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39.

「ほんふぉほはとだとおほう?」
夕食会場で大島優子が海老フライを咥えながら秋元に聞く。
「もう、優子。口の中一杯にして喋るなって小さい頃言われなかった?本物かって?たぶんね。じゃなきゃ、あの再加速は説明がつかない。本物も本物。しかも、スプリント力じゃ下手したらカベンディシュ並みかも。」
秋元は世界最強のスプリンターの名を出して島田を評した。
「参ったな。来シーズン、あんなのがウチに入ってくるのか。」
「参ったって…チームにとってはイイ事じゃない。」
「そらそうだけど…あんなスプリンター、ウチで使いこなせるのかな?ウチはワンデーレースを勝ちにいくチームじゃないよ?どちからかと言うとオールラウンダーを補強するのがセオリーじゃないのかなあ?」
大島は分厚いステーキに食らいついた。レースで消費したカロリーを補給し、激しい運動で傷ついた筋肉を修復するタンパク質をたっぷりと取らなくてはいけない。食事もレースの一環だ。
「そりゃそうだろうけど。ま、ランスにも考えがあるんじゃないかな?」
「才加、来年もランスがこのチームにいると思う?」
「え?どういう事?」
「いや…なんとなくね…」

あっという間に大島の皿からステーキの姿が消えた。相変わらずの食欲だ。秋元は大島の強靭な胃袋を羨ましく思った。レース期間中秋元の体重は下手したら5キロくらい減る。もともとが細身の秋元にとっては大きな体重変動だ。一方で大島は殆ど体重を減らす事がない。しっかり食べてしっかり寝る。ロードレースにおいて「回復力」はある意味最も大事な能力の一つだ。そういう点では大島も前田もレース後でもしっかり食事を摂る事が出来る。超一流と呼ばれる選手とはそういった事も違うのだ…

「さて…と。食うもん食ったし…風呂入って寝るとするか。明日は長丁場だし、いよいよ山もあるしね。大芝居も打たなくちゃいけないし。」
大島が舌を出して笑う。明日はランスが最初の仕掛けを発動させると打ち出している日だ。

「お久しぶりですね。」
聞き覚えのある声。忘れようのない声だった。大島がテーブルから去ったのを待ち構えていたかのようにその声がかかった。秋元がその声の主を確かめる事なく、返事をする。
「恵令奈…見に来てたの?」
「やだなぁ。才加ちゃん。仮にも元チームメイトでしょ?そんな敵に話しかけるような口調はないんじゃない?」
「私はアンタを今でも許してないからね。」
秋元の表情は厳しかった。

恵令奈は将来を嘱望されていた選手だった。私もその才能に惚れこんでいた。私がアシストするのは優子じゃなくこの子だと思った事もある。だから…私は恵令奈が許せなかった。ロードレースはフェアな世界だ。最後に勝負を決するのは人間の力だけだから。恵令奈は、その大原則を歪めようとした…

「だから…私を事故に巻き込んだんでしょ?」
「違う!あの事故は、確かに不幸な出来事だった。でも…私がわざと起こしたわけじゃない。あの時事故に巻き込まれたのはアンタだけじゃないんだ。そんな事を私がする訳がない!」
「そうかな?まあ、いいや。ね…才加ちゃんの仕事はアシストでしょ?」
「そうよ?エースを勝たせるのが私の仕事だよ。」
「そうよね。才加ちゃんにとってのエースって大島優子でしょ?その存在を脅かすなら、相手を全力で潰す…それもアシストの仕事よね?」

「なにが言いたいの…?」
「いやね…敵は色んなトコにいるよって教えておいてあげようかなって。」
「そんな事は言われなくても分かってる。」
「そうかな~。じゃ…今回は才加ちゃんは誰を勝たせたいの?優子ちゃんを勝たせたいなら、まずは身内の敵を何とかしないといけないんじゃない?」
「私はチームの一員だ。チームオーダーが違う選手を勝たせるというなら私はその子のアシストをするだけだよ。」
「さっすが、キャプテン。」
小野は秋元を茶化すように拍手をした。
「もういいかな?明日もハードな一日になるんだ。」
「じゃ、最後にもう一つ、いい事を教えてあげる。来年、K'sに入ってくるんでしょ?島田晴香…って子。」
「なんでそれを?」
小野は秋元の質問には答えず言葉を続けた。
「あの子…おかしと思わない?なんであんなに強いのか…」

秋元は小野が浮かべた笑顔にはっとなった。
いや…そんなはずがない。あの子はまっすぐな子だ。そんな邪道に身を落とす子なんかじゃない…いや…小野もそうだった…まさか…?

「明日の山岳…またあの子が世の中を驚かせると思うな。私は。でも、もっと驚く事がレース後発覚するかもね。じゃ、お休みなさい。」

小野が車椅子を反転させて背を向けた。
恵令奈…アンタは何を知ってるっていうの?



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38.



万全や。これでちょっとは胸がすっとしたわ。
やっぱ、勝負はこれやないといかん。彩が言うてくれたおかげやな。
ウチらだと、なんか妙に納得ちゅうか…諦めてしもうた事を彩が言うてくれた。
大したもんや。ああいう子こそがチームを引っ張っていく器ちゅうんかな?

さあ、みやお、行こか?向こうはもうバテバテや。アンタの好きな踏みあいっちゅう展開やねいけどええやろ?最後爆発したりや。明日からは地味~にアシストに回らんといかんのやからさ。

増田は満足そうな表情で横を見た。もう最後の大場しかおらへんはず…

増田は目を疑った。増田の横を走っていたのは島田だった。顔を歪めながら懸命にペダルを踏んでいる。なんでや?なんでまだ残っとれる?もう1キロ近くスプリントしとるはずやで?なんで一人でそこまで牽けるんや?

残り200m。宮崎が増田の後ろから前に躍り出た。完璧なタイミング…のはずだった。

大場、ここだ。イーブンとは言えないかもしれないけど、なんとかここまで引っ張ってこれた。後は一対一の勝負だ。相手が宮崎さんでも臆する事はない。お前のスプリントなら十分勝てる。頼んだよ。大場。
島田がすっと横にスライドした。発射台としての仕事を終え、後は大場の背中を見送るだけだ…しかし…大場が…出れない。島田の後ろで脚を温存していたはずの大場は想像以上に消耗していた。それほど島田の牽きは強烈だったのだ。一瞬の間があった。島田は一瞬の判断で再びペダルを踏む脚を強めた。常識では考えられない事が起こった。一旦仕事を終えた発射台が再度加速する。ありえない…誰もが目を疑ったが、事実一踏みで島田は宮崎に並んだ。残り100m、今度は宮崎の前に出る。自分でも訳が分からない。どこからこの力が湧いてくるんだ?身体一つの差がついた。


勝てる。
島田は確信した。周りの動きがまるでスローモーションのようだ。
昨日は出来なかったガッツポーズまで作ってゴールラインを越えた。

その様子をモニターで見ていたヨーロッパ・プロチームの首脳から感嘆の声が沸き起こった。
「C'est incroyable!(信じられない!)」
「Qui est cela、Haruka Shimada?(島田晴香とは何者だ?」

リーダージャージを今日も守った島田晴香の名前が彼らの脳裏に深く刻み込まれた。

37.

37.



鈴鹿峠を越えて三重県に入った辺りで、逃げ集団がメイン集団に吸収された。というよりは、逃げていたメンバーが追いつかせたと言ったほうがいいだろう。その後、レースは淡々と進んで一つの集団のまま愛知県に入った。以前としてレースをコントロールしているのはK'sレーシングのトレインだ。

「戸賀崎さん。ちょっとええですか?」
集団の中盤を走っていた山本彩がインカムに向かって話しかける。
「どうした?彩、何かトラブルか?」
「いえ、ちゃいます。戸賀崎さん、前に指示してましたやろ?このジャパン、ウチのチームはスプリントステージを取りに行かへんって。」
「ああ、その通りだ。」
「それって、勝つなって意味ですやろか?」
「いや…そんな事では…ないと思う。無理にスプリント合戦に参加して落車にでも巻き込まれたら、アシストが減るから慎重に行けって事だ…と思う。」

まったく俺は何を言ってるんだ…まだ、事の顛末を他人のせいにしてるのか…?自分のチームの選手に指示を出すのに…と思うって何だ?情けねぇな…戸賀崎は唇を噛みしめた。

「戸賀崎さん。集団で一番安全なのはどこかよう知ってますやろ?」
「あ…ああ。もちろんだ。なるべく前の方にいたほうが落車に巻き込まれる可能性が低いのはわかってる。」
「なら、ウチら危険回避の為に前に出ますわ。自分たちのペースでね。なんか言われたら、そう言えばええんと違います?それに…ちょっとは見せ場作っとかんと、あからさま過ぎるのもいかんのやろ?]

スキルAの軍門に下るのは自分でも納得したつもりや…それがプロの世界やろうし、本場ヨーロッパでもよくある話や。ただ、勝てる可能性があるステージまで捨てろちゅうのはちゃうやろ?秋Gもそこまで言うとるんやない。だいたい、戸賀崎さんは何でもかんでも秋Gにビビり過ぎや。要は明日以降もちゃんと働けば文句は言わんはずや。こんなヌルイ展開の日に見せ場作らんと勝っても、それこそファンから吊るしあげくらいまっせ。ガチでいくトコはガチでいかんと。

山本が柏木に目配せした。青いジャージのトレインが形成される。先頭を牽くのは佐藤亜美菜だ。クライマーの石田や鈴木、小林も隊列に加わった。佐藤・柏木・山本が先頭交代を繰り返しながらぐんぐんペースを上げて行く。それに反応したのが、サイクル4だ。大島・前田を擁するK'sと渡辺で総合を狙うスキルAは動かない。栄中日は高柳明音、桑原みずき、中西優香、松井珠理奈だけがペースを上げチームBのトレインに続いた。スプリントに強い珠理奈を活かす布陣だ。あくまでも須田を中心にしたチームだが、今日のゴールは地元・名古屋だ。見せ場を作らない訳にはいかない。

先行集団が市街地に入った。もの凄い観衆が沿道を取り囲んでいる。圧倒的に珠理奈への声援が大きかった。しかし、チームBのトレインはメンツも経験も群を抜いている。石田・鈴木・小林といった山岳要員が巧みに栄トレインを押さえつけペースを掴ませない。特に小林香菜の動きが栄集団を困惑させていた。ペースを上げたり落としたり、歩道寄りにコースを取ってみたりセンターライン寄りに戻ってみたり。テクニックなのかついていけずフラフラしてるのか…掴みどころのない小林の走りに惑わされて、栄トレインは早々に分断された。先頭集団には高柳と珠理奈だけしか残れなかった。

ラスト2キロ。チームBが完璧なトレインを組んでゴールへの体制を整えた。柏木・山本・佐藤が前を牽く。エース宮崎の前には増田有華が発射台として走っている。宮崎の脚は完全に温存されている。死角は全く無しだ。栄は高柳を残すのみ、サイクル4もエースの大場を島田晴香と島崎遥香が牽いているものの、明らかに駒が足りない。チームBが測ったように500m毎にアシストを切り離していくのに対して、二人でエースを守らなくてはならないサイクル4は圧倒的に分が悪かった。

残り1キロ。高柳の後ろから珠理奈が飛び出した。やや早めのスパートだ。しかし、これはもう高柳の脚が売り切れた事による見切り発車にしか過ぎなかった。前をテクニシャン・柏木に押さえられあっという間に失速していく。サイクル4もここで島崎が失速した。集団から千切れて行く。チームBはまだ佐藤・山本・増田の3人が宮崎を牽いている。残り500m。佐藤が全力で脚を使い切り山本も役割を終え、後方へ下がって行く。最後は4人のスプリント合戦だ。しかし、トレインが機能し完全に脚を貯めた状態の増田と少ない人数でもう脚が残っていないであろう島田。しかも、島田は昨日大逃げを果たしたばかりで疲労が残っている身である。

勝負あった。誰もがそう思った。

36.

「何をしてるんだ、戸賀崎。」
路肩に倒れこんだ平嶋の横にサポートカーを止めていた戸賀崎の携帯から秋元康の声が響いた。
「いや、平嶋が…」
「命に係わるような怪我なのか?]
「いえ、それは大丈夫です。ただ、恐らく鎖骨をやってます…」
「なら、レースの続行は無理じゃないか。いつまでそんなトコで止まってるんだ。柏木もだ。お前がそこにいて何が出来るんだ。二人ともプロなら今やるべき事を考えろ。もう走れないヤツの側についてて何の意味があるんだ。そんな事をしてるうちに誰かにトラブルがあったらどうする。さっさとレースに戻るんだ。」
平嶋の身体を支えていた柏木が戸賀崎の顔を見た。戸賀崎が黙って頷く。
「平嶋、すまないな。オフィシャルのサポートが来るまでここで一人で待っててくれ。まだレースは続いてるんだ。」
「わかってますよ、戸賀崎さん。私の失敗でみんなに迷惑かける訳いかないですもんね。しまったなぁ…なんであんな無茶したかなぁ…やっぱ、身の丈にあった走りをしなくちゃダメって事ですよね。」
平嶋が肩を押さえて痛みに耐えながら戸賀崎に言う。どうやら鎖骨だけではない。足首があり得ない方向に曲がっている。恐らく、平嶋が競技者としてロードバイクに乗る事はもう出来ないだろう…
柏木がバイクにまたがり走り始める。今ならまだ集団まで戻る事は不可能ではないだろう。戸賀崎もサポートカーに乗り込んだ。

確かに平嶋は無茶をした。しかし…その無茶を誰が責められるだろううか。それだけの魔力がこのツールにはある。これまでずっとアシストとして献身的に働いてきた者にも夢を見る権利はある。だが、全ての者がその夢を実現する事は出来ない。栄光は多くの犠牲に支えられているからこそ栄えあるものなのだ。華やかな栄光は、これまで多くの悲劇を生んできた。その栄光の眩さに目がくらみ我を失う…

今日の事は、そんなありふれた悲劇の中のほんの一つにしか過ぎない。
戸賀崎はそう自分に言い聞かせた。

35.



