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復帰します

新作「襷の色は違っても」をスタートします。
前作が途中になってしまっているのですが、今の私にはあの続きを書くのはちょっと重くて…

なので、勢いで書けそうなスポーツものにしようと思いまして。


このお話、もちろん「色の違う襷」の続編となります。


そろそろ始まる駅伝シーズンに向けて盛り上がっていけばいいなと思っています。
体調と相談しながらの更新になりますが、よろしければお付き合いの程、よろしくお願いいたします。


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1.

12月としては暖かい日だった。いや、暑いといってもいいかもしれない。
もともと汗っかきだ。特に本番のレースになると、特に体調が悪くなくてもオーバーペースになったりしなくても、大して暑くなくても序盤から大粒の汗をかく。問題ない。その分の給水には気を配ってる。脱水なんて起こしたことなんて今まで一度もない。

5キロから7キロ過ぎまでの登り…といっても、そんなに苦しいとは思えない程だ。来年、箱根に出る…出来れば2区か5区を走りたいと思っている。権太坂や箱根山中の山登りを思えば、こんなものは登りのうちに入らない。

3年連続の都大路。1年から「花の1区」を任されていきなり区間賞。昨年は二度と破られないだろうと言われた、日本陸上界のエース、前田敦子が高校3年の時に打ち立てた記録を40秒も打ち破ってみせた。今や、高校陸上界のエース、小嶋真子の足取りは軽かった。
1区に次ぐ難関と言われる3区に西野未姫、4区に主将・岡田奈々を配し、内山奈月、橋本耀、前田美月といった高校中長距離界を引っ張る存在の3年生をラインナップに並べた四ツ谷大付属高校は、圧倒的な優勝候補の筆頭に挙げられていた。


残り2キロちょっと。花の1区、10キロもあとは緩やかな坂を下っていくだけだ。小嶋は手元の腕時計をチェックした。うん。設定どおり。去年の区間新を更に15秒…これで、堂々と箱根に向けて鳴り物入りで四ツ谷大に進める…


そのとき、突然沿道からの声援が悲鳴のようなトーンに変化した。
颯爽と通り過ぎる自分を、感嘆の声で見送っていた観客が心配そうにこっちを見ている。

こっちを見ている?

私…止まってる?

なんで?

気持ちは前を向いていた。
心は折れていない。
体力もまだ余裕がある。心肺機能も失われていない。

なのに、なぜ。
ここから景色が動かないの?


ちょっと待って。
なんで、そんな簡単に私を追い抜いていくの?

愛知豊山高校の古畑奈和…
難波桐蔭の藪下柊…
博多大大濠の朝永美桜…

ライバル…なんて私は思っていなかった。
今まで彼女達の背中を見て走った事なんてない。

小嶋は空を見上げた。
冬の澄み切った空が広がっている。

行かなくちゃ…
なっきーが待ってる。

再び前を向いた小嶋の視界に茅野監督の大きな身体が飛び込んできた。

「真子…もういい。もういいから。」

いいって、何を言ってるんですか?監督。
行かなきゃ。
ねえ、なっきー?未姫?奈々?
待ってって。ちゃんとそこにいてって。
私が、この襷を渡さなきゃ…

小嶋が肩にかけているはずの襷を触ろうとした。
しかし、その手は空を掴むだけだ。

なんで、持ってくの?
それは…
それは…

私達の…
何よりも大切なものなのに。


2.

「…こ?真子ってば。」
「ん…あ…ああ。すみません。起こしちゃいましたか?」
「いや、もう起きる時間だしね。しかし、大丈夫か?なんか、すっげーうなされてたよ?」
「大丈夫です。ちょっと変な夢見てて。」
「そっか。まあ、私もよく眠れなかったんだけどね。」
田野優花が舌をぺろっと出して笑った。
時計の針は4時を指そうとしていた。

まただ…
大事なレースの前になると決まってこの夢を見る。

もう身体はどこも痛くない。
トラックでの記録は大学生になって飛躍的に伸びた。
私は大丈夫。
もう大丈夫なはずだ。

小嶋は自分の頬を張りつけるようにして顔を洗った。
鏡に映った自分の顔を見つめる。
まるで、そこにいる別の自分に話しかけようとするかのように。

レース前も走ってるときも、楽しくて仕方なかった。
どんなにキツい場面でも、どんなに厳しい争いをしてる時でも。
走ってるのが楽しかった。
気がつけば、いつも笑っていた。

真子スマイル。

そんな風に呼ばれていたのは、いつまでだっけ?

今の私は、笑い方すら忘れてしまっている。



宿舎となっている立川市内のビジネスホテルの一室。
小嶋は試合用のウエアの上にアップコートを着込んだ。

白のシングレットにグリーンのランパン。
今日はつけないが、肩からかかるのはフラッシュグリーンの伝統の襷。
着るはずだった白地のシャツに黄色の襷ではない。
同級生…先輩達…そして、後輩の多くが身を包むユニフォームではない。

秋英大学と並んで大学駅伝界の雄、慶育大学はここ数年、本戦でのシードを確保できず予選会に回るほどの凋落を味わっていた。
それでも、伝統の襷を途絶えさせる訳にはいかない。
私が慶育に進むことを選んだのも…いや、自分に選択の余地なんてなかった。進むことになったのも、きっと何か意味があるんだ。


大きく背中をストレッチしてみる。
うん。大丈夫。

目を閉じてみる。
大丈夫。さっきの夢にはもう慣れた。

あの日から2年になろうとしている。
まだ箱根は走れていない。
昨年は、初めての予選会もフィニッシュエリアにたどり着く事が出来なかった。

今年こそ…
箱根を走る事でしか、あの日、京都の冬の風の中に置きっ放しにしたままの忘れ物を見つける事なんて出来ない気がする。



3.

大学女子駅伝は長く続いた秋英・慶育の2強体制から群雄割拠の時代へと推移していた。
そんな中、毎年コンスタントに力を発揮しているのが、栄京大だ。かつての栄女子大を運営母体として、近隣の金町総合大や伊勢大を吸収合併。勢力を増し常に箱根路をリードしていた。

慶育は予選会常連となる程までに力を落としていたし、秋英大、聖ヴィーナス大もかつて程の安定感を無くしていた。一方で関東で台頭していたのは、四ツ谷大と乃木坂女子大だった。
かつて新興として勢力を急拡大した四ツ谷大は、その後第一期黄金期を作ったメンバーの卒業を期に、世代交代を敢行。付属校からの豊富な有力選手の供給を受け、栄京大と並び称される程の力をつけてきていた。

乃木坂大の登場はまさに「衝撃」だった。
創部2年目の昨年、初めて参加した予選会をトップで通過。本戦でも1区の生田、2区白石が連続で区間賞を獲得。往路3位の勢いをそのまま復路へ持ち込み、10区の主将・桜井が総合4位でゴールテープを切った。更に戦力充実とされた今年は、本命2強に次ぐダークホースとして位置づけられるほどだ。


箱根の予選会は11月に行われる。
正月の男子、2月の女子。箱根への切符は20枚。
うち10枚の切符が、立川での20キロ個人タイムレースの結果、上位校のみに与えられる。



個人のタイムレースとはいえ、箱根の予選会にも高度な戦略が繰り広げられる。予選会に出場できるのは各校20名まで。そのうち上位10名のタイムが採用され、累計タイムが速い順にランクが決まる。一人だけが突出したタイムで走っても駄目だ。一方で、各校の「エース」は1秒でもタイムを削るべく前を狙う。ライバル校のエースよりも1秒でも速ければ、それはそのままチームの貯金に繋がる。
一方で同じくらい大切な戦略は「ブレーキ」を起こさない事だ。競技人口が増えたといえども、予選会に参加するクラスの学校では20名全員を「戦える」戦力としてラインアップする事はなかなか出来ない。
そうなると、走力を持つ選手一人がトラブルで大きくタイムを落としてしまう事がチーム全体に深刻な影響を与える事に繋がってしまう。

今年の予選会、慶育大にとって通過すること自体に大きな問題はなかった。大方の予想としては、乃木坂大とともに昨年初の箱根を経験、惜しくも11位に終わり予選会に回った博多大とのトップ通過争いとするものだった。

4.

「どう?今のトコの順位は?」
隣にいる監督の横山由依が心配そうにノートPCの画面を覗き込んでくる。
あの時は、私が隣にいた仲俣に同じ事を聞いたんだっけ…
島田晴香が手元のマウスをクリックする。細かい数字が並んだ画面が更新された。
「10キロ通過ではダントツだね。2位の博多とは2分以上の差がある。」
「ほうか…とりあえず安心やな…」
横山が小さな安堵のため息をつく。

四ツ谷大を卒業した島田は、選手としての陸上生活に別れを告げ指導者の道を選んだ。山登りのスペシャリストとして4年生の時には5区区間賞を獲得したが、元々長距離向けの体型ではなかった事や、それゆえに抱えることが多かった膝の故障との折り合いをつける格好でのリタイヤメントだった。
熱血で姉御肌。それでいて論理的な指導が出来る…そうにらんだ横山が、直々にスカウトしたのだ。今の慶育を建て直すには、伝統にばかり寄り添っていては駄目だ。島田のように多少やんちゃで強引なほうがいい。


「今年の博多は強いって聞いてるよ。それに、ウチよりも層が厚い。肝心なのは10人がきちんとフィニッシュする事なんだから。」
「アンタに言われんでも、わかっとるわ。」
横山がちょっと膨れたような顔で言った。
わかってないよ…由依。アンタは確かに選手としても指導者としては一流だった。ワタシみたいな坂しか走れないようなポンコツじゃないしね。
でもね…やっぱ、アンタはエリートなんだよ。箱根のスターで、自らの足で…自らの身をもってこの予選会を経験した事がない。残り1キロでトップから予選落ちまで一気に落ちちゃう事があるのが、この予選会なんだよ。


トップ集団は10名程になっていた。留学生が独走する事の多い男子と違い女子は毎年中盤まで団子状態になる事が常だ。そういう意味では、今年は集団の人数が少ない。それも、慶育・博多の良好のレベルの高さ故だろう。
その集団を常に引っ張っているのが、博多大の宮脇咲良と兒玉遥だ。交代で先頭を変わるでもなく、まるで競い合うように前を走っていた。朝永美桜、田島芽瑠もすぐその後ろに位置している。

「ね…なんか、現役の時とイメージ変わったよね?」
島田がチラッと斜め前に視線を送りながら横山に呟く。
視線の先には、博多大のブースがある。
ブースといっても、それぞれの大学が持参したテントを張っているだけの簡易的なものだ。TV放送も入り大々的に取り扱われるようになった箱根の予選会だが、運営そのものは昔のまま朴訥としたままのものだ。
「指原さん…か。そうやな。なんか、おどおどしながら走っとったイメージしか浮かばへんな。」
「なんか、策士って雰囲気になったよね。博多大の監督になってからってもの評価うなぎのぼりだしね。」

指原も島田達と同じように、隣に座った多田愛佳とPCの画面を見ながら何かを打ち合わせている。秋英の同級生でマネージャーだった多田は、今では指原の右腕として高い評価を得ていた。


先頭集団の一番後ろで小嶋は迷っていた。
何を?
実は、何に迷っているのかすらわからなくなっていた。
悪い癖だ。
走ってるときに、いろいろと考えてしまうのは。
こんな風に走るようになったのはいつからだろう?

走るのが大好きだった頃は、どんな事を考えて走ってたのかなあ?
そもそも、何も考えてなかったのかもしれないけど…


残り5キロ。最後の給水ポイントだ。小嶋はしっかりとドリンクのボトルを取った。スポンジも二つ持てている。今日はコンディションに恵まれた。朝までの雨のおかげで湿度は高かったし、気温も高くない。日差しがない分消耗も最小限だろう。それでも、いつものように汗をしっかりかいている。水分補給は最後まで手抜かれない。

その時だった。給水を取らなかった博多大の面子が一気にペースを上げた。申し合わせていたわけではなさそうだ。田島が飛び出したのを追いかけ、潰しに行ったかのようなスパートだった。

「田野さん?追わないんですか?」
小嶋が前を走っていた田野に声をかける。田野からは返事が返ってこなかった。しばらく待っているうちにどんどん前を行く博多大の4人との差が広がっていく。
「先輩。田野さん、ちょっとキツいんじゃないですか?」
代わりに振り向いて返事を返してきたのは1年生の湯本亜美だ。
田野は確かに消耗していた。今年の慶育を引っ張っていたのは、田野だ。その田野の調子が上がらない。ここは自分が出るべきではないのか?

「行こう!あっち行けば、残り3キロのトコで選手に声かけられる。こんまんまじゃ博多に逆転されてまうわ!」
「由依、声かけるって?」
「当たり前やん。こんまんまや、トップ通過なんてできまへんわ。ラストはっぱかけたらんと。」
「アンタはここにいて。ワタシが行ってくるから。」
「え?」
「監督はどっしりと構えとくもんだよ。」

島田は駆け出した。もちろん、ラストで声をかける為だ。
まだ意外と走れるな…。体重も増えちゃったし、膝もちょっと痛いけど。よし、間に合った。
目の前を博多大の4人が通り過ぎていく。まるで個人タイムトライアルのラストスパートをするかのように必死の形相だ。
すぐ後ろから、小嶋と湯本、そして相笠萌、後藤萌咲、谷口めぐ、飯野雅。4人の慶育ランナーが続く。田野は更にその後方だ。

「真子!亜美!」
島田が選手と併走しながら声をかける。
「あがらなくていい。このまま。このままで。」
島田の声に、一瞬小嶋と湯本が怪訝そうな表情になる。誰がどう見たってここが勝負どころだ。ここで前に出なくては博多大には勝てない。
「いいから。田野ちゃんと一緒に…そのままゴールまで行って。いいから!」
そこまで話したところで島田は大きく遅れていった。

「ふぅ…ふぅ…ふぅ…たった100メートルもついていけないのか…参ったな。さすがに明日からダイエット再開だな。」
島田は通り過ぎる後続のランナー達を見やって笑った。

ちょっと前まで、本当にワタシはあんなスピードで走っていたんだっけ?


5.

「第5位。慶育大学。」
上位で予選会を突破したとはいえ、慶育への拍手はまばらだった。
トップ通過が発表された博多大への大歓声とは対照的なものだ。
残り3キロ、島田の指示でペースを落とした慶育の選手は結局そのまま失速。後続の第2集団に飲み込まれる形でフィニッシュした。

博多大はトップでフィニッシュした朝長を始め、田島、宮脇、兒玉に続き、森保まどか、松岡菜摘までの上位6人を独占したのに対し、慶育は結局、特待生として入学していた1年生の後藤が25位に入ったのが最高で、田野も相笠も100位以内に入るのがやっとだった。小嶋に至っては大きく集団から遅れ歩くようになりながらフィニッシュにたどり着いた。
順位は、慶育の中でも下位に沈むものであった。


「5位か…」
「仕方ないよ。あそこで押さえなきゃみんな潰れてた。」
「わかってる。」
横山の口調から怒りのようなものを感じた。島田は、あえてそれに突っかかるような話し方をした。
「下手したら、予選落ちまであったんだよ?」
「だから、わかってるって。」
「だったら、何で怒ってるんだよ?」
「あん時に気づかなかったウチ自身に怒ってるんや。」
横山は唇をかみ締めた。それを見て、島田はもうそれ以上言うのをやめた。横山だって指導者としてはまだ新参なんだ。ワタシだってそうだ。結果は仕方ない。予選を通過した事を今は素直に喜ぼう。

「お疲れ様、はるぅ。由依。」
「あ、一位通過おめでとうございます。指原さん。」
昭和記念公園の広大な広場、テントの撤収を手伝っていた二人に指原が声をかけてきた。
「やめてよ。もう、さんづけって。同い年でしょ?私達って。」
「でもなあ。なんか照れますわ。」
かつて、箱根を沸かせた名ランナー同士。特に、3年の時に見せた大島優子・指原莉乃・島田晴香の3人によるデットヒートは後世に語り継がれる名勝負だった。
「由依は、そういうとこ固いんだよね。ったく。おひさしぶり、さっしー。向こうに行ってからなかなか会えないよね。」
「そうだよね。ね、どう?今日、この後。」
指原がグラスを掲げる仕草をした。
「いいねえ…って言いたいトコだけど、戻って反省会やらなきゃ。」
「そっか。残念。」
指原は笑った。もともと、誘いに乗ってくるとは思っていない。自分達だって、これからミーティングだ。今日を祝ってちゃ話にならない。本番はまだ先なんだから。

「あ、はるぅ…」
「ん?」
横山がその場から離れたのを見計らったように指原が島田に声をかけてきた。
「アンタのトコの小嶋真子…あのコ、四ツ谷大の付属でしょ?高校時代は相当走れたみたいだけど。」
「うん。そうだよ。ちょっと長いスランプ中…かな?」
「なんで、アンタんトコいるの?普通に考えれば、四ツ谷大行きでしょ?」
「ま、いろいろあってね。」
島田は言葉を濁した。特に隠すほどの事情があったわけではない。確かに四ツ谷大はエスカレータで上に進むコがほとんどとはいえ、中には他大学に進む者もいない訳ではない。小嶋がなぜそうなったのかは、島田自身もよく知らなかった。

「あのコ…似てると思うんだよね~」
「似てる?誰に?」
島田は首をひねる仕草をした。

「おーい。奈子!美久!そこで遊んでるんじゃねーよ!」
突然、指原が大声で叫んだ。
「はーい!すいませーん!」
「ったく…終わった後、遊んでる元気あるんだったら、レースで出し切れって言うんだよ…」
「あの二人か。矢吹・田中…脅威の1年生コンビね。あと…秋吉ちゃんだっけ?あの子も今日第2集団で見たよ?」
「扱いが難しいよね。いまどきのコって。」
指原の言葉に島田が思わず、くすっと笑い声を立てた。
「やだ。さっしーだってまだいまどきのコじゃん。私達幾つだと思ってるのよ?」
「はははは。いやいや、年取るの早いもんだよ。じゃ…」

指原は手を上げて、島田と軽いハイタッチを交わした。
今でもあの5区で聞いた息遣いが伝わってくるようだ。

「あ…誰に似てるかって言うとね…」
一旦背を向けた指原が、思い出したように振り向いた。
「この国で今、一番速い人だよ。」

一番速い人?
速い…?

え?
さっしー、そういやチームメイトだったよな…

でも…

いったい、どこが似てるっていうんだろう?

国内トップランナーとして、先日の世界陸上で金メダルを取ったあの人に?

島田は、箱根路を颯爽と走る彼女の姿を思い出していた。
濃紺のシングレットにピンクの襷。

前田敦子の姿を。



6.

