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39


「あ…雨。」
「ホントだ。うわ~結構強いね。傘持ってないよ。」
「あの…走れます?怪我痛みます?ウチ、もうちょっとだから…。」
「うん。大丈夫。走ろう。」

すぐにわさみんのマンションに着いた。
でも、結構濡れちゃったね。まだ肌寒い季節だから、風邪ひかないようにね。
じゃあ、また明日…

「あの…」
「寄っていってください。服…乾かさないと…」
「え?でも…」
「お願い。」
「う…うん。じゃちょっとだけ…」

好きな女の子の部屋…
それだけで、僕の胸は張り裂けそうになった。
なんだろ?中学生じゃないんだからさ。
しかし…ホントにピンクなんだな。女の子の部屋って。
参ったな。こりゃ、早めに退散しないと…

その時、ふっと部屋の電気が消えた。

「こっち見ないで…ください。」

はい?
なんだ?なんだ?この緊迫感は。
あの日、遠藤のトコに忍び込んだ時も、ここまでの緊迫感は感じなかったぞ。
あの…わさみん?

「いいですよ。こっち向いても。」

僕はそっと振り返った。
ダメだ。ダメだよ、見ちゃ。目をそらすんだ。ダメだ。
もちろん、僕にそんな事が出来る意思の強さはなかった。

そこには、一糸まとわぬ姿のわさみんが立っていた。

「私…後悔しません。だって…あなたの事、本当に好きだから。」

いや、そうじゃないって。ダメだって。おい、何とか言えよ。
ダメだって。そりゃ、僕もわさみんの事が好きだよ。
だからって言って、そりゃ、まだダメだろ…な。おい。落ち着けーーー

「私じゃ…ダメですか?」

違うって。
そうじゃない。君じゃないとダメなんだ。僕は。
でも、そう。順番ってのがあるだろ…

僕はやっとの思いで言葉を選んだ。
そっとわさみんを抱きしめて選んだ言葉を口にする。

「嬉しいよ。わさみん。本当に。でもね。今はまだダメだよ。わさみんが、ちゃんと自分の夢に向き合って、そして答えがちゃんと出せた時。ね。僕は待ってるから。大丈夫。もう、わさみんに黙ってどこかに行ったりしないから。」
「本当に?私の事、嫌いじゃない?」
「バカだな。嫌いなわけないじゃないか。」

「良かった…はぁ、私…恥ずかしい。ほら、こんなにドキドキしてる。」
わさみんが僕の手を取って左胸のところに持って行った。

あ…ちょっと…押さえてた理性が…

その時、わさみんの左胸の上に大きな傷跡があるのに気が付いた。

「わさみん…?」
「この傷…?これはね…私の十字架なの…」

十字架…?

なんでだ?なんで、こんな時に嫌な予感がするんだ?
違う、今度は違う。思い違いであってくれ…


僕はわさみんを優しく抱きしめ続けた。
押し寄せる不安を押し流すために…


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「ちゃんと送っていくんだぞ~」

あの…戸賀崎さん。僕はあなたの方が心配なんですけど。
そんな酔っちゃって。仕方ないなぁ。
それに、僕だって怪我人だって言ったじゃないですか。おまけに飲まされちゃって。
傷が疼くんですけど…

「じゃあね。わさみん、バイバイ。気をつけてね。あ、ボディガードがいるから大丈夫か。」
「あ、さっしー…」
「じゃあね~」

「さっしー…アンタいい女だね。」
「はるきゃん…だって…だって…」
「わかったわかった。今日は付き合ってあげるよ。ジュースでね。」
「ばぁるぅぎゃあぁ~ん…」
「泣くなって。もう。…ま、いっか今日くらい泣かせてやるよ。」
「ぢぃぐじょぉお~。わだじぃだってぇ、いつかイイ男づかまえてやるからぁ~」
「わかったから。さ、さっしーんち行こう。」

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「どぅこっかっでぇさくらぁのぉはっなあびぃらがぁ~」

「誰?戸賀崎さん連れてきたの?」
「すみません…だって、どうしても俺も行くって言ってきかないから…」
「いいんだけどさ、マイクもたしちゃダメだよ。もう6曲目だよ。」
「でも、戸賀崎さん、AKB好きですよね~。歌うの全部そうだし。」

みんな楽しそうだ。良かった…こんな風にみんなで笑える日が来て。
もう大丈夫。みんな新しく生まれ変わったんだ。生まれ変われたんだ。

「おい、飲んでるか?」
「いや…飲んでませんよ。っていうか、僕怪我人なんですけど。知ってます?戸賀崎さん。」
「だから言ってるんだよ。そんな怪我、アルコール消毒しときゃ、じきに治っちまうよ。」

「戸賀崎さんも嬉しいんだね。」
「うん。あの人普段から涙もろいけど、あんなに泣いてるの久しぶりに見たもんね。」
「さっしーだって。」
「とも~みちゃんだって。」

「おい、何か歌えよ。あ、公演曲縛りな。」
「ちょっと待って下さいよ。そんな…あ、じゃあ、みんなで歌ってくれない?聞きたいな。」
「いいよ~リクエストは?」

僕はちょっと考えた。
そうだな…

「タンポポの決心」

「うむ、なかなかいいチョイスだ。よし、わかったぞ…」
「あ、戸賀崎さんはいいですから。」

僕は戸賀崎さんからマイクを取り上げて、わさみんに渡した。
わさみんは僕をちょっとだけ見て、目線をモニターに移す。

まだ怒ってるのかなぁ…




俯いていた季節
風も向きを変えて
人はいつだって
生まれ変われるさ

僕は曲の間じゅう、ずっとわさみんの事を見ていた。
わさみんもまっすぐに僕の方を見て歌ってる。

気づかなかったタンポポが
揺れている
誰の心の中にも
ささやかな
その可能性
日常に忘れていたよ
思い悩み落ち込んだ
寒い日々
当たり前の躓(つまづ)きに
立ち上がる
若き力よ
弱さもいつの日にか
強さになるんだ

わさみんが歌いながら笑顔を浮かべてくれた。



もう自分の気持ちを隠すのはやめよう。
もう誤魔化すのはやめよう。


僕は、わさみんの事が、大好きだ。

36

 
参ったな…何から話せばいいんだろ?
わさみん…お願いだから泣かないでよ。
っていうか、泣かせたのは僕か。

あのね…あの日行けなかったのはね…

「もう、どこにも行かない?」
「え?」
「もう、私に黙ってどっか行っちゃったりしませんか?」
わさみんが顔を上げた。

ダメだ…
僕は最低だ。こんなイイ子を泣かせてしまった。
ごめんね。わさみん、もう二度と黙って消えたりしない。

僕は心に誓った。
それをどう口にすればいいのか、どうしても分からなくて頷くしか出来なかったけど。

「ちょっと押さないでよ。」
「仕方ないじゃん。狭いんだから」
「ダメだって。ばれちゃうよ。」
「だったら、そっちずれればいいじゃん。」
「そしたら見えなくなっちゃうし…あ。」

どんがらがっしゃーーーん。

あの…?さっしーにとも~み、はるきゃん…麻里子さままで…
何やってるんすか?そんなところで。
盗み聞きなんて趣味悪いっすよ。

「あ…あのね。ほら。その…」
「そうそう。私たち、お礼しなきゃって。ね?」
「そう!麻里子さんの言う通り。そうだ。みんなでカラオケ行きましょうよ!」
「お~さっしー、ナイスアイディア。行こう行こう。ほら、わさみんも。」

「はい。行きましょう!」
え?カラオケ?参ったなぁ。
でも、まあいいか。わさみん、笑ってくれたし。

35


やだなあ。戸賀崎さんもさっしーも。幽霊見るような目で見ないでくださいよ。
ちゃんと脚ついてるでしょ?

