らの感情のおもむくままに走るなんて、やっちゃいけないことだ。

岡田の走りを変えたのは、間違いなく小嶋だった。
終盤の失速…ここ数年、小嶋に貼られたレッテルだ。個人で走ってる時はまだしも、駅伝にかかわるととにかく萎縮した走りになってしまう。まるで、見えない足枷をかけられているように。

確かに襷をかけて走る事には「責任」ってものが伴う。でも、それは決して「重石」になるものじゃない。
逆だ。今日、私はどれくらいの力をこの襷から貰ったんだろう。デザインセンスの欠片もない、この変なストライプの襷。伝統のフラッシュグリーンが放つ輝きの数分の一すらの光もない。でも、今はこの襷がたまらなく愛おしい。
きっとゴールでは…芦ノ湖では、萌咲が待ってるはずだ。きっといたたまれない顔をして。
でも…だからこそ、私は精一杯の笑顔でゴールテープを切るんだ。
そして、明日からまた走るんだ。

奈々…言葉はかわさないけど。もっと早く、こうして一緒に走れればよかった。
あの日…次の日。なんとなくお互いを避けるようにしちゃった。
私はアンタ達に責められてると思い込んでいた。でも…そんな事なかったんだよね。
もっと素直になれば良かった。でも…ほら、私って不器用だからさ。
でもね、思うんだ。私たちは「ライバル」なんだ。一緒のチームで走るのもいいけど、こうして肩をぶつけ合いながら…先を競い合いながら走ってるほうがきっと楽しいと思うな。
アンタが前にいたからここまでこれた。自惚れかもしれないけど、アンタも今私と一緒に走ってるから、そんな風に熱くなれてるんでしょ?

行こう。もっと先へ。
行こう。あの光の差す方へ。

下りに入ってすぐ博多大の朝長を抜いた。
一度は伊豆田に食い下がるかに思えた朝長だが、大きく遅れてしまっていた。
小嶋と岡田、二人の勢いに一瞬並ぶことさえできなかった。
そして、次に聖ヴィーナスの伊豆田をかわす。
ここまで神がかり的な速さを見せていた伊豆田だったが、下りでの走りではその姿ではなかった。
足元を確かめるように下る伊豆田。足元どころか、着地したその足がそのまま宙に浮くように走る小嶋と岡田。
差は歴然だった。あっという間に伊豆田が見えなくなる。


先頭の惣田が箱根神社の鳥居をくぐった。残りは2キロだ。

「先頭で栄京の惣田。惣田が残り2キロの表示を通過しました。しかし…そう。もう惣田にも。沿道の観客にも。わかっています。感じています。そして…来ました。やって来ました。小嶋です。慶育大学の小嶋が…四ツ谷大の岡田とともに、やって来ました。その差は…11秒。見えます。箱根山中の九十九折。その姿がついに視界にとらえられました。慶育大学には順位はありません。このまま何番目でゴールしても、その走りに順位がつく事はありません。しかし…そんな事はどうでもいい。小嶋の表情がそんな風に言っているように見えます。あっと、ここで…岡田が。四ツ谷大の岡田が前に出ます。ものスゴイ表情だ。ものスゴイ表情だ。前は譲らない!譲らない!岡田の意思が…意思が脚を前へ運んでいるようだ!」

大歓声が降り注ぐ。ここまでの歓声もすごかった。でも、これは間違いなく今日一番の熱狂だ。
そして…ついに残り1キロ。三人が並んだ。

「並びました!ついに…ついに並びました!そして…いや、引かない!退かない!三人とも一歩も下がりません。横一列!横一列に並んだまま。栄京の惣田、四ツ谷の岡田、慶育の小嶋。まったく譲りません。これは…これは間違いない。間違いなく後世に語り継がれるデットヒートだ。5区23.4キロ、往路108.8キロの末に…なんというドラマ。最後の最後になんというドラマが用意されていたのか!」

中継車が真っ直ぐ進みコースから外れた。あの先を…あの先を右に曲がればゴールだ。
岡田と惣田が肩をぶつけ合いながら先を競る。小嶋の振る肘が惣田の胸辺りを叩く。
まったくお構いなしだ。お互いが全く横を見ない。

意地、プライド、闘争心…そして強い想い。
色んなものがぶつかりあっっていた。


61.

「きたきたきたーっ!きたよ、なっきー!」
もうすぐフィニッシュだ。宿舎が芦ノ湖のゴールのすぐそばとはいえ、出迎えるためにはそろそろ出かけなくてはならない。しかし、名取稚菜と内山奈月はテレビ放送にくぎ付けになってままでいた。

芦の湯の手前、ついに聖ヴィーナスの伊豆田が先頭の栄京・惣田をとらえた。
ここから先、いったん急な下りを駆け下りてもう一度登る。国道1号の最高点を超えれば、5区は終わる。
箱根駅伝往路のフィニッシュまであと5キロだ。

ここまで飛ばしに飛ばしてきた惣田だったが、さすがにペースが落ちていた。
顎が上がり時々苦しそうに天を仰ぐ。
松井玲奈の出した指示はまさに的確だった。宮ノ下で後続を引き離した惣田はその後も快調に箱根の山中を駆け上がった。無理は承知の上だ。それよりも惣田の「走りたい」というモチベーションを最大限高揚させる戦略に間違いはなかった。そしてこの辺りで限界が来ることも。ただ、残りは下りだ。ここまでの貯金を何とか守ればいい…

しかし、誤算が一つだけあった。

伊豆田が速すぎた…いや、強すぎた。
まさか、聖ヴィーナスがここで上がってくるとは…

「ねえ、なっきー。そろそろ行こうよ。間に合わなくなっちゃう。トップで来るずなちゃんを迎えなきゃ。」
名取が興奮気味に言う。しかし、内山はさっきから黙ったままだ。
「どうしたの?ねえ。行こうよ。」

芦の湯でいったん下ったあと、二人は最後の登りに入った。距離はさほどないものの、かなり斜度のある登りだ。
ここで過去何度となく勝負が決している。かつて指原莉乃が大島優子を振り切ったのもこの場所だった。
「ここです!伊豆田さん、ここで引き離さなくちゃ…惣田さんは限界だ。いける!」
内山が呟いた。思わず両手を合わせ、それを強く握りしめる。

苦しい…息ができない。
いや、ちゃんと息はしてるの。じゃなきゃ死んじゃうし。
でも、酸素が入ってこない。人の身体は酸素がなきゃ動けないのよ…

隣にいた伊豆田が一歩前に出るのが見えた。
ああ…抜かれる…ダメだ…もう抵抗すらできない…

惣田がそう思った時だった。
ふっと全身の力が抜けた。もやがかかっていたような視界が突然クリアになる。
痺れたような感覚になっていた腕が勢いよく振れる。
アスファルトを蹴る感覚が戻ってきた。
そして…乱れていた呼吸が、まるで鼻づまりが治った時のように楽になった。

惣田の身体がぐっと前に出た。登りにも関わらず大きくストライドが伸びる。
ここまで見せてきた躍動感のある走りが戻ってきた。

「なに…あの子…完全に落ちたと思ったのに。なっきー、どういう事?死んだふりでもしてたの?」
「いや…違います。たぶん…」
「たぶん?」

セカンドウインド。
長距離走の世界では良く言われる事だ。
人間の身体は、負荷の高い運動を行い心拍数が上昇した状態が続いていると、やがて各器官が悲鳴を上げてくる。血液中の酸素を運動エネルギーの媒介に使う事の限界が来るからだ。ところがある程度その限界状態に耐えていると、やがて人の身体はその状態に適応しようとし始める。それまで50%しか取り込めていなかったものが、突然70%に…80%に…なってくるのだ。これを活かしたトレーニングを選手は取り入れている。しかし、極限の限界までの環境はなかなかトレーニングでは作り出す事が出来ない。緊張感に浸された本番のレースで稀にしか起きない現象が、今、惣田の身体に起きていたのだ。