仁藤と一緒に集団を飛び出したのは、スキルAの倉持明日香、チームBの平嶋夏海だ。さすがに各チーム強いアシストをチェックに出した。先行した珠理奈・須田と合流し5人の逃げ集団が形成された。
メイン集団の先頭にはサイクル4に代わってK'sレーシングが立った。本来、ここで集団をコントロールするのはサイクル4の役割だ。リーダージャージを着ているのは島田だし、逃げ集団に選手を送りこんでいないので、リーダージャージを守るか手放すか…その選択をする権利と義務があるからだ。しかし、この難しい局面では実業団チームに仕切らせておくわけにはいかない。秋元と宮澤が先頭に上がるのをサイクル4のメンバーが遮る事など出来なかった。

甲賀市に入った。登り勾配が徐々に強くなってくる。K'sの集団コントロールは完璧だった。逃げ集団との差をきっちり3分に留めながら進んで行く。向こうは5人、こっちは175人。この差なら前を吸収するのにそんなに苦労はしなくていい。
差を一定に保てたのは、秋元と宮澤のコントロール力だけではない。逃げ集団に入った仁藤の力によるものが大きかった。逃げ集団の5人の中で先頭を牽く時間が圧倒的に長いのが仁藤だった。恐らく一人で半分以上の時間牽いていただろう。その中で巧みにペースを調整していたのだ。こうやって有力選手の飛び出しを押さえながら後方との連携でレースそのものをコントロールできる…大島優子個人の強さだけではない。K'sの強さはこのチーム全体の連携力の強さでもあった。

「珠理奈、後ろがきっちりコントロールされてる。これじゃ逃げはきつそうだ。一旦戻っても構わないぞ。」
栄中日のサポートカーから湯浅の指示が飛ぶ。珠理奈が須田の表情を覗き見た。
「ですね…確かに簡単には逃げれないですね…ま、今日は挨拶出来たって事で良しとしますか…やっぱり、怖いなぁ、仁藤さん。」
須田が仁藤の方を見て笑った。仁藤が微かな微笑みを返す。逃げ集団のペースが落ちた。ここから先は本格的な鈴鹿峠の登りだ。脚を使う前に諦める選択はむしろ賢いと言って良いだろう。一緒に逃げ集団に参加していた倉持も同じ考えのようだ。

だが、一人だけが違う考えを持っていた。チームBの平嶋だ。集団のペースが一気に落ちたところで一人だけ逆にピッチを上げ峠を登り始めた。あっという間に差が開いていく。
「おい、平嶋。行くな!戻るんだ。ここから一人で逃げれる程甘くないぞ。それに…お前は自分の仕事を忘れたのか?」
「ここまで逃げたんです。勝てるかもしれないじゃないですか!」
平嶋はインカムから聞こえてくる戸賀崎の声に答えて言った。
「バカ野郎。お前、チームオーダーを無視するのか?」
「だって、みすみす勝てるチャンスを放棄する事はないじゃないですか。やっぱり間違ってますよ。他のチームを勝たせる為のチームオーダーなんて。私だって一度くらいは喝采を浴びてゴールラインを越えてみたい。」
「しかし…お前の気持ちはわからんでもない…いや、よくわかる。だが、今日は無理だ。他の4人はもう降りてる。メイン集団も統率がとれている。ここから逃げても、お前はただのドン・キ・ホーテだ。」

戸賀崎の声を振り切って、平嶋が先頭で鈴鹿峠の山岳ポイントを超えた。スプリンターの平嶋が水玉の山岳ジャージを着る。レース序盤にたまに起こる不思議な現象だ。峠を登ったら、今度は下りだ。山頂ゴールのステージ以外では登ったら必ず下りがある。スプリンターはおおむね下りも強い選手が多いが、平嶋はそうではなかった。平坦では上手く使える自分の体重を味方にする事が上手くない…いや、下手と言っても良かった。それを平嶋自身もよくわかっていた。だから、普段は丁寧にラインを取りリスクを押さえた走りをする。だが、勝てるかもしれない…そんな欲が平嶋から注意心を奪い取ってしまっていた。いつもよりもほんの少しだけ厳しいラインでコーナーに突っ込む。いつもよりほんの少しだけ速い速度で下りを駆け下りていく。勝つ事への欲が平嶋に勇気を与えていた。しかし…それは蛮勇であった。

比較的緩やかな右カーブ、ガードレールギリギリをトレースしようとした平嶋の視界に観衆の姿が飛び込んできた。ロードレースは選手と観客の距離が最も近いスポーツの一つだ。平嶋は一瞬それを避けようと体重を左側に逃がした。100kh/h近くのスピードではほんの少しの体重異動でバイクの挙動が大きく変わる。ほんの100分の1秒…いや1000分の1秒かもしれない。一瞬の判断ミスが事故を呼ぶ。

平嶋の身体が宙に舞った。

34.


ツール・ド・ジャパン第2ステージは琵琶湖~名古屋への155.2kmだ。途中、滋賀と三重の県境の鈴鹿峠という今回2級山岳ポイントだ設定されている。山岳ポイントはその標高や難易度超級から3級まで等級分けがされており、そこを先に通過した順にポイントが付与される。もちろん超級のポイントが一番高い。毎日のレース終了後に山岳ポイントがトップの選手は山岳賞の証である白地に水玉模様のジャージを着る事が許される。最終的にそのジャージを守った選手が「山岳女王」だ。

2級山岳があるとはいえ決して厳しいものではない。このステージも平坦を得意とするスプリンター達の為のものだ。初日こそ意外な展開で終わったが、この日は壮絶なスプリント合戦になるに違いない。誰もがそうレースの予想を立てていた。





スタートラインの真中から出て行ったのは島田晴香だ。その日、リーダージャージを着ている者、つまり総合首位に立つ選手がもっともいい場所からスタートする。世界中のロードレースのセオリーだ。琵琶湖大橋を集団がゆっくり走って行く。島田を先頭にしてサイクル4の選手がそれを取り囲むように走る。橋を渡り切った所がフラッグポイントだ。集団のペースが一気に上がる。
スタート直後、今日も何人かによるアタック合戦が繰り広げられた。しかし、なかなか本気で飛び出す選手は出てこない。柳の下にそう何匹も泥鰌はいない…みんな知っているのだ。大きなレースで2日続けて逃げが決まる事はないって事を。今日こそ勝負は最後のスプリントまでもつれ込む…特に初日、潰し所を誤ったと評されている…実際にはそうではないのだが…チームBが威信をかけてスプリントステージを取りに行く…と。

しかし、今日もレースは序盤から動いた。
国道1号線を東に向かって走るコース、丁度名神の栗東インターを過ぎた辺りだった。栄中日の松井珠理奈が須田亜香里を引きつれて飛び出した。ここから先、鈴鹿峠までの30キロはひたすら登り基調になる。特に甲賀市に入った辺りからは勾配が一段ときつくなる。総合を狙える有力選手の早い仕掛けは各チームにとって予想外の展開だった。

「ランス、どうしますか?栄は危険ですよ。チェックしますか?」
秋元才加がインカムで指示を仰ぐ。一瞬の間を置いて答えが返ってきた。
「そうデスね。確かにその通りデス。一人追わせましょう。」
「ラジャー。…由依。行けるね?」
秋元が横山由依に視線を送る。横山が小さく頷いた。
「NO。ここはモエノ…アナタが追ってください。」
インカムからランスの声が響いた。
「萌乃を…ですか?いや…幾ら相手が珠理奈とはいえ、エースキラーの萌乃を使うのは…」
「エースキラーだからココはモエノです。それに、チェックすべきはジュリナじゃありません。アカリです。スダこそが危険…ワタシのアンテナはそう言ってマス。」

須田?確かに、今年、栄中日のエースナンバーをつけているのは珠理奈でも玲奈でもない。須田亜香里…去年まではアシストだったはずだ。秋元は同じアシストとして須田の事は良く覚えていた。特に平坦での牽きには目を見張るものがあった。山岳での玲奈の働きとともに警戒すべき相手とは理解していた。しかし…ツール7連覇のランスの目は節穴ではない事も理解できる…

判断に迷う秋元をよそに、仁藤が無言で集団から飛び出して行った。仁藤はわかっていた。自分の仕事は今最も危険な相手を潰す事だ。今までもそうしてきたし、これからもそうだ。自チームのエースをアシストする事よりも自分にはスナイパーとして働く事に適性がある。だからこそ、直感が働くのだ。ランスの言う通りだ。チェックすべきは須田亜香里。私は私の仕事をする。プロとして。

33.


「しっかし…ありゃ、本物かもよ。とてもオールラウンダーって体型じゃないけど、あれで山も登れるんでしょ?」
「うん。幾ら全開じゃなかったかもしれないにせよ、あれだけのメンバーが出てた乗鞍でも優勝してるし。ランスもえらい逸材を見つけてきたもんだ。」
秋元才加と宮澤佐江がサイクル4の賑やかな食事を遠巻きに見ながら話していた。K'Sの宿舎も同じホテルだった。今日の見事な逃げ切りを目の当たりにして、来年チームに入ってくる島田の存在感を改めて実感しているといったところだ。
「普段どんなトレーニングしてるんだろうね?興味あるな。」
秋元がつぶやく。専門的なコーチがついている事もないんだろう。普段からストイックに自分を追い込む秋元にそんな風に関心を持たせるに十分な島田の活躍であった。

「ん…?あれ…恵令奈じゃない…?」
宮澤がホテルのロビーの車椅子姿の小野を見つけ秋元に呟く。
「ホントだ…何してるんだろ?」
「声かけてくる?」
「いや…いいよ。恵令奈も気まずいだろ。あれから何年もずっと話すらしてないからね。」
秋元が宮澤の言葉に首を振る。会話を切り目の前のパスタに集中しはじめる。
「そうだね…それに、なんか誰かを待ってるような感じだし。」

小野の所に現れたのは、野呂と浦野だった。チームはまだ食堂で談笑しているところだった。盛り上がってる場を中座してきたようだ。3人は、そのまま人目を避けるようにロビーから姿を消した。

「えれぴょん…いや…スゴイ効果だわ。」
野呂が小野に感服したような笑顔を作って言う。
「言ったでしょ?ちゃんと調合には自信もってやってるって。」
「でも…今日はヒヤヒヤしたよ。草レースと違ってドーピング検査あるんだからさ。もし引っかかったら…って。」
「大丈夫だって。絶対引っかからない。発想の転換だって。禁止薬物をどう誤魔化すかじゃ無理があるの。今のアンチ・ドーピングの精度はどんどん高くなってるからね。じゃなくて、禁止されてないものを組み合わせる事で同等の効果をどう産むか。これが大事なの。」
小野が不敵に笑う。
「でも…ちょっとは禁止薬物が入ってるんでしょ?」
浦野が頬を赤くして聞く。配られたワインだけでは足りず、部屋の冷蔵庫から出したウイスキーをストレートで飲んでいる。今回サポート役に回っている浦野には酒を控える理由は余りない。
「まあ…ね。でも、基準内なら何も問題なし…でしょ?」

「ねえ…ひょっとして…このまま島田が総合まで取っちゃったら…どうする?」
野呂がちょっとだけ不安そうな表情を浮かべ小野に聞く。
「チームオーダー出てるんでしょ?どこかのお偉いサンから。島田も、まだ自分の身体の中の秘密に気づいてないはず。後は、上手く煽ててすかしてなだめて…ノンティさんの采配しだいすよ。」

島田を潰すのが本来の狙いじゃない。もちろん、あの子をスターにする為に仕組んでるわけでもない。どこで爆弾を爆発させるか…全ては私の考え次第なんだ。
ふふふふ…今年のツール・ド・ジャパンは、私の手の中で動いてるんだよ。まだ誰も気づいてないけどね。

小野はホテルの窓に広がる京都の夜景を眺めて小さく笑った。

32.


TV、新聞、雑誌…ひっきりなしにインタビューのオファーが入った。何しろ史上初のアマチュア選手によるステージ優勝である。メディアの注目が集まるのも仕方のない事であった。

「みなサン、ちょっとチョット。ここから先はマネージャの野呂サンに聞いたほうがイイです。ハルカ大変疲れてますネ。OK?今日のレースを振り返るならワタシも時間取りますよ?」
報道陣の前にランス現れた。島田に目配せをしながら小さな声で言う。
「ウチのチームのコンテナに行きなサイ。マッサーに待機させていマス。」
「え…?あの…私まだ…」
「構いまセン。ツール中の身体のメンテナンスは大事ネ。ましてや、今日みたいに頑張った日は特に。」

島田は広い駐車場の一角に停まっているK'Sレーシングのトレーラーの中へ入って行った。周囲ではスタッフがバイクを洗ったりメンテナンスを行ったりしている。プロチームはこういうサポート体制がスゴイ。サイクル4では機材のメンテは基本自分で行うし、専属のマッサーなんていない。

「待ってたよ。じゃ、早速そこに横になって。」
すらっとした長身の女性がいた。マッサーの松井咲子だ。
「はい…失礼します。」
島田がベッドの上にうつ伏せになった。松井が肩から腰、脚へと全身をチェックするようにマッサージしていく。松井の力強くて柔らかい指先の使い方に島田の全身がリラックスしていく。逆に興奮してきたのは松井の方だ。

スゴイ。なんなの?この筋肉っていうか身体のしなやかさは。普通、あれだけの逃げをずっとかましてたら、脚の疲労はもちろん、緊張から来る肩や腰の張りと炎症は避けられないはず。なのに、強張ってるどころか筋肉の柔らかさが失われていない。今まで何百人?何千人?の身体をチェックしてきたけど、こんなのは始めてだ。瞬発力を生む強さと、持久力を保つ柔軟性…両方をカバーできる肉体…この子、どうやってこんな身体を手に入れたの?