愛知県名古屋市瑞穂区 栄京女子大グラウンド


「で?どうしたいんだよ?休みたいのか?走りたいのか?どっちなんだよ?子供じゃないんだから、はっきりと自分の意思を伝えてくれないと。」
アンツーカーの400mトラック。収容人員1万人以上の観客席。フィールドには綺麗に整備された芝生が生えている。その芝生が、煌々と照明に照らされて輝いている。その中を、多くのアスリートが黙々とトレーニングに励んでいた。

そんな光景を見下ろす形で配置された部屋。「監督室」のプレートが掲げられている。中には立派な応接と専用のデスクが備え付けられていた。

梅本まどかは、応接に腕組をしてどっかと腰を下ろしている初老の男に見上げられていた。視線を合わせないようにあちらこちらへ泳がせる。

「だいたい、お前、このチームのキャプテンじゃねーのか?ダブってまでウチで走りたくて入ってきたんだろ?あっちが痛ぇのこっちが痛ぇの言える身分なのかよ?」
男の声がどんどん大きく、どんどん苛立ちを増してゆく。

「あの…監督。ですから、こういう時にチーム全体を考えて、どう判断すればいいのかのアドバイスを…」
「アドバイス?またかよ。そうやってすぐに何でも俺に押し付けやがる。ああ、めんどくせえ。おい、玲奈ないないのか?イチイチ小さな問題を俺のところに直接持ってくるなって散々言ってたろ?」

「ちっ…」
余りにも不条理な言い分だ。幾ら、お偉いさんが決めたって言っても、なんでこの人がウチの監督なの?第一この人長距離の選手としての実績も経験すらないって聞いた。そんなヤツに、何で中学から長距離走ってきた私がこんな事を言われなきゃいけないんだ。
梅本まどかは思わず舌打ちをした。

「おい、お前、今なんっつった?こら。舌打ちしたよなあ?お前もアレか?辞めてったヤツと同じか?文句あるなら辞めろよ。今すぐ辞めろ。代わりなんか幾らでもいるんだよ。」

「今村さん。その辺にしときませんか?」
梅本が拳を握り締めたとき、監督室に松井玲奈が入ってきた。
「今村さん、幾ら貴方が理事長の子飼いって言っても、サカジョの成績が落ちたら責任は取らなきゃいけないんですからね。選手に責任押し付けようって言っても、そんな事私がさせませんから。」
玲奈の声は静かで低いトーンだった。
普段は「鬼」と呼ばれる程の熱血指導、日ごろの叱咤激励のせいで声は枯れ、一部で「酒やけじゃね?」と噂されるほどハスキーになっていた。誰よりも熱く誰よりもチームを、そして選手を愛する存在。
ヘッドコーチの玲奈には「天皇」と影で呼ばれる、栄京女子大陸上部総監督の今村悦郎も普段の自らの権力を誇示するかのような口調も低くなりがちだ。


「まどか、いいよ。今は、怪我の治療を第一に考えて。」
「はい…ありがとうございます。」

梅本が玲奈に一礼して監督室を出ていった。
今村を睨みつけていたが、当の今村はその視線に気づかないようコーヒーサーバーにカップをセットしていた。

「監督…もう少し何とかなりませんか?そんな風に言ってたら、選手なんて付いてきませんって。」
「いいじゃないか、ヘッドコーチのお前は信頼感抜群なんだから。だいたい、年端もいかない小娘がイチイチだなあ…」
まどかじゃないけど、このままじゃいつか私がこの男をぶん殴るかもしれないな。まったく、大人の政治の世界ってのには全然興味ないけど、なぜこの人が監督って事で派遣されてきたんだろう?そりゃ、陸連の偉いポジションにいたのかもしれない。でも、それはあくまでも事務方であって、指導者として実績があった訳じゃない。ましてや、ここ5年で2度、箱根の総合女王に輝いているサカジョの総監督ともなれば、プレッシャーだってあるだろうに…

「とにかく、強化合宿に参加するメンバーは私に一任して頂けますね?もちろん、箱根女王奪回に向けた布陣を敷くためです。」
「奪回ね…今のメンバーでそれが可能なんかね?はあ…お前や珠理奈、須田辺りが現役の頃に監督に納まっておきたかったよ。」
「大丈夫ですよ。奈和だってはるたむだって絶好調ですし。確かに4年生はまどかだけですが、今年の戦力は十分四ツ谷大に対抗できるものですよ。」
「古畑、二村ねえ…なんか、こうぴっとしないよなあ。小粒っていうか、駒が足りないって言うか…」

誰のせいだと思ってるんだ?
芝、今村…上から押し付けられた指導者のせいで、どれだけの逸材が去っていったと思ってるんだ?

「コーヒー飲むか?」
「いえ。結構です。今日は失礼しますので。」

玲奈は笑顔で答え、部屋を後にした。
コーヒーカップなんか持てない。
こんな怒りで震えた手では。

7.

東京都 四ツ谷大学総合グラウンド


「…40秒~スタートライン戻って。ラスト1本…ほら、次は1年が引っ張るんだよ!ほらほら、チンタラやってないの。あと10秒…で、誰が引くの?」
ストップウォッチを見ながら峯岸みなみが声を張り上げる。20人程がトラックに引かれた白線に集団で並び始めた。

「私が行きます」
一番小柄な選手がまっすぐ右手を挙げて前に出た。
「よし。美音。1周目は任せたよ」
「はい。…あ、2周目も引きますよ。800位じゃへたれませんから」
「ハァ…ハァ…ハ…あ…のさ。インターバル…なんだから、2周目のペース落とされたら困るんですけど…コーチ、2周目は私に引かせてください」
前に出てスタートの構えをした向井地美音の隣に、やはり小柄な選手が進み出て言った。込山榛香だ。
長い髪を後ろ手で束ねなおす。
「ほー。大きく出たね、こみ。いいよ。でも、今自分で言った通り。2周目にペース落ちたら意味ないからね。…57、58…よーい、ピッ」

本番の箱根まで残り3ヶ月余り。夏の合宿で追い込んだ疲労を一旦抜いたあと、この時期は再び選手の基礎力を底上げする時だ。その分、トレーニングはハードなものになる。20キロを超える箱根の各区間とはいえ、近年は男子同様に女子もスピード化の傾向が強くなっている。800mを全力で走り60秒のインターバルを置いてそれを何度も繰り返すトレーニングは、もっともキツく、しかし最も鍛錬の度合いを高める事ができる。

「こみ?2周目引くなんて生意気言ったんだからさ、いいんだよ、もっと後ろ下がってても。」
「余計な心配いらないって、みーおん。それに…さ、喋ってる余裕あるならもっとペース上げて?インターバル…で…しょ?全力で行かなきゃ意味…な…いって。」
「っ…たく…可愛くないん…だから。可愛い顔…して」
向井地が一歩前に出た。集団のペースが一気に上がる。

千切ってやる。こみだけじゃない。先輩達も、全員。
この中じゃ、スピードだけなら私が一番のはず。ゆりあさんだって、玲奈さんだって、未姫さんだって…そう奈々さんだって…
そりゃ、総合力じゃまだまだ敵わないかもしれないけど…インターバルなら…インターバルで負けちゃ話にならない。
それに…私は、絶対に箱根に出るんだ。絶対に。


向井地が自負している通り、強豪揃いの四ツ谷大の中で、スピードと瞬発力は群を抜いたものがあった。1年生とはいえ、ハートの強さにも定評がある。400mトラックの半分を過ぎた辺りで縦長になった集団から向井地が一歩飛び出した。
すぐに、それに遅れないようにすっと込山が追いついた。同じ1年生。やはりスピードに自信を持っている。もともとは中距離を得意としているランナーだ。


負けない。負けたくない。
もちろん、美音は同じ選手として、同じ1年生として、そしてチームメイトとして一目置いて…いや、尊敬すらしている。
それに、普段の明るくて屈託のない笑顔が大好きだ。何でも相談できるし、一緒にいても全く気を使わずに済む。高校時代からずっと一緒だけど、親友とかそんな言葉じゃ済ませられない程の関係だと思ってる。
でも…だからこそ負けたくない。美音はジュニア時代から有名な選手だった。ジュニアオリンピックでは「世界」を経験しているし、アフリカ勢やアメリカ勢を向こうに回し金メダルを取ったときには、ちょっとしたセンセーショナルなニュースとして取り上げられた。それに対し、私は中学まで全く無名の存在だった。でも、四ツ谷大付属という恵まれた環境で、私はのし上がってきた…はずだ。今の、私が美音に負ける要素なんてない。私はそれだけの事をしてきたはずだ。


向井地美音と込山榛香。
二人の想いが激しく交錯する。
これは、練習なんかじゃない。
そうお互いが言っているように見えた。


8.

1周目を終えた。込山が向井地の背中を軽く叩く。
「お疲れ。お見事…って…言っとくよ。」
「サン…キュ…」
今度は込山が先頭を引き始めた。更にペースが上がる。

「ラスト!ほらぁ!アンタらも1年生に千切られてんじゃねーよ。ゆりあ!最後くらいエースらしい走り見せてみろよ!」

峯岸にハッパをかけられた木崎ゆりあが一瞬だけ苦笑いを浮かべると、一気に前へとあがっていく。すぐ横にいた、加藤玲奈や佐々木優佳里、大森美優もそれに続く。あっという間に込山のすぐ後ろについた。


必死の形相で込山がフィニッシュラインを超える。それに続き集団がひと塊になったまま飛び込んできた。1周目を引いた向井地も何とか集団の一番後ろで入ってきた。

「よーし…ラストもちゃんと追い込んだな。いい感じだよ。みーおん、こみ。お疲れ。」
峯岸のねぎらいにも、二人は反応するどころではなかった。フィールドの芝生の上でうっ伏せたまま顔を上げる事が出来ない。

「しっかりダウンしてな。ゆりあ、後は頼んだよ。」
「了解っす。あ、コーチ、この後のミーティングは?」
「今日は選手だけで頼むわ。明日以降のメニューは後で届けさせる。」

そう言って峰岸はグラウンドを後にした。
グラウンドの脇にある古びたベンチに腰掛けていた男の隣に腰掛ける。
「おう、お疲れさん。最後、いいカタチになってたな。」
「ええ。こみの美音に対するライバル心は相当なものですね。でも、そのギラギラ感がチームをいい方に引っ張ってる気がします。」
「そっか。まあ、あんまり無理はさせないようにな。」

峯岸は隣に座っている男の顔を横から見ながら、言葉を発せず頷くだけで答えを返した。男の目が優しくグランドの方に向いている。
娘を見守るちょっと過保護で優しいお父さん…
峰岸は、隣にいる四ツ谷大学駅伝部監督の湯浅洋をそう評していた。
悪い意味ではない。かといって、全面的に良い意味でもない。

四ツ谷大が最初頭角を現したのは、創部2年でチームを箱根の舞台に押し上げた初代監督・戸賀崎智信の功績によるものだった。学連選抜の監督も経験し、その後四ツ谷大を箱根のシード常連に、そして栄京女子大とともに両雄とまでの評価を得る事になったのも。

しかし、その戸賀崎が突然学校を去る事になり、その後を引き継いだ湯浅は全く正反対の指導法を四ツ谷大に持ち込んだ。強力なリーダーシップでチームを引っ張った戸賀崎とは違い、いつも柔らかい物腰で選手と接する姿に峯岸は時々頼りなさを感じながらも、その着実な指導で力をつけてきた1・2年生の成長には目を見張るものを同時に感じていた。

「そろそろ…エントリーを踏まえた戦略を考える時期ですね。」
そう、箱根は各区間に特色を持ったコースを戦うレースだ。特にエースが揃う2区、9区。スピード勝負の4区。山登りの5区。逆に急坂を駆け下りていく6区。それぞれの区間の適正に合わせた配置と、準備は非常に重要な戦略だ。
「今年のエントリーだけど…みなみ。お前が考えてみろよ。」
思わぬ言葉に思わず峯岸は湯浅の顔を見た。
「私が…ですか?」
「ああ。お前も指導者への道を進むって決めたからには、箱根の舞台をどう攻めるかくらいの事は考えてみる経験が必要だろう。」
「それはそうですけど…そんな責任重大な…」
「責任?そんなこたぁいいんだよ。俺の仕事は、そんくらいしかないからな。責任を取るくらいさせてくれよ。」

「わかりました。」
実は、プランはすでにある。今日、峯岸はその話を湯浅に持ちかけようとしていたのだ。
かつて、自分が在籍していた慶育大には、同世代に「絶対的エース」がいた。山で無類の強さを発揮する「山の女神」が。チームプランは、良くも悪くもエース次第だった。エースとともにチームがあり、チームはエースとともにあった。
しかし、今の四ツ谷大にはそんな絶対的エースはいない。もちろん、学生ランキングで上位に名を連ねる選手は豊富だ。しかし、チームは真の意味での強さを得るにはまだ至っていない。
ただ、他の学校に比べ絶対的に強さを引き出す要素を持っている事も事実だ。豊富な選手層が生む「競争意識」。誰よりもまずチームの仲間に負けない、負けたくない。そんな向上心に満ちたメンバーに恵まれた。


峯岸は思う。それこそが、我がチーム最大の魅力だと。



9.

東京都 乃木坂学園総合キャンパス


「なんか…すっげーアゥエイ感なんですけど…」
「そっか。さりは初めてなんだっけ?小石ちゃんも…さーなんもか。」
「ゆめち先輩は、去年も来てるんでしょ?」
「来てるけどさ…さすがにこの雰囲気には馴染めないわ…ねえ、さきぽん」
「ねえ…」

荘厳な門構えの校門を入ると、正面にこれも歴史を感じさせるチャペルが見える。レンガ造りの建物には蔦が絡まり、その重厚さを更に際立たせている。

ジャージ姿の一団の一番後ろで、惣田紗莉渚と小石公美子、髙寺沙菜がそのチャペルを見ながら歩いていた。大きなバッグを肩からかけている。
少し前を歩く2年生の野口由芽や竹内彩姫らの顔にも、どこか落ち着きのない表情が浮かんでいる。

「そもそも、なんで大学生なのにみんな制服姿なんですか?」
先頭の方を歩いていた松本滋子が隣にいた宮前杏実の方に首を傾けるようにして聞く。長身の宮前を仰ぎ見るような格好になっていた。

「なんか、礼拝とか式典とか…そんな行事のある日には制服着用で登校しなきゃいけないらしいよ。」
丁寧に手が入れられたガーデンの中を歩く乃木坂大の学生が、すれ違うたびに頭を下げて挨拶をしてくれる。栄京女子大の面々は揃いのジャージ姿だ。明らかにその場の空気から浮き上がった集団が、キャンパスの奥へとおどおどと進んで行った。

「ご…ごきげんよぉぉおお?ねえ、ごきげんようってどーいうこと?挨拶?ね、ね、何て返せばいいの?ちぃーっす…なんて言える雰囲気じゃないよぉおおお…」
「なるちゃん…そんなにうろたえないでよ。いいのよ。こんにちはって言っておけば。」
「いや…でも。ゆうちゃん、こんにちはとかすら、なんか照れちゃうよぉおおおお。ど…どーすれば…」
「なる。ゆう。アンタたちもう3年目でしょ?いい加減慣れたら?」
岩永亞美が江籠裕奈と市野成美に窘めるように言った。口調はきついが、顔は笑っている。まあ、二人がそう言うのもわからないでもない。確かに、ココは普段私達が通ってるトコとは大きな差がある。

確かに、乃木坂学園大は、下は幼稚園から上は大学院まで、一貫して敬虔なミッション系の学生を集めた所謂「お嬢様学校」だ。入学を許される学生に求められる偏差値はかなり高く、また幼稚園や中学での「お受験」ではかなりの人気を集める学校だ。
そんな校風に似つかわしくない、箱根の舞台に颯爽と現れたのが去年の事。箱根路を走りぬけた選手は、誰も皆、個性的でそして攻撃的だった。まさにサプライズ。乃木坂学園は一躍、学生駅伝界の台風の目として注目を浴びる事となった。



「あ、いらっしゃったみたいですね。うわー、相変わらず強そう…なんか、ああやってまとまって歩いてると、遠くからでもオーラみたいの感じますね。」
「そうね。今の3年生は随分鍛えられた子が多いからね。でも…最近ジェネレーションギャップかなあ。1年生なんて、なかなか何考えているかわからなくて。」
「玲奈先生、まだまだ若いじゃないですか?ちゃんと、若い子との話が出来るように色々とアンテナ張ってるし。それより、問題は私ですよ。年は近いのに全然プライベートな話題についていけない」
「まあ、それが麻衣ちゃんらしいとこだけどね。」

乃木坂学園の駅伝部が躍進したのは、栄京女子大のヘッドコーチを務める松井玲奈が指導者交流の一環による臨時講師として派遣されてからだ。もう3年になるこの制度で、玲奈は週に1~2日の頻度で選手の指導にあたっていた。どちらかというと、精神論に偏り勝ちな玲奈の指導を論理的な解釈でサポートしているのが学生マネージャーの深川麻衣。乃木坂の実質的な監督のような立場でもある。

その玲奈の臨時講師派遣を期に始まった、乃木坂学園と栄京女子大の交流合宿は当初、乃木坂の選手に全国トップクラスの姿を間近に見せる事で刺激を与えるのが目的であった。しかし、今年はもうそんな「懇親」的な空気はどこにも無かった。特に、迎え入れる乃木坂の方には。


2泊3日の合宿中の宿になる寄宿舎に荷物を置くと、すぐに栄京女子大のメンバーはグラウンドへと飛び出していった。
キャンパスはどうであれ、トラックに出ればどこだって関係ない。私達にとってはホームのようなものだ。さっきまでの、どこかヨソ行きのような表情は一変していた。

「集合!」
決して張り上げるような声ではないが、ぴりっと引き締まった声が響いた。トラックでフィールドで、思い思いに軽いアップを行っていたメンバー達がさっとメインスタンド側のトラックに集まった。立派なスタンドと照明まで備えた本格的な陸上競技場だ。

「ようこそ。乃木坂学園駅伝部主将、3年生の桜井です。」
引き締まった細身の身体。小柄だが、長いストライドで走るフォームはその身体を何倍も大きく見せる。昨年アンカーとして躍進のフィニッシュシーンが何度も何度もメディアに取り上げられた。今や乃木坂の顔の一人、桜井が笑顔で手を差し出してきた。

「お迎えありがとうございます。今年もお世話になります。栄京女子大陸上部、3年生の宮前です。すみません。主将の梅本が今回参加できませんので、私が代行としてご挨拶させていただきます。」
宮前が桜井の手をやはり笑顔で握り返した。

「杏実…どうしちゃったの?あんな堂々として…」
「そりゃ、気合も入るでしょ。去年と今年で評価が全く逆転しちゃったんだから。」
宮前の後ろで整列していた岩永が小声で隣にいた二村春香に声をかけた。二村も小声でその話に乗っかる。背中から感じる宮前の気合というか迫力を感じ取っていたようだ。
「高校時代は、補欠だったんでしょ?あの、桜井って子。同じチームのエースとしてエリート街道まっしぐらだった杏実は、面白くないわよね。」
「すごいもんね。杏実。合宿の随分前から気合入っちゃってて。」

「何、こそこそ喋ってんの?さあ、挨拶は終わった。地獄の合宿は、もう始まってるよ。」
宮前がこっちに向き直って、二人にウインクを送った。

地獄…か。
のぞむところだよ。

岩永も二村も、思わず笑みを浮かべた。


10.