「おい…もう大丈夫なのか?」
「はい。おかげさまで。」
「自分で出てきたのか?手錠は?」
「あ…すみません。モニター切られたら、ずぐ自分で外しちゃいました。
戸賀崎さん、ちゃんと掃除は自分でしましたからね。」

「バカ野郎…」

戸賀崎さん、ちょっと。やめてくださいよ。
僕は男と抱き合う趣味はないですよ。
抱き合うなら、さっしーとの方がいいなぁ。

あ、いかんいかん…
ちゃんと、わさみんに謝りに行かないと。
許してくれるかなぁ…

34

10日間が過ぎた。

麻里子も智美も晴香も、そして莉乃も薬の禁断症状を無事に乗り切った。
一番状態の重かった麻里子と莉乃も、歯を食いしばって耐えきった。

モニターの映像は5日目で消された。
山を越えたところで、それ以上凄惨な場面を見せる事は逆効果だという、治療にあたった医師の判断だ。佐藤が手配した闇医者は無愛想だが、それなりに優秀であったようだ。

「戸賀崎さん…食べませんか?スープだけでも…」
「いや、俺はいい。指原、お前が食べなさい。」
「でも…このところ、ろくに食べてないじゃないですか。」
「アイツもパンと水しか口に入れてないんだ。」
「そうですよね…」
「でも、お前は食わないといかんぞ。もう仕事に穴をあける訳にはいかないからな。
アイツが戻ってきたときには、ちゃんといい報告しないとな。それに、俺はダイエットできるから、10日くらい食わないほうがちょうどいいんだ。」

「あの…わさみんには何も教えてあげないんですか?最近、落ち込んじゃって…
なんて声かけていいかわからないです…」
「そうだな…話はしないといかんよな…」

「僕がしますよ。約束破っちゃったし、ちゃんと謝らないと。」
「お…お前…」

33  わさみん


時計を見るのは何回目だろう?
駅前の大時計も腕時計もどんどん時間が過ぎていく。

仕事の時は、遅刻なんてした事ないのに…
一緒の仕事場の時は早く会いたくて、時間よりすごく前に現場に着くんだけど、いっつも先に来てる。そんな人なのに…

なんで来てくれないんだろう?
何かあったのかな?電車遅れてるとか…

それともやっぱり気が変っちゃったのかな?
私なんてコドモって思われてるのかな?

ポツポツと雨が降りだした。
頬を伝ってるのは雨なのか、涙なのか…

雨を避けてようと小走りで動く人波の中、一人動かない…
動けなかった。

32

戸賀崎さんの車で秋葉原の劇場に戻った。
夜中だったけど、麻里子さまととも~み、はるきゃんとさっしーが居た。
どうやら、佐藤さんが早速動いてくれたみたいだ。

大丈夫だよ、みんな。そんなに怯えなくても。
きっと、大丈夫。

「パソコンのデータ、きちんと破壊してくださいね。」
「わかってる。薬対は地団駄踏むだろうけどな。遠藤をしょっぴく証拠が…」
「すみませんね。」
「まぁ、仕方ないな。俺も見返り貰っちゃうしな。」

佐藤さん、アンタがいてくれて本当に良かった。
ヲタだったってオチまで期待してなかったけどね。

「佐藤さん、手錠…持ってますよね?」
「手錠?俺はお前を逮捕するつもりはないぞ?第一、何か捕まるような事したか?」

戸賀崎さんも、みんなも心配そうな目で僕を見てた。

「いえ…僕を監禁してもらえませんか?どうやら、もう薬が切れてきたらしい…」
「薬…?お前…」

僕は頷いた。
「どうやら、かなり純度の高いヤツを打たれたみたいです。
アイツ…もったいない事しやがって。」
僕は笑った…つもりだったけど、どうやら笑えてなかったみたい。

麻里子さまが泣きながら僕に言う。
「ね?私たちと一緒に…治療しましょうよ。一緒なら…きっと頑張れる…」

僕は首を振った。
違うんだ、麻里子さん。僕が打たれたのは…


「打たれたのは…ひょっとしてポン…か?」
「みたいですね。佐藤さん、あんまり猶予ないです。
さすがにポンは手に負えないですよね。自分でやるしかないでしょう?」
「わかった…しかし…どこに…」

「私のマンションを使いなさい。」

秋元先生…
先生まで来てくれたんですか?ありがとうございます…

「私が仕事で使ってるマンションが近くにある。そこを使ってくれていい。」
「先生…でも、きっと汚しちゃうと思います。暴れるかも…僕、結構コレでヘタレなんで。」
「構わない。構わないんだ。そんな事は気にしなくていいから。」

「おい、クソだってションベンだって幾らでももらせ。俺がちゃんと掃除するから。」

戸賀崎さん…そんな秋元先生のマンションですよ。勝手な事言っちゃだめですよ。
ちゃんと僕が掃除しますから。正気に戻れたらね。

「あと…なにかパンと水を…1週間分もあればいいかな。それから…佐藤さん。」
「なんだ?」
「僕の様子をカメラか何か通して、4人に見せてください。」

「え…?無理です。無理…そんな。見れません。私…」

さっしー…そうだよな。さっしー…怖いよな。見たくないよな…
でもね…

「いい?さっしー。はるきゃんもとも~みも麻里子さまも。僕の身体の中にあるのは、みんなが騙されて使わされたモノよりも遥かにヤバいものだ。恐らく禁断症状もみんなとは比べ物にならないと思う。でもね、このまま…ここでみんなが頑張らないと、いつかはどんどんエスカレートしてより強い薬に依存するようになっちゃう。そうなると、僕みたいな苦しみを味わう事になるんだ。だから、目をそらさずに見るんだ。クスリは身体を蝕むものだけど、もっと怖いのは心を食いつくす事なんだ。だから…」

ごめんね。こんな風に強く言いたくないけど…
でも、言わないと。

「僕は絶対戻ってくる。だから、みんなも約束して欲しいんだ。誰かに頼るんじゃない。
いい?自分の力で乗り越えなきゃいけない事なんだ。これを乗り越えれば…
大丈夫。みんなちゃんと自分の力で笑えるようになるから。」

僕は笑った。
今度は上手く笑えたみたいだ。

31


「形勢逆転だな。」

僕は遠藤の背後に回り、首を片手で極めた。
右手に握られた銃を奪い取り、遠藤のこめかみに当てる。

僕は遠藤が銃を打とうとした瞬間、身を翻したんだ。
肩の関節を自分で外し、腕を前に出して荒縄を解く。
ほんの一瞬の中でその動きが取れた。
おい、遠藤、ひょっとしたらこの薬は凄まじい効き目なのかもしれないぞ。

「教えておいてやるよ。人を監禁する時は手だけじゃない。脚も縛るんだな。
それに、あの薬はちょっと効きすぎだ。間接外したって、骨が折れてたって全然痛みを感じないぞ?
おかげで、こんな動きが出来た。」
「くっ…」
「今度はこっちが質問する番だ。お前の患者…のデータはあのパソコンの中か?
俺は実験なんて悠長な事をするつもりはない。答えが聞けないなら…容赦なく…やる…」

遠藤の顔から血の気が引いていくのがわかる。
脅しじゃない。僕は本気で遠藤を殺すつもりだ。

「パソコンの中だ…エクセルのファイルで管理してる。パスワードは…」
「パスワードはいらんよ。パソコンの中に入ってるってわかればそれでいい。」
「?データの中身は見ないのか…?あの中には…」
「興味ないね。データがこの世から消え去ればそれでいい。」
「おい、これを使ってひと儲けしようって思わないのか?頼む…助けてくれたら…
俺はアンタに…協力する。な?俺は生かしといて損のない男だよ?な?」

「消えろ。」
僕は銃を下ろし、遠藤に言った。
遠藤は一瞬だけ僕を見て、一目散にその場から走って逃げた。

僕は携帯電話を取り出した。

「佐藤さん。終わりました。すみませんが、迎えに来てもらっていいですか?
どうやら、もう動けないみたいです…」

30


こういうヤツを僕は良く知ってる。
プライドが高く、自分の行為に妙な自信を持っている。
扱いにくいタイプでは決してない…

「おい、どうせ俺は殺されるんだろ?」
「あ?それは、お前次第じゃないか?俺の実験に耐えられたら生き延びれるかもな。」
「じゃあさ、アンタの実験ってのを詳しく教えてくれよ。
俺の身体を使って何が出来るんだ?」