伊豆田も奇跡的なペースでここまで登ってきた。その勢いはまだ続いていた。
二人は並んだまま最後の登りを終えた。

「行きましょう…わかにゃんさん…」
「え?なっきー、見ないの?こっからだよ。ずなちゃん、こっから…」
「行きましょう…」

内山が立ち上がったのを見て、名取も納得したように立ち上がった。
リモコンでテレビを消す。


「スペシャリストになるしかないんです。伊豆田さん。箱根に出たかったら賭けてみませんか?」
入学早々の内山にそう言われても伊豆田はニコニコしてそれを聞いているだけだった。
怒りを顕わにしたのは、大島涼花や高橋朱里の方だった。
「何入ったばかりの新米がそんな偉そうな事言ってるの?ずなちゃんはね…」
「じゃあ聞きます。今、箱根のメンバー決めるとして、お二人は伊豆田さんをメンバーに入れますか?」
「そ…そりゃ…でもさあ…こんなに頑張ってるんだからさあ…」
二人の言葉に歯切れの良さはなかった。
確かに、伊豆田は頑張っていた。きついトレーニングにも決して泣き言を言わず、いつも笑顔で周りを元気づけていた。チーム欠かせないムードメーカーであった。しかし、記録的にも力的にも…箱根で上位を狙う聖ヴィーナスのレギュラーメンバーに選ばれるには厳しい事は皆が感じていた。

「ね?スペシャリストって…私は何をすればいいの?」
「ちょ…ちょっとずなちゃん。こんなぽっと出の…」
「いいの、涼花。ねえ、なっきー。あなたは、あの四ツ谷大付属からそのまま強豪の四ツ谷大に進まずウチにやってきた。どこに魅かれたの?ウチの自由に自分の意見が言える、その雰囲気に魅かれて来たんでしょ?」
「はい…その通りです。」
「わかった。先輩がその雰囲気を壊しちゃいけないね。それに・・・わかってたんだ。私。このままじゃ絶対箱根になんて出れない。なっきー、やるよ。1%でもいい。私がこのチームに貢献できる事があるのなら…私はトライする。」

それ以来伊豆田は毎日坂を登った。聖ヴィーナスがある湘南から箱根はそう遠くない。箱根5区のコースを毎日のように駆け上がった。筋力トレーニングもひたすら登りに耐える為の筋肉を鍛えあげるメニューを組んだ。
当然、バランスは欠くことになる。トラックでの記録は全く伸びなくなった。むしろ走る度に記録が落ちていった。
しかし…確実に速くなっていた。登りに関しては。
チームの誰もが登坂走で伊豆田の前に出る事は出来なくなった。歩幅は小さいが力強く地面を蹴る独特のピッチ走法。強靭な心肺機能。すべてが「山を登るため」に作られたマシーンのようだった。

下りに入った。
残り5キロ、あとは転がるように坂を下りていくだけだ。

伊豆田はここで遅れた。
「登ること」に特化して鍛え上げられた身体は、下りを勢いよく駆けていく機能を持てていない。
あれほど力強かった走りは途端に頼りなさげな足取りへと姿を変えてしまった。

全ては内山の狙い通りの展開だった。
栄京にとって突然現れた内山の存在が誤算であったように、聖ヴィーナスの誤算は惣田の底力だった。
惣田がセカンドウインドを得て、登りでリードを許さなかった。

そこで、勝負は決まった。

5区は…往路は…
栄京女子大のものだ。

誰もがそう思っていた。



60.

陸上競技にはいくつかの「アンタッチャブル・レコード」というものがある。
決して触れてはいけない…というよりは、決して破られる事がないだろう、という意味合いだ。
トラックのMJ、マイケル・ジョンソンが記録した400mの43秒18。カール・ルイスとの壮絶な戦いの末に生まれたマイク・パウエルの走り幅飛び8m95。20年以上破られることなく今も輝き続ける記録たちだ。
一方で、長距離界は常に驚異的な記録の壁が次々に打ち破られている。
男子マラソンは恐らく近年中に2時間を切る選手が現れるのではないかと言われているし、女子マラソンもその記録はここ10年で飛躍的に短縮されている。

この箱根駅伝にもそう呼ばれる記録の数々があった。
花の2区では、それまで10年以上破られる事がなかった記録が前田敦子によってあっさり塗り替えられるとその翌年、松井珠理奈が更にその記録を1分近く短縮した。
大島優子の3年連続の区間新はどれも、過去の輝かしい記録をただの平凡なタイムに変えてしまう圧倒的なものだった。しかし4年目に出した区間新を同じ年、同じ区間で走った指原莉乃はそれを遥かに上回る記録で大島を土につけた。6区の山下りでは「妖精」と評される走りで須田亜香里が常識では考えられない記録を出した。
しかし…それらの素晴らしい記録も…新たな新星の前に過去のものとなっていく。
それが、箱根駅伝だ。


今年もこの山中に新たな新星が輝こうとしていた。
一人は川栄李奈。もう一人は小嶋真子。秋栄学園と慶育。かつて「2強」と言われた名門のランナーだ。13番目、14番目で襷を受けた二人は、まるで別のエンジンを積んだマシンが走ってるような勢いで山を駆け上っていた。7分半あった差は、湯元で6分半に。そして斜度が増す毎に詰まっていった。

「小湧園です。乃木坂大の橋本が来ました。先頭との差は…今3分になろうとしています。小田原では1分50秒余りだったその差が開きました。しかし、しかしその足取りはしっかりとしています。淡々と…淡々と橋本が小湧園前を通過します。そして…そして!ここでなんと!なんと!」
アナウンサーの口調が絶叫調に変わった。そう。彼らが待ち望むドラマがそこにあったのだ。
まるで売れっ子のシナリオライターによって書かれたドラマのような展開が。
「なんと、川栄です。秋栄の川栄李奈が来ました。そして小嶋真子!1区では無念の途中棄権。伝統のフラッシュグリーンの襷は途絶えました。今つけているのは、その襷ではありません。しかし、その後の区間、見事な走りでここまでその想いを繋いできました。慶育大の小嶋。小田原では7分半ありました。その差。なんと小湧園前で…その差は3分7秒。3分!3分です!トップが見えてきました。故障明けを懸念された秋英の川栄。初めての箱根。その想いをぶつけるような走りの慶育の小嶋。その目線の先にあるのはいったい何か?前を走る乃木坂の橋本か、それとも…」

文字通り熱狂が二人を取り巻いた。そう…ドラマだ。
人々が求めているのは、ドラマチックな展開だ。
先を逃げる者の苦しみ、優勝候補が順当に勝つ事の難しさ。
それを知っていて、なお聴衆はドラマを求める。
そして…それが起きるのが箱根駅伝だ。


苦しい。いや、苦しいっていうのとは違うな。
走ってて苦しいのなんて、全然苦しくなんてない。
いや。違う。苦しいのは苦しいんだ。でも、辛い苦しさじゃない。
じゃあ、苦しい苦しさって何だ?
うーん…わけわかなんないな。私はいったい何を言いたいんだろう?