合宿は初日からハードなものとなった。
移動の疲れなんてお構いなしだ。そもそも名古屋から東京に移動した位で疲労を持つような身体を作ってはいない。いきなり5000のペース走を3本。合間に低負荷のマッスルトレーニングを挟み込む。身体が悲鳴を上げたところで1000のピッチ走→ウインドスプリント。
玲奈好みの、身体とハートを苛め抜くメニューだ。

合同合宿での最大のメリットは、普段と違う緊張感だと玲奈は思っていた。最初の頃は、レベルの高い練習に必死に乃木坂が食いついていった。栄京は強豪のプライドで決して変なトコは見せられない。お互いの意思、そして思惑が普段以上の力を出させていた。
年を追うごとにそれが徐々に変化してきている事も、玲奈の目論見どおりだった。今年は、完全にお互いが「絶対に負けられない」という「気持ちの」バーベルをぶら下げてトレーニングに臨んでいる。この切磋琢磨が生む効果は、お互いにとって計り知れないものとなるだろう。


「ななみん。どう?一緒に走ってみて。」
「ん?どうって?」
メインのトレーニングメニューが終わってクールダウンのストレッチをしていた橋本奈々未のところに白石麻衣がやってきた。
「どうって、気になっとんとちゃうん?」
松村沙友里も橋本の隣に腰をかけた。スポーツドリンクのボトルを差し出す。橋本がそれを奪い取るようにして受け取った。
「もう、気にしてるのはアンタ達の方じゃないの?心配しないでも、喧嘩売ったりしないからさ。」
「ほー、ななみ様も丸うなったもんや。我先に玲奈先生に噛み付いてた頃が懐かしいなあ。」
「だからさあ…さゆりんさあ、いつまでもそうやってからかうの止めてくんない?それじゃなくても、怖いってイメージ持たれること多いんだから。」

橋本が屈託の無い笑顔を浮かべた。
レース中のクールな表情を崩さない様から「クールビューティ」の名を与えられていた橋本だったが、こうして普段の顔を見せる時…仲間と一緒の時は無邪気な顔を取り戻す。

「で?どうなの?実際のとこ。」
三人の輪に、深川も加わった。
「そうですねえ…良いんですよね?ぶっちゃげちゃって。」
「うん。ななみの見立ては冷静で客観的だし。そうでしょ?」

深川の笑みに橋本が表情を変えずに頷いた。
そう。局面局面で冷静な判断が出来るのが、私の強みだ。
正直、走力だけではここにいる、さゆりんにも、まいやんにも到底敵わない。メンバーの中でも単純な持ちタイムじゃ、私より速い子は幾らでもいる。今、ウチで一番乗ってる七瀬もそうだし、生ちゃんだって、2年生の未央奈だって。
でも、駅伝やロードになったら話は別だ。
監督はどう思ってるか知らないけど、私は自分でこのチームの鍵を握るのは私だと思っている。それは、自惚れでもアピールでもない。冷静で客観的にこのチームを分析した上での見解だ。

「今年の栄京は怖くありません。」
「怖くない?」
「ええ。弱いっていう意味じゃないですよ?普通の展開なら、間違いなく今年も四ツ谷と栄京の争いだと思います。でも…予想できちゃうんですよね。誰が何区を走って区間何位で走って、これぐらいのタイムでフィニッシュする…」
「ちょ…待ってえな。それって、エラいすごい事と違うん?」
松村が目を丸くした。
そう…それは、決して安易ではない。
往復200キロにも及ぶ、箱根のレース。それを計算して臨めるチームがいったいどれだけあるというのか…

「でも…それだけね。ねえ、箱根ってそんなものじゃないでしょ?なんで、多くの人があんな寒い中、沿道で熱狂的に応援するの?なんで、テレビの視聴率が40%とか越えちゃうわけ?ドラマがあるからでしょ?予想通りの展開で予想通り本命が勝つなら、誰もあんなに…」

橋本の口調に熱がこもり始めた時、一人の細身の選手がこちらに駆けてきた。思わず、話の輪の空気がほっと緩む。

「あの…夕食後ですが、玲奈コーチがそのまま食堂に残っていろって事です。簡単なミーティングをするそうです。」
「あ、うん。ありがとう。」
「失礼します!」

ぴょこんと頭を下げて、すぐにその選手は背中を向けた。
来た時と同じように、飛ぶような走りで去っていく。

橋本はしばらくその背中を黙ったまま見つめていた。
その視線が鋭く光っていた事を、深川は見逃さなかった。

「どした?」
「麻衣さん、あの子は?」
「ん?えっと…熊崎…っていったかな。確か2年生だよ。」
「レギュラーですか?」
「いや、去年のメンバーには入ってなかったかな。」
「ふーん…そうですか。玲奈先生って…時々冒険するからなあ。」
橋本がそう言って大きく深呼吸をした。

明日はあの子と一緒に走ってみようかな…
気になる芽なら、早めに摘んでおいたほうがいい。







11.

合宿2日目。11月とは思えない程の日差しが降り注いでいた。
この時期は天候により寒暖の差が激しい。
気温が下がるのは長距離選手にとって歓迎すべき事だ。
しかし、彼女達はファンランナーではない。競技者だ。
真冬の2月に開催される箱根女子駅伝では、酷寒の中で行われる事もあれば、春を思わせる陽気の中のレースになるときもある。
暑さに適応する身体を作るには、暑い中で厳しいトレーニングをするしか手は無い。


「みずほ。もう足の具合は何ともないはずだよ?自分でもそう言ってきたからAグループに戻したんだから。縮こまった走りしてるから、そうやってへばちゃうんだよ。どうするの?Bグループ戻って走る?」
「…」
玲奈が厳しい顔つきで叱咤の言葉を続けている。
山田みずほが答えられないのは、朝から続いているインターバル走のダメージからだけではない。玲奈の指摘が痛いほど身に染みているからだ。

「ねえ…みずほ。顔上げな?」
玲奈が持っていたペットボトルの水を差し出した。
促されるようにして顔を上げた山田の頬が濡れている。
汗だけではない。目から零れる涙は辛さからというより、悔しさからなのだろう。

「苦しい?」
玲奈の言葉にみずほが首を振る。
ぶんぶんぶん…
違います!絶対に違います!
そんな心の叫びが伝わってくるほどの強さだ。

「やめたい?」
「つらい?」
何を聞かれても同じだ。
みずほは首を振り続ける。

同級生の中では、大舞台へのデビューが遅れたほうだった。
東李苑、北川綾巴といった後輩が1年生で箱根へのデビューを果たす中、直前までエントリーを予定されていながら、コンディション作りに失敗し出場することを許されなかった。
身体能力は抜群だった。2区を走ってもらう事すら青写真の中にある程の逸材…玲奈の期待は大きかった。だからこそ、厳しい指導をする。厳しい言葉も浴びせるんだ。
山田自身もその事を十分理解していた。だからこそ、その期待に応えなくては…と強く意識した。
みんな乗り越えてきたんだ。過去、エースと呼ばれた人たちは。こんなプレッシャーと戦える事なんて、望んでもなかなか出来ない事なんだから。



ようやく玲奈から開放された山田は、とぼとぼとランチルームへと足を進めていた。食欲すら感じない。でも、食べなきゃ。午後からは、ロードに出てのタイムトライアル。15キロと距離は短いが、実質レースのようなものだ。補給無しで走る事は出来ない。

「みっずほちゃ~ん」
素っ頓狂までに明るい声で名前を呼ぶ声が聞こえてきた。
振り返って誰の声かを確かめるまでもない。
「まなったん。あれ?どしたの?お昼は?」
「うん。なんか、みずほちゃん、玲奈先生と話してから食べるの遅くなるんじゃないかな~って思って。ほら、一人で食べるのって寂しいでしょ?だから…待ってた。」
秋元真夏が無邪気な笑顔で山田の顔を覗き込むようにして見ていた。
山田は思わず、ぷっと吹き出すような笑いをこぼす。

「寂しいって…トレーニング間の食事ってただの補給じゃない。ささっと済ませれば…」
「えー…ごめん…迷惑だったかなあ…」
急に秋元の表情が曇る。今にも泣き出しそうな顔になっていく。
慌てたのは山田の方だ。



思えば、知り合ってもう1年になる。前年の箱根。7区にエントリーしていたにも関わらず直前の体調不良で控えに回った山田はその7区を走った同級生の江籠のサポートに回っていた。トップで襷を繋いだ江籠の顔はプレッシャーから開放された安堵感でいっぱいだった。
そんな中、4番目で次の区間へ襷を繋いだのが秋元真夏だった。初出場故の段取りの悪さだろう。乃木坂大はサポートのスタッフが毛布やタオル、ストレッチマットなどが用意されていなかった。慌てる乃木坂大スタッフに山田は自分の所の予備を差し出した。

「あ。ありがとう~ございます!」
屈託のない顔で秋元は笑った。
江籠が見せた表情とは全然違う。本当にキラキラした笑顔だった。

「お疲れ様。今年の乃木坂…すごいね。」
「はい!あ…えぇえええああああああ!あの…栄京…さん…ですよね?あの…すみませんすみませんすみません。ワタシ、何を偉そうに…」
「何、そんなに…もう。面白い子。私、栄京の山田みずほ。宜しくね。秋元真夏さん。」
「山田さん…はい。し…知ってます。あの…高校の時、京都で同じ区間は知った事あって…あ、あの、あの山田みずほさん…」

山田はおかしくなって思わず大きな声で笑った。
私の事を知ってる?あの、山田みずほ?
それ言うなら、今、間違いなく貴方の名前の方が知れてるよ。

大躍進の乃木坂大。恐らくこの7区も、この子が区間賞だろう。
この先も、きっと秋元真夏の名前は、少なくともこの世界では私より知られたものになるに違いない。


「わかった、わかったから。一緒に食べよ?」
「わーい。うん。でも、午後からロードだからね。程ほどにしとかなくちゃ。ワタシ、食いしんぼうだからついつい食べすぎちゃうから。」

ホントによく表情が変わる。
不思議と気が合った。メールはほぼ毎日。
週に2度は電話で話す。
殆どが競技とは関係の無い話だ。
全然違う性格…そう思っていたけど、なぜか安心した。

「ねーねー。午後からのロード、みずほちゃんもAグループでしょ?ねー一緒に走ろうよー」
まるで仲のいい小学生がマラソン大会で打ち合わせしているみたいだ。
一緒に走ろ?ゴールは手を繋いでしようね…
そんな空気さえ感じてしまう。

「とか言って、またスタートからぽーんと飛び出すんでしょ?」
「えー、うん。だって、じっとしてられないし。だからさ…みずほちゃんもたまにはスタートダッシュしようよ。たまには、ね?面白いじゃん。」

面白い?
そっか…面白いか…
そんな事考えてなかったな。

期待に応える。ミスをしない。

そんな事ばっかり考えていた。

「うん…じゃあ、そうしてみようかな?」
そう言って、山田ははっとした。
そう考えた事を驚いたんじゃない。

楽しそうかも…
そう思った事に驚いたのだ。

何かちょっとした悪戯を考え付いた幼い日の頃の、ドキドキした気持ち。

そんな事、しばらく感じていなかった。

ノンオイルのパスタを胃の中へ送り込み、山田は秋元の無邪気な笑顔に同じような笑顔で頷いてみた。


12.

お嬢様学校として知られている乃木坂大だが、実は運動系の部活動が盛んである事は世間では認知されていない。
なぎなた部は全国制覇を何度も経験しているし、先日のオリンピックで団体のメダルを獲得したフェンシングのメンバーのうち2名は同校の卒業生だ。そのほか、合気道や弓道など全国クラスの部活動もある。

しかし、その中で駅伝部は特異な存在と言われていた。乃木坂大に進む子といえば、多くは付属校からのエスカレータ。名家旧家の育ちの良いお嬢様が多く、スポーツも幼少からの嗜みとしての延長といった要素が強かった。しかし駅伝部の部員は多くが大学からの外部入学。所謂体育会系の女子よりは若干おとなしい感じは否めないが、それでも生粋のお嬢様が多い学校のカラーとは離れた存在が殆どだ。


そんなチームカラーは指導者二人のキャラクターによるところが大きかった。部長の設楽統と監督の日村勇紀。陸上界の指導者としては若手の部類に入る二人だが、コンビでの実績には名だたるものがあり、特に新設の学校を強豪へと育成する力には定評があった。
特に設楽の戦略家としての手腕は非常に優れたもので、女子選手強化をにらみ、栄京大の松井玲奈を臨時コーチに招聘したのも彼であった。


「あれ?設楽さんも日村さんも、今日は陸連だったんじゃないですか?」
午後からはレース形式で15キロを走る。郊外まで移動するバスに乗り込もうとした玲奈は、二人の姿が現れたのを見つけて、ちょっとだけ意外そうな顔を見せた。
「ああ。いや…日村さんがね…つまらない会議だから、もういいでしょう…って言うから。」
「いや、違うよ。設楽さんが、顔だけ出して義理は立てたんだから帰ろうって。そうやって帰って行った監督さん多かったしね。」

お互いを「さん」付けで呼び合う二人だが、とにかく仲が良いところがうかがい知れる。中学生から同じチームで走り、高校から大学に進んで箱根を走った時も、4年連続で続く区間で襷を渡しあったと聞く。

「ウチのご老公は…?ま、あの人が来る訳はないですよね?」
「あ…ああ。まあ、今村さんは松井がいるから安心してるんだろ?」
「単に自分の保身が大事なだけですよ、あの人は。」

玲奈がちょっと固い表情になったのを見て、それ以上二人はその件についての会話をやめた。何事かを笑顔で会話しながらバスへと乗り込む。

バスは郊外へと伸びる高速へ入った。
幾つかのグループに分かれるとはいえ、都心にある乃木坂大の近くでロードの練習は出来ない。それに、毎年この時期のロードトレにはもう一つの目的がある。選手の「特性」を見極めるためには、フラットなトラックでは出来ない「環境」を用意する必要がある。


「じゃあ、軽くストレッチして準備して。30分後…14:30にAグループからスタートするからね。」
玲奈の号令よりも前に、選手達は到着した運動公園の広場に広がり準備を始めていた。どの顔も引き締まった表情になっている。ある者にとってはここまでの調整具合を確認するため、ある者には本番に向けたアピールのため…それぞれの思惑が絡み合っている。これはただの「練習」ではない。

「松井。ちょっといいかな?」
設楽が手元のペーパーに目線を落としながら歩み寄ってきた。何が言いたいのか玲奈には思い当たるところがある。自分もポケットから設楽と同じペーパーを取り出す。

「橋本がBグループにいるんだけど。アイツどうかしたの?調子崩したとか怪我とかって話は聞いてないんだけど。」
「いえ…昨日の夜、本人から申し出があって。何か、確かめたいことがあるから…って。」
「確かめたいこと?今日、BってAと同じコース走るんだよな?」

そうですよ。玲奈がそう言って再びペーパーに目を落とした。
持ちタイムやロードでの実績で上位にいる選手はAグループで走るのが、このロードトレの基本だ。本戦のレギュラーを決める争いになると言っても良い。この中で存在感を示す事ができなければエースといえども
本番に向け首脳陣の信頼を勝ち取る事も出来ない。

「まあ、アイツの事だから何か考えはあるんだろうけどな。ゆっくり走ってフォームのチェックでもしたいのかもしれないし。」
設楽はそう言って、トラックに入ってアップ走を続けている選手の方へ戻っていった。
「チェック…か。」
Bグループのメンバーリストを上から順に眺めていた玲奈はふと何かを思いついたように顔を上げた。橋本の姿を探す。

遠くから見ても、バランスの取れた身体で滑らかな走りの橋本の姿はすぐに見つけられた。白石や生駒、西野や高山といったいつものメンバー達と談笑しながらアップを繰り返している。

「あの子、面白いなあ。ひょっとしたら私と同じなのかな?」
玲奈が呟いた。近くにいた古畑と二村が思わずこっちを向く。

「玲奈さん…?」
「あ…ごめんごめん。こっちの話。それよりも…あんた達わかってるわね?昨日から存在感薄いんじゃないの?ウチ。少しは栄京らしいとこ…」
「わかってますよ。慣れないトラックで遠慮してただけなんで。ロードに出たらどっちが上なのかはっきりさせてやりますよ。」

わかってるのかな?
どっちが上って…

玲奈は二人の姿を眺めながら、思わずそう言いかけて言葉を引っ込めた。
まあ、いい…
あの子達にも意地やプライドがあるだろう。
やるときはやってくれるはずだ。



13.

時間通りにロード「レース」がスタートした。
まずはAグループ。2分遅れでBグループがスタートする。更にその2分後がCグループのスタートだ。
Aには、箱根本戦のレギュラー候補がずらりと顔を揃える。
1年生や控え組の多いBが後ろから追いつく事は考えられない。
郊外とはいえ公道だ。さすがに大集団でランナーが走っているのは危険極まりない。

目の前に筑波山がそびえている。序盤の6キロはその周辺を巡るように細かいアップダウンのあるコースを走る。その後は登りだ。約3キロ。箱根6区とは比べようもないが、それなりに登りの適正を試される「山道」を登る。峠に向かう中腹のレストハウスで折り返してそのまま3キロを下る。残りは3キロ。コンビニの広い駐車場がゴールになる。
Cコースは、中腹で折り返さず峠のてっぺんまで一気に上る。6区や8区。登りに特化した区間へのエントリーを考えている選手はこのグループに割り当てている。ただ、近年の5区は実質「エース区間」ともされている。Aグループの中から5区に配置される事も決して少なくない。



スタートしてすぐに秋元と山田が飛び出した。
またいつもの事だから…そんな反応で秋元のスタートダッシュを見送った乃木坂のメンバーに対し、栄京のメンバーは一瞬顔を見合わせた。
「みずほが?え?え?…ねえ?なる、アンタ玲奈さんから何か指示受けてる?」
古畑が市野成美の方を振り返って聞く。市野も、隣に並んで走ってる江籠も一瞬顔を二人で見合わせて首を振る。
「奈和ちゃん、なるも行っていい?」
「行くって…なる、今日のロードはね…」
「はーい。もーわかってるって。でもなあ…」
返事が返ってくるのを待たずに市野が笑って言う。
大丈夫か…古畑はほっと胸を撫で下ろした。
なるの気持ちはよくわかる。たぶん、みずほに飛び出せなんてオーダーは出ていないだろう。乃木坂の真夏と仲がいいという話は聞いていた。それでなくても、最近玲奈さんに集中して怒られてる姿を見ていた。きっと、みずほなりに反発心を抱えていたのかも。
でも、私たちは栄京のメンバーだ。箱根連覇を果たして、大学駅伝の女王の名を名実ともに手にする為には、自分を押し殺して走る事も必要だ…4年生が少ない中、実質的なチームリーダーを務める事になっている古畑が常に意識している事だ。

前は…もっと楽しく走れてたのにな…
そういえば、レース前、珍しくみずほが楽しそうな顔をしてたなあ…
栄京らしい走りを…よく言われる。OG会や後援会の人も二言目にはそんな風に言う。でも、いったい「栄京らしい走り」ってどんな走りなんだろう?私だって、その「栄京らしさ」に引かれてここに入ってきたはずだ。高校時代、色んな学校から誘いがあった。私はなぜ栄京を選んだんだったっけ?強豪校の一員として走ってるうちにそんな事すら忘れちゃったんだろうか…

「…和。奈和ってば!」
慌てたような二村の声にはっと我に返った。古畑が前に目をやると、数人の選手が数メートル先に出ている。明らかにペースが違う。スパートをかけたというより、その集団がギアを入れ替えたって感じだ。試合ではないので揃いのユニフォームを着てる訳ではないが、それが乃木坂の面々だという事はすぐにわかった。
手元のGPS付ガーミンが既にスタートして3キロ過ぎまで来ている事を示している。アップダウンがあるとはいえ、比較的フラットな部分だ。あと3キロ弱で登りが始まる。
「上がるよ。いい?」
「指示、おせーよ。しゃきっとしてもらわないと。頼むよ、リーダー。」
厳しい顔で、古畑の背中をぽんと一つ叩いて、宮前が前に出た。大きなストライドでペースを上げていく。あっという間に前の集団に追いついた。

「生田さん。もう少しペース上げますか?きつかったら、ワタシが引きますけど?」
先頭を走っていた生田絵梨花の横に並んで、宮前が不適な笑みを見せる。生田は一瞬宮前の方を向くが、そのまま表情を変えずに走り続けた。
「ホントに…なんか、いけ好かない子だわ…」
「ちょ…杏実ってば。聞こえるよ?」
「いいの。奈和、ワタシは…」
「聞こえるように言ったんでしょ?」
宮前が答える前に、すぐ後ろから声がかかった。
「うん、そう。よくわかってるじゃん?」
後ろを振り向く事はしなかった。声の主はすぐにわかったから。
「おもしれー。それでなきゃ。さすがはロック娘だよね。」
「そういうアンタは?まだ、ばかつきらしい馬鹿っぷり見せてねーじゃん」
「慌てないの。ほら、アンタの得意な登りが始まるよ?引くんでしょ?きついならいつでも代わってあげるよ?」
若月祐美が不敵な笑みを浮かべている。

二人のやり取りを聞きながら、古畑は思わず噴出しそうになった。
やっぱり、走ってるときはいい。私たちはランナーだ。アスリートだ。確かに戦略やチームオーダーは大切だ。でも、こうして本能のまま走ってる時ってのは、最高に面白い。

山道に入った。九十九折のカーブが続く。時々、先を行く真夏とみずほが見えなくなる。そろそろ、エンジンかけなきゃ…な。

集団が緊張感を共有した。
これは、ただの「練習」じゃない。

そう…「レース」だ。



14.