こういうヤツは、自分の専門分野を得意げに話したがるもんなんだ。
インテリぶったヤツは大体そうだ。

「お前に何がわかるんだ?まぁ、いい。話してやろう。」

遠藤は覚醒剤や麻薬は、人を身体や心の痛みから救う最後のツールだという話を始めた。ストレスや身体の痛みに悩む人間を、ごく微量の覚醒剤を使う事で解放してやってる。そのうち中毒へと進む事はあるが、そこでの夢のような世界こそ、人が辿りつく最後の楽園なんだと。

「狂信的だな。」
「狂信的?嬉しい褒め言葉だな。俺は患者の心や身体の痛みを解放してやれる。
そう…神なのかもしれないな。」

「で?アンタの患者は?なんで芸能人もいるんだ?」
「やっぱり、お前、そっち方面のネズミか。そういう気がしてたよ。」
「今更隠しても仕方ないらしいしな。」
「まぁ、いつか世の中をひっくり返す時が来るだろうからな。そういう時には有名人が俺の手の中にいるというのは何かと都合がいい。それに、やたらとストレスが多いんだろうな。簡単に洗脳できる。お前、どっちだ?女所帯のほうか、男か…?」

「女の方さ。」
「そっちか。まだ確か3人…こないだ一人増えたから4人だけだな。ま、最初に引っかかったのがグループの中で結構影響力がありそうなヤツだから、どんどん広がるだろうけどな。」
「どうやってひきこんだ?」
「簡単だって言ったろ?狙った獲物の周りに餌をばら撒けばすぐに食いつくよ。薬漬けにされてるって気付いた頃にはもう後戻りできない身体になってる。俺の治療のイイところは、徐々に…ゆっくりゆっくり効き目が浸透していくから、本人に自覚がないまま中毒に出来るってトコだよ。」

「そこまで話たって事は、どうやら俺は生きて帰れないらしいな。」
「ほう?よくわかってるじゃないか。」
遠藤は拳銃を取り出した。サイレンサーが装着されている。

ぷしゅっ

拳銃から小さな音が立った。

29


目が覚めた。
いや…覚まされたと言ったほうが正しいのか。
体中が痛い。腕も脚も腰も腹も頭も目も…
体中のパーツが千切れていくような感覚だ。

目を開けると白衣姿の男のにやついた顔があった。

「なかなかタフだな。いい実験台になってもらえそうだ。」
「…っ…おま…えが、遠藤か?」
「おや、俺の名前もずいぶん知られてしまったようだな。
そうだよ。ドクター遠藤と呼んでくれ。」
「何が…ドクターだ…」
僕は身体を起こそうとした。だけど、もちろん動かない。
腕は身体の後ろで荒縄できつく結ばれていた。

「おっと、余り動かないほうがいい。お前の腕も脚も指も…色んなところを折らせてもらったからな。
今は麻酔が効いてるが、動くと効きがすぐ悪くなってしまう。」
「麻酔?」
「ああ、ちょうど新しい薬の効果をテストしたかったとこなんだ。」
遠藤が注射器を取り出した。僕の血管にそれを叩きこむ。
すぐに意識が朦朧としてくる。
「寝ちゃいかんな。」
遠藤が注射器をバットに持ちかえる。僕の肩にそれを容赦なく振り下ろした。
鈍い音がして肩の骨が砕ける感覚が襲ってくる。

「さて…ここに忍び込んだ目的を話してもらおうか?」

28


わさみんが、駅前のロータリーで待っている。
白いノースリーブのワンピースに白い帽子。
わさみん、まだ夏じゃないよ。そのカッコじゃ寒いでしょ?
え?くっつくから大丈夫だって?
ダメだよ、恥ずかしいじゃんか。
それに誰かに見られたらどうするの?

あれ?どこ行くの?
ちょっと…なんでそんな悲しそうな顔するの?
待ってよ。意地悪言わないからさ。
手つないで歩こうよ…
ね?わさみん…

27


中華街には、持ち主が何度も変わって権利関係がぐちゃぐちゃになってるビルが多い。
だから、入居に関しても相当敷居が低いし、怪しい商売をするには格好の場になる。
闇金関係の事務所を構えてるヤツも多かったしね。

治療院はまさしくそんな怪しいビルの中にあった。
ビル自体も玄関のドアも相当古めかしかったけど、やたら厳重に鍵がかかってる。
そんだけ厳重なのに、セコムとかアルソックのステッカーが貼ってないって事は、厳重にしたいものがあんまり宜しくないモノだって事だろう。駆け付けた警備員が面倒なモノなんか見つけたりしちゃ、逆に困るって事。

僕が最初に悪事に手を染めたのはピッキングからだ。
最新の鍵を空けるノウハウは持ってないけど、幸い指先はまだ生きていたみたいだ。
比較的容易に解錠して中に入った。

思ったより広いな…
ソファが3つ。肩口のところから、細い管のようなものが伸びている。
酸素バーとかで使うヤツか。あそこから香り付きの酸素が出てくるんだよな。
多分、ここだな…と目星をつけて、僕は、ソファの足元を探ってみた。

ビンゴ。

足元には小さなタンクがあった。熱線のようなものが張り巡らされている。
微かに残る化学調味料のニオイ。
これか…仕組みは分かった。

隣の部屋に入る。
デスクの上には、パソコンが2台。カルテの類はない。
僕は軽く舌打ちをした。多分、目当てのファイルにはパスワードがかかってるだろう。
このパソコンのハードディスクを破壊したところで、僕の目的が果たせるかどうか解らない。

僕はデスクの隣のキャビネットに目を移した。
鍵をこじ開ける。
中には小さな粉末の袋が数袋並べられていた。
僕は身震いをした。たったこれだけの量で、何人の人間を地獄に落とせるんだろうか…

そう思った瞬間、後頭部に衝撃を感じた。
痛みではない。衝撃だ。
まるで、不眠症の時に巨大熊から巨大なハンマーで殴られた時のような衝撃だ。
目の前が真っ暗になる。
僕は、その場に崩れ落ちた。

26


「治療はさせよう。すぐにでも手配する。しかし…」
「わかってます。根っこを引き抜かないと話は終わらない…そうでしょ?」
「行くのか?俺はさすがに一緒には行けんぞ?」
「大丈夫です。一人で行きますから。」

「おい…行くって…どこに行くんだ?」

戸賀崎さん…
そうだな。もう隠してなんておけないな。
でも、仕方ない。今は僕の事なんかよりみんなの事が大事だから。

「戸賀崎さん。今までありがとうございました。」
「どういう事だ?」
「実は…僕にはマエがあるんです。ここにいる佐藤さんは、その時にお世話になった刑事さんです。
とても信頼出来る人です。だから、安心してください。僕は…」
「マエって前科の事か?そんな事は知っていたよ。」

知ってた?
え?
戸賀崎さん、知ってて僕を雇ってくれたんですか?
なんで…?幾ら、僕がわさみんを助けたからって…

「何をやったかは知らん。お前が病院で死にそうになってる時、身元の保障を頼まれてな。
俺達を助けてくれた恩人だ。喜んで引き受けたさ。その時、お前の持ち物見ちゃってな。
刑務労役報酬受け取りの明細を見てしまったんだよ。」
「じゃあ…なんで…僕なんかを?」
「お前は、前科があるから同じ事を繰り返すヤツなのか?
少なくとも、この数カ月、一緒に仕事したお前はそんなヤツじゃなかったぞ。
俺の人を見る目に間違いはないんだ。お前も知ってるだろう?」