「終わったよ。」
松井の言葉に島田ははっと我に返った。どうやら眠ってしまったようだ。
「あ…ありがとうございました。ごめんなさい、寝ちゃってました…。あんまりにも気持ちが良かったので…」
「いいよいいよ。アンタ、いい筋肉の質してる。疲労がたまりにくいっていうのはロードレーサーにとって何より大きな武器だよ。大事にケアしてあげてね。今日も、しっかりメンテしておいたから、明日も全開でいって大丈夫だよ!」
松井の言葉に島田は笑顔を見せて深く一礼した。やっぱりプロチームっていいな。走る事に全力を出せる環境がある…


その夜は簡単な祝杯があげられた。ツアーレースの最中、普段は酒が振舞われる事はないがサイクル4はアマチュアのチームである。だからこそ、この快挙をささやかに祝おうと成人以上に小さなグラスで一杯だけのワインが注がれたのだ。
「すいません…明日はしっかり集団で仕事しますんで…」
島田の挨拶に笑いが起きた。地方のバイクショップとしては、もうこれ以上ない宣伝効果である。実際、取材を終えて店長の野呂が食堂に戻ってきたのは夕食5分前の事だった。

コメント欄について

コメント欄を通常表示(承認制でなくすぐに反映される)に戻しました。
色々あったんで、承認制にしてたんですが、やっぱり気軽にコメしてほしいですからね(#^.^#)

もちろん、厳しいご意見でも全然結構です。
皆さんのご感想ってスゴク参考になりますので!(^^)!


また、ドタバタしちゃって皆さんが不快に思われるような事態になったら戻しちゃうかもしれませんが…

という事で、皆さん、これからも宜しくお願いします~。


明日も朝早いのに、ANN聞いてる四谷です。
相変わらず、島田うるせぇよ(^^ゞ


31.


残り10kmを切った。後続のメイン集団との差は2分半。
勝てる…島田晴香は背筋に寒いものが走るのを感じていた。

インカムからは何の指示も飛んで来ない。野呂からはただメイン集団との差が淡々と知らされてくるだけだ。いいんですね?もうここまで来たら私も退くに退けませんよ?大丈夫、明日も平坦ステージだ。ちゃんと発射台の仕事しますから。一晩寝れば疲れなんて取れちゃうんですよ、私。

でも…さっきからきつそうだな…この子。先頭を牽く時間が短くなった。明らかにこの子が前に出るとペースが落ちる。後ろを待ってたのは、私じゃなくてこの子だったりして?いや・・それはないな。吉本だっけ?ここは総合を狙うようなチームじゃない。何が何でも今日のステージの優勝が欲しいはず…って事は…

島田は迷っていた。ひょっとしたら三味線かもしれない。こんなキツイ表情で釣っておいて、実はまだ余力がある…私の脚が売り切れるのを待って飛びだそうって魂胆かも…

えーい。もう考えるのやめいっちゅうに!さっき、腹くくったばっかじゃんか。こんなトコで牽制し合ってたら、本当に後ろに追いつかれちゃう。いいよ、残りもう5キロじゃん。たった5キロ。行くしかないじゃん!
そう島田が思った時だった。渡辺が島田の顔を見た。そっと右手を差し出す。

え?握手?
島田は左手を出して、渡辺に応えた。
「おめでとう。」渡辺が笑顔でその手に力を込める。
そのままゆっくりと後退していく。


ロードレースは紳士淑女のスポーツと言われている。相手を出し抜く戦略とは別の所で、勝敗が決して時には常にフェアであるべきだ…という考え方が正しいとされている。渡辺は限界だった。残り5キロ、ずっと島田の後ろについていけば、島田の消耗も激しくなる。最後に逆転する事は可能だったかもしれない。しかし、仮にその作戦が上手く行ったとしても、称えられるのは渡辺ではない。二人でこのまま行く事で牽制が生じ後ろのメイン集団に追いつかれるリスクだってある。自分が勝つ為だけに、侵してはならない不文律があるのもロードレースの世界だ。

プロだ…アマチュアである私なんて全然わかっていないのかもしれない。私は勝つ事しか考えてなかった。これが…ロードレースの世界なんだ。プロの世界なんだ。やっぱ、自転車っておもしれー。

ラストの直線に入った。堀川通を北へ進む。沿道には大観衆が押し寄せている。二条城の前に置かれたフィニッシュが見えてきた。後ろは…見る必要がない。観衆の目線は私だけにしか向けられていない。大丈夫だ…信じられない。私が…ツール・ド・ジャパンのリーダージャージを着る事になるなんて。プロツアーだよ、市民レースじゃないんだよ?
でもなぁ…私、黄色似合わないんだよなぁ…


そんな事を考えてるうちに島田はゴールラインを越えていた。
カッコいいポーズをしよう…おきなわの時は酷かった。それなのに…
ガッツポーズすら取る事も忘れてた。


史上初、実業団登録のアマチュア選手がステージを制した。
翌日、島田は栄えあるリーダージャージを着用する事になったのである。

30.

サポートカーに乗っている戸賀崎の携帯が鳴った。秋元からだ。
「少しは考えて指示を出すんだ。島田を逃がすのはいい。しかし少しは追わせないと、Bに勝つ気が無いって事がばれるだろ?いずれは協調が明るみに出るのは仕方ないのかもしれんが、今はまだ早すぎだ。柏木にペースアップの指示を出せ。」
戸賀崎の中にはまだ迷いがあった。というより、明確な指示をどう出せばいいのか分かっていない…と言ったほうが正しいのかもしれない。もはや、このチームの監督は自分ではないも同然なのだから…

「…わかりました。でも、ここからじゃ追いつくのはキツいですよ?遅すぎました。」
柏木がインカムから聞こえてきた戸賀崎の指示に答えて言う。
「ああ、わかってる。でも、今ならBは追い始めるタイミングを誤った…そう思われるだけで済む。協調が早い段階でばれるよりはマシ…だそうだ。」
戸賀崎はそう言って少し自己嫌悪を感じた。俺は…自分の判断力の甘さを他人のせいにしている…ダメだな。こりゃ、監督下ろされたほうがいいよ、どっちにしても。

「有華聞こえてたよね?いこっか。」
「なんや、空しいペースアップやな。追いかへんってわかっとって…」
「ま…あね。」
「ゆきりん、ゆったん、行こう!」
後ろから声をかけてきたのは、宮崎美穂だ。今回チームBのエースナンバーを初めて背負っている。それが、真のエースではないという事を知りながら…だ。
「今からでも追いつく可能性はゼロじゃないでしょ?追いついて勝っちゃったら…それはそれで仕方ないでしょ?行こう!まだ脚全然使ってないし。今まで楽しすぎて居眠り運転しちゃうトコだったよ。」
「おっけ。じゃ…チームB、集合~ってか?」
「じゃ、トレイン出動するよ?」
増田が先頭に立った。空になったボトルを投げ捨てる。9人のバイクからカシャカシャと金属音が響く。ギアをシフトアップした音だ。

「やっと?ホント、眠くなりかけてたよ。ようやくサイクリングできるね。しかし…ゆきりんいるのに仕掛けドコ間違えるかなぁ…何やってんだか。今年のBは。」
大島優子が前田敦子に声をかける。
前田は無表情で補給のパワーバーを咥ていた。それを口の中に押し込みボトルの水で喉に流し込む。
「そうかなあ?最高のタイミングでのペースアップだと思うけど?」
「え?遅いでしょ?今からじゃ。」
「本気で勝つ為なら…遅いけど。」

ん?意味がわかんないよ。勝つためって当たり前じゃん。そもそも今年のBは総合を狙う布陣じゃない。平坦ステージで勝たなきゃ存在感すらアピール出来ないじゃん?それわかってて、慎重になり過ぎただけの話じゃないか。最高のタイミングって?何を考えてるんだ、この子は?

まあいいや。今日はこのまま集団の中でフィニッシュすればいいだけだ。
先頭を牽くBにとってはしんどいペースでも、集団の中に埋もれてる分にはサイクリング程度の負荷しかない。あとは落車に気をつければいいだけだ。



29.



いいのかな…このままじゃ、この逃げが決まっちゃう…

インカムを使う現代のロードレースではメイン集団はしっかりとした情報分析を元に逃げ集団との差をコントロールする。そのおかげで逃げが決まる事は少ない。

島田の仕事はこのまま逃げる事ではない…はずだ。
八幡の登りの手前でメイン集団との差は4分半まで広がった。だが、それ以上縮まる事がない。島田は巧みにN吉の渡辺をコントロールしていた。自分が先頭を牽く時はほんの僅かだけペースを落とす。福鷹とジャカルタはもう限界近い。催促しないと先頭に立つこともしなくなっている。決して強い逃げ集団ではない…それなのに、後ろとの差が縮まらないのはなぜなんだろう?

「店長。後ろどうなってるんですか?」
「K'sが集団のコントロールをやめたんだよ。Bが牽いてるけど、今日は出るつもりがないから…協調がバレないようただ前に出てるだけ…って感じになってる。」
「秋Gからの指示は?」
「今のところ…何も。」

何もない…?ホントに?待てよ…確かにウチのチームはスキルAとの協調に入るって話だけど…メイン集団がそんな感じなら、私がここで勝っちゃっても問題ないよね…?
確かにウチのエースは美奈って話になったけど…
参ったな。店長もきっと参ってるんだよな。でも…

あー、なんかすっげーめんどくさくなってきた。つまんない。頭の中でぐちゃぐちゃ考えて…なんか詰将棋でもやってるような気持ちになってきた。こんなの私らしくないよ。うん。
もーいいや。怒られたら謝まりゃいいや。勝っちゃってすんません…って。
勝っちゃってトコが私らしくていいんじゃね?

4人は京都市内へと入ってきた。残り50km弱。ここからは細かいアップダウンをこなしながら京都市内を3周回する。一般にロードレースにおいて、逃げとメインの差は10kmで1分というのが一つの目安になる。それ以内なら射程圏内という事だ。しかし、それはあくまでもメイン集団が追いつこうという意思を持ってコントロールされている場合だ。どうやら、今日のメイン集団にはその意思が無いように見えた。

「こんちは。」
先頭を牽く渡辺美優紀の横に並んで島田が声をかけた。
「どーもです。」
渡辺が笑顔で答える。

お?まだ余裕なんだ。しかし…可愛い顔してるなぁ、この子。
アイドルみたい。
おっと、いかんいかん、そんなんで騙されちゃ。顔は可愛いのに、勝負になったら人が変わる…この世界、そんな人ばっかじゃないか。騙されんなよ、島田。

「まだ余裕っぽいっすね?」
「いや、ほんまはしんどいですわ。うまい事島田さんに脚使わされてますから。」
「あれ?気づいてました?」
「ははは、でも…メイン集団、あんまやる気なさそうやないですか?島田さん、後ろに追いつかせようって野暮やめにしません?」
「それもばれてる?」
「最初からわかってますわ。」

やれやれ…やっぱりそうだ。可愛い顔しててしたたか…この世界によくいるタイプ。Bの柏木さんとか栄中日の須田さんとか…そんな感じか。私みたいに、見るからに勝気そうな顔だと警戒されちゃうんだよな…って、そんな事考えてる場合じゃないって。

「じゃ、逃げちゃいましょ。このまんま。となると…あの二人…」
島田は何とか後ろに食いついてくる二人の方を一瞬見た。
「足手まといですね。ふりきっちゃいましょか?」
渡辺が頷いて言った。
島田が渡辺の前に出る。西京極競技場を右折し、京都市内を北上すると暫く緩い登りが続く。二人はそこで一気にペースを上げた。短いサイクルで先頭を代わりながら重いギアでまるで平地のように加速していく。若田部とシンディがあっという間に千切れていった。

28.


