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1.




湖畔の田舎道。お揃いの白地にイエローのラインが入ったのジャージに身を包んだ6台のロードバイク乗りが疾走している。縦一列に並んだバイクの間隔は30センチもない。前輪と後輪が擦れ合いそうなくらいに接近している。まるで的に向かって放たれた一本の矢のようだ。

先頭を走っていた女がさっと右手を横に出し、前を扇ぐような動きで合図を送る。
【先頭を変わってくれ】…その合図だ。
集団走行では自分の意思を表す為に手信号で後方へ合図を送るのがセオリーだ。障害物あり、この先左折、減速、停止…状況を素早く判断し適切な指示を手信号で後方に送る。それがなければ40km/hを超える巡航速度であれだけ接近して走る事は出来ない。

先頭交代のシグナルを受け、2番目を走っていた島田晴香が先頭に立った。いきなり強い風の抵抗を全身に感じる。

うえっ…大場って…この向かい風の中、あのペースでずっと牽いてたの?やるなぁ。もうすっかりブランクの影響なんてないじゃない?私も頑張って牽かないと…

ロードバイクにおいて、もっとも手強い敵は風による抵抗と言ってもいいだろう。レースにおいて、時として競争相手の選手以上にケアしなくてはならない対象になる。その為に、チームは隊列を作り交代で先頭を牽くのだ。5人で走ってる場合、先頭で空気抵抗を受けながら走る時の必要な力を100とすると、最後尾で走る時にはその数値は20にまで軽減されるというデータが立証されている。

今日の朝練はスピード強化を目的にしている。50kmの短い距離を全力で走る。ラストの2キロはスプリント合戦という事になっていた。目印の緩い坂の入り口で島田が一気にペースを上げる。普通のママチャリだと足をつかなくては登れない位の坂だが、このクラスのローディにとっては平地と変わらない。ギアを2段重くしてダンシング(立ちこぎ)で一気に坂を登っていく。スプリンタータイプの脚質の島田にとって、緩い登りのスプリントは本領発揮の場だ。後ろについていた、山内鈴蘭、市川美織、島崎遥香、永尾まりあをあっという間に引き離していく。今日もいつもと同じだ…ラストの私のスプリントにはオールラウンダーの山内や永尾、島崎、ましてやクライマーの市川はついてこれない。島田はちらっと後方を見やった。

お…大場じゃない。最後尾に下がってたのに。やるなあ。ずっと牽いてたのに元気あるんだね。へ~面白い。どこまでくらいついて来れるかな?


島田が更にギアをシフトアップした。坂を登り切りラスト1キロは平坦でまっすぐな道だ。信号もない。前傾姿勢を強くしてペダルを踏み込む。サイコンの速度表示は50km/hを遥かに超えた。


「はあ…はぁ…はぁ…やっぱ速いや。最後かわせると思ったんだけどなあ。」
「いや…それはこっちのセリフだよ。大場、元からスプリント強いもんね。次のレースじゃ、私がアシストに回らないといけないかも…」
「何言ってるの?ヒルクライムならともかく、平地レースでのウチのエースは晴香じゃん。この1年の実績もあるしね。」
島田と大場はバイクを路肩のガードレールに立てかけて笑い合った。額には大粒の汗がにじんでいる。そこに、遅れてきた4人が到着する。
「もー。なんであそこで二人とも重いギアに変速できるんですかあ?しかも、最後まで踏み合っちゃって。全くスプリンターって人種は理解できませ~ん。」
頬を膨らませているのは市川だ。山岳ではその身体の軽さからチーム一の登坂力を見せるがトップスピードはやはり劣ってしまう。ゴール前の混戦を最も苦手としていた。

「美織はもっと食べてパワーつけなきゃ。あと上半身の筋トレもね。」
「やですよ~。島田さんみたいにムキムキになりたくないですもん~」
「おーい…またその話かあ?」
「ひー、ごめんなさい~」
明るい笑い声が周囲を包んだ。休憩場所の道の駅に続々とメンバーが戻ってくる。第2・第3…ペース別に集団を組んで走っていたメンバーだ。最終的には30名程の人数が集まってきた。
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2.


「店長、マジですか?幾らなんでも、それは無謀じゃあ…?」
「うん?そうかなかあ?まあ、総合優勝争いは無理としても、平坦ステージでの1勝をターゲットにすれば案外イイ線行けるって思ってるんだけど。」

朝練後のひと時、ショップの開店までの時間、作業台の周りで自転車談議に花を咲かせるのがメンバーの週末の楽しみの一つだ。その時、思い出したように店長の野呂佳代が発した言葉にその場の全員が耳を疑った。

「来年のツール・ド・ジャパン、ウチの店が実業団枠でエントリーする事になったから。」

ツール・ド・ジャパンは国内自転車レースの最高峰だ。本家のツール・ド・フランスに比べると全7ステージと規模は非常に小さいものの40年を超す伝統がある。しかし、大きな注目を集めるようになったのはここ数年といってもいいだろう。自転車ブームが追い風になるとともに、ここを踏み台に本場のツール・ド・フランスへの出場を果たした前田敦子の存在が、このレースの注目度を一気に高めていた。欧州中心のロードバイクマーケットは日本という市場に新しい可能性を見出し、各プロチームは前田に続く逸材を血眼になって発掘しようとしていた。その事が、日本のロードレーサー達の意識を劇的に変えた。世界最高峰のグラン・ツールの舞台はもう決して夢ではない。自分たちにもチャンスがあるんだと。