「ちょっと!何やってるの?しっかり走らないと!まさか、昼ごはん後で寝てるんじゃないでしょうね?」
拡声器から荒れた声が響いてきた。

やれやれ…玲奈さん…荒れてるなあ…

それでなくても古畑は焦っていた。

登りに入ってピッチが上がった。
前を行くみずほと真夏は元々登りも強い。宮前は去年5区区間2位の実績もある、いわば山のエキスパートだ。ワタシだって、余り得意ではないとはいえ栄京のエースとしてここで遅れる訳にはいかない。

横を見た。
生田がいる。スピードもあり終盤の粘りもある。登りも強いと思えば、下りでのスパート力にも定評がある。まさに、オールラウンダー。ある意味、私たちが最も警戒すべきランナーだ。昨年の乃木坂躍進の原動力は、、この子の1区区間賞がもたらしたと言ってもいい。その向こうには主将の桜井。宮前がライバル心を燃やす若月。二人とも、杏実の高校時代のチームメイトだ。絶対に負けたくない相手のはずだ。それだけでない、スピードクイーンと呼ばれ、昨年2年生で箱根の最短区間の4区の区間新をたたき出した西野。生駒、白石、高山…主力どころのほぼ全員が顔をそろえている。

それに対し、栄京のメンバーは、私と杏実の二人だけ。
徐々に上がっていくピッチに、ウチの選抜メンバーはどんどん脱落していった。
こりゃ、今晩予定されてる両校懇親会はお通夜だわ…

そんな日もある…でも、せめて私だけでもここに残らなくちゃ。
折り返して下りに入った二人とすれ違う。
二人とも笑ってる?そんな風に感じた。
それほど、山田と秋元の走りは軽快だった。

宮前、桜井、若月に続き、古畑も少集団で折り返し点を回った。
すぐ正面に、辛そうな市野や江籠、岩永、二村の顔が見える…
そう思っていた古畑は自分の目を疑った。

最初にすれ違ったのは、乃木坂の橋本。Bグループに入って2分遅れでスタートしたはずだった。その後に集団が続く。Aから遅れたメンバーではない。橋本と同じBグループに入っていたはずの、惣田紗莉渚、小石公美子、髙寺沙菜、福士奈央…栄京の1年生だった。橋本と並ぶように走ってるのは2年生の熊崎晴香。堀や寺田蘭世といった乃木坂の2年生もいる。
必死な形相なのは、その子たちだけではない。先頭を走る橋本も同じように苦しい登りに歯を食いしばっていた。

「ななみ!アンタね…しゃーない。玲香、ペースアップ!いけるね?」
「わーってるよ。下りだからって楽しようなんて思ってないよ。」
再び集団の勢いが増す。

古畑も宮前も、ここで置いていかれる事となった。

「どっちが上が思い知らせる…か…」
古畑の独り言は小さかった。しかし宮前にはしっかり届いていた。

そう…彼女達の力は、決して勢いだけではない。
ウチの1.2年生だってそうだ。
いつまでも、アンダーメンバーとしか見ていなかった。

思い知らされたのは、私たちの方なのかもしれない…


15.

「しかしなあ、まあ、橋本らしいっちゃらしいんだけどさ。」
「何がですか?」
「何がですか?じゃねーよ。案外、お前の差し金なんじゃねーのか?麻衣。」
「まさか…私はこう見えても現実主義者なんです。勝つ為に余計な要素は極力排除したいタイプですから。私が仕組んだんなら、むしろ…」

2泊3日の合同合宿。2日目のロード「レース」を終えると、その夜は懇親会として簡単な会食をするのが恒例となっている。
この懇親会も、年々その雰囲気が微妙に変化してきている。1年目は、まさに「懇親」だった。女子大学最強の称号を得始めていた栄京大の選手は乃木坂の1年生にとって「憧れ」だった。2年目、箱根への初出場を決めても、やはりまだ乃木坂の選手は、まだ見ぬ夢舞台を知る栄京の選手をまるでアイドルを見るかのような目線で見つめていた。
しかし、今年は明らかにその関係が変化していた。もう「憧れ」の対象ではない。お互いが「ライバル」として認め合っているような雰囲気がそこに生まれていた。

寄宿舎の食堂が会場となった。決して広いスペースではないのだが、その片隅で設楽は深川と内緒事の相談をするかのように声をひそめていた。

「むしろ…潰しておく…か。麻衣、お前がウチの参謀でよかったよ。まったく怖いオンナだ。」
「どういう意味ですか?下手したら、今の発言ってセクハラですよ?」
深川はそう言ってまんざらでもないような笑顔を浮かべた。
「聖母」「姉さん」
そう呼ばれる深川は、メンバーからも絶大な信頼を得ている。しかし、その内面に秘められた強かさを持っており、まさに設楽が信頼を寄せているのはその部分にであった。

同じ疑問を抱いていたのは、栄京のメンバーも同じだった。特に、両校の指導にあたっている玲奈の心中は複雑だった。
確かに、現時点で栄京のチーム状態は決して良くない事は自覚していた。仕上がりというよりも「盛り上がり」と言ったほうがいいのか。よく言えば落ち着きがあるとも捕らえられるのだが、そんなものは栄京のカラーではない。確かに、この合宿では毎年意外な選手が台頭してくる事がある。去年は、この合宿で自信をつけた北川綾巴が先に抜擢を受けていた、東李苑を押さえてチームのホープへと躍進していった。

そういう意味で今年のホープは、北川、東と同じ2年生の熊崎であり、1年生の惣田、小石達だ。しかし、それを引き出したのはウチの選手ではなく、乃木坂の橋本によってである。玲奈は伴走の車の中からはっきりとそれを確認した。敢えてBグループに入って走った橋本は、自分のトコの若い選手よりも明らかにウチの熊崎や、惣田を煽っていた。
どんな声をかけたかまではわからない。しかし、間違いなく彼女達は橋本に煽られて「覚醒」した。玲奈に本番のエントリーを大幅に変える必要性を感じさせてしまうほど。

なぜ?
なぜ、橋本は敵に塩を送るような事をしたのか?

聞いてみるべきだろうか?
しかし、ここでの私の立場は両校への指導だ。
もちろん、本職は栄京のヘッドコーチ。その立場、去年まではここまで微妙に感じる事はなかった。しかし、今や拮抗した力を持つチーム…しかも、ライバル関係になる両校を見ていくのは、そろそろ限界なんじゃないだろうか…

そんな玲奈のもやもやした気持ちを察したかのように、橋本と桜井が玲奈の近くに寄ってきた。橋本の手には二人ぶんのグラスがある。
「玲奈さんはビールとかの方がいいんでしょうけど。」
まるで、私の心を読んでるのかしら?
玲奈は笑って、橋本が差し出したオレンジジュースのグラスを受け取った。

「何が狙いなの?」
玲奈はいきなり、ど真ん中に直球を放り込んでみた。
橋本が桜井と顔を見合わせて、そして大きな声で笑った。
「はははははは…すみません。なんか、出すぎた真似しちゃって。」
「いや…正直、ウチ…いや、栄京としては大きかったんだけど。そりゃ、力のあるメンバーだからこの合宿に参加させてる。でも、Bチームは将来…次シーズン以降への経験値を踏ませる事が目的の大部分なんだよ。それが…あんなに走れるなんて。おかげで、箱根本番は厚さを増したメンバーで臨める気がしてきたよ。でも…それは、そのままアンタ達乃木坂大にとって…」

そう、今回の箱根は乃木坂にとって、更なる躍進を十分望めるもののはずだ。贔屓目を抜きにしても、十分トップを狙える力をつけている。創部3年目、2度目の出場での箱根制覇は昨年以上のインパクトを陸上界…いや、大きなニュースとして日本中を驚かせるだろう。
しかし、その前に立ちはだかる勢力の中でも、栄京は最も大きなものとなるはずだ。そこの戦力強化に繋がることをわざわざ橋本が仕掛けてくれたのはいったいなぜなんだ?

「玲奈さん。ワタシ、本当は栄京に入りたかったんです。玲香、アンタもそうだよね?」
「ええ。その通り。でも…高校時代、たいした実績の無かった私には到底無理な話だった。若月もそう。チームのエースとして晴れ晴れとした顔で栄京に進んだ杏実が眩しかったなあ…」

橋本と桜井が懐かしそうな顔で話す。
全国の陸上少女にとって、栄京ブランドはいつの間にかかくも強力なものになっていたのか…玲奈がここしばらくの間、ずっと感じていた事だ。

「でも…こうして玲奈さんが指導してくださったおかげで、私たちもすっごく力をつける事ができました。そして…栄京に勝てるかもしれない…いや、勝ちたいって思うようになったんです。」
「奈々未…その気持ちはすごく大切な事だよ。でも…そう思うならなおさら…」

「どうせ勝つなら、最強の相手を倒したいんです。」

そうか…そうだったんだ。
橋本のその言葉を聞いて、玲奈は妙に納得した。
私は、いつから忘れてしまっていたんだろう?
強い相手を倒してこそ、達成感は強いはず。
相手に勝ちたいから、相手の戦力がダウンする事を喜ぶのは本物のアスリートが考える事ではない。私だってそうだったはずだ。
前田敦子、大島裕子、柏木由紀、渡辺麻友…チームメイトだった松井珠理奈…強かった。とにかく強かった。でも、だからこそ燃えた。あの強いライバル達に勝ちたかった。そう思うことで、自分も強くなれたんだと。


「ありがと。奈々未。目が覚めたわ。ヤだね。ウチのご老公の事、保身しか考えてない、冒険なんて出来ない何も出来ない人とか言っててさ…」
「いや、そんなお礼を言われるような事じゃないですよ。奈々未もカッコいい事言ってますけど、その実、単にあの子達と走ったら面白そーって思った程度なんですから。」
「ちょっと、玲香。せっかくカッコいい事言えたって思ってたのに。」

「橋本さーん」
無邪気な笑顔を浮かべて、熊崎や小石、惣田たちが堀や寺田と近づいてきた。熊崎達が橋本に向ける目線は、かつて橋本や桜井が、ウチの須田や柴田なんかに向けていたものと同じだ。

玲奈は大きく伸びをした。
いつの間にか縮こまっていた背筋をぴんと伸ばすように。



16.

「あーーーーーーもういやや。なんか詰み将棋かパズルでもやっとるんとちゃうか?」
横山由依は大げさな仕草で椅子の背もたれに身体を預けた。
そのままの姿勢で、思わずひっくり返りそうになり慌ててバランスを取る。きっとかなりみっとも無い姿だったろう…そんなカッコを誰かに見られたんじゃないかと、横山は慌ててあたりを見回した。
誰もいない…か。
選手達は、もうすでにトレーニングに入っている時間だ。トラックでピッチ走に息を弾ませている者もいれば、ロードに出ている者もいる。確か、今日は何人かの選手が秩父の山に行ってるはずだ。そろそろ5区6区のエントリーを誰にするかを決めなくちゃならない。


机の上にはノートブックのPCとおびただしい数のメモ書きが散乱している。殴り書いたような文字が乱れているのは、今の横山の心中を現しているかのようだ。

「イチ…2,3,4…6…7…あーーーダメだ。どうして足りんわあ。まさかウチが頭数の事心配せんといかんようになるとは思わんかったわ。」
京都弁のせいか、あまり焦りや怒りの感情を感じさせる事が少ないが、明らかに横山の声には苛立ちがあった。

「しっかし…島田はどこ行ったんやろ?ここ数日、練習にも顔出さんと…メンバー選抜はワタシにも意見言わせてねって言うたんは、どこのドイツや。っていうか、むしろ誰か代わりに決めてほしいわあ…」

名門・慶育の力が落ちている事は誰の目にも明白だった。横山ももちろん、それを感じていた。しかし、箱根10区のメンバーに誰を選ぶかで迷った事はあっても、10人揃える事にここまで頭を悩ました事は無かった。
小嶋真子が本来の力を発揮できていない今、このチームのエースは田野だ。彼女を中心にチームを組み立てるしかない。後藤、下口、飯野、谷口の1年生。新人のエース格・湯本を含め1年生は着実に力をつけていた。しかし、4年生の多くを故障で欠く事になった今シーズン。あと2人…いや、3人。20キロを「戦える」レベルで走れる選手がいなければ、シード回復どころか下手したら本戦最下位近くに沈んでしまう事すらありえない話ではない。


「監督!監督!早く来てください!」
「ど…どうしたんや?」
故障を抱えリハビリ中の岩佐美咲が監督室に飛び込んできた。
「島田さんが…はよ、呼んでこいって。」
「島田が?なんや、来とったんかいな?なに?いったい何があったんや?」
「とにかく…来て見てください。そしたら…わかります。」

横山は余りの岩佐の剣幕に慌ててグラウンドに飛び出した。グランドコートも着ずに出てきた事を後悔する程の寒風が吹いていた…が、そんな事など全く気にならないほど、目の前で繰り広げられる光景にひきつけられ、目を丸くした。


トラックを集団が縦長になって走っていた。ペースがかなり速い。集団が縦長になっている事がその事を物語っている。
集団からちょっと離れたところを3人の選手が走っていた。引っ張るという幹事ではない。恐らくはスパートをかけたのだろう。ペース走のラスト400でスパート練習をする事はよくあることだ。先頭は…小柄な選手が2人…田野と…ゆあみかな?最近ゆあみ調子いいみたいだし。あとは、まあ小嶋だろう。本調子ではないとはいえ、力的にはウチの中ではダントツのはずだ。

横山がトラックへゆっくりとスタンドの階段を下りていく。島田の大きな声が耳に入ってきた。

「ほら、3週目。まだ800だよ。残り8週!」

え?
まだ800?2周しか回ってないん?
ペース走やないの?
そうか、タイムトライアルでもやっとるんか。
にしちゃ、いきなり集団がばらけ過ぎじゃないか?
田野ちゃんや、ゆあみ、真子が調子いいのはええ事やけど、他のメンバーがたった800で千切られるんじゃ話しにならへんやないの…

横山が小さくため息をついた。

「田野ちゃん!真子!ゆあみもだよ!何いきなり千切れてるんだよ!追って追って!。雅もめぐも。食いついていかんかい!」

千切れてる?え?千切れてるのが田野?眞子?
雅もめぐも?

誰?誰が前に出てるの?
4年生?まさか、ひななか萌芽?

横山が驚いて眼鏡をかけた。
ぼやっとしていた視界がクリアになる。

最終コーナーを回って3週目を終えようとする先頭の三人の顔が目に入ってくる。まだ余裕がありそうな表情だ。

どこか幼さを残した顔つき。
まだ中学生?
それなら、なおさら大問題だ。
名も知れない中学生に置いていかれる名門校のエース…

そんなん洒落にもならへん…

横山は駆け出していた。


17.

「島田。どういう事や?」
「まあ、いいから。見てなって。なかなか面白いよ。」
トラックに駆け下りてきた横山が息を切らしながら島田の横に立った。
あの三人はいったいどこの誰だ?
いったい、どういうつもりでこの練習を?

問い詰めたい事は幾らでもあった。
でも…確かに、島田の言うとおりだ。
目の前で繰り広げられている「レース」は確かに興味深いものがある。
三人を追う、ウチの選手達。
田野のこんちくしょうって顔もそうだし、真子の何か楽しそうな顔もそうだ。これ以上遅れてたまるか…1年生の面々にも引き締まった表情…いや、必死の形相があった。

「魂の襷」
かつて、慶育大学の駅伝を称してそんな言葉があった。
大島優子という大エースを擁していた時期、やはり前田敦子というエースを擁した秋英大と幾度となく激闘を繰り返していた。しかし、総合力という意味では秋英に遠く及ぶものではなかった。そんな慶育にとって何よりの武器は団結力であり、個人個人の襷を少しでも速く、そうそれがたった1秒であったとしても…次へ繋ぐ執念に似た意思であった。

名門と呼ばれるようになった事が、いつの間にかその執念を奪い去ってしまったのか。いつの間にか選手の顔から必死さが消えていた。慶育のフラッシュグリーンを身に纏うだけで、あたかも自らが勝手に高いポジションにあるかのように。

今、横山の目の前で見せている選手達の顔は、まさにかつて自分達が持っていたものだ。必死な顔つきは精悍さを産み、熱を産む。
島田は、いったいあの三人を使って、どんな魔法をかけたのだ?


「どう?あの三人。面白いでしょ?」
「うん。今先頭を走ってる一番小さい子。誰かに似てる。えっと…そっか。小さな身体でチョコチョコしてるけど、キレもあるし、動きも大きい。もう少し身長が伸びたら、四ツ谷大の木崎っぽくなるかもしれんなあ。」
「へえ。さすが、由依。良く見てるじゃん。そっか、そこまで伸びるかね。木崎ゆりあって言ったら、今シーズン、学生トップの記録持ってる実力者だよ。」
「まあね…。それから、もう一人の小柄な子…まだまだ無駄な動きが多いけど、躍動感が半端ないね。あれも…そうやなあ。あの子も四ツ谷大だったっけ?真子と同級生の。西野って子。あの子に重なるわ。後ろ姿だけ見たらあれが西野未姫って言われても疑わへんと思うわ。」

三人が引っ張る集団が再び、横山と島田の前を通過した。
いつの間にか、後ろが追いつき大きな集団になっている。
ペースが落ちたわけではない。逆にこの1周のラップは上がってきた。
三人の中で一番長身の選手がするするっと先頭に上がっていく。

「あの子は?真子そっくりやんか。たぶん、後ろ走っとる真子も気づいとると思うで。…ああーそうか。そうなんか。前からずっと思っとったんや。そうかあ…」
「なに?由依?ワタシの顔になんかついてる?」
「ちゃうわ。似てると自分で思わんの?」
「似てるって?」
横山が何か思い出し笑いをしたするような顔になった。
遠い昔…小学生の頃の夏休みの思い出を語るような顔。

「アンタだよ。島田。アンタの走り方にそっくりなんだよ。」
「は?ワタシ?」

そう。

島田とは一緒の区間を走った事が一度も無かった。
3年の時に大島・指原と伝説に残るデットヒートを繰り広げた翌年、島田は5区の区間賞を取り、一躍有名ランナーとして名乗りを上げた。8区や3区を主戦場としていた横山がその姿を実際にその目にする機会は無かったわけだ。
それでも、島田の走りは横山の胸に強い印象を残した。
何よりも、あの優子先輩がその走りを最大限に評価した事。決してタイム的には飛びぬけたものを持っていない島田がなぜトップランナーとして称されるようになったのか。同じ年、タイプ的にも同じようなランナーだと思った横山は島田に強い関心を持った。
何度も何度も島田の走りをVTRで見た。だからこそわかった。
たぶん、私は島田よりも島田の走りの事を知っている。

「あの、強引なストライド。抜いていくときのどや顔。わがままそうな手の振り方。足音までアンタそっくりだよ。」
「いや…そりゃそうだけど…真子まで?いや、真子はワタシよりむしろ…」

前田敦子さんに似てるよね。
指原が言ってた言葉を島田は思い出していた。
うーん…って事は、ワタシが前田さんに似てるって事?
いやいや…それはない。
島田は下を向いて苦笑した。

「ほら!ラスト1周!真子!田野ちゃん。意地でも前に出てみなよ。このままじゃいいトコなしだよ!渚沙も、いくみんも。絶対譲るな!いいな!」
島田が大きな声をかける。
ずっと前を引っ張っていたうち、一人が集団の中盤まで下がり始めていた。
「よっこやま!よこやまゆい!何やってんだ?ここで終わりか?そんなんじゃねーだろ?」

一段と大声になった島田が、自分の名前を叫んだと思って、思わず横山は背筋をびくと伸ばした。
「ああ。悪い悪い。あの子も、ゆいっていうんだよ。横山結衣。」

「そうなんだ?びっくりしたわ、ホンマ。で?あの子達は?どこの学校の子?高校生とか?」
「いや…れっきとしたウチの学生だよ。」
「ウチのって?慶育の?」
「そう。慶育大学八王子キャンパス。通信課程に在籍してる1年生さ。」
「八王子?あの、年に何回か通学して後は通信講座で単位を取るっていう?ハチキャンの?そのハチキャンにあんな走れる子がいたっていうんか?」


タイムトライアルのゴールを先頭で切ったのは、渚沙と呼ばれていた子だった。続いていくみん…島田がそう呼んでいた子。横山結衣も田野と小嶋と並ぶようにしてフィニッシュした。

「アンタ達…何者?」
田野が乱れた息のまま三人に声をかける。
突然現れた強敵を歓迎するかのように、汗に濡れたその顔には満面の笑顔があった。


18.