「まだ様子見って事なのかな?」
秋元才加が柏木由紀に声をかける。
「そんなトコですね。そちらはどうなんですか?確か、逃げてる子…島田さんって言ったっけ?あの子、来年大学卒業したらK'sに入るって噂じゃないですか?身内みたいなモノでしょ。今日はこのまま集団コントロールして追いつかせないって考えなんじゃないですか?」

秋元は柏木の言葉には答えず苦笑だけを返した。

…相変わらずカンがいい女だ。今まで何回この笑顔に騙されてきた事か。
スキルAに移籍した渡辺が若くしてあれだけの実績を出せたのは、間違いなくこの柏木の力だ。澄ました顔をして何度となく渡辺の勝利の裏で色んなトラップをしかけてきた。それが全てこの女の策略だと気づいてる者はまだ余りいない。渡辺が居なくなったとはいえ…この柏木がいる限り、チームBから目を離すわけにはいかない…
それに…確かにウチが島田を無理に追う必要はない。ウチにとってこの第1ステージで勝つことは選択肢の中にすら入ってないんだから。でも、チームBは違うはずだ。渡辺麻友という存在がない今年、取れるステージは平坦コースだけのはず。だったら、初日とはいえ今日は取りにいかなくてはいけないステージのはずだ。なのに、余りにも簡単に逃げを容認しすぎてる。まるで、島田を勝たせようとしてるのは、ウチやサイクル4じゃなく、チームBなのかと思うくらいだ。
なんでだ?島田がチームBと協調する理由も接点も何もない…不気味だな…

秋元はちょっと柏木から距離を取ってインカムで呼びかけた。
「ランス…集団のペースを少し落としますよ?」
「わかりましタ。デモ、ハルカ・シマダのサポートですか?まだ、チームメイトになるのは先の話ですヨ?」
「いえ…Bの動きが気になります。ここでウチがペース落としても集団を牽こうとしないなら…今年のジャパン、Bは勝つ気すらないって事になる。何を考えてるか気になって。」
「イイでしょう。ただし、逃げ集団との差は八幡のポイントで5分以内にしてくだサイ。」
ランスが指示を出した。
「ラジャー。」
秋元が集団に手信号で合図を送る。K'sのトレインがすっと後ろに下がった。

上手いね、さすがだわ。早速探りを入れてきたってトコか。
う~ん…まだこの段階で手の内を見せるのは得策じゃないわね。ウチがスキルAの軍門に下ったって事はまだ伏せておいたほうがいい…
もちろん、その事に納得したって事じゃないんだよ。うん。有華じゃないけど、こんな面白くない話はない。まるで私たちが二軍みたいな扱いだしね。でも…私たちはプロなんだよね。プロなら与えられた仕事をしっかりこなしてから自分の意見言わなくちゃ。
有華もさ…そんないつまでもふくれっ面しないで。まだ先は長いんだから。何が起こるのかわからないのがロードレースでしょ?それに…何かが起こる…いや…起こすのか…にはまだ早いよ。ここは大人しく羊の皮かぶっとこうよ。暫く集団引っ張るフリしとこうね…

柏木がすっと集団の先頭に立った。

27.


午前10時華々しいファンファーレが鳴り響くと、スタートライン並んだ集団から一斉に金属音が響いた。ビンディングシューズのクリートがペダルにカチッとハマる音だ。180台のバイクから同時に鳴るとなかなか大きな音となる。長いレースの始まりを告げる音でもある。

スタートして暫くは先導するアウディのオープンカーに従ってのパレードランだ。後部座席に乗り込んだ橋下大阪市長がフラッグを振りおろすまでは集団は和やかに走行する。年に一度のお祭りを待ちわびた沿道からは大きな歓声が飛ぶ。選手たちは笑顔で手を振りながら声援に応えていた。
一番前を走るのは昨年のチャンピオン、今年も栄えあるゼッケン「1」をつけた大島優子だ。チャンピオンチームだけに許されたひと桁ゼッケンをつけたK'sレーシングのメンバーがそれに続く。黄色のリーダージャージを着るのも大島だけに許された特権だ。

1周7キロの周回コース、半分来た辺りにフラッグポイントがある。そこからいよいよレースが始まる。徐々に先導のアウディのスピードが上がる。フラッグが振られた。
暫くは腹の探り合いだ。一人が前に出てはすぐに集団に戻り、すぐに別の選手が前に出る。そんな事を繰り返しながら集団は2週目に入る。有力どころのチームはまだこの段階では動かない。
2週目の半分手前でいきなり3人の選手が同時に飛び出した。地元大阪のプロチーム、Namba吉本、通称N吉の渡辺美優紀、九州。福岡を拠点とする、福鷹Bestの若田部遥、そして唯一の海外枠での出場、インドネシアの新興チーム、ジャカルタエアラインのシンディ・グラだ。
島田がインカムを使って本部の野呂に声をかける。選手は無線を使って監督とコンタクトを取る事が許されている。現代のロードレースはある意味、知略戦の要素が高い。監督の指示をリアルタイムで把握できる無線はもはや欠かすことのできないツールだ。

「3人逃げました。どうします?泳がせますか?」
「福岡とジャカルタはいい。力からしても目くじらをたてるレベルじゃないから。でも…N吉の渡辺は危険だね。チームBに来た山本のアシストをやってた子だけど、平坦にはめっぽう強い。地元で一発逃げをカマそうって作戦できたかもね。」
「じゃあ、あんまほっとく訳にはいかないって事か…追いますよ?」
「わかった。頼む。」
「了解。」
島田が集団の前に立つ。一口ボトルのドリンクを口に含んだ。

「え?晴香、逃げに乗らはるの?今日のステージはど平坦もいいトコや。勝負に出るならラストのスプリントやあらへんの?」
横山が声をかけるた。K'sレーシングのトレイン(隊列)の先頭を牽いている。後ろにつく秋元も宮澤も横山の言う通りだとばかりに頷く。
「うん、なんかね、ちょっと。」
島田は意味の通らない言葉で返事をして、一気にペダルを強く踏み込んだ。前を追う。後ろは…ついて来ない。そりゃそうだわ。スキルAとチームBの連合軍はこういう展開になった時、私が潰しに行く事を知っている。K'sもターゲットはこのステージではない。ここでアシストの脚を使わせてまで前を追うメリットは何もない。ついてくる可能性があるとしたら、松井珠理奈を擁する栄中日くらい…今年の栄はエースナンバーを珠理奈が背負っていない。須田亜香里という選手がエースのようだ。確か、須田はオールラウンダー…どちらかというと山岳タイプの選手だったはずだ。だとしたら、今日の平坦ステージを取りに珠理奈に好きに走れと言うオーダーが出てもおかしくはない…


しかし、珠理奈は来なかった。先頭の3人のコンセンサスが生まれる前に島田が追いついた。思った以上に今日は脚が軽い。無言で渡辺の背中を軽く押す。「先頭交代しながら行こう。」実業団の選手にその場を仕切られた気がして、渡辺は一瞬表情を厳しくした。しかし、すぐに頷いて島田の言葉に従った。インカムで島田の情報を得たのだろう。アマチュアとはいえ、島田の実績は無視できないものがあった。平地に強いだけでなく、先日の乗鞍では錚々たるメンバーを押さえて優勝をかっさらっている。警戒すべき相手だ…

4人対180人弱。普通に考えれば集団が大きいほうが一人ひとりの負担は楽だ。しかし、こういう風に集団が逃げを容認した場合、一旦は大きな差が生まれる。後方のメイン集団は終盤に備えてペースを上げない。逃げ集団は少しでも差を広げようとスピードを上げる。みるみるうちに差が開いていくのだ。
ところが、実際にはここにも緻密な計算が働いている。後方集団をコントロールするのは、そのレースをコントロールできるチーム。今日の場合はリーダージャージを着ている大島のチームであるK'sだ。彼女達は逃げ集団の選手の力、人数、天候等の状況を冷静に分析した本部からの指示でその差を実に巧みに計算している。おおよそ多くのレースでは逃げ集団はゴール直前数キロという所で集団に吸収される事になる。こういう点が近代ロードレースが頭脳戦と言われる所以である。
また、今日の島田のように敢えて逃げに加わりコントロールする場合もある。この場合、逃げ集団の中で最も力の強い選手に極力脚を使わせて消耗させるのが狙いだ。今日のステージ、サイクル4は是が非でも取りたいステージだ。逃げ切る可能性のある選手を前方で消耗させるのは実に大切な仕事であると言える。もちろん、それを悟られてはならない。だから、力のある島田が前にでて、渡辺に警戒させなくてはならないし、逃げ集団に乗っかってるという演技力も求めらるのだ。

周回コースを終え、大阪の市街地へ入っていく。マラソンなどと違い、ロードレーサーはあっという間に観客の前を通り過ぎる。時速40km/h以上のスピードで走る自転車の集団。凄まじい迫力だ。歓声にはどよめきが混じっていた。
難波から大阪駅周辺を通過、新大阪から吹田方面に入った頃、逃げ集団とメイン集団の間には3分半の差がついていた。








26.



暑い…
島田晴香は額の汗を拭った。

まだ朝の6時なのに、太陽から照りつけてくる日差しは真夏そのものだ。今年の夏はとにかく暑かった。そしてそれは9月に入っても変わる事なく続いていた。

「おはようございます~」
明るく声をかけて仮設のハウスの中に入る。さすがは国内最高峰のレースだ。実業団枠のアマチュアチームにも専用の部屋が設けられている。中ではトレーニングウエア姿のメンバーがテーブルに向かい談笑しながら朝食を摂っていた。
島田もケータリングのテーブルに並んだメニューから自分の更に食事を盛りつけていく。レース前のロードレーサー達の食事はある意味異常である。レース10日前から1週間前にかけて炭水化物の量を極端に減らす。そして一旦体内を飢餓に似せた状態にし、そこから炭水化物中心の食事に切り替えるのだ。お米やうどん、パスタを毎食大量に摂取する。これはカーボローディングといって長時間の運動に必要なエネルギーを効率的に体内に蓄積させるための工夫である。1日のレースは5時間~6時間にも及ぶ。人間の体に貯めておけるエネルギーには限界があるため、選手はレース中も補給を取りながら走る事になるが、効率は少しでも高いほうがいい。

島田は普段は和食派だが、レース前に簡単にカロリーを摂取できるのは洋食のメニューの方が多い。パスタを大量に盛り付け、トーストにたっぷりと蜂蜜を塗りたくる。ダイエット中の女性が見たら気を失ってしまいそうな乱暴さだ。

「おはよ、晴香。体調はどう?」
「ん。絶好調。良く寝れたし、朝からお腹すいてるし。大場は?」
「…緊張してる。」
島田は大場のトレイを見た。山のように食材が盛られてはいたが、なかなか食が進んでいないようだ。
「そっか。意外と大場ってデリケートなんだよね。イメージと違って。」
「何、それ。私見ての通り繊細じゃん?」
「うんにゃ。見た感じ、デリケートっていうよりバリケードって感じ。」
ようやく大場の顔に笑顔が浮かんだ。
「ま、喉通んないのも分かるけどさ。食べとかないとハンガーノックになっちゃうよ。」

わだかまりが無いと言えばウソになる。やはり、エースは大場と公言された事はショックだった。しかも、初日のスプリントを狙いにいくとなれば尚更だ。今日のゴールは京都市内の繁華街のど真ん中、恐らく大観衆の声援に迎えられてのフィニッシュになるだろう。その時、先頭で称賛を受けるのが自分だったらどんなに気持ちがいいだろう…
しかし、その一方で別の感情が島田の中に生まれつつあった。先日の乗鞍で見せた…いや、自分自身でもまだ驚いている。あの山での訳の分からない勝利が島田を変えようとしていた。何かが自分の中で生まれようとしている。そんな期待と困惑。それも、秋元GMがあのレースに出てみろと言ってくれたから抱けた感情だ。その秋元が立てた戦略に乗ってみるのも悪くはない。ただ…その結果、せっかく話があった卒業後のK'sレーシングへの加入話が消えてしまう可能性もあるのだけど…

初日のコースは147.3km。スタートの大阪・ユニバーサルスタジオ内特設会場を出ると、1周7キロ程の臨海地区周回コースを3周したあと、大阪市内を走りぬけゴールの京都へ向かう。途中府県境の所で一か所小さな登りがあって山岳ポイントが設定されているものの、カテゴリーは一番低い「4級」。ポイントも低く、クライマーが山岳賞狙いで取りに来るものでもない。やはり勝負のポイントは京都市内に入ってからだ。細かいアップダウンが続く市内周回を3周。ラストの直線では壮絶なスプリント合戦が予想される。そこで、いかに自チームのエーススプリンターを爆発させるか…そういう意味では、スプリンターとして実績のあるチームBの宮崎辺りが優勝候補になる…世間ではそういう予想であった。もちろん、まだ誰もスキルAとチームBが協調しK'sレーシング包囲網を敷いてる事を知らない。

恐らく…野呂店長は、その協調に自分のチームが協力する為の条件として初日を狙う事を出したのだろう。そして、秋元GMは私をコマとして使う事が出来るなら…とその条件を飲んだ…だったら…私はやれる事をやろう。逃げ集団が出来るようなら潰してやる。発射台になれというならなってやる。せいぜい派手に大場を発射させてあげるよ。

島田は食後のコーヒーにたっぷり砂糖をぶちこんだ。
甘いものが好きなのかって?違う。コーヒーはブラック派だ。
味なんか関係ない。これは…走る為のガソリンなんだから。






25.