もちろん、このレースに参加するのは国内のプロチームがほとんどだ。メーカーやスポンサーからの支援を受け、「プロ」として走る。そんなエリートレーサーにしか走る事を許されない。それが「ツール」だ。
野呂の経営する「サイクルショップ・フォー」は、千葉・埼玉に4店舗を展開するスポーツサイクルの専門店としては規模の大きな自転車店だ。特に千葉県柏市の本店には実業団登録したローディが集まり、ショップ系のロードチームとしては国内最強の呼び声も高かった。とはいっても、そこは「実業団」。市民レベルのレースでは無敵の強さでもプロとの差は大きい。実際、島田はまだ大学生だし大場や島崎も普段は普通の社会人として仕事を持っていた。市川に至ってはまだ高校生である。

「みんなは嫌?あの舞台で走れるって事だけでワクワクしてこない?」
野呂はすっかりその気だ。
「でもねぇ…実業団枠って毎年言われてるじゃない?。記念で出場するだけのチームなんか出てくる価値ないって。なんか肩身狭いのもねぇ。」
大堀恵がため息をつきながら言う。選手登録してるメンバーでは最年長で、頼りになる姉貴分の存在だが、さすがに腰が引けている。
「でも…初日の平坦コースだけに絞って突っ込めば…テレビに長い時間写るくらいはできるかもしれないですよ。そしたら、店のいい宣伝にもなるじゃないですか。」
島田が何かを企んだような表情で言う。

島田にはちょっとした自信があった。ただの自転車バカになりたくない。そう思ってプロチームからの誘いを断って進学した島田だったが、この1年、アマチュアのタイトル…特に平坦路で行われるレースののタイトルを総なめしてきた。市民レース最高峰のツール・ド・おきなわでも優勝し、卒業後はプロでやっていく自信のようなものが芽生え始めていたときでもあった。

「私は挑戦出来るだけでも光栄だな。でも、ジャパンって1チーム9人でしょ?この中での競争も厳しそう。せめて常時第2グループで走れるようにならないとなぁ。」
輪の一番外で話を聞いていた浦野一美が目を輝かして話した。
「お~シンディさんがその気だ~」市川が茶化す。
「こら。私だってまだまだ若いモンには負けないからね。」浦野の言葉に笑い声が起きた。
「じゃあ、決まりだね。あと10カ月。長いようであっという間に来ちゃうよ。」

来年9月の大舞台に向け、一つの小さなチームの挑戦がスタートした。
もちろん、この時にはこのチームの存在がレース全体を大きく左右することなど誰も知る由もなかった。

もちろん、ここにいるメンバーでさえ。

3.



「ちぃ~っす…」
「おつかれ~…っす。雨っすね~…あぁ~あ、外走りたかったなぁ」
菊地あやかと藤江れいながトレーニングセンターへ入ってきた。広い室内には、様々なトレーニング機器、何台ものスピニングマシンが配置されている。スポーツクラブに置いているようなサイクリングマシンではない、ロードポジションで本物と同じ感覚でトレーニングできる最高機種のものだ。

「おい、いつまでも、だれてるんだよ。今年のジャパン終わってもう二月経つんだよ。もう来年に向けてさ、気持ちしっかり切り替えないと。」
秋元才加が二人に厳しい顔つきで声をかける。ずでに全身汗だくだ。
「優子。アンタからも言ってやってくれよ。」
スピニングマシンにまたがり軽くアップを始めていた大島優子が顔を向ける。耳からイヤフォンを外した。
「ん?何?何か言った?」
あどけない笑顔。子供のような目を大きく輝かした表情に秋元は思わず笑みを浮かべた。

大島優子。前田敦子のいない日本で彼女を脅かす選手は存在しないと言っても良かった。昨年に続き今年もジャパンの総合優勝に輝いた国内最強レーサー。山岳にもスプリントにも強く、そのオールラウンダーとしての才能を余すことなく出しつくし円熟期を迎えた大島は、今最も本場のグラン・ツールに近い女として目されていた。
もちろん、彼女のジャパン連覇は一人の力ではない。総合優勝のタイトルは個人一人の力では到底無しえない事だ。一人のエースを勝たせる為に、チームメイトは持てるもの全てをエースの為に使う。時としてマシントラブルにあったエースに自分のバイクを差し出す事もあるのが、ロードレースの世界だ。

大島が所属する「K's Racing」は大手携帯電話キャリアと大手信販会社をスポンサーにしたプロチームだ。チームの精神的支柱である秋元才加、宮澤佐江、仁藤萌乃といった強力なアシスト陣を擁し万全のチームを構築している。山岳では板野友美という他チームに行けば十分エースを張れる力を持った選手が大島をアシストし、その総合力は他を圧倒していた。

「優子、残念だったね。来シーズンは間違いなくヨーロッパで走るって思ってたんだけど。何?最後は条件面?まだまだ日本人は選手としての評価をまともにしてくれないんでしょ?」
秋元が汗を拭き再びマシンにまたがる。
「うーん…お金じゃないんだな。それに、私はビックチームじゃなくてもいいって言ってるんだけどね。それよりも…」
「ん?それよりも?」
「いいんだ。とにかく、これですっきりしたよ。来年もこのチームでジャパンを取る。シンプルでいいじゃん?」

大島はそう言うと、再びイヤフォンを耳にした。ぐっと顔を引き締めクランクを回すスピードを上げていく。藤江も菊地もそれを見ると急に背筋を伸ばしてアップを始めた。これだ…何も言わないけど、優子はこうやって自分を厳しく鍛える姿を見せつける事で、若手に手本を示している。秋元は大島のアシストとして働ける事を心から誇りに思っていた。自分は決して華やかなスポットライトを浴びる事は無くても、大島を勝たせることが自分の使命だ。秋元は今日も自らの肉体をいじめ抜くトレーニングを始めた。




4.