戸賀崎さん、ちょっと間違ってますよ。僕はそんな信頼してもらえるような人間じゃないですよ。
でも…ありがとう。その言葉だけで、僕は救われた気がします。

「とにかく…間違いなく、その遠藤ってヤツが仕組んだ事です。そこに行って、何とか痕跡を消してこなきゃ。
大丈夫。何を消せばいいかは分かってますから。」
「俺も一緒に行こう。」
「ダメです。戸賀崎さん。それだけはダメだ。」
「しかし…」

「おい。ちゃんと帰ってこいよ。
どこまで庇えるか分からんけど、出来る限りの事はやってやる。」
「さすがですね。佐藤さん、クビにならない程度でいいですよ。」
「バカ野郎。ここまで巻き込んだヤツが言うセリフじゃねえよ。」

「絶対帰ってきますよ。だって、明日大事な約束があるんで。」

戸賀崎さん、白状しますね。
いいですよね。ちゃんと帰ってきたら…帰ってこれたら…


25


「まさか…そんな事が…」
「戸賀崎さん、今ならまだ間に合います。
彼女達が本当の中毒者になる前に、何とかしましょう。」
「なんとかって言っても…一体何をどうすればいいんだ?」
「まずは、彼女達を綺麗にしてあげないと。一刻も早く治療する必要があります。」

「しかし…医者に行けばいいのか?そうなると、刑事さん…やはり罪に問われる事になるんですか?」
戸賀崎さんの顔が困惑してる。いつも難しい顔をしてるけど、今日は特段だ。
無理もないよな。いきなりクスリやってるかも…なんて話されても信じられないよな。
でもね、戸賀崎さん、これはまぎれもない事実なんだ。

「ええ…経緯については分かりませんが、仮に騙されてたとしても…」
「大丈夫ですよ、戸賀崎さん。佐藤さんが、ちゃんと表に出さず治療してくれる医者を紹介してくれますから。」
「おい、何言ってるんだ?俺はな…」
「してくれないんですか?」

僕は知ってる。佐藤さんはこういう時に動いてくれる。
だから僕はこの人に手錠をかけられる事を選んだんだ。僕は佐藤さんの目をじっと見た。

「ったく仕方ねぇな。おい、それなりの見返りはあるんだろうな?」
「見返り?」
「ヤクザだって、情報提供にはちゃんとお礼をしてくれるぜ。俺がお礼する事もあるけどな。」
「やっぱり、噂って本当だったんですね。すみません。僕お金持ってません。」
「お金で解決出来るんですか?」戸賀崎さんが言った。すがるような視線だった。
「お金なら出します。幾らでも…だから、あの子たちを…お願いだ。この通りだ。」

戸賀崎さん…そんな泣かないでくださいよ。らしくないなぁ…
でも、分かりました。やっぱり、あなたはメンバーの事を一番に考えてくれてるんですね。

「佐藤さん…」
「いや…お金は…要りませんよ。その代り…」
「その代わり…なんでしょうか?何でも…何でも言ってください。」
「私、一度も劇場で公演を見た事がないんですよ。そうだな…チームBの公演をいい席で見たいな。」

佐藤さん…やっぱ、アンタ話がわかる人だよ。
でも、そうくるか?

「そんな…そんな事で本当に宜しいんでしょうか…?」
「ええ。ただし…ゆきりんが出演してる時にしてくださいよ。」

おいおい、初めて聞いたよ。佐藤さん、アンタもかい?
でも、良かった。佐藤さんがわさみん推しじゃなくて。

24


「あの…情報通信局情報技術解析課の佐藤さんと約束があってお邪魔したんですけど…」
「佐藤ですね…はい、伺っております。こちらをお付けになってください。
4階へご案内します。」

警察庁で会うなんて、無茶言うよなぁあの人も。ま、外勤じゃなくなったから仕方ないのか。
僕はスーツの胸ポケットに来客者バッジをつけて案内してくれる婦警の後をついていった。

「おう、良く来てくれたな。嬉しいよ。」
佐藤浩市さんが現れて、応接のソファに乱暴に腰かけた。
握手なんか求めてこなかったので僕はちょっとほっとした。

佐藤さんは、僕を逮捕した…逮捕してくれた刑事だ。

少し…いや凄く変わり者で、東大卒のバリバリのキャリア官僚なのに、いつまでも出世しない。僕を逮捕した時も、暴対で現場を這いつくばっていたし、所轄周りを長くしてたって話も聞く。なんでも、組関係から金を受け取ってるとかいうきな臭い噂がいつも立ってて、でもなかなか真相が出てこなくて、ついに決め手無しのまま、内勤に鞍替えさせられたって話も聞いた。でも、僕みたいなチンピラの事と本当に親身になってつきあってくれる。
実はスゴイ優秀な人なんじゃないかって、僕は思ってる。

「それで…化学調味料のニオイってか。」
「ええ。恐らくやってるとしても注射とかじゃないと思いますけど。吸引とかでもないかな?
中毒者だとすぐにわかりますからね。どうやってるかは分からないけど、
ごくごく少量使ってる事は間違いないような気がします。」
「お前、シャブは扱ってなかったんじゃなかったっけ?」
「直接はね。でも、それでつぶれたヤツに追い込みかける事は良くありましたからね。」
「しかしなぁ。こりゃ、大スキャンダルじゃねえのか?表ざたになったら、おおごとになる。」
「だから、佐藤さんに相談してるんじゃないですか。」
「おい、お前な…」

「遠藤って男の事は?」
「ああ。ちゃんと調べたさ。多分、ビンゴだな。ウチの薬対のマークリストに入ってるよ。」
「そうですか…ほっといたらヤバいですね…」
「ヤバいって、お前何考えてる?悪いヤツをしょっ引くのは俺達の仕事だぜ?」
「ええ。ねぇ、佐藤さん、今からちょっと一緒に来てもらっていいですか?」
「今からって、俺内勤なんだよ。勝手に勤務時間に外出なんて…」
「有休取ればいいじゃないですか。」
「なに言ってるんだよ。ったくお前には…」
「行きますよ。」

23 麻里子と智美と僕


「お~青年。うわさ通りのイイ男だねぇ。」

いきなり声をかけられてびっくりした。麻里子さまは気さくで人当たりのいい人だ。
美人だし背も高いし、ちょっと話しかけづらいって思われる事もあるだろうけど、
僕は麻里子さまほど周りに気を配る人を知らない。
ちょっとした事で頬を赤くして照れるとこなんて、すごく可愛いなって思うし。

「いや…青年って…麻里子さま、一応僕、同い年なんですけど…」
「あ、少年って呼んだほうがいい?私少女だから。」
「あ…麻里子さまのお好きなように…」
僕は笑った。そういや、麻里子さまとこんな風に話するのって初めてだ。

「あの…噂って?」
「うん。噂。あなたを巡ってあちこちで火花が散ってるとか散ってないとか。」
「なんか、みんなで僕の事からかってません?」
「ねぇ、私にだけ教えてくれない?同い年のよしみって事で。本命はやっぱりわさみんなの?」

あの…麻里子さままで。
ま、いっか、ちょっとこっちからからかってやれ。
「実は、僕…麻里子さま推しなんです。」
「え…?え?え?私?あれ…あの…」
麻里子さまが下を向いて赤くなった。
ちょっと反則っす。麻里子さま、そんな可愛い顔、突然目の前で見せられたら…
「もう冗談やめてよ。」
麻里子さまに肩をぶたれた。ちょっと…いやかなり痛かったけど、僕は嬉しくなって笑った。

「お待たせしました~」
とも~みが部屋に入ってきた。最近、すっかり体調が良くなったみたいだ。
そのせいかすごく明るくなった。
ちょっと影のあるコかなって印象持ってたけど、今はむしろ健康的で爽やかなイメージだ。
ただ、この子の持ってる妖艶さはすごく危険だ。
危険って、変な意味じゃなくてだけどね。僕にとって危険って意味で。
油断してたら、ふら~って吸い寄せられちゃう。

あ、いかんいかん。しっかりしろ。わさみんと約束してるんだろ?