「それデハ、みなさんにワタシがこのレースで望む事をお話しマス。」
ランスがミーティングルームに集まったメンバーに向かって話を始めた。
出場する選手だけでなく、控えに回りサポートを担当する選手、メカニック、マッサー…30名近い人数が集まっている。

「今回、我々がもっとも重要視するミッションは、総合優勝のタイトルを守ることデス。最終的にトウキョウのゴールでリーダージャージを着る事。それダケです。」
ランスの言葉に異論があるはずもない。ここにいるメンバー全員がその思いで一致している。ただ問題は…そのジャージを誰に着せるのか…だ。

「初日・二日目の平坦ステージは無難にいきまショウ。ここで無理をする必要はマッタクありません。もちろん、総合を争うような選手が飛び出すようナラ、阻止しなくてはなりまセンが…その可能性は低いでしょう。」
ランスは淡々と戦略を説明していく。かつては世界最高峰の頂きに7度立った偉大な先駆者の口から語られる言葉には重い説得力が伴われていた。
「3日目以降の山岳ステージが勝負デス。ユウコ。」
ランスが大島の名前を呼んだ。秋元と宮澤が大島の顔を見る。そうだよな。今年もエースは優子だ。幾ら前田と仲谷が強いとはいえ、ウチのエースは優子以外考えられない。
「アンタには、レースを作ってもらいマス。山に入る前に飛び出してくだサイ。」
「何?登りの前にアタックかけるの?逃げるって事?まあ、作戦としてはアリかもしれませんけど…ディフェンディングチャンピオンが取る作戦としてはリスキーじゃないですか?だったら、わざわざエースの優子が仕掛けなくても…?」
秋元がランスに忠言するかのように聞いた。

「ユウコが飛び出せば、恐らく他のチームのエースとそのアシストも追いかけるでしょう。その為には飛び出すのはユウコでなければ意味がありません。そして…ユウコは山に入る前に、ついてきた全員に脚を使わせるのデス。」
「でも…そしたら、優子さんの脚も消耗しちゃいません?」
菊地あやかが手を挙げて質問した。ふと、大島の方を向く。その瞬間菊地は思わず身を竦めた。何かに気付いた大島の形相が歪んでいるのを見たからだ。
「アヤカ、アナタは実に頭がイイ。そうです。ユウコの役割は各チームのエースとアシストを山に登る前に潰してしまうことデス。」

「なるほど…やっぱりそういう事ですか。あなたがこのチームに前田さんを連れてきた時からこの構想があったわけですね。」
大島が感情を殺すような口調で言った。しかし、その身体は怒りで震えていた。
「ワタシの仕事は、このK'sレーシングを勝たせることデス。アナタの3日目の仕事はそこまでです。といっても、そのままリタイヤしてもらっては困りマス。4日目以降も仕事をしてもらわないといけません。何とかカットされないよう完走はしてくだサイ。」

屈辱だ…前年のチャンピオンが「潰し屋」を務める。確かに他チームを出し抜くにはこれ以上の撒き餌はないだろう。間違いなくどこも喰いついてくる。そこに大きな釣り針が隠されてるとも知らずに。しかし…その為には大島のプライドは泥に塗れなくてはならない。

「大丈夫デス。このレース、必ずアツコとサヤカがモノにしてくれマス。」
ランスの言葉に大島は無言で背を向けた。そのまま部屋を立ち去って行く。秋元と宮澤が一瞬ランスを睨みつけてその後を追った。
「他のみなさんは?もし、この戦略に異を唱えるなら遠慮なく言ってくだサイ。今からでも選手エントリーの変更は可能デス。」
ランスの言葉に残されたメンバーは黙り込んでしまった。
前田と仲谷は表情を変えずにその場に座っている。
「無いですよ。異論なんて。私たちはチームの戦略に従うだけです。あの3人だって、ちゃんとわかってますから。私たちはプロですからね。」
仁藤萌乃が腕組をしたまま発言した。大きくはなかったが、メンバー全員に言い聞かせるような声だ。藤江も菊地も板野も黙って頷いた。

「デハ、健闘を祈りマス。」
ランスはそう言ってミーティングを終わらせた。

あっちゃんが危ない…か。
もし、あの人が言ってた事が本当なら…
仲谷は思った。用心するだけはしといた方がいいのかな…


24.


ツール・ド・ジャパン  スタートリスト

参加チーム プロチーム17 実業団登録チーム3
出場選手 180名

K'sレーシング

1 大島優子 2 秋元才加 3 宮澤佐江 4 板野友美 5 峯岸みなみ 
6 横山由依 7 仁藤萌乃 8 仲谷明香 9 前田敦子

スキルA

201 渡辺麻友 202 指原莉乃 203 高橋みなみ 204 篠田麻里子 205 片山陽加
206 岩佐美咲 207 小嶋陽菜 208 倉持明日香 209 前田亜美

チームB

301 宮崎美穂 302 柏木由紀 303 増田有華 304 平嶋夏海 305 佐藤亜美菜
306 山本彩 307 小林香菜 308 鈴木紫帆里 309 石田晴香

栄中日バイク

701 須田亜香里 702 松井珠理奈 703 松井玲奈 704 高柳明音 705 矢神久美
706 桑原みずき 707 中西優香 708 木本花音 709 大矢真那

サイクルショップ4(実業団登録)

2201 大場美奈 2202 島田晴香 2203 島崎遥香 2204 山内鈴蘭 2205 大堀恵
2206 市川美織 2207 永尾まりあ 2208 竹内美宥 2209 仲俣汐里

23.



「仲谷さん。仲谷明香さんですよね?すみません、サイン頂いていいですか?」
街中で突然声をかけられて、仲谷は驚いて振り向いた。
サインなんて今まで求められた事がない。しかも、サイクルイベント会場でジャージを着てる時ならまだわかる。スキルA、K'sレーシングという有名チームのジャージを着ていればそういう事もあるだろう。もっとも、ジャージ姿の時ですら経験がない事だったが…

振り返ると、そこには車椅子姿の若い女性の姿があった。
「はい。でも…私なんかでいいんですか?」
仲谷が中腰になって、女性が差し出した色紙とサインペンを受け取った。慣れない手つきで色紙にサインを書く。
「えっと…○○さんへって入れましょうか?」
「はい、お願いします。恵玲奈って言います。小野恵玲奈。」
「恵玲奈さんへ…っと…??小野恵玲奈…さん?あれ…どこかで…」
仲谷が記憶を辿るように眉間に皺を寄せた。すぐに頭の中に小野のジャージ姿が蘇ってきた。グリーンのジャージに身を包んだ小野恵玲奈の姿だ。

小野も自分の事に仲谷が気付いたのがわかったようだ。舌を出して笑う。
「ちょっとお時間頂いていいですか?実は、アナタに大事な話があるの。」
仲谷が頷いた。


込み合った喫茶店の隅のテーブルに二人は向かい合わせて座った。むしろ、サインをもらいたいのは私のほうだ。仲谷はそう思った。大怪我で引退したが、私にはこの人の眩い活躍シーンを幾らでも思い出せる。確か、私より年下だったはずだ。でも、何年も前から国内メジャーレースで何度も表彰台に上ってた。今では大スターになった大島優子と肩を並べる…いや、将来性では大島よりも上だと言われてた逸材だった。

「ごめんなさいね。突然。」
「いえ…構いませんよ。多分、最初から私に何か話をしたくて声をかけてきたんですよね?」
「ばれてた?」

仲谷は静かに頷いてコーヒーカップを口に運んだ。どうやら、ファンが憧れの選手とおしゃべりを楽しみたい…そんな雰囲気ではなさそうだ。小野の話に耳を傾けた。




「あっちゃんが危ないって…?」
「ごめんね。こんな藪から棒な話で。でも…私にはそう思えて仕方ないの。」

小野の話は仲谷にとって突拍子も無いものとしか思えなかった。もちろん、小野としても確証があっての事ではない…そういう前置き付きの話であった。

「じゃあ、小野さんが巻き込まれた事故…あれも仕組まれたものだって事?」
「私はそう信じてる。」
「どうして…?そんな風に思えるのかしら?」
「笑ったのよ。あの人。血まみれになって倒れてる私を見てね。」
「でも…チームメイトでしょ?なんの為にそんな事…?」
「エースは一人でいい…そういう事なんだと思う。」

そうか…だから、あっちゃんを…。新参者がエースとして君臨する事を嫌って、今度は彼女が狙われる…そう言いたいのか。確かに理屈が通らない話ではないが、それにしても無理が多すぎる。恐らくこの人は、自分がもう走れない事の理由を探してるうちに錯綜してしまったんだろう。誰かのせいにしないと気持ちが治まらない…そんな小野の状況に同情は出来ないでもないが…とにかく、この話はこの位でいいだろう…そう仲谷は思った。

「うん。ご忠告ありがとうございます。気をつけますね。」
「あの…私の事信用出来ないのもわかる。でも…」
「小野さん…一つだけアナタに教えておきたい事があります。」
仲谷が小野の言葉を遮った。
「新しいK'sレーシングのエースはあっちゃんじゃないわ。」
「…?どういう意味?」
「それは…ツール・ド・ジャパンを見てればわかるわ。」

そう言って仲谷はレシートを持って立ち上がった。

22.


「Nous ne sommes pas venus à Japon pour voir les vues.Le but est excaver un joueur prometteur.Nous avons déjà trouvé des joueurs prometteurs.Nous voulons examiner les gens dans cette course.Et nous commençons l'invitation si la personne peut le passer.」

記者会見の席上、代表でマイクを握っているのは、フランスの名門ロードレースチーム、AG2RのGM、マレーヌ・キャンデローロだ。AG2Rだけではない。プロチームからはカチューシャ、HTC、ガーミン・サーヴェロ、コンチネンタルチームからも数名のGMもしくはトップスカウトが顔を揃えていた。その数は12名に及んだ。

通訳が彼の言葉を訳すると集まった記者からどよめきがあがった。
今回極東のレースを見る為ににこれだけのプロチームの首脳が揃ったのは、決して観光目的ではない。何人かの有望な日本の選手をスカウトするためだという事だ。

「すでに有望選手のリストアップはされてるんでしょうか?」
「誰に注目してますか?やはり、実績のある前田敦子?それとも大島優子ですか?」

記者たちは躍起になって質問の手を挙げる。

「Je ne peux pas l'annoncer ici.Yuko et Atsuko sont sûrement un de joueurs prometteurs.Est-ce qu'il n'y a pas cependant, le joueur qui, excepté, est excellent?」

どうやら、彼らの狙いは前田や大島だけではないようだ。
グランツールの全てが終わった9月、プロ、およびコンチネンタルチームは来シーズンの編成に取り掛かる。所謂ストーブ・ツアーの始まりだ。昨今の欧州の景況感の悪化から各スポンサーの要求は厳しくなる一方だ。そこで注目を集めるようになったのが日本市場だ。欧州ではサッカーに次ぐ人気スポーツのロードレースだが、日本の市場はまだ未熟だ。最近ブームが拡大している事もあり、日本人選手を獲得し宣伝効果を高めたいという動きはごく自然なものであった。

グランツールの舞台で日本人が活躍する…興奮したのは記者だけではなかった。ニュースはもちろん選手に間を駆け巡り、間近に控えたツール・ド・ジャパンへの期待度は格段に高まって行った。

21.




渡辺のダンシングは独特だ。ひらひらと蝶が舞うように身体が左右に揺れる。そう…まるで踊ってるようだ。迫力があるわけではない…しかし、速い。
10km通過の看板が見えた。丁度半分の地点だ。

渡辺の加速についてきたのは…数名だ。島田の他、スキルAから指原、チームBの石田、鈴木、小林…それから栄の松井玲奈と須田…各チームのクライマーが揃ってる。みなすらっとした体型、脂肪はもちろん余計な筋肉さえ削ぎ落としたようだ。その中で島田の身体は明らかに大きい。スプリンターにとって、体重はある意味武器の一つだ。一瞬の爆発力を身体に宿す為には速筋が必要になる。そのため、どうしても体重が重くなるのだが、登りではそれがモロに負担となる。慣性力を体重によって生み出せるスプリントと違い、山を登るには体重は1グラムでも軽いほうがいい。

鈴木や小林が必死に前に出ようとするが、渡辺は二人が横に並ぼうとすると更にペースを上げそれを許さない。島田はその様子を見て疑問を感じていた。

おかしいな…確かこないだの秋元さんの話だと、チームBはスキルAと協調するって同盟を結んだはずだ。だったら、渡辺さんは二人を前に出して牽かせるべきだ。幾ら登りで20km/h程度のスピードとはいえ、空気抵抗はゼロじゃない。それに、先頭でいるとペース配分なんかも全部自分でやらないといけない。疲労っていうのは身体からじゃなくて頭から来る事が多いものだ…

そんな事を思いながら見ていると、突然渡辺が振り向いた。鈴木と小林に何事かを呟くと二人が島田のところまで下がってきた。

「…はぁ…は…ウチのエース…が…お呼びだ…よ。」
小林の息は荒かった。残りまだ7キロある。この感じだと、最後までついて行けない感じだ。島田は鈴木の方を見る。やはり下を向いて苦しそうだ。
こんなものなのか…余り名は知れてないが、少なくとも名門プロチームでクライマーとして期待されてジャパンのメンバー入りしてる二人…その二人が渡辺のアタックに相当消耗させられている。こんな事で本番の山で渡辺のアシストとして働けるのか?

「わかりました。じゃ…上がります。」
島田はそう言ってペースを上げた。ダンシングで加速し渡辺の横まで行く。
「お呼びだそうで。」
「ふーん。なるほどね。ただのスプリント馬鹿ってわけじゃなさそう。」
渡辺の口調に島田はかちんと来た。馬鹿?私がそうなら、アンタもそうじゃん。この坂馬鹿が…。いかんいかん…島田は言葉を喉の奥に引っ込めた。
「あ、怒った?あのさ、褒めてるんだよ。わかる?島田さん。晴たんって呼んじゃおうかな?晴たん、今キツイ?」

キツイ?…いや…確かに脚に負荷は感じる。平地を巡航してる時ほど楽ではない。でも…それほどきつい感じはない。これならスプリント前のコース取りでバトルしてる時の方がよっぽどしんどいくらいだ。ラストスプリントの苦しさとは、もちろん比べようがない。

「でしょ?今のこのペース、決して遅くないよ。っていうか、周り見て。ついてきてるの…さっしーと…さっきから後ろにくっついてきたあの3人くらい。」

え?そうなの?
…ホントだ。指原さん、あ、いつの間に…大島さんと前田さん、それから仲谷さん。そっか、渡辺さん結構マジに走ってるんだ。そりゃ、鈴木さんも小林さんも置いてかれても仕方ないか…あれ?でも…なんで私がついていけてるんだろ?