「いつまでもプロパー(生え抜き)だけに拘ってもしかたないでしょ?事実、ウチはエースを海外に持っていかれたんだから。このままじゃじり貧だよ。」
会議室の中、声を荒らげるのは高橋みなみ。プロ・チーム「Skill Ace Racing」の選手兼監督だ。スキル・エースは自転車パーツや釣り具等の大手製造メーカーと製薬会社がスポンサードする老舗チームだ。長く日本のロードレース界を引っ張ってきており、今も強豪と呼ばれるチームだが、3年前にエース前田敦子がヨーロッパに移籍して以降、これといった実績を残せないでいた。
「でもさ、ヨーロッパでは選手の引き抜きは珍しい事じゃないかもしれないけど、ここは日本だよ?しかも、よりによって同じ業界のスポンサーがついてるチームからなんて…あとあと遺恨が残ったりしたら走りにくいんじゃない?」
チーム最年長の篠田麻里子が腕組をしたまま発言する。
「それにさ、ウチは指原をエースとして育てるって方針を今年打ち出したばっかだよ。そりゃ、ジャパンでは失速したけどそれは指原のせいじゃない。アシストの私たちが序盤の集団落車でリタイアしたからじゃない。あの展開ならたとえあっちゃんがエースだったとしても勝てなかったよ。」
「いやいやいや小嶋さん…やっぱり私がいけないんです。もっと私がしっかりしてれば、秋元GMもこんな事言いださなかったと思うんです。」
小嶋陽菜の言葉に指原莉乃が申し訳なさそうに言葉を返した。

今年のツール・ド・ジャパンでスキル・エースは復権をかけ、エースに指原莉乃を据えてレースに臨んだ。ここ最近、すっかり力をつけてきた指原を、高橋・篠田・小嶋・高城といった強力なアシスト陣で固める。布陣としては十分K・ファクトリーに対抗できるものであった。しかし、初日に発生した集団落車にチームの半数以上が巻き込まれ、アシストを失ったチームは2日目以降のステージにおける消耗戦をまともに戦う事すら出来なかった。その中でも、総合9位に入った指原の力には今後期待を寄せる声が多かったし、来シーズンに捲土重来を期すメンバーも多かった。

それだけに、今回の突然の移籍話にはメンバーに大きな動揺を与えた。
めいめいが愚痴ともとれる内容の雑談をしてるところへ、GMを務める秋元康が入ってきた。

「え~みんなの耳にはもう入ってると思うが、次のシーズン、我々スキル・エースに新しいメンバーが加わる事となった。先ほど正式に契約が結ばれたので、早速紹介するぞ。当然みんなも知ってると思うが…渡辺、みんなに挨拶してくれ。」
「はい。渡辺麻友です。今日からスキルAにお世話になります。みなさん、宜しくお願いします。」
渡辺がぺこっと頭を下げる。小柄で華奢な身体。黒髪の長髪にブレザー姿。一見、その辺にいる高校生のような見てくれだ。しかし…この見た目に騙されてはいけない。その場にいるメンバーはこの渡辺の恐ろしさを身にしみてわかっていた。
軽い体躯を活かしてひらひらと舞うように急坂を顔色一つ変えずに山岳ステージを登っていく姿。相手の心の奥底を見透かしたような駆け引きのテクニック。「ヒルクライム・サイボーグ」いつからか渡辺に与えられた異名だ。今年のジャパンでは大島を押さえ、2つの山岳ステージを制し土壇場まで総合優勝争いに踏みとどまった。

「宜しくね。麻友。紹介するね…こちらが…」
渡辺はメンバーを紹介しようとする高橋の言葉を遮って小さな笑みを浮かべた。
「紹介は結構です、皆さんの事は良く知っていますから。」
「そっか…ねえ。麻友はなんでウチへの移籍をOKしたの?」
「そうですね…ここの方がプロが多いからって思ったからですかね…Bには甘ちゃんしかいなかったんで。みなさん、仕事に徹してくれるんでしょ?」
「仕事か…そうだね。みんな自分の役割に誇りを持って臨んでる事は確かだけど。」
高橋がちょっと首をかしげて言う。
「これからも宜しくお願いしますね。これからのみなさんの仕事は…私の為に走る事ですからね。くれぐれもそれを忘れないように。」
「はあ?何さまなんだよ。来て早々エース面か?」
篠田が椅子に座ったまま机を蹴飛ばした。
「だって、私はエースとしてここに迎えられたんですから。そういう顔して何が悪いんですか?篠田さん、子供の喧嘩するんじゃないんだから、お互いプロとして仕事を全うしまししょうよ。」
篠田が渡辺を睨みつけた。渡辺は薄笑いを浮かべたまま引き下がらない。

「GMぅ…何とか言ってくださいよぉ…」
高橋が秋元に助け舟を請うように言う。
「とにかく…スポンサーからは来年のジャパンは必ず取るように厳命されている。1年なんてあっという間だ。みんな、しっかりチームを組んでくれよ。」
秋元の口から出た言葉は高橋が期待していたものではなかった。
こりゃ大変だ…高橋は小さくため息をついた。

5.