次から次って言葉が適切かわからない。実際、追い抜いていったランナー一人ひとりにもちゃんと想いってものがあるんだろう。でも…
小嶋真子は不思議な感覚の中走っていた。
今までと何かが違う。いや…そうじゃない。ずっと忘れていた感覚だ。
何か遠くに置き忘れてきてしまったような感覚。懐かしい感覚。

前にいるのは…橋本さん?そう。あの薄紫のシャツに濃い紫の襷。あれは乃木坂だ。
乃木坂のエース、橋本さんだ。
前しか見えない。いや、隣を走ってる川栄さんの事が眼に入らないわけじゃない。意識が前にしか向かないんだ。高校の時にはそんな経験なかった。いつも1区を走ってた。どれだけ後ろを引き離すか…それしかなかった。大学に入っても似たようなものだ。いつ失速するか…そればっか気になっていた。今は、前しか見えない。前しか向けない。

楽しい?…それも違うな。楽しくなんてない。実際、今にも口から心臓が飛び出しそうだし、太ももはパンパンだ。登りに強くなるためには太ももが太くなきゃだめだって言ってたのは瀬古さんだっけ?あの人も、時には正解を言うんだな。私の太ももは確かに太いし。
いや、そんな冗談はどうでもいい。でも…シンプルだ。本来、長距離を走るってこういう事だったのかもしれない。中学の時、一人で箱根を走ってみた。5区を登ってそのまま6区を降りた。あわせて50キロ近く。フルマラソン以上の距離だ。「なんでそんな苦しい事するの?」友達に変態扱いされた。それが心地よかった。「変でしょ?私って。」自虐ネタにしながらも、人ができない事が出来る事に堪らない快感を持った。

誰のために走ってる?自分のため?チームメイトのため?
そんなことばっか考えるようになったのはいつからだったっけ?
確かに、今私は色んな人の想いを背負って走ってる。
この襷が重いのは、みんなの汗がしみこんでいるからだけじゃない。萌咲の無念が込められてるからだけじゃない。そんなもの全てを抱えて走るから…だから、駅伝は面白い。それだけでいいんだ。

奈々が待っている。さっきから色んな情報を遮断していた。
誰がトップで差がどれくらいで…
そんな事は見たくも聞きたくもなかった。
でも、わかる。すぐ近くに奈々がいる。そして、私が来るのを待っている。
そう…待ってくれてる。襷が繋がろうが順位がどうだとかは、大きな問題じゃない。

「さんきゅ。楽しかったよ。」
ふと、隣の川栄から声がかかった。
マズい。余計なことを考えすぎた。のぼせ上がってたら簡単に置いていかれる。
故障明けとはいえ、相手は学生ナンバーワンの実力の持ち主だ。
「何言ってるんですか?先には行かせませんよ。まだまだ。まだ最高点まで4キロあります。5区は登りだけじゃない。置いていこうってそんな事許しませんからね。」
小嶋の答えに、川栄が笑顔だけで答えた。

小嶋は気づいた。微かに川栄の走りにずれが生まれている事に。
それまではほとんどなかった上下動が生まれている。
「川栄さん…やっぱり脚が…?」
「行けよ。いいから。言っとくけど同情なんていらねーよ?」
「は…はい。わかりました。」
言われるまでも同情なんかしない。故障も不調も…それを含めて駅伝だ。
「真子。」
不意に下の名前で呼ばれて小嶋はどきっとした。
「はい。」
「今日は負けにしとくよ。あー残念。でもね…必ず…」
「はい。また絶対どこかで一緒に走りましょう。競い合う場は箱根だけじゃありませんよ。」
川栄かきっと将来日本を代表するランナーになるだろう。私も必ずその舞台へ駆け上がる。
小嶋はそう川栄に誓った。
「まけんじゃねーぞ?私を置いていくからには…わかってんな?」

「はい。トップまで行きます!」
小嶋は再び前を向いた。恵明学園の子供たちが演奏する鼓笛隊の音が聞こえてきた。
登りが終わるまであと3キロ。芦ノ湖のゴールまで8キロ。

参ったな。これでトップに立たないわけにはいかなくなった。
小嶋の目がまた輝いた。


59.

宮ノ下から小湧園へ。5区で最も華やかな場所だ。
対向車線の車は先を急ぐことなく、すれ違う選手へ声援を送る。
むしろ、この時間帯にここにいようと狙ってその場に止まっているようなものだ。
沿道には何重にも観客が押しかけている。熱狂的な声援はまるでアイドルのコンサートのようだ。

先頭で通り過ぎる惣田は今日までは全く無名の選手だった。
5区が始まるまで無名だったと言ってもいいだろう。
しかしテレビ中継で何度も何度も惣田のエピソードが語られるとともに、ともすれば笑顔でも浮かべているかのように楽しそうに走る姿がクローズアップされている事を観客も知っていた。そうじゃなくても一目惣田の姿を見るだけで、なぜか応援したくなる。そんな魅力を惣田の走りは持っていた。


一方で2位を争う岡田と朝長はその惣田を追うモチベーションを見つけられずにいたまま走っていた。スタートしてからのペースが順調でなかった訳ではない。駅伝には目に見えない「勢い」…「流れ」といってもいい。それが確実に存在する。今の流れ…それは間違いなく栄京にあった。

小湧園へ差しかかろうとした時だった。二人の背後からどよめきのような声援が沸き起こった。
朝長と岡田は少なくとも無名の選手ではなかった。少なくとも、この5区の注目選手として挙げられた事に間違いはない。しかし…背後から迫ってくる歓声は、二人に与えられたものとは明らかに種類の違うものだった。驚き…の声といってもいいものだ。


定点の様子を伝えるアナウンサーの声が入る。
「こちら小湧園です。今、2位争いの二人が見えてきました。博多大の朝長美桜、四ツ谷大の岡田奈々。トップを行く栄京大・惣田からは50秒遅れました。ともに2年連続でこの5区を任されました。博多大の朝長は…あっと、いや二人ではありません。2位争いが…三人のグループに変わりそうです。聖ヴィーナス大の伊豆田です。伊豆田莉奈がきました。小湧園前を2位グループの三人が…いや、スピードが違う。伊豆田が前に出ます。聖ヴィーナスが2位に上がります。その差が1メートル…2メートル…これに反応したのは、博多大の朝長。岡田は…あーついていけない。四ツ谷大の岡田が離されます。2位争いが入れ替わる!四ツ谷大、博多大の2位争いは、聖ヴィーナス、博多大へと変わりました!」

聖ヴィーナスは紛れもない強豪校だ。知名度的にも高いし、何よりも人気があった。過去には柏木由紀、渡辺麻友といった人気実力を兼ねた大スターを擁し優勝争いを演じた。ここ数年も毎年上位を占め力のある選手を箱根路へ送り出している。しかし…伊豆田は全く無名の選手だ。それは観客にとってもだし、実際に走ってる選手にとってもだ。

「美桜。聖ヴィーナスにくっついて。さっきは私のミスだよ。指示が一瞬遅れた。でも、今回は逃がしちゃだめ。ここで離されたら往路だけじゃない。ウチの今年の箱根は終わるって思って。いい?」
指原が朝長に指示を送るのをわかっていたように朝長は伊豆田を追った。一瞬だけ遅れたがすぐにその後につく。腕を振ったときに伊豆田の背中に触れてしまいそうになるほどの近さだ。

指原とまったく同じタイミングで四ツ谷大の峯岸も同じ指示を出していた。
しかし、岡田は反応できなかった。先を行く二人にあっという間に差を広げられる。
聞こえてなかったのか?いや、そんな事はない。この歓声の中でも、ちゃんと私の声は奈々に届いてるいるはずだ。思わぬ展開に消耗してしまっているのか?それとも、この気温か?
奈々は真面目な…生真面目すぎる程真面目な性格だ。選手としてもそうだ。与えられたメニューは確実にこなすし、レースでもこちらの描いた絵図通りの走りを見せてくれる。今、私の指示通りに走れないという事は…何らかの異変が起きていると考えたほうがいい。どうするべきか?監督車を降りて様子をうかがうべきかなんだろうか…?