「やるね…晴香。」
大島が横に上がってきた。笑顔だがもう余裕はなさそうだ。

「わかった?なん…でアンタがこのレース…に駆り出されたか。アン…タは自分にどんだけ実力があるのかをわかってない。いい?あん…なクラブチームでスプリントだけ狙ってちゃ勿体ないんだよ。はぁ…は…アンタは。」
渡辺が島田に言う。呼吸が荒い。さすがの渡辺もしんどくなってきてるようだ。
「あれ?晴香、麻友の事も知ってるの?」
大島が意外そうな顔をした。
「ええ…ちょっと…あの…私、アタックかけてみていいですか?」
島田の言葉に一瞬渡辺と大島が顔を見合わせた。
「あはははは。おっかしーヤツだな。アタックかけていいですかって?アタックのタイミングって腹の探り合いなのにさ。初めて聞いたよ。アタックかけていいですか?なんて。」
大島が笑う。渡辺もおかしさを押さえられない顔をしていた。
「じゃ…失礼して…」
島田が一気にペースを上げた。いける…まだ余力は残ってる。いや…むしろ力がどんどん湧いてきてるみたいだ。今まで山は苦手だ…勝手にそう思い込んでいた。私にこんな適性があったなんて…

「追わないの?」
「いえ。もういいっす。今日は慣らしなんで。優子さんは?」
「私もいっかな…あの二人もその気じゃなさそうだし。」
大島は前田と仲谷の方を見た。何事か会話しながら走ってる。特に前を意識する様子はなさそうだ。本気になってない相手に幾ら差をつけて勝ったところで、アピールにも何にもならない…

「って事は、新しい乗鞍チャンピオンの誕生って事ですね。」
渡辺が九十九折りの上の方へ視線をやった。歓声とともに花火が打ちあがる。島田がゴールしたようだ。

万全だ…
ここにきて、使えるコマが一つ増えた事は大きい。
渡辺は静かに笑ってペースを落とした。大島や前田を先に行かせてゆっくりとゴールに入る。

「おめでとう!スゴイじゃん!」
「あ…ありがとうございます。」
島田は大島から差し出された手を遠慮がちに握った。
今度のジャパン…私はみなさんの敵になるんです…
喉から出かかった言葉をどうしても島田は声にして出す事が出来なかった。

20.



スタート会場近くに陣取ったエリアに置かれたローラー台でアップを済ませた島田晴香はいつものレースとは違う感覚に戸惑っていた。どことなく居心地の悪さといった違和感だ。市民レースとはいえ、ヒルクライムに特化したレースに出る事はいままで殆どなかったのだから無理もない。

「乗鞍に出て欲しい。君がどれくらい山で耐えれるかを見たいんだ。もちろん、全開でね。」
秋元康から電話を受けたのは、2週間前の話だった。乗鞍といえば、申込が殺到し抽選でエントリーが決まる人気レースだ。プロ選手でもない島田がそんな直前にエントリー出来るわけはなかった。しかし、今日のスタートリストには島田の名前がちゃんと記載されている。さすが秋元だ…でも、なんで私だけこのレースに参加しろって話が来たんだろう?で、もっと言うなら、そもそもなんで秋元さんからそんなオーダーが来るんだろう…って、それはあんとき聞いたか…ウチは実質スキルAのサポートチームみたいな扱いになっちゃったんだもんな…

「晴香!おったおった。やっと見つけたわぁ。なんやアンタの名前がスタートリストにあったから探しとったんよ。びっくりしたわ。山レースに出るなんてどういう心境の変化や?」
大きな声をかけてきたのは横山由依だった。
「ああ、由依。ちょっと…ね。ここ、ジャパンでもコースに組み込まれてるでしょ。だから…試走も兼ねてってとこで…」
「今日、ウチも主力どこみんな出とるんよお。こんなトコで一人でおらんと、こっち来ない?」
横山の言葉に島田ははっとなった。

そうだった。私、卒業したらK'sに来ないかって誘われるんだった。でも…今度のジャパン、スキルAと協調して走るって事になったって聞いたらその話もなくなっちゃうのかなぁ…

「ね…由依…?」
「ん?なんや?」
「いや…今日はやめとくわ。レース前だし、それに、まだ私部外者だし。」
「なんや、変な子やなぁ。もう身内みたいなもんやんか。もう卒業まで半年やで?遠慮する事なんかあらへんやん?」
「ごめん。またメールするわ。」

島田はそう言って横山から離れた。ジャパンの前に連絡しよう。同学年の横山になら相談を持ちかけても聞いてくれるかもしれない…


乗鞍ヒルクライムは標高差1260m、距離20.5km。最大斜度は20度を超えるハードなコースだ。プロレーサーにとっては山そのもののハードさは無いが、その分高速レースになるため過酷さには変わりはない。今回注目されたのは、ジャパン直前の調整とはいえ、前田、大島を筆頭にしたK'sレーシングのほぼすべての主力だけでなく、スキルAから渡辺麻友、指原莉乃、チームBからも柏木由紀、山本彩の他、今回のジャパンにエントリーされた石田晴香、小林香菜、鈴木紫帆里、3人のクライマーが出場してきていた。栄中日も松井玲奈、須田亜香里を始め主力を投入。本番さながらの豪華な顔触れになっていた。

ただ、あくまでも各チームにとって今日は調整と試走…その他にこのレースに意味を持たせている所は無かった。無理をせず、集団で淡々と山を登っていく。
とは言っても、さすがにプロレベルだ。興味本位で食いついてきた市民レーサーがあっと言う間に置いていかれる。そんな中、島田晴香は集団の先頭近くにポジションを取っていた。一応全開で行くようにという指示は守るつもりだ。しかし…私がどれだけ走れるか見たい…そんな事言っておきながら秋元さん、来てないじゃんか…

5km地点を過ぎた辺りからヘアピンが続き一気に斜度がきつくなってくる。トップレーサー達でもフロントギアをインナーに落とさないと登れない坂だ。
「どうも。はじめまして。アナタが島田さん?」
斜め後ろからふと声をかけられた。島田が声の方向を振り向く。
渡辺麻友の姿がそこにあった。

「は…はい。島田です。」
島田は戸惑っていた。あの渡辺麻友…だよね?あの…ヒルクライム・サイボーグって言われてる。なんで、こんなレース中に私に声なんか?
「確か、私のほうが年下でしょ?いいよ~麻友って呼んでくれて。」
「いや…そんなわけには…」
「うふふふ。聞いてた通り真面目な子だんだね~。ねえ、行こっか?」

行こっか?って…どこか遊びにでも行くような言い方で…
島田が戸惑った表情を見せると急に渡辺がキツイ顔つきになった。
「モノ分かり悪いって事はないよね?どんだけ走れるか見て来いって言われてんの。こんな草レースで本気出すつもり無いんだけど、仕方ないから牽いてあげる。とにかくぴったりついてきて?」
渡辺が島田の背中をぐいっと押すと、そのまま前に出た。小さな身体を躍らせるようなダンシングで一気に加速していく。島田もそれに追いすがるように食らいついた。

19.


「…さん、前田さん?…前田敦子さん…?」
ホテルのロビーのソファに一人で座っている前田を見つけ大島優子が声をかける。
ツール・ド・ジャパンを1カ月後に控え、K'sレーシングの面々はヒルクライムの調整と顔見世を兼ねて国内最大のヒルクライムレース、全日本マウンテンサイクリング、通称乗鞍ヒルクライムに出場する為に現地入りしていた。
「…ん?ああ、私?ごめんね~」
「あ、こっちこそごめん、急に声かけちゃって。」
「いいの。気がつかなかった。前田さんなんて呼ばれるの慣れてないんで。」
「そうなの?…えっと、なんて呼べばいいのかな?あ…私の事覚えてる?」
大島が手に持っていたチョコレートを遠慮がちに差し出して聞く。
前田が笑顔でそれを受け取った。
「もちろん~、ね、あっちゃんって呼んでもらっていい?私も優子ちゃんって呼ぶから。」

あれ?前田敦子って、こんな感じだっけ?
ヨーロッパに行ってから2年くらいだっけ…そういや日本にいた頃には何回も一緒に走ったけど、あんまり話した事なかったな。なんか、とっつきにくいっていうが、マイペースっていうか…こんな人当たりがいいイメージなかったんだけど…

「優子でいいよ。ちゃん付けってなんかくすぐったいから。ねえ、いきなりでなんなんだけど…聞いていいかな?」
「ん~なあに?」
「なんで日本に帰ってきたの?」
「あははは~。ホントいきなりだね。う~ん…契約の事、私良くわからなくてさ。なんか、エージェントに、来シーズンはランスのチームで走るよって言われてて…そしたら日本のチームだった。」
前田は無頓着に笑った。大島にはその笑顔が理解できなかった。私からしたら、ヨーロッパのチームで走るって事はもの凄い憧れだ。しかもそれなりの実績を残した後ならなおのこと、どんな条件でも向こうに残る事を選択しただろう。この人は、そんな風な拘りが無いんだろうか…?

「それから…これは、聞きたい事って言うか、言いたい事かな…あのね、いくらあっちゃんが向こうで実績を残していて、鳴り物入りでウチに入ってきたからと言って、私はエースの座を譲るつもりはないから。私だって今年のジャパンに懸けてるんだ。」
「それは…私が決める事じゃないから…」
「そうね…チームの戦略はランスが決めるんだもんね。」

調子狂うなあ…ホントは、会ったら面と向かって挑戦状を叩きつけるつもりだったのに。日本で一番は私。ヨーロッパでの実績を持つ前田より上だって事が証明できれば、今度こそ私にだって海外から声がかかるはず。でも…同じチームではなかなかアピールする機会すら持てないかもしれない。だったら、ランスは大島を選んだんだ…そういう風にアピールするしかないじゃないか…
でも…なんか、暖簾に腕押しっていうか…直接話してても全然手ごたえがないや、この人。威圧感っていうか闘志っていうか迫力っていうか、そんなモノが全然伝わってこない。TOJで見せたあの圧倒的な強さって、どこに隠れてるんだろう?

「ね、明日、本気で走ってみない?」
大島はけしかけてみた。ヒルクライム最高峰の大会といっても市民レースレベルでの話だ。全開で走ってもダメージが強く残るレベルのものじゃない。それに、本番のジャパンでも走るコースだが、その時はこれを登り切った後も幾つかの山を上り下りするハードな設定なんだから。
「ん~。私はいつだって本気のつもりで走ってるんだけどなぁ。それなのに、やる気ないって言われちゃう事多いんだけど。」
前田が笑った。

ダメだ…この人が顔色を変えるにはどうすればいいんだろ?
大島は苦笑いを浮かべてチョコレートを口に運んだ。

18.


「じゃあ、ジャパンにエントリーするメンバーを発表するね。一応、もてぎ以降のレース結果とかも加味したうえで決めたんで。いいかな?」
野呂佳代がショップの作業スペースに集まったメンバーを前に立ちあがった。軽い緊張感が走る。

「えっと…大堀恵、島田晴香、島崎遥香、山内鈴蘭、市川美織、大場美奈、永尾まりや、竹内美宥、仲俣汐里。この9人でいくわね。」
順当といえば、順当な名前が呼ばれた。もてぎで島田に食ってかかった浦野の名前は結局呼ばれる事がなかった。正直総合を狙うなんてつもりは最初からないのだろう。各プロチームに比べても力が劣るのは目に見えている。それでも…序盤の平坦ステージで波乱を起こす事くらいは十分に狙えるんじゃないか…そうしたら、誘ってもらってるK'sレーシングへのいいアピールにもなる…島田はそう考えていた。

「それから…一応ツールなんだから、チームとしての戦略も持つ必要があると思うの。去年のおきなわではるぅを勝たせた時みたいにね。」
野呂の言葉に一同が頷いた。島田も背筋を伸ばす。
「今回…初日のスプリントを取りに行こうと思ってる。」

野呂の言葉にその場にざわめきが起きた。
取りに行く?って…まさかステージ優勝を狙う?島田もさすがに驚いた。確かに一日だけに集中すれば万が一くらいの可能性はあるだろうが…本当に野呂の口からその言葉が出た事で島田も興奮を隠せなかった。頭の中で手を高々と掲げゴールする自分の姿を想像するだけで胸の鼓動が早くなる。

「その為には、万全の態勢を初日にもってこなくちゃ。で…その場の状況次第だけど…めーたん、鈴蘭、まりや、ぱるる、仲俣で上手く集団を作って欲しいの。出来れば美織と美宥も頑張って食いついて。初日って事でチャンピオンチームのK'sが集団をコントロールすると思うけどそれに上手く乗っかってね。」
へ~…店長もさすがに大舞台で張りきってるんだな。結構具体的な戦略じゃん?今まで「がーっといって、どーんと追いこんで…」って感じの戦略なんて言えない作戦しか立てた事なかったのに。