「…………はぁ……」
「…………ふぅ~……」
柏木由紀と増田有華が顔を見合わせて同時にため息をついた。
「まったく、戸賀崎さんも弱いよねぇ…」
「幾らウチがスキルAからのれん分けされて出来たチームいうても、立派なプロチームやん?ここ数年はウチの方が成績ええのに。なんで秋元さんの言いなりにならんといかんっちゅう話よね。」
「まあ…仕方ないよ。大人の世界の話だから。」
柏木がジャージに着替え諦めたような表情でヘルメットを被る。

ブリジストン・アンカー・テストチーム。通称チームBはタイヤ・スポーツ用品をはじめとして多種多様の商品を取り扱う商社のスポーツバイク販売戦略を目的に設立されたチームだ。年々力をつけ、今年のジャパンでは初めてエースの渡辺麻友を表彰台に送り込んだ。しかし、チームが選んだ選択はそのエース・渡辺の放出だった。その背景にはスポーツバイク部門のスキルAとのビジネス戦略が見え隠れしていたが、もちろん選手である柏木や増田に異を唱える権限など与えれていようもなかった。

「有華は知ってるの?麻友の代わりに加入するって子の事。大阪のチームから来るって聞いたけど。結構有名な選手だってよ?」
「ゆきりん知らへんの?山本彩ちゅうたら、結構名の知れたスプリンターやで。ただ、アシストがおらへんで腐っとったみたいやけど。」
「そうなんだ。でもねぇ。麻友の代わりに入れるなら山登れる子じゃないと…それに、またスプリンター取るとか聞いたら、ウチのワンちゃんがまた吠えまくるよお…?」
「みゃおかいな…しゃーないなあ。アイツは誰かに噛みつかんとおれん性格やからなぁ。でも、これでもう来年のジャパンの戦略は決まっちゃったようなモンやなあ。総合は狙わん…いや、狙えんっちゅう事や。やから、スプリンター揃えて初日とかで目立っとこうって狙いやろ。ウチらの仕事は…少のぅなるわな。」
増田が寂しそうにつぶやく。

「おっはよーございます!」
パンを咥えながら宮崎美穂が更衣室に入ってきた。
「おはよ。しかし、アンタまたあんぱん?好きだねぇ。」
「はい。練習前はお腹空くんですよ。」
「ちゅうて、練習終わったらまた腹減った言うて食べるんやろ?」
「はい!だって食べなきゃ身体は出来ませんから。スプリンターは最後自分の筋肉と体重を使ってスパートするっていうのが私の持論なんで。」
「まあ…みゃおがそう言うと説得力はあるけどね…あ、でも、今日のメニューは山岳だからね。わかってるでしょうね?」
「えぇ~やっぱ山登るんすかぁ?ヤダなぁ…嫌いなんだよなぁ…」
「何言うとるん?しっかり山登らんと、ジャパン完走すら出来へんで。今年なんてせっかく平坦ステージで優勝取ったっちゅうのに山でリタイア寸前まで落ちてもうて…あそこでしっかり足残せてたら最終日だってステージ優勝のチャンスあったんやで?」
「ふぁ~ぃ、わかってますよぉ。」
宮崎は頬を膨らませながら着替え始めた。

渡辺不在のチームが存在感を示すには、宮崎を始めとしたスプリンターたちに頑張ってもらうしかない。新加入の山本の力もどうやら期待できるものらしい…
さてと、やれる事を頑張ってやりますか…

6.



渡辺麻友のスキルAへの移籍、そして山本彩のチームBへの加入。来シーズンに向けての新体制作りが落ち着いた頃、ロードレース界に大きなニュースが飛び込んできた。

前田敦子が日本に戻ってくるらしい…

大島優子、秋元才加、板野友美…Kレーシングのメンバー全員が揃って、トレーニングセンターのテレビに映し出された前田敦子の記者会見を食い入るように見つめていた。

「前田さん、このたび日本に戻って来られるという事ですが?」
「所属のリクイガスとは契約更新の方向で話が進んでるとの事でしたが?」
「日本人として初めてツール・ド・フランスを完走し、第2ステージでは5位に入ったあなたが今日本に戻ってくる意味は何なのでしょうか?」
記者から矢継ぎ早に放たれる質問の矢に笑顔だけを返し、前田壇上に登って一礼した。
隣には長身の外国人が立っている。
「おい…あれ…ランスじゃないか?」
「ああ、なんで…アームストロングがこんなところに?」
ロードレースに係わる人間ならその名前を知らない者はいない…癌に侵され、一旦は競技生活から離れたものの奇跡の復活を果たし、前人未到のツール7連覇を達成。現在アメリカで自らがオーナーを務める若手育成のチーム「TREK-Livestrong U-23」での活動の傍らビジネす界への進出を狙っている女性だ。

ランスは流暢な日本語で会見を仕切り始めた。
「みなサン、今日はアツコ・マエダの新しいスタートの発表ニお集まりいたダキまして、ありがとうございマス。ソレデハ私から、アツコの新しい所属先を発表いたしマス。」
会場が息をのんだ。前田の国内復帰は確かに大きなニュースだ。しかし…レース界の大物であるランスがわざわざ日本まで足を運んで、しかも会見に立ちあうなんて…その場の誰もが意味を図り兼ねていた。

「ソノ前に…私、ランス・アームストロングは、このたび、日本のプロ・ロードチーム、「K's Racing」のGM兼総監督に就任する事になりまシタ。」
会場からどよめきが起きる。

「聞いてた?」
秋元才加が驚いて大島に聞いた。
「いや…なんにも…」
大島が首を横に振る。
「なんで、あんな大物が…?それに…前田敦子…まさか?」


「ソシテ、私が率いる新生K's Racingのエースとして、ここにいるアツコ・マエダが加入してくれるコトに決定しまシタ。」
記者たちから一段と大きなどよめきがあがる。カメラのフラッシュが一斉に瞬いた。


「ランスさん、あなたがわざわざこんなロードレース発展途上の日本のチームを率いる意味は何なんでしょうか?」
「Kレーシングには大島優子という絶対的エースがいますが、前田さんとの位置関係はどのようにハンドリングされるおつもりですか?」
「前田さん、やはり日本で走るからにはエースじゃないと納得しませんよね?」
記者からの質問が飛んだ。明らかに先ほどとはテンションが違う。

「すいまセン。今日は質問には、ノーコメントです~。最後に、もう一つ発表ガありマス。アツコと一緒に国内のチームから1名、Kレーシングに移籍する選手がいます。」
「それは誰ですか?」
「前田さんのアシストとしてですか?」
「今日はその選手の名前だけ、発表しマス。Her name is…Sayaka Nakaya from Skill A Team。今日は以上デス、ありがとうございマス。」