岡田は伊豆田にかわされる前から…ずいぶん前からその気配を感じていた。
指原さんが美桜に指示を出したのも、同時に峯岸さんが同じ指示を私に出したのもちゃんとわかっていた。反応できなかった訳ではない。

わかりやすく言うと…逆らったんだ。コーチの指示を私はスルーしたんだ。
違う…ここじゃない。感じるんだ。まだ先だ。まだ箱根は終わっていない。
指示に逆らった事なんて一度もない。もちろん、納得のいかない指示には徹底的にその意図を確かめる。その上で納得するまで話す。それが私の役割だし、性分だ。
さっき、惣田さんが飛び出した時…行くべきじゃないかって思ったけど確信がなかった。だから指示に従った。でも…今は違う。峯岸さんの指示に納得していない訳じゃない。むしろ、今はそうする事が正解なんだろう。それなのに私は指示に従わなかった。

こんな事は初めてだ。直感、予感、イマジネーション…
どれもレースには必要ない事だって思ってきた。チームの戦略を確実にトレースする事が一番性に合っていた。人からは真面目すぎる…そう言われていた。

でも、今はどうしてもこの感情を押さえる事ができない。
ここじゃない。
今じゃない。

行ける。私はまだ余力を十分に残している。
でも…それを爆発させるのはここじゃない。

彼女たちと…ではない。

箱根の山中。下から吹き上げてくる熱。
私を動かすものは…もうまもなくやってくる。



58.

「奈々。落ち着けって。いいから。頼むから私の言う事聞いてって。とにかく…ペースを落とすんだ。これは監督命令だから。」
最初は穏やかだった峯岸の声が段々と大きくなる。
落ち着け…落ち着け…最初はそうだった。しかし、岡田のペースは全く落ちない。
とうとう、峯岸は監督車から箱乗りの姿勢で身を乗り出してきた。

調子は悪くない。いや…むしろ最近ないくらい足が軽い。
山に入ってもそれは変わらない。確かに呼吸は苦しくなってきている。
しかし、そんな事は当たり前だ。なんたってここは5区だ。
楽な走りなんてもとから考えていない。

でも…

岡田はいったん大きく息を吐いた。
隣で走ってる惣田も背後にぴったりついている朝永も、一見表情は変わらないように見える。
しかし汗の量が尋常でない。岡田もだ。
もともと汗っかきではある。それに加えこの暑さだ。

「アンタの気持ちはわかる。でもな…奈々。大丈夫だ。アンタは十分速い。」
峯岸が小嶋の名前を出したわけではない。しかし、峯岸にはわかっていた。岡田が惣田でも朝永でもなく、遥か後方を走る小嶋真子を意識していた事を。
「まったく…優子さんじゃないんだから。7分半なんてひっくり返せるわけないじゃんか。それに…慶育はどんなに頑張ったって順位なんかつかないんだ。幾ら真子だってモチベーションが続くわけないじゃんか。奈々…終わったんだよ。慶育は。慶育の時代は。」

峯岸は呟いた。少し寂しげな表情で箱根の山から見える青空を見上げた。
自分が走ってた時の慶育はまさに全盛期だった。大島優子、板野友美、秋元才加…そして、死闘のアンカー勝負を制した仁藤萌乃…本当に強かった。熱かった。
あのフラッシュグリーンの襷が途切れる日が来るなんて思いもしなかった…

必死の「説得」の甲斐あって三人のペースは落ち着いたものになった。後続では乃木坂の橋本が送れたという情報が入っている。伊豆田が驚異的なペースで前との差を追っているという情報は入っていたが峯岸は危機感を持たなかった。
大丈夫だ…往路のトップ争いはこの三人で決まる。


一方で博多大の指原は朝永への指示を迷っていた。
冷静沈着にして大胆不敵。博多大を僅か数年で全国屈指の強豪へと導いた指原の手腕は高く評価されていた。どの選手をどう育てるか。箱根に出るような学校へ進む選手は、どの選手もそれなりの力を持っている。一方で、真の開花をまだ迎えずにくすぶっている選手もいる。誰をどう育てるか。ベテランの監督でも思い悩むところを、指原は的確な指導で選手の力をどんどん引っ張り出していた。

ホントは行き当たりばったりなんだけどな…


まだまだ現役として走れる「力」は持っているはずだ。
今すぐ車から降りて走ったら、この子たちをぶっ千切る事だってできるかもしれない。
でも…なんか、先が見えなくなっちゃった。なんだろう?駅伝も、マラソンも…トラック競技も…熱くなれないんだよね。燃えてこない。
え?アンタ学生時代、燃えてたのかって?あんなに嫌だ嫌だってばっかり言ってたのに。
そうかもしれない…よくたかみなさんに怒られてたっけなあ。
私、やっぱり誰かに背中を強く押されないと、前に進めないのかな?
人の背中を押すのには容赦しないのに…


先頭の三人が大平台のヘアピンカーブを抜ける。まもなく中間点だ。
ここから宮ノ下の温泉郷への区間、もっとも斜度がキツいところになる。そして、箱根5区でもっとも沿道の歓声が大きくなる場所だ。箱根のファン…特に5区を見に来るファンは目が肥えている。箱根フリークはここで駅伝を見なければ素人だと持論をぶつモノさえいるくらいだ。

岡田と朝永は昨年もここを走った。狭い道路、急なカーブ。中継車がまるで身を縮めるようにして通り過ぎていく。すると…まるで雪崩だ。何重にも取り囲んだ観客の大歓声が選手を取り囲む。

「さり!前に出な。ペースアップだよ!ココ、踏ん張りどころだから!」
栄京の監督車の松井玲奈から大きな声で指示が飛ぶ。
惣田へのペースアップの指示だ。
指原も、峯岸も一瞬耳を疑った。

ここで?この先、まだまだきつい登りは続く。三人とも安定したペースをキープしてる今、ここでペースを上げる必要があるのか?
それとも、惣田の調子がそれほどまでにいいのか?もしくは、他の二人がもう限界と踏んだのか?

いや…玲奈。それはないって。
幾らアンタが鬼って言われてても、こっからスパートなんて…

指原も峯岸も同じ事を考えた。
そして、思った。行かせていい。
勝負はここじゃない。惣田は必ず落ちてくる。

惣田が一歩前に出た。ペースアップっていう程度のものじゃない。スパート…いや…ダッシュだ。あっという間に二人との差が開く。


苦しい…でも…登坂トレーニングなら何度でもしてきた。伊吹山、茶臼岳…八ヶ岳や野辺山で嫌ってほど坂は登ってきた。私が入学したのは、栄京の登山部かって?そんな冗談も聞こえてきた。でも、私は走った。どんなに苦しくたって構わない。走れる事の喜びに比べたら、どんな辛い事だって耐えられた。
私を速くしてくれたのは、間違いなく玲奈さんだ。栄京というチーム、そして仲間だ。今、玲奈さんは「飛び出せ!」って言ってる。その指示が正しいかなんて私にはわからない。
でも…玲奈さんがそう言うなら私は行く。今までそうしてきた。これからもだ。


「りな…!さーりな!さーりな!」
宮ノ下の観衆が皆で声を揃えて声援を送っていた。

さ…りな?
これか…これが、宮ノ下名物の選手コールなのか。
惣田紗利渚。
1年前は、きっとここにいる誰一人として私の名前なんか知らなかったはずだ。
今もそうかもしれない。栄京女子大の…ディフェンディングチャンピオンの栄京の5区を走る選手としての認識ならあるかもしれない。でも、ここの人達は、私の名前を呼んでくれている。
これだ…そうだ。
私が夢見ていたのは、この景色なんだ。
なんだろう。力が湧いてくる。脚が…腕が…全身の筋肉が奮い立つ。
いや…ちがう。奮い立ってるのは身体じゃない。心だ。魂だ。

「しまった…美桜。追って!後ろについて!」

指原ははっと我に返って朝永に指示を出した。
しかし…遅かった。惣田との差はどんどん広がっていく。

馬鹿…
私はいったい何をしてるんだ。
何で忘れてしまったんだ。

あの時…私も奮い立たされたはずじゃないか・
絶対的女王の大島優子よりも一歩先に入った宮ノ下。
あの時、世間の認知度も人気もダントツで優子さんのはずだった。
でも、宮ノ下のファンが先に名前を呼んでくれたのは、私の名前だった。
あの、まるで嵐のように…雪崩のように…津波のように…
押し寄せてくる莉乃コールを受けなかったら、この先走りきる事すらできなかったかもしれない。

玲奈…5区なんて走ったことないのに…
なんていう的確な指示なの?
そして、それに応えたあの惣田って子…


やられた…
こうなったら、箱根5区の残り12キロ弱は…追いつくには余りにも短い。



57.