さっきまでのアグレッシブな走りは何だったんだろう?
ウチのレギュラー陣を従えて堂々と集団を仕切っていた姿とはうって変わってどこか落ち着きのない姿で立っている。
急遽用意したのだろうか、真新しい学校名のプリントされたチームジャージのサイズが明らかに合っていない。特に小柄な二人は、その顔つきが幼くみえる事もあってどう見ても大学生には思えない。

「よ…よごやまゆいど申しまんす。えと…えっと。あ…」
「結衣。ただの自己紹介だよ。そんなに緊張しないで。それに…方言なんて気にしないでいいから。ほら、こっちのよこやまゆいだってヘンテコな京都弁なんだしさ。」
「こら、ウチの京都弁は由緒正しいものやから。まあええわ。結衣…って呼んでいいかな?出身は?東北?」
「はい。青森です。高校時代は青森山田でちょうぎょりんだを走っていますた。」
横山の笑顔に少しは緊張が解けたのだろう。結衣がようやく簡単な自分の紹介を終えた。言葉の端々に挟まる方言のせいか、初々しさを感じる。

「次は…坂口渚沙…サンね。北海道…小樽北照高校…と。アンタも名門校の出身じゃない?まって…中野郁海サン。鳥取城北高校…三人とも、去年の高校駅伝経験者ね。しかも…坂口サン…渚沙でいい?は、1区で区間新?真子が2年のときに作った区間新を7秒上回って?島田がいくみんって読んでたよね…?アンタは2年3年と連続で4区の区間賞。結衣は、去年の全国優勝校のキャプテンって…」

横山が島田に渡された資料を見ながら、驚きの声を上げる。
少なくとも、三人の実績は強豪大学がスカウトリストの上位に上げるだけの実績を持つだけのものであった。

「わかった。じゃあ、とりあえずミーティングルームで待ってて。すぐに私たちも行くから。これから全体ミーティングやさかい、そこでみんなに紹介するから。」
横山は笑顔で三人を見送った。
すぐに、真顔になり島田の方へそれを向ける。

「で?島田。三人とも陸連登録は…?」
「済ませてるよ。」
「出場選手登録も?」
「それも済んでる。」
「当然、登録資格は?」
「もちろん、確認済み。」
さも、当然のように応える島田の顔を見て横山は小さくため息をついた。

ここまで用意周到な子だとは思わなかった。
どっちかというと、直情型で考えるよりも先に行動する…そんなタイプだと。もちろん、その指導力を買ってコーチに招聘したのだが、これは予想外の収穫といってもいいだろう。

「でもなあ…通信課程の子をこんな直前に加入させて…ってなると、後援会とかがなんて言うかいな…」
「後援会?また、緑の襷の重さとか、魂とか?」
「そうや。アンタにはわからんやろうけどな、ウチら慶育にとっては…」
「わかってるよ。そんなの。」
島田の声が急に大きくなった。さっきまでのとぼけたような表情は消えうせている。
「確かに、ワタシは外様のコーチだよ。でもね、由依。ワタシだって伝統の重さは十分理解してるつもり。あの箱根で一緒に走ったランナーなら誰だってそれを感じるよ。5区の山を登ってきた優子さんのオーラは今でも思い出せる。背中に突き刺さるようなオーラだった。あの年、最後に勝ったのはアンタ達だったよね?最後の最後、ゴールテープを切った仁藤さんは、失神寸前の意識の中で緑の襷を必死に握っていた。震えたよ。この人たちは、文字通り命がけでこの襷を繋いだんだってね。」
島田の言葉に横山は圧倒されながら耳を傾けていた。
伝統の襷を守ろうとした自分達。そして、ある意味それを打ち破ろうとした島田だからこそ、感じ入るものがあったのかもしれない。

「ワタシはアンタに慶育に呼んでもらった時ね…無茶苦茶迷ったんだ。怖かった。ワタシなんかでいいのかってね。でも…でも。思ったんだ。もう一度慶育を強くしたい。今のままじゃ、慶育は過去の栄華だけを後生大事に過ごしていく、ただの伝統校に成り下がってしまう。ソレは嫌なんだ。誰よりも慶育を倒したかった…その無念を持つワタシだからこそ、やれる事があるんだって。」
横山はソファから立ち上がって、島田の方から目線を外した。部屋の外から見えるグラウンドに目をやる。ミーティング前の僅かな時間、自主トレに励む部員の姿が遠くに見える。自分もああやって、僅かな時間を惜しんでは走ってたっけなあ…
島田の言葉は続いた。トーンは徐々に落ち着いてきたが、逆にどんどん熱を帯びていく。

「今日の真子の顔を見た?田野ちゃんや萌の顔。雅やめぐ…ひななもそう。ウチは若いチームだ。そしてとにかく仲がいい。でも…絆って…仲がいいって事じゃないよね?由依、少なくともアンタが走ってた頃の慶育は仲良しチームじゃなかったはず。いつだって誰だって、負けたくないって気持ちで走ってたはずだよ。そう、同じチームメイトにだってね。」

「わかったよ。島田。それ以上はもういい。ウチだって慶育陸上部の総監督や。それ以上は言わんでくれるか?」
「そうだね。さ、行こうか。ミーティングだ。みんな待ってるよ。」
「でもさ、あの子達…いろんな事情で進学してなかったんやろ?地方から出てくるにしたって…住むトコはまあ寮でいいとして…」
「いや、あの子達はウチで住み込みのバイトしてもらうから。」
「ウチでって?アンタのトコの旅館?だって、熱海からじゃ…」
「ああ。系列のホテルあるからそこでね。従業員用の部屋だってあるし。まあ、通信だから授業とかに出なくていいからね。それに…」
「それに?」
「あの子達の目…見たでしょ?」
「まあ…ね。走る事に飢えてる。そして、走れる事の喜びを知ってる。ちょっとやそっとじゃへこたれない…か。」
「そう。そして、その熱は…」

横山が島田の方に向き直った。
「そうやな。必ずみんなに伝染するわ。ありがとな。島田。」
「おーやっと、ワタシのありがたみがわかったか?」

「…ったく。うるせーよ。島田。」




19.

歳はとりたくないな…
自分がそんなセリフを吐くようになるなんて思っていなかった。
少なくとも、こんなにも早くには。

でも。

そう思わずにいられない。
今の子たちが何を考えているのかが、本当にわからない。

紺のシングレットに染め抜かれたアルファベットのAの文字。
選ばれた10人が運ぶピンクの襷。

そのメンバーに選ばれる事は何よりの名誉だ。
その名誉を得るためには、どんな犠牲を払っても、多少の無理や時には無茶さえしてきた。
私だけじゃない。

次のオリンピック出場に内定し、金メダルにもっとも近いと言われる前田敦子だって。
日本陸上界始まって以来のトラックでのメダルを期待されている篠田麻里子だって。
そして、卒業後中距離に転向し、先日の世界選手権で日本人初の入賞を勝ち取った小嶋陽菜だって。
どんなスター選手でも、伝統と栄光の一員として名を残す事への誇りを忘れなかった。
いや、スターと呼ばれた者だけでない。
全てを走る事に捧げてきた。それが、私たちの青春だ。
それが、私たち秋英学園大学陸上部員としての責務だ。

高橋みなみは、まさにその具現者であった。
故障で卒業とともに競技者生活を去る事となっても、指導者として、その想いだけは忘れずに過ごしてきた。

「マジで言ってます?」
高橋をノスタルジックな思いに駆らせていたのは、目の前で冗談でなく自分の言葉の意味を理解できないといった顔で立ち尽くしている川栄李奈の表情だった。
「あのお…監督…それって、私たちに無茶しろ…って言ってる事になりますよね?」
隣に立っている入山杏奈の顔にも戸惑いの色が浮かんでいる。

「そーじゃねーよ。無茶しろなって、誰が言ったよ?ただ、怪我の具合はどーなんだ?って聞いてるだけだろ?箱根には間に合いそうなのか?間に合わないまでも、どの程度の状態にまでなら持っていけそうなのか?ってさ。」
「いや、だからそれが無茶しろって言ってるって事ですよ。私だって、りっちゃんだって、そりゃ出たいですよ?でも、怪我がどうなるかなんて、わかるわけないじゃないですか。好きでサボってるんじゃないんですから。」
入山の口調は決して不満に対して反抗してる体ではない。
ただ、単に高橋がどんな答えを求めているのか、わからないといった感じだ。

「わかった。私が焦りすぎたのかもな。すまない。トレーニングに戻ってくれ。メニューはコーチからもらってるんだよな?」
「はい。たかみなさ…いや、監督。私たちやる気がないわけじゃないんですよ。でも…」
「わかってるわかってる。そんな事はわかってるよ。じゃなきゃ、ここまで秋英の一員として走ってないもんな。」

高橋が大きく頷いて笑った事で、二人にもようやくほっとした表情が浮かんだ。
小さく礼をしてゆっくりとフィールドの方へと歩いていく。

今年のうちのエースは川栄と入山でいく。
昨年、大した見せ場もなく4位に終わった箱根本戦のあと、高橋は翌年最上級生になる二人中心のチームを作る決意を固めた。大学駅伝界で女王の名を勝ち取り続けるためには、2年連続での沈下は許されない。
幸い、戦力は充実している。新興の四ツ谷大、栄京大の力は強大だが、個々の力では決して劣っていない。
事実、10000mの学生ランキングでは、圧倒的に上位の選手をそろえている。総合力では、まだウチが一番のはずだ。

「監督。準備OKです。10000のタイムトライアルで大丈夫ですよね?」
「ああ。ありがとう、十夢。全員そろってるな?」
「ええ。入山先輩と川栄先輩以外は。」
「わかった。じゃあ、始めるか。」
「あの…監督。」
ベンチに置いてあった、厚いバインダーの資料とストップウオッチを持って大きく伸びをした高橋に、武藤十夢がそっと近寄った。誰にも聞こえないような小さな声で話す。

「今日のT.T.って…もちろん、箱根のエントリー決めの選考も兼ねてますよね?みんな、そう言ってます。」
「みんなって…あのさ、十夢。誰が選ばれるかは、その子の適正とか、実績とか…色々と加味して決めないといかんのだよ。はやる気持ちはわかるけど、大事なのは自分の走りを大切にする事だから。」
「それはそうですけど…あの、監督。」
武藤が急に直立不動の姿勢になった。
面白い子だ。この子だけには、昔の匂いがする。確かに秋英には闘志を前面に出すキャラクターの選手が少なかった。それでも「魂の襷」と呼ばれた慶育に劣らぬ情熱を秘めた選手がたくさんいた。

「どした?」
ひょっとしたら、この子なら…
高橋はけしかけてみる事にした。
「何を狙ってるんだ?」
「あの…今日のT.T.で私が、31分半切ったら…2区…2区を走らせてもらえませんか?」
「31分半?それって、お前自己ベストを1分半も上回るって事だぞ?それに…そんなタイム、今季学生最高タイムじゃないか。それどころか学生歴代ベスト10にも入るぞ?」
「だって、圧倒的じゃないと、監督だって…先輩たちだって納得しないでしょ?」
十夢がグランドコートを脱ぎ捨てた。
小柄な身体が大きく見える。
それでいて、実に均整が取れたスタイルだ。
恐らく相当ハードに鍛えてきたのだろう。

「よし…31分半だな。約束するよ。2区でもどこでも、好きなところを走らせてやる。」
「やったあ。じゃ、監督。スタートの合図をお願いします。」

高橋は笑って頷いた。
武藤が立ち去るのを待って手元のバインダーに目線を落とす。
黒のボールペンで強く書き込んだ。

「2区 武藤十夢」

結果を見るまでもない。間違いなく、あの子は約束を守る子だ。
高橋はゆっくりとトラックへ歩いていった。

久しぶりにワクワクする気持ちを隠しながら。




20.

秋晴れの空に真っ白な鳩が舞った。
荘厳なカトリック教会への階段。その中断の踊り場で新郎新婦が放った鳩だ。

あの鳩飛ばすだけで2万も取られるんだよな…
しかし、あの鳩たち稼ぎいいよな。ちゃんと教会の周りを旋回して、あとは巣箱に戻るだけ。
それで2万だよ?
はあ…俺の給料なんてなあ…

しかし…なんで、俺、こんなトコいるんだよ?
なにがどうなっていったいこうなってるんだよ…誰か教えてくれよ。

妊娠7か月?だから、ウエディングドレスをオーダーしなくちゃお腹が目立っちゃう?
違うだろ?コドモなんかいなくたって、どっちにしたって、お前既製品なんか絶対着れないじゃないか…

はあ…

「おめでとうございます!芝さん。」
「おお…玲奈か。来てくれたのか。てっきり…」
「もう、何言ってるんですか。もう怒ってなんかないですよ。それに、わかってますから。あのおじいさんを連れてきたのは、芝さんのせいじゃないって事なんて。ほら、あっちにみんな来てますよ。珠理奈も久美も。」
「ああ…あの…それでさ…俺、もう芝じゃないんだよ。」
「あ、そうか。そうでしたね。奥様の名字になったんですよね。茅野さん。」

玲奈が真っ白なウエディングドレス姿の新婦を見て笑った。

「あら。松井…玲奈さん。主人からよく話は聞いていますわ。私…」
「ええ、私こそ、よく存じてますわ。四ツ谷大付属高校陸上部の名将、茅野しのぶさんですよね。お会いできて光栄です。」
「ありがとう。この後の披露宴も楽しんでいってね。ほら、今日は私の教え子たちも来てくれてるから。」

茅野が指示した方には、一目でそれと分かる体育会系の集団がいた。
華やかなドレスに身を包んでいるが、アスリート特有の雰囲気がある。
それに、そこにいるのは大学トップクラスのアスリート揃いだ。
玲奈が率いる栄京大にとって、最大のライバルである四ツ谷大の選手たちが殆どだった。

何度か面識もあるし、話し込んだ事がある選手も何人かいる。
しかし、玲奈はその場では軽く会釈をするだけにとどめた。
避けたわけではない。彼女たちの間に、何か微妙な空気を感じたからだ。

その微妙な空気は、披露宴が始まっても続いていた。
披露宴では、招待客がいくつかの円卓に分けられて着席する。茅野家側の招待客として出席している、四ツ谷大付属の卒業生たちは学年ごとのテーブルだ。一つのテーブルに、現在大学2年生のメンバーが固まっていた。
四ツ谷大に進んだ、岡田奈々、西野未姫、前田美月。恵育大を選んだ小嶋真子。内山奈月、橋本耀は聖ヴィーナス大への道を選択した。

「なになに?なんか、みんな暗くない?どした?久しぶりに会ったんでしょー?」
隣のテーブルにいた、岩立沙穂が明るい声で話しかけてきた。
「いいじゃない。そりゃ、箱根直前でライバル同士って言ったって、同窓でしょ?今日くらいはね。ね?」
「そーだよ。こっちのテーブルなんか、もー大変。あ、ねえちょっとゆーりん。ダメだって、内情を暴露するような事しちゃ。」
「いや…全然大した事聞いてないし。ただ、ウチの今年の5区は…あ…危ない危ない。大丈夫だって、なっきー。そんな怖い顔しなくたって、ばらさないからさ。」
村山彩希の明るい笑い声は高校時代から変わらない。大島涼花のいたすらっこい笑顔もだ。みんな、少しずつ大人っぽくなってるけど、こうして集まれば昔のままだ。仲のいい先輩後輩…そのまま。

ただ…涼花の冗談に一瞬だけ表情を緩めた内山奈月の顔からすぐに笑顔が消えた。
隣の橋本と小声で会話を続ける。

「まったく…いつまで引きずってるんだか…」
「そうよね…でも、あの子たちが自分で気づかなきゃ…本当の解決にならないもんね。」
鴨のローストにナイフを入れながら、茂木忍が岡田彩花と節目がちに話す。
「真子…あの子、予選会でもボロボロだったんでしょ?」
高島佑利奈もその会話に入ってきた。
「高島…アンタもね。私たちは…走る事でしか、何も解決できないんだよ。早く、アンタも…」
「わかってるって。大丈夫。私は大丈夫。むしろ、楽しみで仕方ないんだ。今は…ね。」

高島は広い披露宴会場の新郎側に並んだ姿を見やって言った。

「なっきー…どう?聖ヴィーナスは?」
「どうって?楽しいよ。すっごく。先輩たちもいい人ばかりだし。私には合ってるかな。」
「そっかあ。うん。良かった。」
遠慮がちに小嶋が内山に話しかけた。
「ねえ…真子。今まで何度も言ってるけど、私が四ツ谷大に進まなかったのは、別に変な意味でじゃないからね?」
「まだ、そんな事言ってるの?」
橋本も隣でパンをかじりながら呆れたような口調でつぶやく。
「ぴかってば…あのさ…」
「じゃあ、なんで真子はウチに来なかったの?」
内山の言葉を遮るように、西野が会話に割りこんできた。
ちょっと怒ったような顔だ。
「それは…」

「それは、真子なりの考えがあっての事なんでしょ?」
西野が小嶋の返事に何かを言い返そうとするのを、今度は奈々が遮った。
西野とは違う。特に興味もない…そんな顔つきに見える。
「とにかく…私たちは、今はライバル…いや。そんななまっちょろい言葉じゃないよね。敵…でしょ?みんな、それぞれ自分で決めて進んだ道なんだ。誰がどうとかじゃない。未姫、何度も言ってるじゃない。私たちは、もういつまでも高校のチームメイトなんかじゃないって。」
「そうだけどさ…」

「あ。呼ばれてるよ。歌…歌うんでしょ?」
岩立がデザートのケーキをほおばったまま立ち上がった。
「え?もうそんな順番?やべ。何も心の準備してなかった。」
篠崎彩奈がテーブルの下から大きな包みを引き出しながら慌てている。
「えっと、みんなそれぞれ自分のプラカード持って。間違えないでね。」
包みを解いて冷静に配っているのは、北澤早紀だ。
相笠萌がそれを手伝っている。

「それでは、新婦の教え子さんたちの歌です。さあ、新婦もこちらへ。用意がよろしければお願いします。」

「えっと…それでは…イケメンの旦那さんを無理やりものにした、先生のお手柄をお祝いして歌います。聴いてください!心のプラカード!」
「無理やりは余計よ。」

会場は爆笑に包まれた。
その後列に並んだ、小嶋は複雑な想いを笑顔で隠していた。


心のプラカードか…
本当の気持ち。口で言えないなら書いてみようよ…か・

私は、彼女たちに…大切な友達になんて気持ちを書けばいいんだろう?



21.