「ナカヤ…サヤカ?そんな選手いたっけか?」
「ああ…たしか…スキルAに。でも、ジャパンとかには出てくる選手じゃないぞ?」
「前田のお守り役なんじゃないか?もともと前田はスキルAにいたんだし。」
「じゃあ、なんでKレーシングなんだ?それより、ランスだよ。日本で何をしようっていうんだ?」
「とにかく、これはおっきなニュースだよ。暫くはネタに困らずに済むんじゃないか?」
記者たちの興奮は最高潮に高まっていた。

「いったい…どうなるんですか?私たち。」
藤江れいなが不安そうに口を開いた。
「わかんねーよ。でもさ、やる事は変わらないじゃん。上が変わるなんて、この世界じゃ良くある事だし。それに、誰が来たってチームの戦略通りに走るのが私たちの仕事だろ?さ、ロード出ようよ。今日は筑波山まで行くんだ。時間無くなっちゃうよ。」
大島が立ち上がった。

「萌乃…アンタ、仲谷って子の事…覚えてるよね?」
菊地あやかが仁藤萌乃に小声で聞く。
「うん。覚えてる。チームBで一緒だったからね。でも…スキルAに行ってからは全然名前聞かなくなったけど。」
「なんで、前田敦子と一緒に来るんだろ?」
「さあね。」
仁藤がクールに答えた。自分には関係ない…そう言いたげな口調だった。


※もちろん、本物のランス・アームストロングは男ですw このお話の中では「ツール・ド・フランス」は女性のスポーツって設定ですので…おい!って突っ込みはナシでお願いしますです…

7.


「で?決断してもらえましたか?珠理奈がエースじゃ総合は取れないんですよ。今年みたく、せいぜい表彰台の一角をかすめ取るくらい。スポンサーもいい加減3位はもういいって言ってるんじゃないですか?」
牧野アンナが湯浅洋に掴みかからんばかりの勢いで詰め寄っている。

名古屋に拠点を置く、栄中日バイクは東海地区でダントツの発行部数を誇る新聞社をすぽサーにしたチームだ。松井珠理奈をエースに据え、総合3位の椅子を3年続けて確保している。また、珠理奈では勝てない。テクニカルマネージャーとして選手への実技指導に当たる牧野は監督の湯浅に早くから進言をしていた。

「ですから…何度も言いますけど、珠理奈は確かに逸材です。この先10年以上、日本のロード界をひっぱって行くだけのものを持っています。ですが、我々はプロです。スポンサーが求めているのは3位じゃありません。トップに立たないと意味がない。スポンサーの意向に添ったチーム運営をする事は、我々スタッフにとって何よりも重要な事のはずです。来年こそ…勝てるチームとして戦略を練り直しましょう。」
「君の言う事は正しい。だけどな…それじゃロマンってものがないだろう?目先の勝ちだけに拘ってては、真のロード界の発展は…」
湯浅のちょっと困ったような弱弱しい回答を牧野が切り捨てた。
「ロマンじゃスポンサーは付きません。」

常に夢見がちで理想論を語りがちな湯浅に対し、牧野は火が出るほどの情熱の中に極めてクールな現実論を持っていた。湯浅は5年先の事を見据え、珠理奈をエースとして使い続けた。まだ、若く持久力が完成されていない珠理奈は、その爆発的なスプリント力に比べ登坂力に弱みを持っていた。今のツールは、どうしても山岳に強いオールラウンダーを持つチームが有利だ。本場のグランツールもそうだし、ジャパンですら超級の山岳ステージが組み込まれており、ここ10年以上に渡って総合は山に強いエースを持つチームが勝ちとってきた。

チームには松井玲奈という存在がいた。細身の体で脚質は紛れもないヒルクライム型。平坦のスプリントではさすがに分が悪いが総合力では国内屈指の力量だ。今年のジャパンでは、山が苦手な珠理奈のアシストに徹したが、単独で山を制する力は十分に持っている。

牧野の考えはわかってる。玲奈をエースに据え、珠理奈を平坦でアシストに使う。総合争いに勝つにはそれが一番の近道だ。それくらい俺にもわかってる。でもな…なんかワクワクしないんだよ。こう、なんていうかさ。燃えてこないっていうか。監督の俺がそんな事言ってるからダメだって牧野は言うんだろうが…

「ま、もうちょっと時間をくれよ。玲奈や他のメンバーとも話をしてみたい。それに、俺だっていつまでも自分のクビが安泰だとは思ってないからさ。ちゃんと考えるよ。俺だって、勝たなきゃいけないって事くらいはわかってる。」
湯浅が牧野に笑って言った。

そう…俺にだって、危機感くらいはあるんだよ…

8.




「ごめんね~待たせちゃったよね?いや…最近練習きつくってさ。なかなか疲労が抜けなくて大変なのよ。コレが。」
河西智美が喫茶店に慌てて駆け込んできた。慌ただしく椅子に座る。
「いいじゃん、とも~み…そんなクタクタになるまで走れるってさ。」
「あ…ごめん。つい…私、無神経だよね…」
河西が申し訳なさそうに下を向いた。
「あ…ごめん、そんなつもりで言ったんじゃ。私の方こそイジイジしてるね。」
「ううん、仕方ないよ。あ、何飲んでるの、えれぴょん?私も同じものでいいや。」
「私?カフェオレ。」
小野恵令奈がコーヒーカップを持ち上げて笑顔を見せた。