おかしい…こんなはずじゃない…
橋本奈々未は困惑していた。
どこか自分の走りにトラブルがあるのか?だが、数ダースに及ぶ自らの走りのセルフチェック項目を丹念になぞっていっても、全く思い当たる節がない。もちろん足も腰も…故障どころは違和感すらない。なのに…なぜなんだ?なぜ、伊豆田の背中があんなに遠くに離れてしまっているんだ?
何度も何度も時計に目をやりラップを確認する。確かに伊豆田のペースは想定していたものよりも遥かに速い。だが、ついていけないスピードではない。何より、山には絶対の自信がある。今年は区間賞すら視野に入る…そう思っていた。

塔ノ沢を過ぎて斜度がきつくなり始めてすぐだ。気を緩めていたわけでもないし、もちろん油断してたわけでもない。
伊豆田がスパートしたわけでもなかった。しかし、一歩進むごとに伊豆田の背中から離されていくのがわかる。まだ7キロ地点だ。こんなところで離されるわけにはいかない。橋本は必死に腕を振った。しかし…それでも思うように体が動いてくれない。

まさか…ブレーキ?この私が?
脱水?いや、違う。そんなヘマはしない。
この暑さだ。水分摂取には十分すぎる位気を配っている。
それに、まだたったの7キロだ。仮に脱水気味になったとしても、まだ止まってしまう事なんてない。

「橋本!そのまま行け。前は追わなくていい。」
設楽から声がかかった。思わず橋本は後ろから来る監督車の方を振り返った。
追わなくていい?監督、いったい何を言いだすんだ。
ここで私が離されたら…明日の布陣がいくら強力といっても…

強力といっても…?
そうか…私、何をやってたんだ。何を舞い上がっていたんだ。
長距離走はメンタルが走りに占める部分が非常に多い。いくら膨大な走りのチェック項目…歩幅、手の振り、上下動、心拍数…そんなものを精査したって、気持ちに淀みがあっては本来の走りなんかできない。

つい先日の事が鮮明に脳裏に浮かんできた。

「何考えてるんだよ!全部…全部台無しにするつもりなの?」
「奈々未には…奈々未にはわからんわ!いいから、ほっといてや。好きにさせてんか。」
「ダメだって。絶対にばれるって。いや…ばれなきゃいいってもんじゃないよ。ね。やめなって。」
「もう後には戻れないんよ。」
橋本は泣きじゃくる松村沙友里を押さえつけるようにしていた。
手に持ったドリンク剤の瓶を取り上げようとしている。松村は必死に抵抗を見せていた。
二人の身体が、もんどり打ったようにして合宿所のベッドの上に倒れこむ。

「わかってるの?そんな事をしたら…アンタだけじゃない。チーム全体に迷惑がかかるんだよ?ここまでやってきた努力が全部パアになっちゃう。そんなの、許せるの?アンタだって必死にやってきたじゃん。この3年間を…」
「もうええわ。じゃあ、ばらせばええわ。そしたら、私はクビになってお払い箱。それで万事カタがつくやんか。」
「バカ!」
橋本は松村の頬を張った。胸倉をつかんで、二度三度と自分の手が痛くなるまで、平手を張る。
「自分で決めな。もうエントリーはされてる。ただ…当日の朝7時までエントリー変更は可能だから。ウチのリザーブメンバーは10分前に言われたって、走る準備は出来る子ばかりだから。」

偉そうに人の事を言える立場じゃないんだよね…私も。
いつもそう。自信たっぷりって言われるけど、それは自分に自信がない事の裏付け。
すぐ人の事を分析する事で、自分を誤魔化してきたんだ…
私は、まだまだ弱い…
あの一件以来、毎夜眠りが浅かった。
夜中に何度も何度も目が覚めた。レース目に整えなくてはいけないのは、体調だけではない。
一番大事なレースへの覚悟…

それを決めれないままレースに入った私が悪いんだ。

監督のいう通りだ。
こうなったら、私に出来る事は、とにかくこの襷を明日へ繋ぐことだ。

コースは大平台に向かって九十九折が始まっていた。
伊豆田の背中が視界から消えた。
橋本はそっと視線を落とした。少し先の道路を見て俯き加減で走る。

諦めたわけではない。前を見て絶望を感じるよりも、こうしていた方が自分の走りに集中できる…


56.

なんでみんな私の方を指差すんだろ?なんか言ってるし…
なんか変なカッコで走ってるのかなあ?そりゃ、私は綺麗なフォームじゃないって事は自覚してるけどさ。バタバタしてるって、いつも言われてたなあ。萌さんとか華麗だもんなあ。あんな風に走れたらいいんだけど…でも…いいんだよ。今は、フォームよりタイム。そして、どうやって前に追いつくかなんだから。7分半かあ。大見得切ったのはいいけど、大変だぞ…

1キロを過ぎた。手元の時計をチェックする。

そっか、ペースか。速すぎる!ってみんな言ってるのかな?
大丈夫。最初から無茶は承知。でも、今の私はちょっと違うんだから…

「ねえ、そのまんま走るの?襷…落としちゃうよ?」
右斜め後ろから静かな声がした。
気配には気づいてた。いや…気配っていうほど生暖かいものなんかじゃない。
殺気…?とさえも言っていい。オーラってものなのか?

「え?襷…?」
「あのさ。ほら、襷って肩からかけるんだよ。まさか駅伝やってて知らないって事はないよね?」
「あ…いっけね。すっかり夢中で。ありがとうございます。川栄さん。」

7秒遅れで襷を受けていた秋英の川栄李奈が並びかけてきていた。
静かな表情のままだ。特に入れ込んでいるわけでも、かといって力を抜いている訳でもない。
淡々と…そう、淡々と前を向いて走っていた。

小嶋は手に握り締めていた襷を肩にかけた。余った部分を簡単に絞れるようになっている。
後ろ手でその部分をパンツに挟もうとしてマゴマゴしてしまう。
そういえば、走りながら襷を締めるなんて…なかった気がする。
高校時代は3年連続で1区を走った。襷を渡す事はあっても渡された経験はそうない。

何度かやってようやく襷はおさまった。と、同時に小嶋は自分の胸元に何か、重いものが乗っているような感覚を持った。
「どした?まさか、初めて襷をかけた訳じゃないでしょ?」
「いえ…初めてですよ。こんなに重い襷をかけたのは。」
小嶋は襷に手をやった。オレンジと白のストライプ。繰上げ用の襷。
もうちょっとカラーリングとかにセンスもてなかったんだろうか?なんていうか、野暮ったい事極まりない。まあ、仕方ないか。本来はかける事のないものなんだし。
でも…今は、この襷…すごく重い。汗とか色んなもので汚れちゃってる。
重いのは汗の重さなんかじゃない。萌咲の想い、その悔しい想いを引き継いだ…みんなの想い。
そんなものが込められてるからだ。
襷の色は違う。でも、私はこれを何が何でも前に進めなくてはならない。


「ふーん…ま、何となく言ってることはわかる気がするけど。それよりさ…」
川栄が斜め上を見上げた。ターンパイクの入り口が見える。
左手には早川の流れ、右手には小田急線。湯本駅に入ろうとするロマンスカーの車窓からも沢山の人が手を振っているのが見える。