島田がふと横を向くと、仲俣が細かく頷いていた。そうか…汐里か…まあ、汐里のたてた作戦ならあながち間違った事もなさそうだな…

「で、ひょっとしたら、大逃げ打ってくるところがあるかもしれない。その時は…はるぅ…アンタが潰しに行って欲しいの。」
野呂の言葉に場の雰囲気が変わった。

「え?店長…島ちゃんは…脚残しとかないと…最後のスプリントに備えて…」
山内が聞くいた。先ほどまでと表情を変え、ちょっと真顔に戻っている。
「そうね。逃げが出なかった時には、そのまま集団に残って脚を貯めててちょうだい。で…ラストは発射台になってもらう。」
「はい?島田さんが発射台って…?エーススプリンターに発射台を?」

市川も顔をしかめる。発射台とは、ラスト200~300mまで周囲のライバルチームと文字通り肉弾戦を繰り広げ好ポジションをキープしながらエースを牽き、最後の最後までエースの脚を温存させ前へと送りだす役割の事だ。もっとも過酷な仕事を求められるにも関わらず、決して勝利者として名を残すことがない。しかし、史上最強のスプリンターと言われるHTCコロンビアのカヴェンディッシュに史上最強の発射台と呼ばれるレンショーが居るように、強いスプリンターには必ず強い発射台が備え付けれている。

「じゃあ…ウチのエースは…」
「美奈にやってもらうから。」
市川にそう野呂が答えた。

「ちょっと待ってもらえません?確かに、大場は島ちゃんと同じくらいの力を持ってると思います。でも…ブランクから戻ってきたばかりじゃないですか。島ちゃんは、このチームに入ってからずっとアシストやったり私たちの事引っ張ったりしながら、ようやくこの1年エースとしてやってきたんです。それに、実績だって残してきた。なんで、最高の桧舞台でエースを下ろされなきゃいけないんですか?」
山内が野呂に食ってかからんかの勢いで聞く。島田も、突然の話しに戸惑いを隠せない。

「あの…私やっぱり…」
大場がそっと手を挙げて申し訳なさそうな顔で立ち上がった。

「ちょっと待ちなさい。そこから先は私が説明しよう。大人の事情に巻き込んでしまうのは大変申し訳ないからね。きちんと説明をしなくては…いいかな?店長。」

そう言って現れた男の姿。そこにいる誰もがその存在を知っている。
秋元康。言わずとしれたスキルAのGMであり、ロード界の重鎮だった。





17.


戸賀崎智信の目の前で柏木由紀、増田有華が睨むような視線をぶつけていた。戸賀崎はその勢いに押されたかのように視線を落とした。行く宛を失った視線を無理やり手元の資料に向ける。

「戸賀崎さん…アンタ、なんぼでウチらを売ったんや?」
増田が問い詰めるように口を開く。
「いや…売ったなんて…俺は単に上の方向に従うしか…」
「その結果が来年のスキルAのヘッドコーチ就任ですか?」
普段は温厚な柏木の口調にも容赦がない。二人は激しい怒りをあらわにしていた。戸賀崎の口から伝えられたのは衝撃とも言える今後の展開だった。今年のツール・ド・ジャパンを最後にチームBはロードレースから撤退。パーツメーカーのチームであるスキルAと統合する。
プロとはいえ、ヨーロッパと違い、全ての選手がそれだけで食って行けるほど裾野の広い世界ではない。当然、チームの消滅はそのまま選手の生活すら脅かすという意味を含んでいた。柏木と増田の怒りは、その事だけに向けられていたのではない。景況感の厳しい昨今、スポンサーの撤退はあり得ない話ではない。二人を怒らせていたのはチーム解散の事よりも、戸賀崎から語られた最後になるジャパンでの戦略だった。

「今年、ウチはスプリントステージを取りに行かない。」
「取りに行かない?じゃあどうするんですか?総合狙うって言っても、彩と里英くらいしかオールラウンダーいないし…麻友がいない以上、存在価値を示すにはウチの強み生かしてスプリントを取りに行くしかないんじゃ…?」
何を言い出すんだ、この人は。柏木の顔はそう言っていた。増田も首を捻る。
「まあ、ええですわ。そしたらウチらスプリンターはアシストに徹しろちゅう話ですな。で?誰をエースに据えるんですかいな?」
「今年は…エースは置かない。」
戸賀崎の言葉に二人は口を大きく開けて言葉を失った。
どういう意味だ?まさか、チーム解散に抗議の意を示すために今年のレースを捨てるとでも?

「増田、宮崎、平嶋、佐藤…ウチのスプリンターは今回抑え役に回ってもらう。押さえるのはK'sだ。前田、仲谷、大島…アシストに仕事をさせないよう分断してもらえればなおいい。そして…今回のメンバーは柏木、山本、、あとの三人は石田と小林、鈴木だ。」
「きゃんと香菜、それから、しほり?あの三人、そりゃ山では多少は走れますけど…完走できるような力はまだありまへんで?しかも、実績のある智美と里英外すって…戸賀崎さん、何考えてますの?」
「完走は期待していない。山を牽いてくれさえばそれでいいんだ。」
「そういう事ですか?アシストとスプリンターだけ…全く勝つ気がないようにしか思えませんけど…?」
柏木の言葉に戸賀崎が苦々しく、しかしはっきろとした口調で答えた。
「勝つ気は…ない。お前ら5人の仕事は…渡辺のアシストだ。石田と小林、鈴木は山岳終わったらリタイアしてもらって構わない。」

「渡辺…って。麻友ですかいな?戸賀崎さん、あん子はウチを切ってスキルAに行ったんちゃいますか?それをアシストせぇって…そうか。戸賀崎さん、それを踏まえて麻友を出したんか?ウチらのアシスト込みで。随分やな、そこまで大それた事を考えとるとは思わなんだわ。」
「ウチは…今年のチームBはスキルAのアシスト集団にしか過ぎない…そういう事ですか?」

「その通りだ。」

戸賀崎はそれだけ言うと、静かに立ち上がり部屋を後にした。
怒りに震える柏木と増田は暫くその場から動けなかった。

16.




これはチャンスだ…

そう思っていた選手が一人いた。エースは珠理奈。それか玲奈…チーム内で一旦定まったポジションを覆すのはそうたやすいことではない。しかし、どこかでチャンスが来る。そして、それは本当に来たんだ。ここで行ければ、私の立場が…いや、人生すら変える事が出来る。これは、私にとって関ヶ原の戦いなんだ。そう、眼下に見下ろすあの関ヶ原の。
須田亜香里は、集団の最後尾でその思いを強くしていた。

珠理奈と玲奈が前に出たのを見て、須田はするするっとその後ろについた。私がこの二人と評価を入れ替えさせるには…今日、圧倒的な差で勝つ事しかない。もう、4番手・5番手の扱いには飽きた。普段から明るいキャラクターでチームの盛り上げ役だった須田には、人並み外れる程の強い野心と強かな計算があった。
スタートして3キロ地点、もっとも斜度が強くなった所で須田が早くもスパートをかけた。

「よし。」
モニターを見ながら牧野が小さく呟いた。
「ん?よしって…おい、お前須田にも期待してたのか?」
湯浅が牧野に聞く。
「にも…って?私がエースに考えてたのは最初から亜香里ですけど?」
「なんだ。俺はてっきり玲奈だと…」
「玲奈にはきったはったの勝負は無理ですよ。力はありますけどね。それよりもジャパンで勝つためには総合力…そして一番大切なのはどうしても勝つんだってハングリーさですよ。亜香里は珠理奈に負けない精神力を持っています。なら、総合力の高いほうをエースに据えるべきでしょう。亜香里のスプリント力は湯浅さんもご存じの通り。これまで珠理奈を牽いてきたのはあの子ですからね。」
「なるほど…じゃ、見せてもらおうかな。須田の力っていうのを。」
湯浅は腕組をして椅子に深く座りなおした。


みるみる後続との差が広がっていく。須田の背中が小さくなっていくのを見て、珠理奈が叫んだ。
「玲奈さん、追いましょう。今日のレース、そんなに距離がないんだ。すぐに手遅れになっちゃう。」
「待って。中間点で一旦下る所があって、その先は傾斜が緩くなる。珠理奈はそこまで脚を残しとかないと。あかりんだって、今一人で相当無理してるはず。だったら、後半脚に余裕のある方が勝つんだから。」

そうなのか?珠理奈は一瞬躊躇した。やはり、自分は山に苦手意識がある。ここは玲奈の戦略に乗っかったほうがいいのだろう…2対1だ。山だって空気抵抗はある。こうして牽いてもらってる分私のほうが余力を残しているはずだった。

一方で須田の頭の中にはもう計算などなかった。このシチュエーションはしたたかな計算の元、予想していたものだ。でも、ここからは違う。自分の人生がかかった山場だ。人間、何かを大きく変えるチャンスなんてそう何度もやってこない。今がそうだ。華やかな舞台の真中に立つチャンスはもうこの先来ないかもしれない…

珠理奈と須田に一つだけ違いがあるとしたら、「今日の」覚悟だけだった。もちろん、珠理奈にも並々ならぬ覚悟があった。しかし、それはエースの座を守る事に向けられただけのものだった。大げさではなく人生をかけて山を登った須田のそれに敵うわけはなかった。


須田の優勝タイムは大会レコードを大幅に更新し、2位の玲奈に1分以上の大差をつけるものだった。追いつけない…徐々に小さくなる背中は珠理奈か終盤のモチベーションを奪い取ってしまった。

「どうですか?」
牧野はしてやったりの表情を湯浅に向けた。
「何も言い返せないな。これだけ圧倒的に差をつけたんじゃ。玲奈だって追いつく事が出来なかったんだ。ジャパンは、須田中心でチームを組むよ。」
湯浅が立ち上がって言う。これは…大いに嬉しい誤算なのかもしれない。



15.


「この伊吹山でどこまで珠理奈が登れるか…それを見て決めるって事でいいな?」
「私だって、珠理奈には期待してるんです。山でしっかり実績を出せるなら、私としても文句はありません。でも…今年はジャパンで勝つ…これがスポンサーから出された課題です。その力がないって判断されたら…その時は、いいですね?湯浅さん。」
「わかってるよ。さあ、もうすぐスタートだ。」
湯浅と牧野はスタート会場に設置された大きなモニタービジョンの前に陣取った。今日は地元のCS放送の中継が入ってる。恐らく先頭で走るであろうチームの様子は全部ここでチェックできるはずだ。

滋賀県の伊吹山ドライブウエイを使って行われる「伊吹山ヒルクライム」。標高差1075m、平均勾配7.6度、距離17kmのヒルクライムレースは、それほど難易度の高いコースではない。毎年トッププロが出場してくるような大会ではないのだが、今年は栄中日のレギュラー陣がこぞって出場してきた事で大きな注目を集めていた。

「珠理奈…大丈夫?淡々と登って行けば…前半の勾配の強い所で無理しなければ…」
「玲奈さん、わかってますって。ちゃんと試走もしてますし。そんな心配なんかしてたら玲奈さん、抜かしちゃいますよ?」
珠理奈にも急遽出場する事になったこのレースが意味する事がよくわかっていた。これはジャパンのエースを決める選考会だ。今日ばかりはチームメイトとはいえ敵だと思って走らないと。優勝は取れなくてもいい。せめて玲奈さんについてさえいければ…山岳ではトップクラスの玲奈さんについていければ、平坦での実績で今年も私がエースに選ばれる事には間違いない。私だってこの冬はひたすら苦手克服の為に頑張ってきたんだ。そろそろ将来性云々だけでエースを張れない事も、結果を求められてる事も知ってる。でも…これだけは譲れない。せっかく手にしたてっぺんのポジションなんだ。

号砲が響いた。最前列に並んだ栄中日の選手が一団となって先頭にたつ。勾配が強くなり始めたところで珠理奈が前に飛び出した。
「珠理奈、いきなり飛ばしちゃダメだって。前半は斜度の変化がきついんだから。」
玲奈が声をかける。そう言ったでしょ?そんな口調だったが、珠理奈は一瞬だけ玲奈の方を見てすぐに前を見上げた。さらにペースを上げる

そんな計算なんてしてちゃ駄目だ。このレースで試されてるのは結果だけじゃない。だらけた内容で勝っても恐らくは認めてもらえない。必要なのはジャパンの高いレベルでの山岳ステージで振り落とされないだけの力を見せつける事だ。このストイックな姿勢が、若くして中京地区の名門チームのエースとして活躍出来る原動力だ。珠理奈自身も、また一つ新しい壁を乗り越えようともがいていた。

「仕方ないな。もう。じゃあ、全力で牽くよ?しっかりついてきて。」

玲奈が前に出た。玲奈も分かっていた。自分はエースになれるタイプではない。もちろん、山岳には自信がある。他のチームのクライマーに比べて力が劣ってるとは思っていない。でも…どうも人と競り合うのは苦手だ。引いちゃいけない…そう思っても、誰かを押しのけて前に行く事がどうしても出来ない。ましてや、スプリント合戦なんて…アスリートとして気が弱いのは致命的だって事もわかってはいる。だから…私の本分はアシストなんだ。その為に珠理奈には頑張ってもらわないと…

14.