「どう?チームBは?」
「そうだね~…一言で言うと…ユルい、かな?」
「ふ~ん。そうだね。確かに外から見ててもそんな感じがする。確かにK'sレーシングとはカラーが全然違うよね。渡辺さんも移籍しちゃったしね。」
「でもね…決していい加減ってわけじゃないんだよ?」
「わかってるって。とも~みはそんな風に見えないけど、人一倍レースには熱くなるんだもんね。一緒に走っててヒヤヒヤするくらい。」
「ずっと一緒に走ってきたもんね…私たち…」
河西が寂しそうな表情を浮かべ、カップを口に運んだ。

小野恵令奈は、かつてKレーシングで大島優子とエースの座を争う好選手だった。むしろ大島よりも先に頭角を現していたのは小野と言ってもいい程だ。だが、3年前のジャパンで彼女を悲劇が襲った。レースは山岳を終えて下りに入っていた。先頭数段の中で落車が発生した。高速でのダウンヒルは事故が起こるとその影響は極めてクリティカルになる場合が多い。小野の場合もそうだった。100km/h近い速度で宙に舞った小野の身体は激しく地面に打ち付けられた。幸い一命は取り留めたものの、小野の脚は、何度かの手術、そしてその後の厳しいリハビリを経ても、二度と動く事はなかった。

「とも~みは、Kに戻りたくないの?」
「う~ん…戻りたくないって言ったらウソかな?やっぱ、強いチームで走りたいもんね。それに今度は前田さんまで入ってきたし…」
「前田敦子…か。ね、どっちがエースになるのかな?」
「優子ちゃんと?難しいよね。って、でも、なんで二人もエース候補を揃えちゃったんだろ?二人のエースが並び立って上手くいく事ってないじゃない?ランスだって、自分の引退直前の事忘れたわけじゃないでしょうに。」
河西の言葉に小野も頷いた。

前田とともにKにやってきたランス・アームストロングは引退前、アスタナという強豪チームに所属していた。そこにはアルベルト・コンタドールというその後ツールを3年連続で制する事になるエースがいた。有終の美を飾る場所としてアスタナを選んだランスは、二人のエースを抱えるチームの迷走に最後まで振り回され、その望んだエンディングを迎える事を許されなかった。

「それに…あの人が…許すわけない…どんな手を使っても阻止しようとするはずよ…」
小野が暗い声で呟いた。
「え?あの人がなんだって?」
河西が聞きなおした。
「あ、なんでもない。ねえ。今日はこれからどこ行く?」
「そうだね~。どうしよっか?」
小野は何事もなかったかのように笑顔を見せた。


私は忘れない…
あの時、あの人は…確かに笑ったんだ。
私を見下ろしながら…




9.

新年早々の1月3日。栃木県のツインリンクもてぎでは恒例の「100kmサイクルマラソン」が行われる事になっていた。本格的なサーキットを走れるイベントという事で例年人気を集める市民レースだ。制限時間が4時間と余裕のある設定の為、ファンライドの参加者も多い一方でアマチュアトップクラスのチームも参加する事で知られている。

午前8時。身を切るような寒さの中スタートラインに並んだ選手たちの中に「サイクルショップ・フォー」の面々の姿があった。実業団登録してるとはいえ、アマチュアの彼女たちにとってチーム内のランク付けの為にこうした実戦の場はとても重要な位置づけになる。メンバーは正月気分も無くこのレースに参加していた。

「基本、今日の結果で9名プラスアルファの選抜チームを選ぶからね。」
店長の野呂の言葉を待たず全員がそのつもりで参加していた。

スタート直前、有力選手の何人かがアナウンスされた。
「ゼッケン1101 昨年のツール・ド・おきなわチャンピオン、サイクルショップ4所属・島田晴香選手。」
周囲の選手が島田の方を見る。ちょっとしたスター扱いだ。島田はその視線に軽く会釈して応えた。だが…今年はレースに臨む意気込みが少し…いや大きく違う。ジャパンへの参戦を表明した事で注目度が全然違う。ここでいい走りをすれば、自分の進路に大きくプラスになる事は間違いない。国内トッププロチーム…いや、上手くいけば海外から声がかかるかもしれない。島田のモチベーションは極めて高い状態にあった。

ノーオーダー。今日のレースにはそういう指示が出されていた。つまり、各自が好きに走りなさいという事だ。元々プロとは違い、特に誰を勝たせなくてはならないという事はない。だが、通常やはり同じチームとして協調し、最後はエースの島田がスプリントで勝つ…これがいつものスタイルだ。今日もノー・オーダーとはいえ、サーキットの周回コースという特性からスプリンターの島田を中心にしたレース展開になる事は明白だった。

レースは1周4キロのコースを25周、途中1キロ程の登りはあるものの、基本は平坦で単調なコースだ。トップクラスの選手ならギアをインナーに落とすことなく走る事が出来る程度のアップダウンしかない。
序盤、何人かの市民レーサーが逃げに出ようと飛び出すが、すぐに集団に吸収される。数人で走るのと何十人もの選手が交代で先頭を牽きながら脚を温存できる集団とでは巡航スピードが違うのは当たり前だ。サイクル4のメンバーはほとんどが集団先頭付近にいた。集団は脚を温存できるというメリットの半面、集団落車に巻き込まれるリスクも抱える。有力選手は集団の先頭付近でそのリスクを軽減するのがセオリーだ。

10周を過ぎ中盤に入ったところで集団に動きがあった。集団から5名の選手がスパートをかけ飛び出した。浦野一美、大堀恵の二人、山内鈴蘭、市川美織、島崎遥香の若手3人を引き連れて5人の逃げ集団を形成したのだ。
島田はこの逃げにちょっと意外な思いを抱いた。ノーオーダーといえ、ウチのチームが今まで逃げ集団を作った事はなかった。平坦コースでこれまで実績があるのは私と…せいぜい大場くらい。そのためにはなるべく多くの選手が集団に残って先頭交代に加わっていたほうがいい…実際5人が飛び出した事で、今私の周りにいるのは、大場、永尾、仲俣、阿部、中村、入山、竹内の7人になった。先頭集団は50名以上の大集団だが、同じチームの選手が逃げてる状態でどういう動きをすべきか…島田はその判断に迷った。残りはまだ半分以上ある。しかし、50人いるとはいえ、周囲とのレベル差は顕著だ。実際は前に出た5人対7人…そう思った方がいい。追うべきかここは控えるべきか…