「アンタの考えてる事も大体わかったんだけど。」
「そうなんですか?川栄さんって、心理学でも勉強してるんですか?」
「ばーか。私がそんな難しい勉強なんて出来るかっての。」
「じゃあどうしてですか?」
「顔に書いてるからさ。ね…一人で走るほうが好きなの?そうなら置いてくけど。」
「何言ってるんですか。一人より二人の方が楽しいに決まってるじゃないですか。」
「楽しい…ね。いつまでそんな悠長な事言ってられるかな?」
「いいんですか?川栄さん。私、トップまで行くつもりですけど。」
「あったりまえの事言わせるなよ。私を誰だと思ってんの?」

一瞬だけ笑った気がした。無邪気な笑顔だ。
ずっと怖い人だって思ってた。いまだって、決して喋り方はフレンドリーなんかじゃない。

でも…わかる。きっと走りたくてウズウズしてたんだって。

本来であれば、今年の箱根。もっとも注目されるべき選手は隣を走っている川栄のはずだった。
名門秋英のエースとして、学生陸上界をリードするホープとして。しかし、昨年の箱根を終えたすぐ後にアクシデントが彼女を襲った。遠征帰りの高速道路。無謀運転の車の自損事故に巻き込まれた秋英大のマイクロバスは激しく横転した。多くの選手はその中、幸いにも怪我を負うことはなかったが、前の方の座席にいた川栄は隣の席にいた入山杏奈とともに激しく体をバスの壁面に叩きつけられた。シートベルトを装着しないまま眠り込んでいたのだった。
川栄は右ひざの十字靭帯を断裂。入山は左鎖骨を骨折する重傷だった。

二度と走れないかもしれない…それどころか、歩行にも支障があるかも…と言われた大怪我から川栄は1年弱で復帰した。この5区へのエントリーは監督の高橋みなみも直前まで躊躇したオーダーだった。それでも、名門秋英が秋英としてある為には、川栄の復活は不可避だった。


通りすぎたその場から沿道に歓声というよりは、どよめきが起きる。
驚きの声と言ったほうがいいだろう。
明らかにここまで通り過ぎたランナーとスピードが違う。
まるでつむじ風が舞い上がったようなスピード。
先を行くランナーが見え始める。しかし、完全にスピードが…いや、二人を取り巻く時間そのものが違った。明らかに二人の周りに流れる時間は、周囲と違うスピードで流れていた。

足にかかる負荷が増す。
頬に当たる風のニオイが変わった。

山に入った。

「川栄さん。私も牽きますよ。引っ張ってもらったから…って言われるのシャクなんで。」
「牽けるのか?アンタが私を。」
「ついてこれないなら置いていきますけど?」

二人が笑った。声に出して笑った。
またペースが上がる。

奇跡への扉が…今開こうとしていた。

55.

参ったな…これ、早いトコ腹決めないとこのままずるずる終わっちゃう…

入りの3キロを設定よりも15秒早いタイムで通過した。
監督車の設楽からトップ集団との差が伝えられた。
中継所の時よりも30秒開いてる。

乃木坂の5区は橋本奈々未。3年連続の山登りだ。
今年の乃木坂は戦力的に恵まれていた。特に往路主体でチーム編成を組むチームが多い中で、復路にも十分力を持った選手を残した乃木坂のオーダーは各校から警戒されている。狙いはあくまでも総合優勝。そういう意味では、橋本の役割はこの5区で前との差が1秒でも詰まればそれでいいはずだった。


復路をトップと3分以内でスタート出来ば十分勝算はある。設楽の計算だった。
しかし、昨年までは戦略も含め松井玲奈の絵図の元に走っていた。
設楽の計算にどこまで信憑性があるかわからない。差は少しでも小さいにこした事はない。

30秒も差をさらに開かれたって事は先頭は区間新を上回るペースで走ってるって事だ。
四ツ谷大の岡田も、博多大の朝永も区間記録を出すような力はないはず。
今のペースで走ってれば追いつく可能性は高い…橋本はそう読んでいた。
しかし…あの子はわからない…
橋本の脳裏に合同合宿の様子が想い巡った。
熊崎と惣田。あの二人には何か「特別なもの」がある…
それは山岳のトレーニングで感じたことだ。同じ山を得意とする自分には感じ取れたニオイ。
それは、とても危険なニオイだ。
案の定、玲奈コーチは惣田を5区に起用してきた。
勝負を決する大事な区間だ。あの玲奈さんが、勝つ要素無しに無名の1年生をエントリーしてくるわけがない。

ひょっとしたら…この5区6区。栄京はジョーカーとエースを切ってきたんじゃないだろうか…

前を追うべきなんだろうな…一人旅か…しんどいな。
橋本がそう思った瞬間だった。斜め後ろから刺すような気配を感じた。
まったく警戒していなかった。橋本はプライドの高い選手だ。多くのトップランナーがそうであるいように、彼女も後ろを振り返る事が嫌いだ。
しかし、あまりの突然さに橋本は思わず後ろを振り返った。

聖ヴィーナスの伊豆田莉奈がそこにいた。

まじ?え…誰だっけ…
白のシャツに水色で書かれたSt.Venusの文字。ライトブルーの襷。
間違いなく聖ヴィーナスの選手だ。

伊豆…だっけ…ああ、そうだ伊豆田さんだ。4年生。
確か箱根は初めてのはず。
でも…え?後ろとは1分開いてたはず。それを何?4キロかそこらで追いつかれたって?
私、失速した?違う。さっき4キロを通過した時にチェックした。この1キロ、間違いなくペース上げてるはず。まだ上りは始まってない…簡単に追いつけるペースじゃないはずだ。
となると…伊豆田さん…区間新ペースで走ってる先頭よりさらに30秒以上も速いペースで追っていたってことになるじゃない?
無理でしょ?確か聖ヴィーナスの5区は…そう。全体20人中で18番目か19番目の持ちタイムだった。エントリー発表された時には「当て馬」じゃないかって言われてたくらいなのに…

橋本は伊豆田の顔を見た。すでに息が荒くなっている。
額からだけではない。腕や胸元にも汗が光っている。
この様子じゃとても最後までもたない…

まさか聖ヴィーナスともあろうチームがレースを投げた訳でもあるまいし…
監督は指示出してるのか?聖ヴィーナスも復路に強い選手を投入してる。
ここで潰れたら何の意味もないじゃないか…

判断に迷った橋本を、伊豆田があっさりかわしていく。一歩二歩と前に出た。
訳はわからないけど、この糸の切れた凧みたいになってる伊豆田は格好のペースメーカーだ。どこまでもつかはわからないけど、前を追うのに役に立ってもらおうか…

橋本は伊豆田の背後にぴったり張り付いた。


「なっきーの言ったとおりになったね。」
「でしょ?きっと橋本さん、何がなんだかわからずに後ろについたんだと思いますよ。前を追うのに好都合とでも思ってるんでしょうね。」
宿舎でテレビ中継を見ながら、内山奈月が名取稚菜の驚いた声に、さも当然といった表情で答える。いつでも外に出れるようにジャージに着替えてはいるが、まだどっかりと座布団に腰を下ろしたままだ。
「どこまで続くか…とでも思ってるのかね?」
「きっとそうだと思いますよ。この2年間の伊豆田さんを知りませんからね。橋本さんは。それに、ほかの学校の選手もみんな。」
「でも…ずなちゃん…よく納得したね。よくがんばったよね。」
「はい。本当に頭が下がります。伊豆田さんの頑張りには…」
「それを見出したなっきーもたいしたものだけどね。」

どこもこの5区に切り札を切ってきたって大騒ぎしてる。
なのに、聖ヴィーナスは?5区に用意していた朱里さんや涼花さんが調子が上がらずに、間に合わなかったとか言われてるけど…

冗談じゃない。
この5区、一番の切り札を切ったのは、わが聖ヴィーナスだ。

内山が立ち上がった。
大きく背伸びをする。

「往路優勝の胴上げ、私も隅っこだったら参加していいですよね?」
内山が笑った。名取が笑顔で頷いて答える。
「駄目だよ。見てるだけ。なっきーは明日、今日以上に世間をびっくりさせる仕事が残ってるんだから。」


54.