「これから二人でお出かけっすか?」
「そうなの~ちょっと横浜まで。定期的に診てもらってる先生のトコ。」
「ああ、はるきゃんにも聞きました。なんか、すごくいい先生…カウンセラーですか?みたいですね。
僕も一回診てもらいたいなぁ。」
「そうなの?なんか、ストレスとか全然感じなさそうだけどね~」
麻里子さまが笑った。

ん…?
まただ…なんなんだ、この変な感覚は…

そうだ…ニオイだ。
今までははっきり分からなかったけど、今日は分かる。なんでだろう?

いや、ニオイって言っても変に臭うとかじゃない。
二人からは女の子のイイニオイがしてる。とかいうと、なんか変態みたいだけど…
その中に微かに混じってるこのニオイ…

僕の中に急に嫌な予感が込み上げてきた。
今度は、違和感じゃない。

「それじゃ~またね。」
「あ。麻里子さん、その先生ってなんて名前、なんていうんですか?クリニックの名前とか…」
「えっとね、遠藤憲一先生っていうの。RL治療院ってトコ。
紹介なしだとダメだから、今度紹介してあげるね。」
「ええ、お願いします。」

僕の予感は良く当たるんだ。
特に悪い予感は。

僕は暫く考えた。
こういう相談は…やっぱりあの人しかいないのかな…

22


渡り廊下走り隊7の握手会イベント。僕は朝からてんてこ舞いになっていた。

僕の所へは、会場運営スタッフやアルバイト達から次から次へと対応依頼が舞い込んでくる。僕の仕事は、イベントで起きる諸々の対応事項…ファンの動線が上手く確保出来ていない、暴れてる人がいる、喫煙所で未成年が煙草を吸ってる、トイレの数が少ない、握手券は持ってるけど受付票忘れた、まゆゆは可愛い…あ、これは違うか。とにかく、色んなクレームや意見や要望に対し、どう対応をするか判断して指示を出すというものだ。

昼飯を食べる時間もなく、握手会終了の時間になった。
もうダメだ。フラフラだ。マジで麻里子さまに先生紹介してもらおうかなぁ。

「お疲れ様です。あ~疲れた~」
背伸びをしながらまゆゆが控室に入ってきた。
他のメンバーも続いて入ってくる。わさみんは、一番最後。こもりんと一緒だった。

「みんなお疲れさま。ケータリング入ってるから食事してね。」
さぁ、僕はもう一仕事だ。撤収までしっかり監督しなくちゃ。

僕は足元をふらつかせながら部屋を出て、会場へと向かった。

「あの…」

後ろから背中を軽く叩かれ振り向いた。
わさみんがいた。

急に僕の身体の中に何か分からない力が働き、背筋がしゃきんと伸びた。
やっぱり、麻里子さんに先生を紹介してもらわなくてもいいや。
僕にはこんな特効薬がある。

「ん?どうした?」
「あ…お疲れ様でした。」
わさみんが辺りを見回す。誰もいないことを確認すると、すっと近くに寄ってきた。

「明後日…お休みですよね?お仕事。」
「うん。なんで知ってるの?」
「あ…ちょっと…あの。何か予定あるんですか?」
「う~ん…特にないなぁ。洗濯溜まってるし、掃除もしなくちゃ…」
「あの。あの約束、明後日じゃダメですか?」
「約束?わさみん、明後日お休みなの?」
「はい。だから…」

もちろんOKだよ。洗濯なんていいんだ。掃除だって。
そんなのいつだって出来るんだから。

「よし。海行こう。春の海っていうにはまだちょっと早いけど、あったかくして行けば大丈夫だよね。」
「ホントですか?やったぁ。約束ですよ。絶対に。」
わさみんの笑顔は本当に可愛い。
さっきまでフラフラしてたのに、僕にこんな力をくれるんだ。

「うん。約束だ。雨が降っても槍が降っても、ラーメンの汁が降っても必ず行こう。」
「ラーメンの汁?」
「あ…ごめん、スベった?ギャグのつもりだったんだけど…」
「うん…たかみなさん並みかも」
「ひどいなぁ。」
二人は大笑いした。


でも…

雨も槍も、もちろんラーメンの汁も降らなかったけど、僕は約束を守る事が出来なかった。


21 晴香と僕 2


「はるきゃんってパワフルだよね。今日の公演でもすっごいキレキレだった。
身体は小さいのにステージでは大きく見えるよ。」
「ありがとうございます!公演大好きなんです。」
「みたいだね。でも、最近握手会とかでも評判いいみたいじゃない?」
「はい!だって楽しいですもん!」

はるきゃんって、なんか可愛いな。
ショートカットがすごく似合ってる。ちっちゃいから守ってやりたくなるのかな。

…あのさ、なんでわさみんの顔が浮かんじゃうのかなぁ。
なんで、ごめんとか思ってるのかなぁ。そんな関係じゃないだろ?ったく。

「体調とかも…大丈夫そうだよね?」

「はい。絶好調です。麻里子さまに紹介してもらった先生に診てもらうようになって、すごく調子いいんです。もともと身体は丈夫なんですけど、なんていうか、メンタル的に強くなったような気がします。」

「へぇ~そうなんだ。メンタル的にっていうのはいいことだよなぁ。
僕、メンタル弱いから、今度麻里子さまに紹介してもらおうかなぁ。」

「何言ってるんですか。身体を張ってわさみんを守った人が。強くなきゃ出来ないですよ。」

おいおい…なんか、段々その話って尾ひれが大きくなってきてないか?
それより僕が弱いのは、君達のせいかもよ。
みんなが、可愛くて仕方ないって思えるんだ。

「じゃ、はるきゃん、お疲れ様。明日も早いんでしょ?」
「そうなんです。3時起きでロケバスに乗らないと…でも、最近ちょっと寝たらすぐ元気になっちゃうんです。
なんか寝るのもったいなくて。」

ホントにみんな元気だ。若いからかな?僕なんて、最近すっかり疲れやすくなっちゃって。
年って事か。

僕は書類をそろえながら立ちあがった。


ふと、また変な感覚が頭の中に迷い込んできた。
違和感…?

そうだ…さっしーと話してた時にも感じた、あの感覚だ。

疲れてるのかな?
僕は首をぶんぶんと何度か振った。

20 晴香と僕

最近スーツなんてものを着るようになった。
それから名刺も。名前の上になんか肩書きまでついてる。
サラリーマンがキャバクラで得意げに名刺を出す気分がちょっとだけ分かったな。
あ、僕も今はサラリーマンなのか。

スーツは気慣れてない訳じゃない。昔はいつも着てたからね。
でも、あの頃は光沢のあるような生地に趣味の悪い派手なシャツとタイ。
いかに柄を悪く見せるかがコーディネイトのポイントだったなぁ。
今着てるのはネイビーの細身のスーツ。白のボタンダウンにレジメンタルタイ。
なんか、爽やかじゃん?
安物だけど、なんか背筋が伸びるような気がする。
昔は背中を丸めて肩いからせてばっかだったけどね。


今日は公演が終わったメンバーとの面談って仕事がある。

メンバーの管理は基本、所属事務所に任せてるところが多いけど、定期的に話を聞かないといけない。どこで不満や不安が溜まってるかわからないからね。今までは戸賀崎さんの仕事だったんだけど、なぜか僕がやることになった。多分、聞き上手…って思われてるんだろう。実際、彼女達の話を聞いているのは楽しい。みんないい子ばかりだから。ただ、時々どきっとさせられちゃう事も多いんだけどね。

今日の最後の面談は…

はるきゃんか。石田晴香ちゃん。
戸賀崎さんからは「最近丸くなったけど、ちょっとひと癖あるかもな。あれがあの子の魅力でもあるんだけど」
って話を聞いていた。

「お疲れ様です~。すみません、お待たせしました!」

大きな声ではるきゃんが挨拶してくれた。
え?甘いもの好きかって?うん…嫌いじゃないよ。戸賀崎さん程じゃないけど…

「良かったらコレ食べませんか?」
はるきゃんが小さな箱に入ったクッキーを差し出す。
「ありがとう。ちょっと小腹空いてたんだ。遠慮なく…ん。美味い。
これはるきゃんの手作り?すっごい美味しいんだけど。」

「良かった~。スタッフさんにも好評なんですよ。あ、チェックチェック。甘いものは大丈夫っと…」
「チェックって…?」
「あ、気にしないでくださ~い。」

はるきゃん、良く笑うコじゃないか。ひと癖あるなんて誰が言ってるんだ?
戸賀崎さん、ちゃんとメンバーの事見てあげないと。
あ、だから僕がこの役を仰せつかったのか?