「わ…私がK'sレーシングにですか?」
島田晴香はまだ狐につままれたような思いでいた。目の前に座っているのは、あのランス・アームストロングだ。ちょっと見学に来ないか…そう声をかけてくれたのは、高校時代、レースでよく顔を合わせていた横山由依だった。それが、まさかこんな話が用意されていたなんて…

確かに卒業後はどこかプロチームに入りたいとは思っていた。しかし、自転車部もない大学に進み普段はクラブチームで走ってる島田に特段のルートがあるはずもなかった。しかし、どこにチャンスが転がってるかわからない。まさか、国内最強プロチームからのスカウトを受けれるなんて。島田は天にも昇る心地でランスの話を聞いていた。

「アナタには見事な実績も、そして実力もありマス。残念ながら我がチームには、まだ一級品と呼べるだけのスプリンターはいまセン。K'sは総合だけ狙ってチャレンジングなレースをしない…そんな風に言われるノハ、ワタシも面白くアリませン。ぜひ、スプリントも強くしタイ。ワタシはアナタのポテンシャルを高く評価していマス。どうか、ヨイお返事をお待ちしてイマス。」
「こ…こ、光栄です。すぐに…でもお返事を…」
「はははは、慌てなくても大丈夫です。自分の人生デス。じっくり考えてくだサイ。今日は、ゆっくり見学していくとイイ。ユイに案内させまショウ。デハ、ワタシはこれで。」
応接室を出ていくランスに島田は立ち上がって一礼した。まだ、心臓の鼓動が治まらない。すぐに入れ替わるように横山が入ってきた。

「じゃあ、案内するわぁ。今日はこの後、全体ミーティングがあるから、大方の人も揃っとるから紹介もするしぃ。」
久しぶりに会った横山は相変わらず柔らかな京都弁で話す。このはんなりした雰囲気に惑わされてはいけない。レースの時の豹変したその姿には脅威すら感じるほどなのだから。
「ここが、トレーニングルームや。」
島田は目を見張った。広いスペースに最新鋭のマシン、解析用の機器…スゴイ…これがトップチームの持つ設備なのか…

「由依、お客さん?」
声をかけてきたのは、宮澤佐江だ。首にかけているタオルで汗を拭っている。トレーニングを終えたばかりなのだろうか。
「は…はじめまして…わたし…」
「知ってるよ~。島田晴香…さんだよね?」
「え…?は、はい。島田です。」
「おー!ホントだ、去年のおきなわチャンピオンじゃない。あれ?見学?ひょっとして来年からウチに来るとか?」
島田の存在に気付き秋元才加がマシンから降りてやってきた。

いや…なんで二人が私の事なんかを知ってるの?宮澤さん、秋元さん…K'sレーシングの誇るツインタワー…大島優子が強いのはこの二人がいるからだ。特に平坦路での二人の強力な鬼牽きは今すぐにでも本場ヨーロッパで通用するとすら言われてる。

「あ…今日初めてそういうお話を頂いたので。でも…私としてはぜひこちらで…」
島田がそう言いかけた時、背後から殺気のような気配が近づいてきた。その気配に島田が思わず後ろを振り込む。

「ふ~ん…スプリンターかぁ。確かにいいバネしてそうだね。でもねぇ…もうちょっと絞れそうだね。きちんとここで鍛えればモノになるかも。」
そうクールに言い放った女がまっすぐ目を見ながら手を差し出した。
「宜しくね、島田さん。私は仁藤萌乃。」
「はい、よく存じてます。ヨロシクお願いします。」

仁藤萌乃…スプリントステージではゴール直前までエースを牽き、最後は「発射台」となり、山岳では根尽きるまでエースを引っ張り最後は自らの身を潰してまで走る。自分が勝つことが出来ないどころか、完走する事すらままならない事も多いが、その力は高く評価されていた。特にスプリントステージでは決して大きくない身体で他チームのアシストに睨みをきかせポジションを死守する事から、その切れ味鋭い走りを評し「ジャックナイフ」の異名をほしいままにしていた。

「あっちにウチのエースがいるから、後で挨拶だけしといたら。今はちょっとやめといた方がいいかもしれないけど。」
仁藤が奥でひたすらマシンのペダルを回す大島優子の方を向いて言った。
この部屋に入った時、すぐにわかった。やっぱりオーラが違う。遠くにいても、大島が放つオーラは圧倒的だった。
スゴイ…こんな人たちがいるチームで私も走れるのか…島田は胸を躍らせた。

「あのさ…由依。前田さんと仲谷さんは?」
「あぁ、あの二人ならめったにここには来られへんで。いつも別行動や。」
「え?そうなの?」
「あの二人の事は、ウチらもようわからへんのよ。」

そっかあ。また違ったオーラ持ってるんだろうな。前田さん、会ってみたかったなあ。ま、いっか、ジャパンでも会えるだろうし。

島田は横山の案内で、施設内をくまなく見て回った。充実した設備、恵まれた環境、どれをとっても最高だ。島田は早くもライトグリーンのジャージに身を包む自分の姿を想像して顔を緩ませていた。

突然ですが…

努力したものがすべて成功するとは限らん。
だが、成功したものはすべからく努力しておる。

From はじめの一歩 鴨川会長


いや…いい言葉だと思いまして。
今更ながら、胸に染みましたんで…

ちょっとね。

13.



平坦ステージの戦い方は難しい。最後の最後、エーススプリンターによるアタック合戦の為にチームメイトはそこまでの間、ひたすらエースの脚を温存させる。1チーム8名が参加するこのTOJでは、だいたい隊列の中盤にエースを置き、先頭を4人~5人が交代で牽いて行く。時には何人かの逃げ集団が形成されるが、その逃げを容認するか潰すのか…そういう戦略的判断も求められる。よーいどんで山を登って、最初に登り切った者の勝ちというフルクライムレースのほうがある意味もっとシンプルだ。

ところが、今年のTOJはそんな例年の経験則から来る展望がたった2名の選手によってあっさり打ち破られた。

前田敦子と仲谷明香だ。

初日の大阪、2日目の堺両ステージ。ともに70キロの周回レースだが、中盤で逃げた前田と仲谷、二人のアタックを最後まで集団は捕まえる事が出来なかった。2日続けて…しかも、たった二人の逃げが決まる事は長いTOJの歴史でも無かった事だ。しかも、前田は仲谷にだけ前を牽かせる事なく交代で先頭の空気抵抗を受けながら走り切った。

第3ステージ、このままでは済ませないとばかりにスプリンターを抱えるチームBが戦略を変えてきた。柏木、河西を始めとしたオールラウンダー4名が二人を徹底的にマークし、宮崎・増田・佐藤・平嶋のスプリンター4名を逃がす作戦だ。一旦は2分近い差をつけさせ、戦略がはまったかに思えた。しかし、ほんの僅かの隙をついてアタックを仕掛けた仲谷について行けたのは前田だけであった。結局、4人で逃げた宮崎達は二人で追った前田と仲谷に残り2キロであっさり追いつかれた。

「むこうもずっと二人で追ってきたんや。相当キツいはずやで。ここで踏ん張りや!みゃお、最後で発射できるようなっちゃんと亜美菜に付いて!」
増田が叫ぶ。前田と仲谷の後に続こうとした。

「あっちゃん…」
仲谷が小声で合図を送るように前田に話す。その声に反応するかのように前田がそのまま前へと上がっていく。特に仲谷がブロックしたわけでもない、チームBの4人はあっさり引き離されていった。ゴール前のスプリントへの参加資格さえ与えないまま、そのまま前田はゴールへと独走した。

「バケモノだ…何年か前まで日本にいた時はここまでじゃなかったぞ…こりゃ、ウチひとチームだけじゃ到底立ちうち出来るレベルじゃねえぞ…」
サポートカーに乗り込んだチームBの戸賀崎はため息をこぼした。

第4.第5ステージはさすがの二人も勝負をかけてこなかった。ただ、ロードレースはトップと同じ集団でフィニッシュすればタイム差は「0」とされる。集団スプリントとなり、ステージ優勝はチームBの宮崎と栄中日の松井珠理奈の手に渡ったものの、前田と仲谷は集団の中でゴールし、3日目までの貯金をしっかりと守った。

前田と仲谷が真の意味で周囲を震撼させたのは、唯一の山岳ステージの第6ステージだった。富士あざみラインの標高差1100メートル、平均10%最大22%の斜度の山岳は本場ツールのそれに匹敵すると言われる。もっとも、グランツールでは、1日にこのクラスの山を2回登ったり、それが3日も4日も続くのだが…

ここで、スタート直後から飛び出した二人は3位以下に3分という大差をつけて逃げ切った。戦略上の逃げが決まったわけではない。ただ、単に二人のペースに各チームのエースクラスが全くついていけなかったのである。強豪チームのエースクライマーが参加していないとはいえ、この差は圧倒的だった。スプリントもこなせ山でも強い…しかも、前田だけでなく仲谷のこの強さはなんだ?ジャパンではここに大島が加わる。秋元、板野、宮澤、仁藤…アシスト陣にも全く隙がない。今年のジャパンでの興味は「どこのチームが勝つのか?」ではなく、大島と前田はどう共存するのか?そういった事に移ってしまいつつあった。

残りの3ステージは二人にとって消化試合のようなものだった。5日間で作った4分以上の差は平坦ステージしか残していない状況では圧倒的な差だった。二人はただ、先頭集団から遅れないように走ればいいだけだ。最終ステージで半ばやけくそに打たれたチームB全員の逃げにもあっさり後方をキープしてゴールへ。最後は前田が大きく仲谷に前を譲った。総合優勝は仲谷の手に、前田には第1・第2・第5ステージの優勝とスプリント賞(各ステージに設定されたスプリントポイントを通過した順に与えられるポイントを蓄積したもので競う。通常フィニッシュでのポイントが最も高い)、そして山岳賞が与えられた。普通、スプリントと山岳の両賞を同時に得る事は少ない。それは前田が最強のオールラウンダーである事の証だった。

表彰台の一番高い所に立った仲谷を見ながら、前田は軽く微笑みを浮かべた。

前田敦子は強い。誰もがその事はわかっていた。しかし、これまで全く実績らしい実績を持っていなかった仲谷の見事な走りは、それ以上のインパクトを持って全国に響き渡った。

「参ったな。こりゃ。」
「あ…秋元さん。まったく、ランスもとんでもない事を…しかも、こんな隠し玉まで用意してたなんて。去年まで秋元さんのトコの選手じゃないですか?全然気がつかなかったんですか?」
「ああ…全然目立たない子だった。特にこれといった強みもなくてな。」
「天下の秋元康の目に留らなかった…いったいランスはどんなマジックを使ったんですかね?」
「まあ、逃した魚の大きさを悔やんでも仕方ない。それよりも…ちょっと相談したんだが。時間取れないか?」
「相談って…あの…これ以上選手は出せませんよ?それでなくても、渡辺を持ってかれてこっちは…」
「まあ、ちょっとつきあえよ。悪いようにはしないから。」

戸賀崎は秋元について歩いて行った。
確かに…このままじゃ、ジャパンで惨敗するのは目に見えている。
俺の首も危うくなってくるだろうな…

12.



春が終わるころ、ロードレース界は一気に活気づき始める。

9月に行われるツール・ド・ジャパンがグランツールを模した本格的なロードレースで総合力を争うものなら、5月に行われるツアー・オブ・ジャパンは平坦ステージが多いため、スプリンター向けのツアーだ。全8ステージ、1ステージ辺りの距離は50~100キロとジャパンに比べ短いが、大阪・名古屋・東京と大都市で開催されるステージが多いのと、派手なスプリント合戦でジャパンに次ぐ人気を誇っていた。また、9月のジャパンに向けた前哨戦として各プロチームも出場する事が多い。ただ、山岳ステージが無い事から、総合争いをする各エースは出場しない事が常でもあった。

スキルAは、新加入の渡辺とクライマーの指原を始め主だったメンバーが欠場した。一方で宮崎美穂、増田有華、平嶋夏海、佐藤亜美菜といった有力スプリンターを擁するチームBはキャプテンの柏木、新加入の山本の他、ほぼフルメンバーでの参戦、名古屋の栄中日もベストメンバーに近い選手を送り込んできた。しかし、なんといっても注目は主力が軒並み出場を見送ったK'sレーシングから、前田敦子が一人出場してきた事だ。新加入の仲谷もスターティングリストに名前を連ねた。この事で、例年前哨戦扱いされていたレースが一段と注目を浴びる事となった。

「まあ、調整って感じじゃないの?それかスポンサー絡みだよ。きっと。」
スタート前の様子を映し出すCS放送の様子をモニターで伺いながら峯岸がつぶやく。確かに、今回のレースには、前田の加入により新しくK'sレーシングのスポンサーに加わった食品メーカーがスポンサーとなっている。国内レースへの復帰挨拶を兼ねて走るには最適だろう。もともと前田はスプリンターではない。このレースでそう無理をする事もないはずだ。

「ね。優子。何か話した?前田敦子と。」
「ん?うんにゃ。だって、前田さん、普段どこいるか知らないし。連絡先も分からないし。それに、普通挨拶してくるならあっちからじゃない?」
秋元の問いに大島は表面上だけ興味なさそうに答えた。

しっかし…面白くないなぁ…さっきからテレビじゃ、すっかりK'sのエース扱いじゃん。この大島優子の事を忘れてない?だいたい、ツールで完走したからって何なの?プロチームで大した働きもしないでたった一つのステージで5位に入ったからって快挙扱いされて。あのレースだってたまたまエースとスプリンターが場所取り悪くてラストスパートかけれなかったから自分が行っちゃったって感じだったじゃない。あそこで5位にしかなれないっていうのが甘いんだよね。私なら…他のチームの発射台を使っても1位取ってたよ。
まあ…どんな走りするかお手並み拝見っていこうじゃないの。このTOJも決して甘いレースじゃないよ。8日間スプリンター同士の熾烈なもみ合いの中でどんだけ消耗するのか…下手したらジャパンの前にスプリント合戦に巻き込まれて落車…なんてオチになっちゃうんだから。

大島が画面を睨みながら胸の中で呟いた。
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