箱根の山は天下の剣。箱根駅伝を語る上で欠く事の出来ないのが5区だ。
5区間最長の23.4km。標高差864mのコースは、ランナーとしての全てが試されるハードなものだ。
かつて、この5区は「スペシャリスト」達のステージだった。
しかし、近年箱根駅伝を制するために各校がエースを投入する区間となってきた。
湯元から始まる緩い登り。函嶺洞門を越えてから始まる山登り。強靭な心肺機能に鋼の筋力。そして何よりもいつ果てる事のない苦しいコースをねじ伏せてやろうという精神力。
脚力だけでない、真の力が問われる舞台だ。

かつてこの5区では数々のドラマが生まれてきた。そして、ヒロインを生んできた。
「山の女王」と言われ、4年連続で区間新をたたき出した大島優子。その大島を擁する慶育大の往路4連覇を直接対決で破り、一躍「山の女神」の名を冠した指原莉乃。その翌年、圧倒的なパワー走法で雪の箱根山中を駆け上がっていった「ブルドーザ」島田晴香。

沿道の観客も、30%を超す視聴率のファンも、常にドラマを求めてきた。
そして、選手はそれに応えてきた。

今年も何かが起きる。
ここまでの展開は、その予感を十分に孕んだものであった。

だから、岡田奈々が小田原名物、蒲鉾の鈴廣前を過ぎた後の3キロ地点を指原が作った区間記録を上回るタイムで通過したのを知って、沿道のボルテージが一層上がった。観客は、ある意味暖かくそして熱い。しかし、もっとも酷でもっとも厳しい。彼らが求めているのは、無難に走ってフィニッシュする5区ではない。熱くてドラマチックな展開なのだ。


「いやいや。岡田さん、無理っす。そんな張り切らないでも…ゆっくり箱根見物でもしながら行きましょうよ。先は長いんですし。まさか区間記録とか狙ってるんじゃないでしょ?」
隣から聞こえてくる暢気な声。何度か無視してきたけど、そろそろ鼻についてきた。
返事をするわけではないが、笑顔を作ってその声の方に向ける。

無理って…アンタ、そんな事思ってないくせに。
「私、初めてなんです。緊張しちゃってぇ。」
スタート前、握手を求めてきたこの子の顔を見て、思った。
この子は、そんなタマじゃない。あ…女の子に…はないか。
って、そんな事言ってる場合じゃない。この子は危険だ。
大体、私だってこのペースはかなり無理してるって自覚がある。
なのに、この子は何の違和感もなしにくっついてきている。
まだまだ余裕がある走りだ。

惣田紗莉渚…この子、ただのぽっと出の新人なんかじゃない…


岡田のハイペースについてきているのは、惣田だけではなかった。
隣に並んで走る惣田に対し、二人の背後に張り付くようにしているのが博多大の朝永美桜だ。
去年もこの5区を走っている。特に印象を残したわけではないが、ちゃんと上位の成績を残している。この1年学生長距離界のエースにのし上がってきた宮脇・兒玉を差し置いて5区にエントリーされているのは伊達ではないだろう。

湯元駅前には大観衆が押し寄せていた。いよいよ始まる山登りへの期待…いや、後押しだ。選手はこの声援に後押しされるとともに、追い立てられるかのように箱根の山へ入っていく。

5キロの通過は、区間記録とほぼ同じタイムだ。海沿いでは手ごわい敵となった強い風も、この山中では序盤それほど影響がない。



ふーん…ちょっとデータと違うな。岡田奈々…生真面目で与えられたミッションを的確にこなそうとするタイプだったはず。なんかスタート前に慶育の小嶋真子と何か談笑してたけど、あれが原因?まさか、コーチから区間新狙えって指示出てるなんて考えられないし。だいたい、峯岸さんにはまだそんな勝負勘はないでしょ?三つ巴のトップ争い。乃木坂は橋本が追ってきてる。伊豆田がエントリーしてる聖ヴィーナスはともかく、そこまで含めた往路優勝争いを考えるなら、序盤は様子見ってのがセオリーのはず。だとしたら、このハイペースは?記録を狙うようなタイプじゃないしね…
なんか、まるで後ろから来る誰かから必死で逃げてるような感じが伝わってくる…


惣田紗莉渚は異色の経歴を持つ選手だ。
高校時代はまったく無名だった。陸上が強い学校へのセレクションをいくつも受験したが、ことごとく失敗。平凡な高校で平凡な選手生活を送った。インターハイへの出場ももちろんなし。記録もごくごく平凡なものであった。卒業時には秋英や慶育、四ツ谷大のセレクションに参加した。しかし、主だった成績も残していない惣田を拾おうとする学校はどこもなかった。
普通なら、上での選手生活は諦めるものだ。しかし、惣田は強い意思を持つ強い人間だった。
アルバイトで生計を立てながら、地元のクラブチームで走り続けた。そして、各地でオープン参加の記録会を見つけては自費で参加するという日々を送ってきた。

先が見えないそんな日々。
決して惣田はくじけなかった。
小さいころからいつもテレビで見ていた。
あの箱根を走るまでは絶対に諦めない。

そんなある日、突然チャンスがやってきた。
愛知県の瑞穂競技場で行われた、東海地区の学生記録会。
ある一人の選手との同走が彼女の運命を変えた。

惣田にとって…いや、陸上をやっている人間にとって、彼女はスーパースターと言ってもいい存在だった。大学卒業後はロードから離れクロスカントリーに転向。日本人として始めて世界選手権で銀メダルを獲得し、次期オリンピックでは一躍金メダル候補に名乗りを上げている選手だ。

「惣田ちゃんって言ったっけ?どこの学校?」
「いえ…今はクラブチームで…浪人中です。なかなかどこの学校にも…」
「浪人かあ。ね、駅伝は走ったことある?」
「いえ。私、そんな強い高校じゃなくて…選手揃わなくて予選にも出れなかったんです。」
「そっかあ。ねえ、惣田ちゃん。あなたはもっともっと速くなれる。でもね、あなたが輝くのはトラックじゃないと思うな。」
「でも…トラックで記録出さないと…」

憧れの選手の前で惣田は直立不動の姿勢のまま話を聞いていた。
駅伝…そりゃ、私だって。そもそも、強い大学に進みたいのだって箱根を走りたいからだ。
でも、それにはトラックで記録を出さなくちゃ…

「そうかなあ…だって、亜香里だって10000の記録なんて、今でも国際大会のB標準にも届かないレベルだよ?関係ないって。」
「でも…須田さんは…」
「少なくとも、さっき途中まで私を引っ張って走ってる姿には、鬼気迫るものがあったよ。なんていうのかな…月並みな言葉かもしれないけど、熱があった。久しぶりだよ。記録会でこんな血相変えて走ってる後姿を見るのは。」
須田亜香里が顔を崩して笑った。
とても、世界を取ろうかって人の顔ではない。
無邪気な少女の笑顔のままだ。

それはそうだ。須田さんにとっては単なる調整の為の記録会かもしれない。
でも…私にとっては、一つ一つが運命を変えるかもしれないレースなんだから。

「ね。あなたが真剣に駅伝をやってみたい…そう思うなら、私が推薦してあげる。きっと、あなたを速くしてくれる環境がある場だと思うよ。」
「え?私を…ですか?お願いします!須田さん!ぜひ。このとおりです。」
惣田は深々と頭を下げた。
「わかった。っていうか、どこの学校か聞かないの?」
「あ…そうでした。」
「あはははは、面白い子ね。ねえ、須田さんってやめない?あかりんって呼んでよ。」
「そ…そんな…でも…あかりさんって呼んでいいですか?」