「なっきー、なに?ずいぶん早いじゃない?」
「うん。昨日、ちょっと肩凝っちゃったからね。朝練前に軽く走っとこうかなって思って。」
「ホント、真面目だよねー。頭が下がるわ。」
「そういう耀だって。そのカッコは軽くジョグしとこうかってカッコじゃないよ。」
「なっきーの影響だよ。」

聖ヴィーナス大のグラウンドは鵠沼海岸を望むキャンパスに隣接している。大学駅伝では新興の部類だが、安定した実績で知られるようになっていた。かつては秋英、慶育の2強に続く存在としていつ箱根を制してもおかしくないと言われながら、未だその栄冠を掴むには至っていない。

「ねえ。四ツ谷大の先輩たち、なんか表情明るかったね。やっぱ、今年は戦力充実、優勝候補の本命ってハナシ、大袈裟じゃないかもね。」
並んで軽いジョグをしながら橋本が内山に話かけてきた。
内山が肩のストレッチをしながらそれに相槌を打つ。
「敵情視察してた訳じゃないけど、私もそんな風に感じたよ。ま、他のガッコの事よりも大事なのはウチの事。」
「そうだね。でも…ウチもまんざらじゃないって。なっきーはそう見てるんでしょ?」
「まんざらじゃないって言うよりも…」
「ん?また何か企んでる?なっきーがそんな風に笑うときって、何かお腹の中で企んでるときだ。」
「もー、そうやって人を腹黒キャラにしないでくれる?」

橋本の言う事はある意味当たっていた。
内山の分析力と、個人そしてチームの課題点を抽出しそれを解決していく力は高校時代から高く評価されていた。また、自らにもその厳しい目を注ぎ強豪である四ツ谷大付属のレギュラーを勝ち取った。2年時には小島真子が作った1区区間新のリードを更に広げ、四ツ谷大付属の全国優勝に大きく貢献。その指導力も相まって将来の幹部候補生として高い評価を受けていた。しかし、高校卒業後、内山が進学先として選んだのは、系列の四ツ谷大ではなく聖ヴィーナス大だった。

「でも…まだ怒ってるみたいだったねえ…」
ジョグを終え、息を整えながらストレッチをしていた橋本が言い出し難いことを切り出すかのような口調でつぶやいた。息が真っ白だ。もう冬は間近に迫っている。
「そうだね…ま、仕方ないと思うけど。あの3人は。私たちと違って、上も四ツ谷大に揃って行くものと思ってただろうし。本人達も…特に奈々と未姫はね。」
「真子…まだあのリタイヤの事、引きずってるのかな?」
「わからない。でも…何か理由があって慶育に進んだと思うんだよね。あの子も正直に訳を話せばいいのに。」

「あなたたちは話してくれたからね。」
「うぉっ?あ…か…監督…おはようございます。」
「何よ、なんか人の顔見てそんなにうろたえないでくれる?」
いつの間にか二人の後ろに倉持明日香が立っていた。
慶育大OGで卒業後は聖ヴィーナスの大学院で教育課程の博士号を取得。その後、准教授として研究職に就く一方陸上部の顧問に就任していた。

「でさ…そろそろ宿題は仕上がったのかな?ウチの参謀としての。」
倉持さんって、本当にウチの監督に相応しいと思う。
聖母…ヴィーナス…そんな言葉が本当に似合う。
慈愛に満ちた笑顔って、こういう笑顔の事を言うのだろう。
表情だけでない。懐の深さを感じる。

ただ走るだけの選手になりたくない。駅伝というのは、個々の力を一本の線として繋ぎ合わせる「戦略」が重視されるものだ。選手として走るだけでなく、そんな戦略を練る事の経験値を積みたい。
四ツ谷大でその志向を否定されたわけではない。ただ「どちらかに専念しなさい」という風な事を言われた。むしろ、内山が評価されていたのは、選手としてではなく、ブレーンとしてであった。あくまでも選手に拘った内山は、倉持に会って聖ヴィーナスを選んだ。倉持という指導者は、人をカタチにはめる事をしなかった。何よりも、選手一人一人が「どうありたいか」を大事にする人物だった。

「あ…はい。できてます。」
内山は脇に置いてあったスポーツバッグからクリアファイルを取り出した。その中にあるペーパーを倉持に手渡す。
「ほー、さすが。仕事が早いね。ふむふむ…」
「なに?あ、なっきー、ずっとうんうん唸ってた宿題ってこれ?」
橋本が横からペーパーを覗き込んだ。

「なっきー。私も似たような事を考えていた。今年は1年生を抜擢するべきって事。でも…ここまでやる?」
「はい。監督…私、今年は優勝を狙えるって思ってるんです。しかも、往路復路両方とも取っての完全総合優勝を。」
「そこまで?往路重視で後は勢いで…っていうのが、ウチの伝統的な戦略じゃない?」
倉持がペーパーに落としていた視線を上げ、それをまっすぐ内山に向けた。内山も目をそらさない。笑顔はない。二人とも普段は笑顔が絶えないが、真剣な時の表情には周囲を圧するものがある。
「すみません。ウチはまだ伝統なんて言葉が似合うとは思っていません。確かに、賭けかもしれません。でも…勝てるだけのカードは揃っているはずです。涼花さんと朱里さん。二人のエースだけじゃないですよ。ウチは。」
「それで…ジョーカーが…なるほど。私も同感だな。」
「なーにゃが?」
二人の会話に橋本が驚いたような声を上げた。

大和田南那。
確かに、ポテンシャルは凄い。
定期記録会で、とんでもない記録をたたき出した事もある。
だけど、粒ぞろいの1年生の中でも安定感という面ではまだまだ不安が残る。ましてや、駅伝は一人のブレーキがチーム全体に大きな影響を及ぼす競技だ。

「耀、倉持監督…なーにゃは、ジョーカーなんかじゃないですよ。ウチのエース・イン・ザ・ホールです。」
「エース・イン・ザ…?穴の中のエース…?」
橋本が首をひねる。
その姿を見て、内山と倉持は思わず噴き出した。
この子のこの天真爛漫なところも、ウチの大きな武器だ。

「違うよ、耀。エース・イン・ザ・ホール。最後の切り札って意味だよ。」
内山が真顔で言った。




22.

雨の音はどんどん強さを増してきていた。窓から見えるキャンパス内の樹木が激しく枝を揺らしている。晩秋から初冬へ向かう季節にしては珍しい台風は、その勢力を衰えさせながらも北部九州へ進路を進めていた。

博多大は、駅伝をはじめとした陸上競技部だけでなく、野球・サッカー・水泳・バレーボール・バスケットボール…主だったメジャースポーツにおいて九州大学界をリードしている。女子駅伝はこの3年であっという間に全国区の力をつけてきていた。

関東で開催される箱根駅伝への求心力は、九州の雄たる博多大においてはもともとそれほど強くなかった。しかし、その大学のスタンスを一変させる出来事が起こった。指原莉乃の監督就任である。
2年時に7区の区間新をマーク、華々しく女子大学駅伝界にデビューすると、翌年の5区。伝説のデットヒートと言われる、慶育・大島優子、四ツ谷・島田晴香との三つ巴を制し、今も破られる事のない区間新を樹立。最終学年時には2区で区間2位。驚異的な区間新を出した栄京の松井珠理奈に4秒だけ遅れを取ったものの、11人のごぼう抜きを演じてみせた、あの指原。
大学駅伝のスーパースターである指原が現役を引退し、突然何の縁もゆかりもない博多大へ監督として就任した事。それは、博多大の学校としての戦略まで変化させる大きな出来事だった。
同時に強化策をとり始めたチームはあっという間に強豪校の一つとして数えられる程になった。

スポーツ総合学部は、そんな九州全域から集められたエリート達が学ぶ学部だ。公式戦を行う事ができる野球場。サッカー場は陸上競技場を兼ね、スタンドには1万人を収容する事ができる。体育館は3つあり、立派なトレーニングルームも併設されている。

季節はずれの嵐の中、駅伝メンバー達はマシンを相手に体を動かしていた。今は最後の追い込み期だ。怪我には十分配慮しなくてはならないが、こんな雨の日でもトレーニングは欠かす事ができない。10台あるトレッドミルは他の運動部が見たら仰天してしまう程のペースに合わせられている。その上で息を弾ませる程度の涼しい顔でラントレを行う数人の姿があった。

宮脇咲良は一人一番奥のマシンで走っていた。耳にはイヤフォンが差し込まれている。目を瞑って寝てるのではないか?傍からはそう見えてしまう程の静かな佇まいだ。
手前のマシンでは、矢吹奈子、田中美久の1年生コンビが宮脇とは正反対、にぎやかな声で会話しながらマシンに乗っていた。遊んでいるように見えるが設定されたペースは相当速い。並のランナーなら3分もしたら息も絶え絶えになってしまうだろう。

「奈子。美久。あと3セットだからね。はしゃぐのはいいけど、しっかり追い込んどかないと来週からの合宿でしんどい思いするんだからね?」
「はーい、わかってますよ。キャップ。さっしーからもきつく言われてるんで。ちゃんとやってますよー。」
マシンの脇にいた穴井千尋がやれやれといった表情で肩をすくめる。
さっしー…か。そりゃ、私たちからしたら、指原監督は雲の上の存在のような人だ。萎縮しちゃいけないから…そういう配慮で自分の事をさっしーって呼ばせてる事はいい。でも、それは私たち3年生への配慮だったはずだ。やっぱり体育会系である以上、上下関係のけじめはしっかりつけた方がいいんじゃないんだろうか…
っていって、そんな1年生を主将として厳しく指導できない私が悪いんだろうけど…

「あのさ。聞いとう?」
穴井の背後から忍び寄るようにして声をかけてきたのは、やはり3年生の兒玉遥だ。宮脇と並ぶ博多大エースの一人。
「聞いたって…箱根の区間エントリーの件?」
「キャップなんだから、さっしーから事前に聞いたりしとるんじゃなかと?水臭い事言わないで、ちょっと教えてよ。」
「聞いてなかって。何度も言っとうやろ?合宿終わってから発表するって言いよったろ?」
「あーあ…気になるなあ。」
兒玉は大袈裟にため息をついて、タオルで顔の汗をぬぐった。

「先輩。気になるって、なんでそんなに5区にこだわるんですか?」

あちゃ~
もう何でウチの後輩どもは、こうも無神経にど真ん中にストレート放ってくるのよ…まあ、確かに、咲良と遥みたいに言葉もなしにバチバチ火花散らすってのも気を遣うけどさ…二人とも5区走りたいっての譲らないんだから…それをそんな風に言っちゃうとさ…

穴井は声の方を向いて苦笑いを浮かべた。
きょとんとした顔で田島芽瑠と朝永美桜が立っている。

「そういうアンタ達は?どこ走りたいとかなかと?芽瑠、アンタ、さっしーに憧れてるからいつかは5区を走りたいって言いよったやない?」
「いやいや…ワタシなんか…まだ早いですよ。」

上手く矛先をかわした…兒玉が軽く笑ってトレッドミルに乗ったのを見て、穴井はほっと胸を撫で下ろした。

博多大に集まってきた選手は、皆が指原に憧れを持っていた。そして、かつて「新・山の女神」と呼ばれた指原と同じ5区を走りたい…そう願った。特にエース二人のライバル心は強く、二人もその事を隠そうとしなかった。常に感情を表に出し太陽のような走りをする兒玉に対し、いつもクールだがここぞという時には怒涛の走りを見せる宮脇。二人のエースの競争心あってこその博多大だった。

「別に隠してるつもりはないんだけどね。単にまだ決められないだけだし。」
「あ…さっしー。もうそうならそうって二人に言ってくださいよ~。もー私、ハラハラしっぱなしで。」
「わかった。じゃあ、こうしよう。来週の合宿の初日。久住合宿でレースやろう。そこでの一発勝負。はるっぴ、咲良。構わない?」
指原が兒玉に腕組をしたまま話した。
兒玉が目を丸くして驚いた表情になる。

「一発勝負…?レースって…?」
「勝った方が5区を走る。そういう事ですよね?」
いつの間にかトレッドミルを降りた宮脇が傍に来て笑顔で指原に尋ねる。
笑ってはいるが真剣な表情だ。
「そう。二人ともコンディション良さそうだし。今のままじゃ、どっちが選ばれてもなんかモヤモヤっとした気持ちが残っちゃうでしょ?だったら、フェアでいいじゃん?」
「私は…構いません。じゃ…トレーニングに戻ります。」
宮脇はそう言って今度は筋トレのマシンに向かい合った。
黙々と軽い負荷でウェイトを動かしていく。

「芽瑠。美桜。それから…まどかも。遠慮しなくて参加していいよ。なんだったら奈子美久も走るか?」
「えーいいんですかあ?」
「え?奈子、5区走りたいの?マジで?」
「だめ?そういう美久は走りたくないの?」
「ううん。美久も走る!」

賑やかな声が響いた。
もともと明るいチームカラーだ。
1年生の加入でそれが一段と増した気がする。
宮脇も声を上げて笑っている。
決してチームに溶け込まないキャラではないのだ。

「もう…さっしーも。突拍子もない事言い出すよね。」
再び真顔になってマシンに向かおうとした宮脇にコーチの多田愛佳が声をかけた。
「いえ。私はそうは思いませんよ。あれでいて、ちゃんと戦略練ってるんですから。愛さんもちゃんとわかってるんでしょ?」
「まあ…ね。でも、確かに正しいと思うよ。一発勝負の選考。咲良、アンタが一番望む方法でしょ?」
「はい…でも、そう簡単にいかないと思います。」
「そうね。はるっぴ、今絶好調だからね。」
「いえ…はるっぴの力は十分わかってます。それよりも怖いのは…」

え?咲良が警戒する相手が他に?
誰だろう…

いかんいかん…
私はコーチだ。
選手選考のレースをこんなにワクワクして楽しみにしてちゃいけない…

でも、仕方ないか。
それだけのものになることは間違いがないのだから。


23.

「コースは頭に入ってるね?立渉は立ってないけど、基本一本道だから美桜みたいな方向音痴でも迷う事はないし。」
「え?私?あー大丈夫。きっと先頭で走るなんて、たぶん無理ですから。」
今日のチーム内レースの説明をする多田の表情はいつもより少し硬かった。それが伝染していたのだろうか、メンバーの顔にも緊張が見れる。それに気づいた多田が軽口を振ったのは朝永にだった。朝長はそんな事など理解してないのだろう、いつものようにちょっと暢気な笑顔で場の空気を和ませた。

「最後にもう一回確認しとくよ。今日のレースはタイム関係なし。とにかく一番最初に18キロ先の牧野戸峠の駐車場にゴールした者が、今回の5区を走る権利を得る。いいね?」
「はいっ!」
多田の言葉に今日のレースに参加したメンバーが元気良く返事を返す。
レースウエアに身を包んだ姿。その人数は15人に達していた。


大分県から熊本県へ。久住高原から阿蘇を経て中九州を横断する「やまなみハイウエイ」はその景観の素晴らしさから、九州、いや全国でも屈指のドライブコースとされている。しかし、12月に入ったこの時期は完全にオフシーズン。気温も5度近くまで下がり観光客の交通量はめっきり少なくなっている。指原が今日のために設定したコースは、ゴール地点の標高1200m、途中アップダウンを繰り返しながら獲得する標高差は500mを超える。700m以上を駆け上る5区に比べるとその高さこそないが、登りの斜度は箱根よりもハードで下り区間を含め、5区の適正を図るにはもってこいのコースになっていた。


「15人か。レギュラー陣総参加じゃない。みんなそんなに5区走りたいのかな?」
「走りたいのかって…さっしー、何他人事みたいな事言ってるの?それだけ、さっしーに憧れてる子ばかりだって事でしょ?」
「私なんかにねぇ…」
多田が運転席に乗り込み、スタートを切った選手たちの後ろについてゆっくり車を走らせ始めた。後続には殆ど車の姿がないが、安全のためにハザードを点滅させている。
前を走る選手たちに気を配りながら、同時に多田は指原の顔を覗き窺っていた。さっしーに山を登らせる。そう言い出したのは、たかみなさんだった。自らの故障もあったけど、あの時さっしーが山の適性を持っているなんて誰も考えていなかった。

ヘタレ。

さっしーがそんな風に呼ばれていた事は余りにも有名な話だ。
でも、今となってはその話は、指原莉乃という人物を捕らえるほんの一面に過ぎない。こうして助手席から選手たちを見つめるその目は、本物の指導者の目だ。いや、誰をどの場面に配すればチーム力が最大になるかを判断する…オーケストラを率い、最高のハーモニーを演出するマエストロのようだと言っても言い過ぎではないだろうな…

「まどかの走りって華やかだよね。すごく綺麗。」
指原がほうっとため息をつくかのような口調でつぶやいた。
多田に話かけたというよりは、殆ど独り言のような感じだ。
「足が長くて着地が柔らかいからかな。あの走り方だと故障も少ないし、安定してるんだよね。必要以上にストライドを伸ばしてないから、登りも強い。実は一番力を持ってるのかもって思ってるんだ。」
「そうだね。弱音はかずに頑張る強さもあるからね。さっしー、今日の本命、実はまどかと思ってない?」
「愛ちゃんは?誰が勝つと思う?」
指原は、多田からの質問を逆に返す事で答えをはぐらかすようにした。
笑顔を浮かべているが、目は笑っていない。真剣そのものだ。

「誰って…うーん…やっぱり咲良かはるっぴじゃない?二人とも、今日にかける意気込みが半端じゃなかったからね。本番以上の緊張感だったし。」
「なるほど。お、愛ちゃんの予想通りかな?二人が飛び出したよ?」

スタートして2キロ。まだアップダウンを繰り返す高原道路の途中だ。本格的な登りが始まるのは5キロ手前から。宮脇がするするっと前に出るのを追いかけるように兒玉がペースを上げる。あっという間に後続を10秒ほど引き離した。

「まだ登り始まってないよ?最近調子いいみたいだけど、ペース配分考えないと。咲良、あんまりスタミナあるほうじゃないんだから。」
「はるっぴこそ。後半追い込み型なのに、こんな早くから先行しようなんて…焦ってるんじゃないの?」
いったん前に出て落ち着いた二人は相手をけん制するように…いや、お互いの様子を探るように会話を続けた。
後続との距離は一定のまま動かなくなった。

「ふぅ…」
「ん?どしたの?さっしー。ため息ついちゃって。」
「あの二人…ほんとにわかってないなあ…」
「二人って…?咲良とはるっぴ?」
多田の問いに答えず、指原は拡声器を手に取った。
窓を開けて外に大きな声を上げる。ちょっと苛立ってるような声だ。
「後ろで縮こまってる連中。何をやってるの?たらたら走ってるだけなら、こんなレースやる意味ないの。今すぐやめちゃうよ?5区なんてくじかじゃんけんで決めたっていいんだから。」
大事なレースゆえ、思いっきりがなくなってしまう。
前回、初出場で臨んだ箱根がそうだった。まるで大舞台に萎縮してしまったかのように普段の積極的な走りができず、博多大は最後まで見せ場を作る事無く初の箱根を終えた。目標としていたシード確保には遠く及ばなかった。

「ほら。誰が追いかけるの?登り始まったよ?」
指原の剣幕に集団の中に緊張感が走った。
言われた事はよく理解できる。
でも…誰が?誰がこの状況から飛び出すの?