「ね。大場、どうする?」
「いいんじゃない?行かせて。多分Cindyさんの差し金だと思う。あの人には最後競る脚がないから…選抜に残る為の苦肉の策じゃないかな?」
「慌てんないで、待ちましょ。残り5周で追っても間に合うって。」
仲俣が会話に割り込んでくる。仲俣の分析はいつも正しい。チームの戦略に彼女の的確な判断は欠かせない要素だ。

そうかな…?Cindyさんとめーたんはまだいい…ただ、それにぱると美織が乗っかったのが気になる。あの二人ならそのまま逃げ切ってもおかしくない…それに、仲俣はそもそも自分が選抜に残りたいって前提でそう言ってるんだろうか?そんなモヤモヤした思いを抱えながらも、そのままずるずるとレースは周回を重ねていった。

残り5周。先頭との差はさらに広がった。長い直線に入ってもその姿が見えなくなる。
「そろそろマズイんじゃない?」
「そうね…チームとしては、前に行ってるのが全員ウチだから逃がしてもいいけど…ちょっとこのままじゃ私たちの見せ場がないよ?」
島田と大場が頷いた。周りにいたメンバーに視線を送ると、ギアを一段重くしてペダルを踏む力を強める。一気に速度が上がった。

ついて来れたのは、竹内と永尾だけだった。阿部と仲俣、入山はスパートに乗れず遅れていく。集団から島田たちのペースについて来れる者もいなかった。
しまった…予想以上に仲俣たちの消耗が大きかった。前は5人、こっちは4人。追いかけるには前の集団以上にペースを上げなくてはいけない。こりゃ厳しいな…自分が牽かなきゃ…島田の表情に焦りが浮かんだ。

先頭に追いついたのは残り1周になった辺りだった。9名の先頭集団、全員がチームメイトだ。ここは戦略を立てて協調してもいい局面だ。普通ならここでチームオーダーで誰を勝たせるかの指示に従うところだが、今日はそれがない。
「めーたん、どうします?」
島田が最年長の大堀に聞く。
「どうって?今日はオーダーなしでしょ?」
「そうですけど…じゃ、このままで?」
「たまには年寄りに華を持たせるつもりはないの?ちょっとは店長にアピールしときたんだけどさ。」
浦野が乱れた呼吸の中から声を絞り出す。

浦野に勝たせるのはやぶさかではない。今まで散々世話になってきたのだから。だが、彼女が今日の勝利でジャパンの選抜入りを目論んでいるなら話は違う。自分の為にもジャパンは最強の布陣で臨みたい。残念ながら浦野が選抜入りする事でチームの戦力が上がる事はない…

集団に戸惑いがあった分ペースが落ちた。9人の迷いを抱えた集団と50名を超えるラストスパートに入った集団。速度の違いは明らかだ。あっという間に、島田たちの後方に集団が迫る音が聞こえてきた。
このままじゃマズイ…島田は諦めたように単独でスパートに入った。緩い登りをダンシングで駆け上がっていく。一瞬浦野の表情に小さな怒りが浮かんだのが見えたが構ってはいられない。こんなレースでもやっぱり負けるのは嫌だ。
ついてきたのは大場と島崎。二人だけだった。顔を見ると余裕は残ってないように見えた。仕方ない…島田は最後の下り、ギアをアウタートップに入れて加速した。下りきって直角に右折、短い登りを駆け上がるとラスト400mのホームストレートでフィニッシュだ。スプリンターの島田にとって長すぎるラストスパートだ。最後の直線に入ったところで苦しさで顔があがる。ふと斜め後ろを見ると島崎と大場の姿が視界に入った。あれ?振り切れなかったのか?まずいな…でも、さっきみた感じだと二人にも余力はなかったはず…

そう思った瞬間、島崎が前に出た。おいおい、ぱるる…まだ脚残してたんか?参ったな。あれ?大場も?なんだよ、私上手く使われたって事?ここまで牽かされたんじゃラスト無理だわ…
最初にゴールランを超えたのは大場だった。島田は島崎に次ぎ3着でゴールに入った。そのままゆっくりとフィニッシュエリアに入る。どこかに引っかかる所が残るレースだった。でも…まあいいか、表彰台を独占したんだし…

「アンタって、ホント自分の事しか考えてないんだね。」
そう浦野に声をかけられて島田はちょっとむっとした表情になった。
「え?私、そんな風に思ってませんよ。それにあのままじゃ、後方集団に飲み込まれて、全員討ち死にでしたでしょ?」
何を言ってるんだ、この人は。あの時私のスパートについて来れないくらい消耗してたのに、牽いてもらえば最後勝てるとでも思ってたんだろうか?
「でも…これで私がジャパンのメンバーに選ばれるの無理になったじゃん。」
「あの…浦野さん、やっぱりジャパンには…」
「わかってるよ。私じゃ力不足って言いたいんでしょ?でもさあ、私だって若くないだよ。こんなチャンスってないかもしれないのに…」

違う…この人は、ジャパンに出る事までしか考えていない。私とは考えてる事が違う。私はジャパンのその先を見てる。ただ出れる事で満足するわけじゃない。他のメンバーはどうなんだろうか?ただの記念くらいにしか思っていないんだろうか?所詮、実業団といってもプロとは違うんだから仕方のない事なんだろうか…

表彰台の一番低い所に立ち、島田は複雑な表情の入り混じった笑顔を浮かべた。
隣に立つ大場と島崎の屈託のない笑顔にも違和感を感じる。

このチームで大丈夫なんだろうか…?