19 秋元先生

控室の隅にアコースティックギターが置かれていた。
暫く使われていなかったんだろう、弦は張られてるけど音が全然合わない。
僕は、ちょっと時間をかけて弦を一本一本チューニングしていった。
ギターなんて弾くのは高校以来だ。昔はバンドの真似ごとなんかしてた時もあった。
オリジナルみたいな曲を書いた事もあったな…

思い浮かぶままにメロディを奏でてみた。
指が思うように動かないし、指先がふにゃふにゃで弦をしっかり押さえられない。
全然綺麗な音が鳴らないや…
そう思ってギターを置こうとした時、声をかけられた。

「それは…なんて曲かな?」

黒ぶちの眼鏡、やや丸い身体。一見、その辺のサラリーマンのような風貌だけど、その人が秋元康って事はすぐに分かった。顔を知ってたからもちろんなんだけど、そうじゃなくてもタダものじゃない事は分かった。凄味が違う。刑務所で会った大親分に負けないくらいのオーラがある。

「あ…すみません。こんなトコでサボってて…」
僕は立ちあがって頭を下げた。

「構わないよ。そうか…君がそうだね。お礼を言うのが遅くなってしまった。
戸賀崎から話は聞いているよ。いい仕事をしてくれてるそうだね。ありがとう。」
急に秋元先生からこんな風にお礼言われるなんて。びっくりした。

「で…今の曲は?」

「あ、昔ギター弾いてて。その時に作ったオリジナルみたいな…」
「そうか、なかなかいいメロディラインだ。どこか情緒的なものがあるね。そうだ。君は岩佐と…これも、何かの縁だ。実は、今あの子の今後を考えていてね。ネ申の企画で一曲ライブ用の曲を作ろうと思っているんだ。どうだろう?続きを聞かせてくれないか?演歌の曲ってなかなか難しくてね。」

え…先生…何をおっしゃってるんですか?僕なんて、素人ですよ?
そんなミリオンセラー連発の先生に聞いてもらえるような曲なんて…
…はい…わかりました。この人の目もある意味スゴイなあ。
圧倒されちゃうよ…

ってゆうか、僕達のバンドがダメだった訳だ。
ロックンロールのつもりで書いたのに情緒的だとさ。演歌だってさ。
このメロディにシェケナベイベーって…そりゃ合わんわな。

僕は時々つっかえながらメロディを紡いでいった。

何かどんどん知らない世界へと足を踏み入れっているような違和感を感じる。
まるで何か見えない力で流されているような…

18 麻里子と智美 2

中華街の一角、うらびれた雑居ビルの一室にその治療院はあった。
手書きで書かれた「RL治療院」の文字。中に入ると、薄暗い照明の中静かな音楽が流れていた。多分、一人じゃ絶対来ないな…智美はそう思った。

麻里子が手慣れた様子で受付で書類を書いている。
「ここ、保険きかないけど。いいよね?」
「あ、はい、大丈夫。」
「心配しないで。私も一緒だからね。」麻里子の笑顔は今日も輝いている。
ちょっと怪しい雰囲気を感じたけど、構わない。あんな笑顔が私も出来るようになるなら、催眠術でも何でもいい。
智美は案内された部屋で、一人掛けの豪華なリクライニングソファに身を委ねて目を閉じた。

「あなたは何に怯えているんですか…?大丈夫。何も答えなくていいですよ。
私が心の声に耳を傾けますから。大丈夫です…」
柔らかな男の声が聞こえてくる。

「そうですか。大丈夫です。ファンの方はみんなあなたの事が大好きですよ。
そして、あなたもファンの事が大好きです。
そう…どんな辛い事を言われても、酷い事を言われても、それはあなたを愛してるから…」

なんで?なんでこの人は、私が考えてる事がわかるの?
麻里子さまが言ってた通り、ひょっとして神様なの?

口元には高濃度の酸素が送られてるらしい。リラックス効果があるって聞いた。
確かに身体がすごく楽になってくる。なんか宙に浮かんでるような感覚だ。
段々、身体にも力がみなぎってくるように思えてきた。
頭の中がクリアになっていく。このまま走りだしたくなるくらいだ。

「さぁ、目を開けていいですよ。」
目の前に白装束の男の姿があった。
「はじめまして、遠藤憲一といいます。この治療院の院長をやっております。」

隣で麻里子が微笑んでいる。
ありがとう麻里子さま。
これで、私ももう一度笑えそう。

17


さっしーじゃないけど、わさみんは本当にいい子だった。
みんなの前では、ふわっとした感じで決して表にしゃしゃり出る事がない。
控えめって性格は決してアイドルって仕事にはいい事ではないと思うけど、
それでも周りはわさみんの事を大事に育てようってしてるように感じた。

そして、わさみんは本当に努力していた。
公演があっても、ラジオの仕事があっても、毎日のボイトレとジム通いを欠かさないし、色んな歌手のステージを見に行っている。僕から見たら、キラキラしててアイドルそのものなんだけど、どうも本人は自分に自信が持てないらしい。というより、歌手になるという夢に向かって、どう頑張ればいいのかを模索してるようにも思えた。演歌歌手という道を歩き始めたのも、はじまりこそ周りの大人達の思惑や打算からの事だったのかもしれないけど、今はその道に乗っかるのが正しいんだと信じて頑張ってるみたいだ。

ある時、僕はわさみんに
「わさみんって、本当にイイ子だよね。ご両親にとっても大事に育てられたって感じがする。」
ってメールした事があった。
いつもは仕事の時以外、すぐに返信があるんだけど、その時は丸一日たっても返信がなかった。
僕はちょっと気になって、仕事で会った時聞いてみた。
ひょっとして、親から芸能活動の事とか反対されてるとか…かなって思って。

「私…両親いないんです。」

わさみんから返ってきた答えを聞いて、僕は心底後悔した。僕も両親がいない。
今では僕は何となく納得しちゃってるけど、まだわさみんは高校生だ。
色んな思いがあるんだろう。

「ごめんね。なんか僕、無神経だった。僕も親いないから…
親の事言われて傷つく気持ち、分かってるはずなのに…ホントごめん。」

「ううん。いいんです。だって、分かるわけないですからね。大丈夫。」

「でも…」

「あ。そこまで言うなら、お詫び…してくれますか?」

「お詫び?もちろん。僕で出来る事なら何でも言って。」

「やったぁ。じゃ…ね。うんと…今度どこか連れて行ってください!」
「え?どこかって…」
「デートしてくださいって事です!」
「デート?それはちょっと…」

戸賀崎さんの顔が頭に浮かんだ。
いや、大丈夫ですよ。戸賀崎さん。そんな恩を仇で返すような事はしませんって。
でも…だから…ずるいよ、わさみんもさっしーも。
そんな目で見つめられたらダメって言えなくなっちゃうじゃん…

「大丈夫、バレないようにするから…。それとも、私じゃ…ダメですか?」
わさみんが上目使いで僕を見ている。

お~い。これは僕の意思が弱いからじゃないからね。
むしろ、この誘いをOKしないなら、馬の脚に蹴られて死んだ方がマシだって。

「わかった。じゃ、どこ行きたい?」
「ん~とね…海!」
「海ね。よし、わかった。じゃ、今度休みが合う時に海に行こう。」
「やった~。約束ですよ。」
「うん、約束だ。」