「私かな?」
小さく一言だけ呟いて、集団から飛び出したのは朝長だった。
18キロのうち約10キロに及ぶ登り区間。登りきった後は2キロ程の下りがある。まさに「ミニ5区」ともいえるコースだ。その登りが始まったすぐの地点でペースを上げた朝長は、あっという間に前を行く二人に追いついた。一瞬だけ様子をうかがうと一気に二人を抜き去って前へ出る。

「美桜。アンタ、またそうやって…」
「先はまだ長かよ?ちゃんとペース配分考えんと。」
宮脇と兒玉が声を掛けるが、振り向くことなく前を向いている。朝長はそのままペースを上げた。その後ろから秋吉、矢吹、田中の1年生3人が続いていく。
「ゆかも?なこみく…も?なに考えとうと?咲良…どうする?」
「どうするって…行くしかないでしょ?」
何言ってるの?宮脇がちょっと怒ったような顔をしてペースを上げた。
まったく…大事なレースなんだから、かき乱すような事しないでよね…だいたい、去年5区走ってダメだったって事もう忘れちゃったの?私や…遥は…この博多大を引っ張ってきたのは私たちだっての。それを、抜擢とか何とかでいきなり5区を任せられて…5区を走るには、アンタみたいに何にも考えてないような選手じゃダメなんだよ。ちゃんと戦略を持って走らないと…

「二人が追い上げたよ。さっしー、咲良とはるっぴにハッパかけたかったんでしょ?」
「違うよ。ぜんぜん違う。」
「え?じゃあなんで?」

指原が手元の資料を乱暴に後部座席に投げやった。
ストップウオッチも一緒にだ。
まるで、もうこのレースは終わった…とでも言いたいかの表情だ。

「抜かれて慌ててるようじゃダメなんだよね。だったら、自分たちから突っ走んなきゃ。」
「さっしー…?」
「あのね。愛ちゃん。5区に必要な資質って何だと思う?」
「資質?うーん…登りへの耐性…高負荷に耐える心肺機能、頑丈な足腰…粘り強さ…とか?」
「私、そんなもん何も持ってなかったよ。」
「うーん…じゃあ、意識とか?5区を走る責任感とか?」
「そんなの、私からしたら一番遠い存在だったじゃん。」

確かに…
初めての5区に向けたトレーニング。さっしーは毎日泣いていた。もうだめ、私なんて絶対無理。弱音を吐かない日は無かった。毎日毎日、たかみなさんに怒られてた。あれは、激励っていうより半分脅されてたようなものかもしれない。本番もそうだった。おどおどした表情で、大島優子に必死に食いついて行ってた。いつ遅れるか、いつ置いていかれるか…誰もがそう思っていた。でも、結局最後まで遅れるどころか、見事に大島優子を最後は引き離した。

さっしーは、何を求めてこのレースをやろうとしたんだろう?

宮脇と兒玉の表情が厳しくなればなるほど、先を行く朝長との差は開いていった。矢吹と田中こそかわしたものの、朝長に食らいつく秋吉にさえ追いつけない。長い登りを登りきった時には、先頭との差は2分近く開いていた。焦れば焦るほどピッチが上がらない。バランスを欠いた走りは逆に失速したような程に見える。下りに入ると、森保や坂口にも抜かれてしまった。


ゴール地点に先回りした指原と多田は車の中から、あたふたと荷物を下ろす作業に追われていた。冬の日は短い。気温も一気に冷え込んできている。汗をかいた選手が体を冷やさないよう、タオルと着替え、グランドコートを用意しておかなくてはならない。
その最中にトップで朝長が広い駐車場に入ってきた。やや、間を置いて森保、坂口、秋吉がゴール。その後の宮脇、そして兒玉が入ってくるまでにはやや時間が空いた。

「咲良…どうだった?」
「さ…さっし…どう…って」
「ご覧の通り…はぁ…か…勝ったの…は、美桜です…よね?」
兒玉が宮脇の横でうつ伏せに倒れたまま荒い声で答えた。
宮脇は唇をかみ締めたまま、四つんばいになっている。
「そうだね。約束は約束だからね。美桜。5区は今年もアンタね。いい?」
「あの…さっしー…私、5区じゃないとダメですか?」
「ダメって…どういう事かな?」
「あの…私、別に5区じゃなくても…咲良さん…はるっぴさん…がそんなに走りたいのなら…」
朝長が困ったような顔で言った。
たぶん困っていたのだろう。いつも笑ってるからわかりにくいのだが、今浮かべている笑顔はきっとその時用の笑顔なのだ。

「ちょ…じゃあ、なんで今日のレース参加したのよ?」
朝長の言葉に宮脇が起き上がった。息を切らしながらも朝長に詰め寄る。胸倉でも掴みかねない勢いだった。
「そうよ。今日のレースにはね…5区を走りたいっていうね…」
「熱い思いを持ってなきゃダメって?そう言いたいのかな?はるっぴ?」
「さっしーまで何言ってるんですか?だって…今日は…」

指原が三人の間に入り込むようにして立った。
宮脇と兒玉の方に向いて諭すような口調で話す。

「熱い思い?それをアンタたち二人は持ってたって?…でも、結果は?アンタたちは負けたんだよ。美桜。いいよ、よく考えな。どうしても他の区を走りたいのなら、考えるから。」
「さっしー…でも、それじゃあ、今日のレースをやった意味が…」
多田が何とかその場を押さえようとした。
本番に向けて今は一体感を高めていく時期だ。
不要な波風は立てないほうがいいに決まってる。

「意味?ちゃんとあったよ。大丈夫。愛ちゃん。このチームはきっと強くなる。…いや、ならしてみせるから。」
多田以外に聞こえないようにして指原が呟いた。

時と地位は人を変える…か。
指原の顔が頼もしく見えた。

仕方ないな…
多田が肩をすくめてその場から離れた。


24.

四ツ谷大学 箱根エントリーメンバー

1区 岡田彩花
2区 木崎ゆりあ
3区 茂木忍
4区 西野未姫
5区 岡田奈々

6区 込山榛香
7区 篠崎彩奈
8区 岩立沙穂
9区 向井地美音
10区 高島祐利奈


「いや。不満があるとかってそんな意味で言ってるんじゃないんです、コーチ。なんでそういう風に捉えられるかなあ?」
「だったら、もうちょっと言葉を選ばないと。それでなくても、茂木、アンタは誤解されやすいんだから。」
「言葉を選ぶって、どういう意味でですか?すみません。ワタシ、馬鹿だからストレートに頭に浮かんだ事しか言えないんで。」
「でもさ、いきなり、なんでこのメンバーになるんですか?ってそんな剣幕で突っかかられても…確かに、今年のメンバーを決めたのは私だよ。でも、ちゃんとメンバーひとりひとりの事を考えて決めたつもりだし、湯浅監督にも了解してもらってる。」

箱根へのエントリーが発表される。
いつもとはまったく違った張り詰めた空気で始まったミーティング。コーチの峯岸からメンバーが発表されると、その空気は違った意味で緊張感を一層強めた。いきなり茂木が峯岸に食ってかかったからだ。

「茂木ちゃん。その辺でやめときな。」
茂木は確かに物事をはっきり言うタイプだ。そのせいで誤解される事も多い。しかし、周りは茂木のそういう所が実直な性格故という事をよく理解している。今回もそんな茂木を宥めるように、大森美優が笑顔で間に入った。

「ね。仕方ない。箱根を走れるのは10人だけなんだ。選ばれる子がいるなら、当然外れる子だっているんだから。」
4年生の大森は、いわば「サラブレッド」だ。元プロ野球選手の父と陸上競技で名を残した母から受け継いだ身体能力の高さ、安定感のある走りはメンバー随一だ。チームメイトからの信頼も高い。
しかし、その大森からの一言が更に茂木の高まった感情に油を注いでしまった。

「なんで?なんで、そんな風に美優さんは納得した顔できるんですか?おかしいですよ。箱根には、本当に速い人が出るべきです。当然です。コーチ!今年は優勝を狙うんじゃないですか?なのに…なんで美優さんがメンバーから外れるんですか?優佳里さんだってそう。2人は今調子だっていいし、実績だってあります。それに、二人は4年生ですよ?最後の箱根じゃないですか?来年だって…再来年だってある子…」

「茂木ちゃん。ストップ!」
先ほどの大森よりも、少しだけ大きな声がかかった。
声の主はすぐわかった。茂木は、少しびくっとなって言葉を止めた。
ゆっくり声の主の方を向く。驚いたのは、その声の主が佐々木優佳里だったからだ。
「いいの。私も美優も納得しての事だから。」
佐々木の表情はいつものとおりだった。
優しく微笑んでいるようで、今にも泣き出しそうな…気弱そうな表情と違って芯の強さには定評がある。でも、声を荒らげる事など見た事がない。

「だったら…せめて納得できるような説明を…」
「茂木…今日は引きなよ。二人がそう言ってるんだから、仕方ないよ。な?…あのー…ちょっといいですか?峯岸さん。」
「ん?ああ、いいよ。彩希。じゃあ、これで解散するね。毎回言ってるけど、体調管理には十分気を配ってな。」

「茂木、ちょっとこっちおいで。ゆーりんも。」
村山彩希が茂木の肩を抱くようにして、ミーティングルームの隅へと連れて行った。しばらくその場でじっと押し黙る。村山に声をかけられた高島もその場に留まった。
「…あのさ。納得いかないのはアンタだけじゃないんだから。」
「ごめん…ゆいりーが一番納得してないよね?4年生もそうだけど、ゆいりーが選ばれないってのも絶対におかしいもんね。」
「もう…茂木…あのさ、素直に自分が選ばれた事喜んでいいじゃん?」
一向に収まらない茂木の怒りを何とか静めようとした高島だったが、茂木には通じないようだった。この真っ直ぐ過ぎる所が、茂木の短所だ。同時に長所でもあるのだが。

「だいたい、ゆいりーは、私より10000のベストだって1分以上速いし、今年のハーフマラソンだってチーム内でも上位だったし。なんで、ゆいりーが選ばれないの?」
「だったら、アンタが私と代わってよ!」
突然、村山が大きな声を出した。
茂木がその剣幕に驚いた表情になる。
普段、ニコニコした顔ばかり見てた。天真爛漫…そんな言葉が良く似合う。それでいて走ってる時の鋭い視線にはいつもびびらされる。

「そ…それは…」
言葉に詰まった茂木の背中を高島がそっと抱く。
「茂木。私たちにできる事をやろう。選ばれた者は、選ばれなかった者の色んなものを背負って走らなきゃ。全力で走る。それが、私たち、選ばれた者の義務だよ…」
「わかった?中途半端な走りしてたら、許さないよ?いいね?」
茂木が小さく頷いた。
その大きな目から涙がこぼれた。



「すまない…美優。優佳里。」
「大丈夫です。よくわかってます。でも…」
三人の様子を部屋の外からのぞき見るようにしていた、峯岸が廊下で待っている大森と佐々木に向かって頭を下げた。二人は峯岸に笑顔を返す。
「でも…?なに?優佳里?」
「うーん…やっぱ仕方ないですよね。今は、やっぱりコーチの考えてるとおり、全部を話さない方がいいと思います。大丈夫だよね…きっと。」

佐々木が大森のほうに同意を求めるような表情で聞く。
「大丈夫。それに、そうじゃなきゃ困る。」

「おーい。まだいたのか?早く帰って寝ろよ。明日からまた頑張らなくちゃいかんのだぞ?」
「あ、監督。いらっしゃったんですか?」
「おい、佐々木、いたのか?はないだろ?ちゃんといたよ。」
湯浅が失笑をこぼす。


「大森…佐々木…このチームが勝つには…お前たちの力が必要だ。わかってるな?」
「はい。もちろんです。」

湯浅の表情が急に引き締まる。
大森と佐々木が力強く頷いた。


25.

「しかし、いきなりなんや?急に走ろうなんて。」
「いいじゃんか。付き合えよ。お互い、最近ヤバイだろ?」
「アンタと違ってウチはちゃんと節制しとるんや。一緒にせんといてほしいわ。」
「へー。じゃあ、ちゃんとついてこれるんだろうな?」

朝もやに煙る箱根湯元。
横山と島田が白い息を吐きながらゆっくり吐きながら走り出した。
あと数時間すると、この箱根路は何千何万の観衆に埋め尽くされる。
正月に行われる男子箱根駅伝は新春の風物詩だ。

「まったく、私たちの正月は箱根が終わらんと来ーへんのやで?」
「いいじゃんか。あいつ等にとって、生の箱根ってものを観客になってみる経験って大事だと思うよ。」
「それはそうやとうけど…。」
「ほら、身体もあったまってきたろ?少しはまともに走ろうぜ?」

慶育に限らず、箱根常連校は5区の山登りのトレーニングのためにミニ合宿を組む事はよくある事だ。しかし、新年のこの時期、ましてや男子箱根の日程に合わせて選手全員で泊まりこみの合宿を張る事は珍しい。

まだ日も昇りきらない時間だ。それでも、もう今頃は東京大手町では大勢の観客がスタートを見届けようと集まってきているはずだ。島田が横山を後ろからけしかけながら走ってる箱根の山中にも気が早い駅伝ファンが各学校の幟を立てたり、横断幕を張ったりし始めている。

「ふぅ…ふぅ…気持ちええもんやな。どんどん高さが増してくってのがわかる。これで、沿道に大勢の観客やろ?そら、モチベーション上がるってもんやな。」
横山の息が弾んでいる。決して早いペースではないが、額には汗が浮かんでいる。それでも楽しそうな表情で登り坂の先のほうに視線を向けながら足を前へ進めていた。

「そう。このあたり…宮ノ下では学校名じゃなくて、選手の名前を連呼してくれるんだよ。しかも苗字じゃなくて下の名前ね。あー、思い出すなあ…」
「アンタがうらやましいわ。私はその経験できへんかったから。」
横山がいつの間にか島田の横に並ぶようにして走っていた。
島田の考えがようやく見えてきた。一汗かいて頭の中がクリアになってきたのかもしれない。

「で?なんか話があるんやろ?」
「わかってた?」
「なんや、面倒くさいなあ。ややこしい話でも面と向かってしゃべればええのに。ま…アンタらしいわな。」
「5区だけどさ…」
横山の顔を見ずにまっすぐ前を向いたまま島田が打ち明け話でも始めたような口調で話す。さすがに息が上がり始めた横山に対し、まだ島田の呼吸は穏やかなままだ。やはり、「山」はホームのような感覚を感じるらしい。

「真子に走ってもらおうと思う。」
「ふーん…真子にね…え?え??真子?」
「そう。真子。」
横山が一瞬足を止めようとした。
島田はそのまま先へと進む。一歩遅れた形の横山が慌てて島田の後を追う。やっとの事で再び島田の横に並んだ。
「だって…真子って、今まで一度も5区なんて…」
「うん。考えた事もないだろうね。」
「考えたって…当たり前やん。あの子は、どっちかというとピッチランナーだ。平坦やトラックでは強いけど、登りの適正があるかどうかなんて…」
「だからだよ。だから、真子は5区なんだ。」

横山は島田の横顔をまじまじと見つめた。その為にやや斜め後ろに下がったくらいだ。いったい何を?
小嶋真子は、力的には確かにウチの中ではダントツだ。トラックでの10000の公式記録は学生トップクラス。チームで2番目のタイムを持っている田野よりも1分半以上も速い。
一方で、ロードレースでは毎回といっていいほど終盤に大失速を起こしている。小嶋をどこに配し、どう本来の力を出させるか…横山としても最大の懸念事項だった。昨年はブレーキの不安から横山は小嶋のエントリー自体を断念した。それなのに、島田はよりによって近年の箱根でもっとも重要とされる区間である5区にエントリーしようというのだ。

「てっきり、いくみんを5区に使うんだと思ってた。それで、連れてきたのかと。」
「ああ…確かにあの子は、元々クロスカントリー走ってたしね。大山の山岳で鍛えてるから山には強いだろうね。」
中野郁海は、チーム合流後抜群の存在感を示していた。1年生ながら長身でバランスの取れたフォームで常にチームをリードする走りを見せている。この5区にも何度か試走に来ていた。

二人は、小涌園前を過ぎ、国道1号線の最高点付近までやってきた。
島田が大きく伸びをして足を止めた。
横山もそれに倣う。思わず膝に手をついて下を向いてしまった。

「あ…アンタ。いつの間に…息ひとつ乱れんと…相当走りこんどったってことでしょ?」
「まあ…ね。ハチキャンの子達に付き合わされてね。」

「ほら…由依。見て。」
島田が今まで走ってきた方向を指差す。
「人間ってすごいよね。こんなトコまでたった2時間足らずで走ってきちゃうんだよ?車とかバイク乗ってじゃなくてね。」

「島田…で?もうわかったわ。区間エントリー。アンタの考え言ってみ?」
「違うよ。アンタをフラフラにして好きにさせろってもってくつもりは…」
「ええって。ええから。聞くから。」
「わかったよ。じゃ…ね。1区に萌咲。」
「萌咲?後藤ね。うんうん。まあセオリー通りではないけど、おもしろいかもね?いいよ。続けて全部言ってみて。」
「ああ。2区は…」

島田のプランに横山の表情が徐々に厳しくなってくる。
驚きというよりは戸惑い…の顔だ。

「島田…そこまでの冒険って必要?」
「なんで?由依は、無謀なオーダーだと思うの?」
「いや…わかるけど。余りにもリスクが…」
「ね…由依。今年、ウチはどこ狙うの?」
「ドコ…って?順位って事?」

箱根の山に風が吹き始めた。
さっきかいた汗が引いて身体が冷え始めたのを感じて、横山は一つ身震いした。しかし、横山はわかっていた。島田の真剣な表情に圧倒されていたのだ。
覚悟…
そう、島田の表情には、それがあったのだ。

「まさか、シードを取り戻せばそれでいい…と思ってないよね?その程度なら、私はいますぐ箱根の山を降りて、そのまま東京まで走って帰るけど?」
「…わかった。島田、アンタに乗るよ。そうだよな。もうウチらは、過去の栄光にすがってたらアカンのやな。」
「そうだよ。由依。やろう。きっと、あの子たちならやってくれる。」
「そうやな。それに…アンタ、このまま東京までは走れんやろうしな。」
横山がそう言って笑った。
今来た方へ向き直って走り始める。

「帰り…湯元駅前まで5000円でどうや?」
「マジで?あんなに息上がってたくせに。いいの?」
「下りはウチの方が強かったの忘れたんか?」
「おもしれー。乗った!5000円な。後で勘弁してって言うのはナシだからね。」
「うるせーよ、島田。」

二人が山を一気に下り始めた。


やっぱり走るのって気持ちいい。
ウチももう一回走り始めるか。

横山の顔には笑顔が浮かんでいた。
正面に新春の陽光が差し始めた。


26.

「だから、何度も言ってるじゃないですか。去年までと訳が違うんですよ。いくら監督の命令でも聞けるものと聞けないものとがあります。」
玲奈が今にも掴みかからんとする程の剣幕で今村に詰め寄っている。
一方で今村の表情はいつもの通りだった。まるで他人事のような顔で玲奈の言葉を受け流していた。

「とにかく…今年の箱根。私は栄京のコーチとして専念させてください。エントリーオーダーを決めるのも遠慮します。考えてみてくださいよ。優勝を争うチームの両方のオーダーを同一人物が決めるなんて…ありえません。」
「そんなもんか?とにかくさ、陸連のお偉いさんにも頼まれてるんだよ。何なら向こうに専念してもらうって手もあるぞ?設楽監督は、ずいぶんお前の事を気に入っているみたいだしなあ。」

今村の顔には薄ら笑いさえ浮かんでいた。
そうか…この人は、私を切ろうとしてるのかもしれない。
自分の王朝を築くには煩型の側近は邪魔になるだけ…そう考えていても不思議じゃない。

「監督。ウチのエントリーはお前が決めろ。そう言ってたじゃないですか?私が向こうに行ってしまって…どうするつもりですか?」
「エントリー?そんなの…簡単じゃないか。考えてるさ。」
今村が一枚の紙を袖机から引っ張り出してきた。机の上に滑らせるように置く。それに目を落とした玲奈の目がみるみる釣りあがっていった。

「これはいったい何のおつもりですか?」
「何って?箱根の区間エントリーだ。俺だって、それくらいの戦略は立てるよ。」
「戦略って…5区に綾巴?2区に奈和?なんでこうなるんですか?」
「なんでって、5区と2区は一番の花形なんだろ?やっぱり、目立つ選手でいかないと…」
「目立つって、綾巴に山の特性があるとでも?監督。あなた、一度でも選手のロードワークに付き合った事がありますか?確かに奈和は力のある子です。でも、今のあの子のメンタルで2区を任せるのは無理があります。」
「じゃあ、誰が適任なんだ?そこまで言うからには、完璧な布陣を敷く事ができるんだろうな?」

いつの間にか今村の顔から笑顔が消えていた。
代わりに狡猾な蛇のような表情が浮かび上がる。

「わかりました。今回の箱根。結果に対しての全責任は私が取ります。」
「ほう。お前が責任を取ると?」
「ええ。本番のエントリーを私が勝手に書き換えて提出したとでも何とでも言えばいいでしょう。それで…もし…」
「もし、優勝できなければ、私は栄京女子大のヘッドコーチの座を自ら降ります。その時は、私の事はどう処遇されても構いません。」
「なるほど。自らの首を差し出すと。いいだろう。そこまで言うなら、俺は目を瞑るよ。乃木坂の方へはとりあえず頭を下げておいてやるよ。」

今村の言葉に玲奈はもうそれ以上自分の言葉を重ねる事を諦めた。
静かに頭を下げ、監督室を出た。

恐らく、結果がどうであれ私がこの先、この学校に残るという選択肢は残されないのであろう。負ければその全責任を背負わされて、勝ってもその手柄は今村のもの。そういうシナリオは既に描かれているに違いない。

だったら…
最後なら、絶対に…絶対に勝ってやる。

玲奈は手元のバインダーに挟んだペーパーを取り出した。

何度も何度も考えた。
たぶん、正解なんて何通りもあるんだろう。
でも…これなら…このメンバーなら、胸を張って私の最後のレースを託す事ができる。


栄京女子大 エントリーメンバー

1区 古畑奈和
2区 宮前杏実
3区 江籠裕奈
4区 市野成美
5区 惣田紗莉渚

6区 熊崎晴香
7区 岩永亞美
8区 北川綾巴
9区 二村春香
10区 山田みずほ

27.