須田の紹介で栄京女子大のブレーンをしていた高柳明音に会った。そこでは、惣田の高校時代の成績や記録についての話は一切出なかった。なぜ走りたいのか、なぜそう思うようになったのか。惣田は自分の想いを高柳にぶつけた。これも一つの勝負だ。高柳もかつては、箱根を走ったランナーだ。嘘や誤魔化しは通用しない。じっと惣田の目を見て話に聞き入っていた高柳が、大きく頷いた。
「わかった。あなたの想い、しっかり受け取った。あかりんの言うとおりね。アンタは速くなる。大丈夫。ウチには鬼がいるけど…それでもいいわね?」

構わない。私を速くしてくれるなら、鬼でも悪魔でも。
事実、栄京に入ってから私の記録は飛躍的に伸びた。10000の記録が半年で4分も縮まるなんてこと、考えも出来なかった。玲奈コーチは鬼だった。でも、その科学的理論に支えられた精神論が私を強くした。私も、ひたすらに研究を重ねた。今まで専門的な知識なんてナシに一人でやってきた。学べば学ぶほど速くなった。そして、同時にライバルとなる選手の事も徹底的に調べた。ライバル校だけでない。チームメイトの選手もだ。そうして、色んなものを得た。

そして、今、私はここを走っている。
紛れもない。箱根駅伝の5区を。
しかも、先頭だ。

この場所は…絶対に譲らない。


53.

私はきっと思い上がってたんだろうな。私が結果を出さなきゃチームは勝てない…なんて。
今まであの日の事を振り返るなんてなかった。一度もだ。
夢には何回も何回も出てくる。都大路の事。毎回違ったアングル。
時には上空を舞う鳥が見下ろすような視点で。
時にはテレビ中継のカメラを持った報道陣の視点で。
そして時にはチームメイトの視点で。

お前が走るのをやめたからだ。
お前さえしっかりしていれば。
私たちの夢をつぶしやがって…

目が覚めるとほっとした。
そして周りを見渡す。合宿所の部屋は殺風景だった。
一人でいる事を実感した。
そして、それが小嶋に寂しさと、妙な安心感を与えていた。

「真子。萌咲を見たか?」
「はい。見ました。」
「お前なら、今あの子にどんな声をかける?」
「…わかりません。でも…」
「でも?」
「またこの大会が終わったら、普通に一緒に走ってると思います。」
「アイツ、責任感じて辞めちゃうかもよ?結構、あれでいて気が弱いトコあるからね。」
「島田さん。何言ってるんですか。そんな事、絶対にさせないくせに。」
「はっはっはっははは。なあ、真子。そんなモンなんじゃないか?」

島田はそこまで言うと、小嶋の背中をばんっと一つ叩いた。
ちょ…ちょっとレース前ですよ。そんな強く叩かなくても…

そうだよね。私はバカだった。何も見えていなかった。
あの時、いったい誰が私を責めたって言うんだろう。
途中棄権の後…悔しかったに違いない。最後の冬だ。全国制覇を果たすという目標だけの為に1年間、苦しい練習にも耐えてきた。それが叶わなかった悔しさを私は一人で引き受けているつもりになっていた。
奈々が…未姫が怒っていたのは、私が棄権したからじゃない。
その悔しさを分け合おうとしなかった事に怒っていたんだ。

私たちはチームメイトであり親友だった。
戦友って言ってもいいかもしれない。

だから…今日、私はあの襷を最後まで運ぶ。もちろん、それは慶育の為だ。
共に苦楽を味わってきた大切な仲間の為だ。
でも…きっと、あの襷には、もっと色んなものが宿ってるような気がする。
それが何か。今日、走れば私がはその事に気付けるのかもしれない。


「西野です。三者一歩も譲らないデットヒート。最後の最後に飛び出したのは、四ツ谷大の西野未姫。この強烈な風の中、見事な走りを見せました。大きく襷を差し上げました。5区には岡田奈々。四ツ谷大は、今年も山で切り札を切ってきました。そして…そのすぐ後ろ。おーーーっと並んだ。並んだ。ここで二人が並んだ。博多大の秋吉優花、そして栄京女子大の市野成美も食い下がる。秒差だ。秒差の襷リレー。まずは、四ツ谷大。そして…ほぼ同時に栄京、博多。栄京は1年生の惣田。博多大は2年連続の山登り、朝長が箱根に向かいます。近年にない程の僅差の勝負。さあ、いよいよ、箱根駅伝、往路優勝の行方は…今年も山で決します!」


「未姫。ナイスラン。」
「ま…真子?あ…ありがと。」
全てを出し尽くして立ち上がれない西野の隣に小嶋が腰を下ろした。
久しぶりに見た小嶋の笑顔だ。西野は、疲労困憊の顔の中に無邪気な笑顔を浮かべた。
「奈々に挑戦状叩きつけちゃった。」
小嶋が舌をぺろっと出して笑う。本当に久しぶりだ。こんな風に笑う小嶋を見るのは。
西野がその場に立ち上がった。まだ息が弾んでいる。それを落ち着かせるようにペットボトルの水を口に運ぼうとするが、上手く喉に流し込む事ができない。
「もう、未姫ってば。そんなトコ、全然変わってない。」

「ねえ。挑戦状って?」
「うん。芦ノ湖でトップ争いしょうって。そんで、最後は私が勝つからねって。」
「まじで言ってる?私フィニッシュしてからずいぶん経つよ?それなのに、こんなトコでのんびり話してる真子が?」
「おかしいかな?」

いや…おかしくはない。
私は真子の怖さを誰よりも知っている。だからこそ、味方でいる時に甘え過ぎてたんだ。
あの時…もっと怒れば良かったんだ。アンタ一人でやってるんじゃない。調子悪いならペース落とせって。
区間新なんていらない。トップじゃなくたっていい。普通に走れば、あとは私たちが何とかしたのにって。
でも、言えなかった。それだけ、私たちは真子に頼り切っていたんだ…

「悪いけど、ウチのエースはそんな簡単じゃないよ?」
「わかってる。でも…今なら、私なんでも出来るような気がするんだ。」
「ん?呼ばれてるよ。7分半か。もし…本当に追いついたりしたら…」
「したら?」

伝説になるよ。
そう言いかけて、西野は言葉をひっこめた。
敵に塩を送るような言葉は今は言うべきではない。

「賭けようか?私は絶対無理なほうに。」
「じゃ、私は逆転できるほうに。もし、私が勝ったら?」
「掛け金は払うよ。1000円あげる。」
「よっし。その言葉忘れんなよ?」

「慶育が来ました!13番目まで順位と…いえ、13番目までポジションを上げた横山結衣。トップとのタイム差は7分25…26・・・やや離されました。2区3区と勢いに乗った慶育大学。ここでやや勢いを落としたか。5区は小嶋真子。慶育の意地をかけて…小嶋が山を登ります。」

勢いを落とした?
何を言ってるんだ、あのアナウンサーは。この条件の中、何にも守られず吹きっさらしの向かい風の中、この差を守ってくる事がどれだけ大変な事かわかってないのか?
見せつけてあげる。慶育の勢いは落ちてなんかないって事を。

結衣。見事だ。見事だよ。
アンタのその粘り…絶対に無駄になんかしない。


小田原中継所  通過順位 (○数字は個人区間順位)


                          トップとの差
1位  四ツ谷大学    西野未姫①       -
2位  博多大学     秋吉優花②       +0:04
3位  栄京女子大学  市野成美④       +0:05
4位  乃木坂大学    堀未央奈③       +1:51
5位  聖ヴィーナス大学 梅田綾乃⑥      +2:58
(13番目) 慶育大学  横山結衣         +7:31
13位 秋英学園大学   達家真姫宝⑤     +7:38


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