もちろん、この約束が果たされる事はなかったんだ…

16 莉乃と僕 2


「あの…指原さん?まだ僕、仕事残ってて…」
「ごめんなさい。ちょっとだけお話出来ませんか?」

いや、こんな美少女…さっしーにお話し出来ません?なんて聞かれて断れる男がいるなら、
今すぐ僕の前に連れて来てほしい。有無を言わずぶん殴ってやるから。

「は…はい。でも、こんなトコ戸賀崎さんとかに見られたら…あとでしゃーしく言われませんか?」
僕はそう言って口を手でふさいだ。緊張して思わず方言が出てしまった。

「しゃーしぃ?今、しゃーしぃって言いました?」
突然、さっしーが目を丸くした。

「あなたって、大分の人?」
「あ、ええ。高校まで大分に…別府ってとこですけど。」
「ホントに?私も大分なの。大分市内。びっくりした。しゃーしーとか久しぶりに聞いた。なんかびっくり。」
「僕もびっくりしました。指原さん…」
「あ、指原さんって呼び方やめません?さっしーとか莉乃ちゃんとか。」
「いいのかなぁ?メンバーさんに向かって…」
「でも、わさみんの事はわさみんって呼んでるんでしょ?」
「え…?なんでそれを…」

さっしー…ダメだって。そんなじっと顔を覗きこまれたら、顔をそらせなくなっちゃう。
さっしー推しの人…こんな表情されたら、そりゃ夢中になっちゃうよなぁ…

「じゃ…さっしー。何か僕に話しでも?」
「あ、あのね…私って変かな?」
「変って…どういう意味?」
「あのね。私前からネガティヴの権威って言われるくらい後ろ向きだったんですよ。
それがね、あるきっかけですごく何でも前向きに考えられるようになってきて。」

「へ~。いい事じゃない?僕も基本暗い性格なんで、そんな風に切り替えられるってスゴイなって思うよ。」

「でも…なんか、変な感覚がずっとあるんです。あのですね…全然疲れないんですよ。
どんなにハードスケジュールでも、睡眠時間が2時間とかでも全然。」

「う~ん。気力体力充実してるって事なんじゃないかな?」

「そうなんですかね。確かに麻里子さまとかも、いつ寝てるんだろうって思うくらいでも、
いつも元気で笑顔ですからね。私もそういうレベルに近づけてきたって事なのかな?」

「ホントだ、すっごい前向きだね。」

「でしょ?」


「でも、なんで僕にそんな話を?」
「なんでだろ?わさみんから話聞いてて、すごく頼りがいのありそうな人だなっておもったからかなぁ…
ね。わさみん、いい子だからね。でも、バレないように気をつけてね。」

「だから、そんなんじゃないって…」

さっしーの笑顔は本当に素敵だ。一緒にいるだけで、こっちも笑顔になってくる。

でも…なんでだろう…
心のどっかに引っかかるものが残ったのは。


15 莉乃と僕


メンバーにとって劇場って場所は特別なんだ。神聖って言ったほうがいいかもしれない。
8階でエレベーターを降りて控室で準備を整えてるうちに、彼女達の表情がどんどん変わっていく。普段はその辺にいる今時のコと同じなのに、ステージに立つ前の彼女たちの顔はまぎれもなくプロそのものだ。生憎僕は劇場の中ではステージに背を向けている事が殆どなので、彼女達のパフォーマンスを見る事が出来ないんだけど、お客さんの様子を見ていたらわかる。彼女達がどれだけ多くの人に元気や希望や情熱や…色んなものを与えてるんだって。

ステージが終わっても、居残ってレッスンに励む子が多い。メンバー同士から厳しい意見が飛び交う事も日常茶飯事だ。

みんながいなくなるのは毎日決まって深夜だ。今日はA公演だった。
といっても、正規メンバーは半分くらいだったけど。わさみんも今日はワロタ7の仕事で来てなかったし。
僕はバケツとモップやら雑巾やらを持ってステージの上に上がった。その前にステージに向かって一礼する。メンバーみんながやってるんで、いつの間にか習慣になっちゃった。なんか、畳に上がる前の一礼みたいだ。僕は思った。彼女達が敬意を払う場所なら、僕にとっても同じだ。ここに上がる時にはいい加減な仕事なんて出来ない。たとえ掃除でもね。

公演の終わったステージを掃除するのが、僕は好きだ。
まだ、会場内に彼女達の…そして観客の熱気が残っているような気がする。床を磨き鏡を拭き…そんな風にしてるとそこに残ったパワーを拾い集めてるような気がして元気になってくるからだ。床の木目の一つ一つを磨きこむように集中して拭いていると、ふと一瞬人の気配を感じた。

びっくりして観客席の方を見ると、一人の女性が3列目の席にちょこんと座っていた。
ぼーっと放心したようにステージの方を見ている。
「あの…?」
僕の声に女性ははっと我に返ったようになる。指原さん…さっしーじゃないか?

「あ、ごめんなさい。びっくりさせるつもりはなかったんだけど…」
「私こそごめんなさい。指原、お仕事の邪魔しちゃってますね。ごめんなさい。」
さっしーが慌ててステージの側にやってきた。直接会うのは初めてだ。
最近すごくテレビとかに出てるので、初めてって気は全然しないけど。

「あ…あなたでしょ?うんうん。わさみんのヒーローさん。間違いない。
わさみんが言ってたイメージそのまんまだもん。ホント、カッコいい。」

「え…?何言ってるんすか?そんな、指原さん、からかわないでくださいよ。」

だから、そんな訳ないって。カッコいいなんて。僕はさっしーの方を見た。

驚いた。いや、大袈裟じゃなく「ものすごく」驚いたんだ。
テレビとかのイメージではバラエティ担当の女の子。確か「ヘタレ」とか言われてたっけ。
でも、目の前にいるこの美少女は…
おっきな瞳に吸い込まれそうになる。ステージ終わってメイクも何も落としてるのに肌はキラキラ輝いてるし、
短いスカートからは綺麗な脚がすらっと伸びている。

いや…わさみん…ごめんね。
っていうか、僕は何を言ってるんだ。第一、僕はわさみんとは何の関係も…

そんな風にどぎまぎしてる僕の隣にさっしーがちょこんと座った。

14


「生写真の販売は午前10時からとなります。今から整理券をお配りしますが、列を離れる際には前後の方にお声をかけてからにしてください。また、並んでる時は地面に腰を下ろしたりされませんようご協力お願いします。」
早朝の秋葉原ドンキーホーテ前。まだ7時前だというのに、僕の手元にある整理券番号はもう200番台だ。

「実は君に相談があるんだが。」
入院中、何度か見舞に来てくれた戸賀崎さんが、ある日僕に突然言った。
律義な人だ。一度来れば義理は果たせそうなものだが、一日置きくらいに顔を見せてくれる。
毎回ケーキやらお菓子やらアイスやら持ってきてくれるんだけど、殆ど自分で食べてしまう。
戸賀崎さん、それじゃ痩せないですよ。

「相談って何ですか?」
「ウチの仕事をやってみないか?」
「うちって?AKBの…ですか?」
「ああ。まあ、最初は瑣末な仕事をやってもらう事になるが。失礼だが、君、今は仕事は?
実は、君の派遣登録カードを勝手に見させてもらってね。」

「ああ、構いませんよ。日雇いみたいな契約でしたから、今は無職ですね。お恥ずかしいですけど。」
「勘違いしないでくれな。君へのお礼で…って訳ではないんだよ。
このところ話してて、どことなく同じくらいの世代にはない落ち着きっていうか、迫力を感じてな。
良かったら俺の下で…給料は安いし、最初は契約社員扱いだが…。どうだろう?」

悪い話ではない…というか、あり得ないくらいありがたい話だ。
でも、マズイんじゃないかろうか?前科者が働いてるなんてばれたら…
何しろ華やかな世界だから。

「あの…実は僕、前に…」
「まあ、身体が治ったら、とにかく一度事務所に案内するよ。まずは養生だ。」
戸賀崎さんはそう言って笑った。
この人…実は昔やんちゃしてたな。相当。何となくわかる。
だから、気に入ってくれたのかな?