「あんのぅ…小嶋先輩…まんず、わだしだち…片づけを…」
たぶん、何回も声をかけられていたのだろう。
背後にいた人影にようやく気がついた小嶋真子は、はっと後ろを振り向いた。耳につけていたイヤフォンを外し、バツの悪そうな笑顔を作る。
舌をぺろっと出してみせた。

「ごめんね結衣ちゃん。ちょっと考え事してて…音楽も聴いてたしね。」
「あ…いえ…わだしごそ…」
もじもじと小さな身体を更に縮めている横山結衣を見て小島は思わず笑顔になった。練習で走ってる時とは全然違う。この大人しそうな外見のどこに、あんな切れ味鋭い走りを見せるエンジンを隠しているのだろうか。

「真子先輩。何を聴いてたんですか?」
人懐っこく身体を寄 せてくるのは、坂口渚沙だ。
この子は…本当にいつも一生懸命だ。何を言われても「はいっ!」と大きな声が返ってくる。それでいて探究心が人一倍強い。どうすれば速くなれるのか…誰かれ構わず先輩を捕まえて、アドバイスを求めまわっている。そして、その飲み込みが実に早い。

「何?ああ…今ストレッチしてたからね。そういう時は静かな曲を聴くときが多いかな。って言っても…私アイドルヲタクだからさ…」
「アイドルですか?え?え?何聴いてるんですか?私も好きなんです。ももクロとか?jucie=jucieとか?」
小嶋の返事に強く反応したのは中野郁海だ。
まん丸な目を大きくして笑顔を見せている。

「へー。意外。いくみんってアイドル好きなんだ?」
「はい!」
「ヲ タクなのは、アイドルだけじゃないよね。いくみんは。」
坂口が小嶋から受け取った片方のイヤフォンを耳に入れながら言う。
「そうなの?あとは…?」
「アスリートヲタク。箱根ヲタクって言ってもいいかな?」
坂口がからかうように答えた。そうそう。横山も同意するように頷いた。
「箱根…そっか。それも私と同じだね。テレビで見た選手に憧れて本格的に走り出したってやつかな?」

小嶋が本格的に長距離を走り出したのは、高校に入ってからだった。中学の時はテニスをやっていた。四ツ谷大付属へ入学後、その持久力を見出されて陸上部にスカウトされた。その時に見せられた箱根駅伝のビデオを見てまさに「魅せられた」のだった。あんな風に走りたい。
系列大学の先輩であ る島崎遥香の走りに特に魅かれた。自分もあの舞台で走りたい。そう思ってからは迷う事はなかった。そして、走るたびに記録が伸びていった。
あの頃は…走る事が本当に楽しかった…


「やっぱり…横山監督が言ったとおりだね。」
「んだ。でも…小嶋先輩…それ聞いだら怒るんでないがど…」
「なに?なに?監督がなんだって?」
坂口と横山が少し照れたような、言いだしにくい事を打ち明けるような…そんな口調で会話をしているのに、小嶋が気づいた。というより、気づかないわけがない。坂口は自分の隣でイヤフォンを半分ずつ耳に入れて音楽を聴いてるんだし、横山だって自分の目の前にいる。

「あの…私の事なんです。」
「ん?いくみん?どした?別に怒らないから言ってみ?」
「あの…私…真子さんと似てるって…」
「似てる?私といくみんが?」

小嶋は目の前にいる中野の姿を上から下へと点検するようにじっと見た。
確かに…顔の系統が似てる…のかな?
いや、きっとそんな事じゃないんだろう。横山監督が言うくらいだ。きっと走りとかタイプとか…
そんな事に違いない。

「もー監督もねえ。そんな…私に似てるなんて言われたら…困っちゃうよねえ?」
実際、目の前にいる中野は直立不動までいかないまでも、ちょっと緊張した顔つきで立っている。
きっと真面目な子なんだろう。小嶋はにっこりと笑った。

「困るなんて…そんな…光栄です。」
中野が頬を赤くして俯いた。
まるで初恋の人に告白した時のような表情になる。
思わず小嶋まで恥ずかしくなってきた。

光栄…って。
でも、この子たちは私がまだ速かった頃の事を知っているのだろうか?
ここ数年、肝心のロードでは失速の繰り返しだ。特に駅伝では、本戦のメンバーにすら選ばれなくなってしまっている。四ツ谷大や聖ヴィーナスに進んだ同級生や後輩たちにまでどんどん差を付けれている。
ここのところの連取でも精彩を欠いていた。
そんな私に似てるって言われて…光栄なんて言ってもらえる存在なんかじゃないんだ…

「小嶋さん。あの…もし…もしですよ?」
中野が遠慮がちに…しかし、まっすぐ小嶋の方を向いて言った。
「もし、私が箱根のメンバーに選ばれたら…」
「うん。選ばれたら?」
「一緒に優勝目指して頑張りましょう!」
「ゆ…優勝?うん…あ、ほら、私まだ…」

そう。私が箱根のメンバーに選ばれるかなんてわからない…
いや。きっと今年も無理だ。
予選会でも大失速した。
この子たち3人の方がエントリーされるに相応しい力を持っている。

「あのさ。いくみん。」
「はいっ!」
本当にいい返事だ。そして、まっすぐで素敵な笑顔だ。
こんな顔をされると、なんか自分がモヤモヤした気持ちを引きずってる事がとてつもなく情けなく思える。

「走るのって好き?」
「はいっ!」
「楽しい?」
「もちろんですっ!」

そうだ…そうだった。
横山監督が言うのもわかる。
この子、私にそっくりだ。
私もこんな風に笑ってた。

そうだよね。走るのって楽しいんだ。
そう。そして、それを思い出すために、私は戻らなくちゃいけないんだ。
あの、華やかなロードの上に。

数日後、箱根のエントリーメンバーが発表された。
高校3年間は1区を走った。3年の時は渡せなかった襷。
今までは渡す側だった。渡される立場で走った事はない。

4人が運んでくる襷。
そこには、色んなものがしみ込んでるに違いない。
受け取ろう。そして、全てはそこからだ。


慶育大学 箱根エントリーメンバー

1区 後藤萌咲
2区 中野郁海
3区 田野優花
4区 横山結衣
5区 小嶋真子

6区 坂口渚沙
7区 谷口めぐ
8区 下口ひなな
9区 飯野雅
10区 相笠萌

28.

まだ明けきらない海辺の道を、穴井千尋は走っていた。
恒例になっている早朝のランニングだが、今日はいつもとコースが違う。
大濠公園の周回コースではなく、市街地から海沿いへと向かう道に一人のランナーを見つけたからだ。

見慣れたフォーム。すらっとしたスタイル。カモシカのように鍛えられた脚。
決して優雅なフォームではない。しかし、穴井は遠くから一目でそのランナーが誰なのかを理解した。
間違えようがない。実際生で見る事はなかったが、何度も何度もTVで見たフォームだ。

スタートしてもう5キロ以上走ってる。折り返す事を考えると、これはもう朝の軽いジョグではない。
それに、何よりペースが違う。
現役を引退した選手が健康やスタイル維持の為に走ってるようなペースとはまったく違う。
私だって一応、全国レベルの博多大陸上部のレギュラーだ。
統率力やリーダーシップには全く自信がないけど…キャプテンだって任されている。
今だって決して楽に走ってるわけではない。

なのに…なぜどうしても追いつけないの?

能古島を望む海沿いの公演で、ようやく前を行くランナーが脚を止めた。
「キャップ。趣味悪いよ。ストーカーみたいじゃん。」
殆ど息があがっていない。
まるで朝の挨拶をするみたいに、そのランナーが声をかけてきた。
「ただのストーカーなら…あんなペースで逃げられたらこんなトコまでついてこれんとですよ。」
「まー、そっか。で?なんでついてきたの?」
「それより…ずっと走ってたんですか?今でも…十分現役で行けとじゃなじゃないですか…さっしー。」
「ははは。まだまだ若いモンには負けない…とでも言っとくか。」

指原がストレッチをしながら笑った。
海の向こうから朝日が昇ってくる。

「さあ、ゆっくりジョグしながら戻ろうか?汗がひいちゃうと身体が冷える。今、風邪なんか引いたら洒落にならないよ。それに、何か話があるなら走りながらでも出来るでしょ?」
「あ…はい。でも、なぜ話があるって?」
「キャップだもんね。話といたほうがいいでしょ?今日のエントリー発表のこと。」

そう…
久住での合宿のタイムレースのあと、チームには何とも言えない微妙な空気が漂っていた。
雰囲気が悪いって訳ではないんだ。本番に向けて、むしろ士気は高まっている。
ひとりひとりの調子も上がってる。
でも…誰が5区を走るんだ?美桜が「ワタシは別に5区じゃなくても…」なんて発言するから。
なんか、もやもやっとした空気が澱んでしまってるんだ…

「5区は美桜に走らせるよ。」
「やっぱりですよね。はい。レースの結果で決まったんだから、そうするのが一番自然ですよね。」
「まあ、あんなレースしなくても、最初から決めてたんだけどね。」
「へ?じゃあ…なんであんなレースやったとですか?美桜が勝つって、さっしーは知っとったとか?」
「まあ…そんなトコかな。」
穴井は走りながら目を丸くして驚いた。

このヒトには、何度も何度も驚かされた。
確かに、博多大は九州各地を中心に、精鋭をスカウトして強化してきたチームだ。
力がある選手がそろっている。でも、こんな地方から関東の強豪が鎬を削る箱根駅伝へとこんなに早く駒を進める事が出来るなんて思ってもいなかった。去年シードこそ逃したものの、今年は予選会をダントツのトップで通過した。
全部、このヒトのマジックなんだ。1+1を2じゃなく、3にも4にも10にもする、この指原マジックなんだ。

「咲良とはるっぴは…?どうするんですか?どっちかが2区に行くとですか?」
「いや、2区はまどかに走ってもらう。」
「まどかに?じゃあ…二人は?」
「キャップさあ。そんな事より、自分の事は気にならないの?」
「あ…そうですよね…私…出してもらえるんですか?」
「まったく…アンタらしいね。」

指原は呆れたようにくすっと笑い声を立てた。
確かに、リーダーシップやキャプテンシーといった言葉には無縁の子だ。
でも、周りに目を配り、自分が足りない所、自分たちが足りない所を一生懸命に良くしていこうって姿勢を持つ謙虚さがある。自分より力のある者にはどうしても遠慮しがちな所はあるが、今の博多大のキャプテンとしては、最適なのかもしれない。

「咲良は3区。はるっぴには8区を走ってもらう。キャップ、アンタはアンカーだよ。」
「アンカーって10区ですか?でも…私、去年も10区で…」
穴井は去年も10区を走った。9位、シード権内で襷を受け取り、懸命の粘りを見せたが、残り2キロの地点でシード権争いを繰り広げる4チームの集団から一人遅れてしまった。
「大丈夫。っていうか、このチームで10区を走れるのは、まだキャップしか思いつかないんだ。」
「は…い。わかりました。でも…咲良とはるっぴ…納得しますかね?」

最近でこそ、3区とその折り返しを走る8区は「繋ぎの区間」と呼ばれる事はなくなったといえども、「華の2区」や山登り5区、山下り6区、「裏エース区間」の9区と比べて地味な存在だ。
宮脇咲良と兒玉遥は間違いなく、ウチの2枚看板だ。
その二人をあえてその区間にエントリーさせるなんて…穴井は指原の狙いを測りかねていた。

「さあ、そろそろ着くよ。すぐに着替えて汗で身体を冷やさないようにね。」
いつの間にか、またペースが上がっていた。
穴井の全身からは汗が噴き出している。
「は・・はい。わかりました。お疲れ様でした。」

さっしー…汗ひとつかいていない…
まだ十分現役で…しかも、国内トップクラスとして走れるんじゃないか?
なんで、こんなトコでウチの指導なんかしてるんだろう?

穴井は、まっすぐに合宿所のシャワールームに向かった。
汗をかいてすっきりしたのか、指原と同じ空気の中で走ったからなのか。
腹のうちまではわからないまでも、指原がこのオーダーに自信を持っている事だけはわかった。

だったら、私はそれを受け入れよう。
そして、いつものようにオロオロしながらだけど、みんなの先頭に立とう。
私はキャプテンとして、私が出来る事だけをやればいいんだ…


博多大学 箱根エントリーメンバー

1区 矢吹奈子
2区 森保まどか
3区 宮脇咲良
4区 秋吉優花
5区 朝長美桜

6区 本村碧唯
7区 田島芽瑠
8区 兒玉遥
9区 松岡菜摘
10区 穴井千尋

29.

「どうや?ざっと各チームのエントリー見て。」
「うーん…」
机の上に大きな地図が広げられている。
大きいがその中に描かれている道は一本だけ。
東京・大手町から箱根あ・芦ノ湖への一本道。
大きな赤い点が5つ道の途中に記されている。

その点の横に、赤字で20人分、青字で20人分の名前が書かれている。
箱根10区にエントリーした、出場校20校の選手の名前だ。

「やっぱ厳しいか…で、どう見る?シード狙いの小さくまとまったエントリーにはしなかったけど…実際は戦えそうなんか?」
横山が心配そうに島田の顔を見る。
今年の慶育のエントリーに関しては、ほぼ島田の考えに従った。
現役時代のイケイケな走りとはうって変って、指導者としての島田は実に冷静で、そして論理的に思えた。
いつもオロオロしてるのは自分の方だ。
強いリーダーシップを期待され、現役時代から将来、指導者として嘱望されていた自分より、とにかく走れば何とかなるから!そんな風にどちらかというと強引なタイプと言われた島田の方が、よほど指導者としての適性が高いのかもしれない…

「え?ごめん。何か言った、由依?」
島田が顔を上げた。その顔には笑顔すらある。
「なんや、人の話なんも聞いとらへんの?どうなん?他校のエントリー見て。」
横山はちょっと意外な気がした。
どう見ても、ウチの戦力は他の有力校に比べ見劣りがする。
ハチキャンの三人は間違いなく戦力アップに大きな貢献を果たしているものの、本番ではまだ未知数としか言いようがない。

「うーん。面白いねえ。セオリー通りって言えるのは…まあ、乃木坂くらいか…」
「乃木坂?でも、エースの生田は3区だし。あ…博多も宮脇が3区…か。」
「由依、3区はもう繋ぎの区間じゃないよ。2区…5区、6区…特徴のある区間よりも実は大事なのはその直後の区間だよ。ウチだってそう思うからこそ、一番力が安定してる田野ちゃんを起用したんだ。」
「そうか…そういう事なんや…なるほど。秋英はどうや?アソコもウチと同じでここ数年苦しんどるやない?シード争いの相手は秋英になるんじゃ…」
横山は、各選手の個別データを見ながらコース図を指さす。
島田は、相変わらず楽しそうな表情のままだ。

「川栄が5区、入山が9区に入ったって事は、万全って事なんだろ?どっちとも一番フィットする区間だからね。それより…」
「それより?」
「面白いのはココだね。一発ハマったら突っ走るかもよ。」
「ここって…聖ヴィーナス?」
「ああ。実績のある名取、平田、小笠原…計算できる上級生を外して1・2年生中心できてる。5区の伊豆田は4年だけど、箱根は初だよ。エントリーしてる400人の中でも10000の持ちタイムは下から数えたほうが早いんじゃない?確か34分近くかかる子のはずだけど。」
「伊豆田のタイム…?えっと…ああ、確かにそうや…」
島田には驚かされてばかりだ。聖ヴィーナスの伊豆田…正直、あまり注目されているランナーではない。
そんな子のタイムまで頭に入っているのか?

「そっか…萌が言ってたっけ。ちょっと生意気な子がいるって。」
「生意気?」
「なんか、むちゃくちゃ頭がいい子がいるって。真子と同じトシ。四ツ谷付属の子でしょ。」
「その子がオーダー考えたっていうんか?」
「わかんないけどさ…もちくらサンじゃ、こんな面白いオーダーは組めないよ。」

「四ツ谷大は?やっぱ、本命は栄京か四ツ谷やろ?大森や佐々木が外れてるのはウチにとってはラッキーやけど。」
「由依。ウチだって十分優勝争いに絡める…って私は思ってるよ。」
「なんやて?優勝?今、優勝言うたか?島田…アンタね…そりゃ、単なるシード狙いっていうんじゃダメだっていうのにはウチも同意したけどさ…」
「どこも盤石に見えて、何が起こるかわからないのが箱根だよ。忘れた?慶育が最後に優勝した年。最後の最後まで食い下がったのはどこのチームだった?ノーマークの学連選抜じゃなかった?」

確かにそうだ。
そう…実は、ワタシもワクワクしてるんだ。
慶育大学の復権。それがワタシに課せられた使命だ。
でも、それよりも…今は、このチームを早く全国に見せつけてやりたい。

それは、この不敵な笑顔を浮かべている島田も同じなのだろう。


主要大学エントリー

栄京女子大 

1区 古畑奈和
2区 宮前杏実
3区 江籠裕奈
4区 市野成美
5区 惣田紗莉渚

6区 熊崎晴香
7区 岩永亞美
8区 北川綾巴
9区 二村春香
10区 山田みずほ

四ツ谷大学 

1区 岡田彩花
2区 木崎ゆりあ
3区 茂木忍
4区 西野未姫
5区 岡田奈々

6区 込山榛香
7区 篠崎彩奈
8区 岩立沙穂
9区 向井地美音
10区 高島祐利奈

慶育大学

1区 後藤萌咲
2区 中野郁海
3区 田野優花
4区 横山結衣
5区 小嶋真子

6区 坂口渚沙
7区 谷口めぐ
8区 下口ひなな
9区 飯野雅
10区 相笠萌

博多大学 

1区 矢吹奈子
2区 森保まどか
3区 宮脇咲良
4区 秋吉優花
5区 朝長美桜

6区 本村碧唯
7区 田島芽瑠
8区 兒玉遥
9区 松岡菜摘
10区 穴井千尋

秋英学園大学

1区 市川愛美
2区 武藤十夢
3区 小嶋菜月
4区 達家真姫宝
5区 川栄李奈

6区 田北香世子
7区 森川彩香
8区 中西智代梨
9区 入山杏奈
10区 岩田華怜

聖ヴィーナス女子大学

1区 福岡聖菜
2区 大和田南那
3区 橋本耀
4区 梅田綾乃
5区 伊豆田莉奈

6区 内山奈月
7区 横島亜衿
8区 高橋朱里
9区 川本紗矢
10区 大島涼花

乃木坂大学

1区 生駒里奈
2区 若月佑実
3区 生田絵梨花
4区 堀未央奈
5区 橋本奈々未

6区 松村沙友理
7区 西野七瀬
8区 桜井玲香
9区 白石麻衣
10区 秋元真夏


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