「一つだけ言っとくが…」
「はい?」
急に戸賀崎さんが真面目な顔になった。
「ウチは恋愛禁止だからな。間違ってもメンバーに手は…」
「は…はぁ?そんな。アイドルが僕の事なんて相手にする訳ないじゃないですか。」
僕は呆れて言った。
「そうかな?君は、すっかり有名人だからな。ウチのメンバーには」
「そんなこと…」
僕は見舞に来てくれたわさみんとメールアドレスの交換をした事がばれたんじゃないかって一瞬どきっとした。

って事で、僕は秋葉原で働き始めた。

劇場公演や月別写真販売の際の整理や警備、劇場内の掃除、機材のチェック、荷物運び…結構これでハードなんだ。メンバーと顔を合わせる機会はまだ殆どないけど、そんな事を目的にしてるわけじゃないから全然構わない。
それに、わさみんとは毎日メールのやりとりをしてるし。

あ、って言っても仕事の話とかばっかだからね。
僕は今年26になる。彼女からしたら、きっと年の離れたお兄さん感覚なんだと思うし。

13 麻里子と智美


「ちゅう…」
「ねぇ、とも~み…握手会って、そんなに苦手なの?」
麻里子が智美の椅子の前に座って話かける。
何とか中止にせずに済んだが、今日も何度も握手を中断してしまった。
そのたびに列が長く伸び、途中で列を離れるファンの姿も少なくなかった。

「苦手ってわけじゃ…ないんですけど…ううん。やっぱりどこかで怖いって思ってるのかも。
麻里子さん…麻里子さんはどうしてそんなに明るくいられるんですか?」

「私?だって、握手会楽しいよ?変な事言う人もいない訳じゃないけど、
逆にそういう人もいるんだなって思うと面白いじゃない?」

「体調がずっと良くないのもダメなんですよね。なんか悪いほうばっかに考えちゃう…
麻里子さんはスゴイですよね。だって、先週も海外行ってたんでしょ?
ヨーロッパから帰ってきて即握手会なんて…時差ぼけとかもあるでしょ?
どこからそんなパワーが出るのかなぁ?やっぱり日ごろの心掛けと身体の鍛え方が違うのかな…。」

智美はなかなか症状が改善しない持病に悩まされていた。

「鍛えるっていうか…そうだ。今度いいトコに連れて行ってあげる。」
「いいトコ…って?」
「今はナイショ。きっと、とも~みも元気になれると思うよ!]

なんか不思議だ。
麻里子さんがそんな風に言うと、本当に何かいい事があるように思えてくる。
今は何か、頼れるものが欲しい。
信じられる何かが…
そうすれば、また昔のように私も笑えるんだろうか?

12


「本当に感謝します。あなたのおかげで岩佐は…いや、AKB48は守られたんです。
あなたの勇気ある行動に心からお礼を言わせてください。」
大柄な男がベッドの脇で頭を下げる。

「あの…あの男は…?」
「今、警察で取り調べを受けています。どうやら薬物を使っているようだ…と。」
「そうですか。あのお願いがあるんですが…」
「なんでしょうか?」
「出来れば、事を大きくしないで欲しいんです。これから握手会とかが出来なくなってしまうのは
ファンとして悲しいですし。僕は彼を訴えるつもりなんてありませんから。
まあ、でも現行犯逮捕でしょうから罪を問わない訳にはいかないでしょうけど…」

「幸い、周囲に騒ぎが知られる事はありませんでした。会場の外まであなたが連れ出してくれたおかげです。
あなたがそうおっしゃって下さるなら、私どもとしても事件を公にする事は避けたい…そう思っています。」

「ただし…メンバーの安全対策や、警備の強化…その辺りはしっかりお願いしますね。」
「わかっております。私が責任を持って対処します。」
「お願いしますね。…えっと…?」
「おっと、失礼。ご挨拶が遅れました。劇場支配人をやっております、戸賀崎と申します。
岩佐、お前からもお礼を言いなさい。」

「あの…本当にありがとうございました。目が覚めて良かった…もう3日間も。
ホントに良かったです。こうしてお礼が言えて。」

「あの…ひょっとして、何回も来てくれたとか…?」
「…はい…毎日。時間が空いた時はずっと来てました…」
わさみんが下を向いて顔を赤くした。

「はははははは。おい、岩佐、分かってるな?ウチは恋愛禁止だぞ?」
「え…そんなんじゃありません…」

やっぱりこれは夢だ。
夢に違いない。僕にこんな幸せな時間なんて許される訳がない。

11


「はじめまして!」
「あ~わさみん、やっと会えたね~。はじめまして。」
「ホントですね。会いたかったです~。」
「うん、僕も。いつも応援してるよ。歌上手いね。」
「わー嬉しいな。歌の事褒めてもらえるのって、一番嬉しい。
「だって、本当に上手だと思うからさ。」

なんかすっごいいい気分だ。ここは天国なのか?
そんな訳ないよな。あんだけ悪事をはたらいた僕が天国なんかに行ける訳がない。
じゃ、夢だ。目の前にわさみんの顔がある。
しかし、僕も案外メルヘンチックだったんだな。アイドルの顔なんて思い浮かべるなんて。
それに、これじゃ妄想ヲタじゃん、参ったな。
ん?でも、なんだ?夢にしちゃ、腹が痛いぞ。…あいたたた…

「気がつきました…?良かったぁ。」
「え?」
夢じゃなかった。目の前にわさみんの顔がある。
僕は慌てて飛び起きようとした。でも、身体が言う事をきかない。
「ダメですよ。大けがしてるんですから。」
わさみんが僕の手を握っていた。

なんだ?握手会ってこんなオプションまであるのか?
目を丸くした僕を見てわさみんが優しく笑いかけてくれてる。

夢でも何でもいい。
ドッキリ?それでもいいや。頼む、時間よ止まってくれ。

「先生呼んできますね。」
いや、わさみん…医者はいいから…
もちろん、そんな事は言えなかった。

10



「なあ、落ち着けって。って、落ち着いてるよな。うん。こんなヤバい事やめたほうがいいって。
お前もわさみん好きなんだろ?ダメだよ。あんなトコで騒ぎ起こしたら、握手会も中止とかになっちゃうしさ。
な?分かるよな?」
会場の外の植え込みの陰で僕は言った。何とかこいつを思いとどまらせないと。

「とりあえず、どうしてそんなことしようとしたのか聞かせてくれよ?」
暫く話しかけてると、いきなりそいつが捲し立て始めた。
「き…君に何がわかるっていうんだい?僕はね…僕はね。こんな歪んだ虚像の世界から
彼女たちを救いだしたいんだ。ほら、こうしてる間も悪の手先が彼女たちに…」
おいおい、コイツ目がどっか行っちゃってるよ。まさか…

さくっ

そう思った時、いきなりポケットからそいつの手が抜け出たと思ったら、
お腹の辺りに焼けつくような痛みが走った。ナイフが僕のお腹に刺さっている。

「きぃひひひひひ…」
奇妙な笑い声を発して、ナイフを引き抜いたそいつが身体ごと僕にぶつかってくる。
僕は何とかそれをかわしてそいつの腕をつかみ、足を払って身体を地面にたたきつけた。
そのままそいつの腕を十字拉ぎの形で極める。柔道技だ。

「どうしました?」
係員が駆けつけてくる。僕の血で真っ赤に染まった地面を見て思わず息をのんでいる。
「大丈夫です。…けど、このイベントの一番偉い人を呼んで来てもらえるかな?」
僕は無理してにっこり笑って言った。
「わ…わかりました!」係員が慌てて走っていった。
「なるべく…急いでくれると嬉しいけど…」
段々意識が遠くなっていく。

あれ…
なんか騒がしいな…
「おい、大丈夫か?おい!おい!しっかりするんだ!」
「救急車だ!救急車を呼んでくれ!」
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