10.



スキルAは新年恒例の合宿を伊豆・修善寺で張っていた。本格的なサイクルコースを持つセンターがある修善寺はロード・チームが利用する事も多い。周辺は山に囲まれ、山岳のトレーニングにも最適だ。

「ちょっと麻友。なんでロードばっか出るんだよ。せっかくサーキットがあるのにさ。」
篠田が渡辺に食ってかかる。それをガムを噛みながら受け流す渡辺。このやり取りはすっかりお馴染みの光景になりつつあった。最初は止めに入っていた高橋も最近は放っておく事が多い。
「いや、今年はウチ、ジャパンの総合取りにいくんっすよね?そしたら、みなさん、しっかり山登れるようにしておいて頂かないと。ま、使えない人には無理には言わないっすよ。せいぜい草レース対策でゆる~い練習しといてもらえばいいんじゃないっすかね。篠田さん。」
「おい~、喧嘩ならホント買うよ?お前なあ…」
「わ~怖い怖い。でもまあ。いいんじゃないっすか?このチーム、私がいなくちゃダメって事はわかってるですから。ね?さっしー?」
「あ…うん。あの…でも麻里子さんは…」
「なに?指原。アンタもねえ…少しはエースとしての自覚を持ちなさいよ」
「あ、それは酷ですよ、篠田さん。だから、私が引き抜かれたんでしょ?」
篠田は本気で渡辺の胸倉を掴んだ。渡辺は涼しい顔で篠田から一歩も引かない。

「ちょっ…ちょっと待ってよ。同じチームなんだから、そんないがみ合わないでよ。麻友も、やたらと挑発しないで。ね?」
「はいはい。で?監督、今日はどうします?意味もなくペース走します?それとも、そろそろ山の適正判断入れる為にもレース形式で走っときません?私、まだ皆さんの適正を見定めてないんですよね~」
「みなみ。こんなヤツの言う事なんて放っておいてさ…」
「ごめんね、麻里子さん。今回の合宿は麻友の言う通り、山岳強化がテーマなんだ。GMの指示でもあってさ…」
「みなみ…アンタまで…」
「ほらね~、GMも監督も良くわかってらっしゃる。あ、誰もサーキット走らないって言ってるわけじゃないですよ。せっかくの設備ですからね。ま、アップするにはいい場所じゃないですか~?」
渡辺がそう言ってコースに飛び出して行った。篠田が苦虫を噛み潰したような表情でその後に続いた。

山岳での渡辺の脚力は圧倒的だった。スキルAでは山岳向きの脚質を持つと言われる、指原、高橋、岩佐、片山、前田亜美といったメンバーを引きつれて山を登っていく。一番後ろに付き厳しい言葉で詰め寄っていく。
「ほらほら、何?この程度でしか登れないの?ほらぁ、何?亜美ちゃん、もうギアをインナーに落としちゃって。軽いギアにするならもっと回転数上げないと。楽する為にギア落としてるんじゃないよ!さっしー、ほら前牽いて。いくら山でもアシストは楽なんかしてちゃダメでしょ。余力なんか残さなくてもいいの。わかってる?アシストの意味。」

傲慢とも言える渡辺の振る舞いだったが、篠田の他に誰もそれに異を唱えれるものはいなかった。最後はあっと言う間に単独で一番きつい所を軽々と登っていく。その走りを目の当たりにして文句など言えようもなかった。プロ集団のスキルAだからこそだった。全員がわかっていた。渡辺の力は本物だ。この子ならここ数年遠ざかっていた「王者スキルA」の名を取り戻してくれる。そう…ロードレースの世界ではこんな言葉がある。「先頭を走るものが、全て正しい」と。

11.



「前田さんって、ホントに私たちとチーム組む気あるんですかね?」

峯岸みなみがハンドルを離し背中のポケットに手を突っ込む。バイクウエアは背中の部分に大きなポケットがあり、その中に色々なモノを詰め込んでいる。ノンストップで100キロを超すロングライドが日常茶飯事なローディは簡単にカロリーが摂取できる補給食を常備してるケースがほとんどだ。ハンドルから手を離して補給する事も当たり前の事で、この日峯岸が用意していたパワーバーの封を切りおもむろに齧りついた。味は…決して美味いものではない。空腹を満たす為に食べるわけではない。走る為にエネルギーが必要だから食べる。ただそれだけの事、味は二の次だ。

「確かに…チームに加入するって発表になって2カ月。一回も練習に顔出した事ないもんね。」

峯岸の後ろから板野友美が声をかける。減速の手信号を後続に送り自分も背中から補給食を取りだした。今日は特にペースを上げる必要はない。この所追い込んだトレーニングが続いていたので今日はリカバリーライドだ。激しいトレーニングの後、日ごろか鍛え上げている彼女達でも筋肉痛に見舞われる事は珍しくない。逆に筋肉痛にならない程度ならトレーニングの負荷が軽すぎるという事になる。一般人なら筋肉痛に襲われると大人しく安静にしていがちだが、トップアスリートの回復方法は全く異なる。長時間、強張った筋肉をほぐすように低い強度で身体を動かす事で筋肉疲労の回復を図るのだ。

「こないだ、私もボスに聞いたのよ。なんで彼女だけ特別扱いを許すのかって。」
秋元才加が会話に加わる。
「なんだって?どうせ、自分がしっかり見てるからダイジョウブ~って言うんじゃないの?」
峯岸がランスの口調を真似して言った。板野も秋元も笑う。
「あははは。あのね、ヨーロッパでは同じチームでも団体で練習する事なんて少ないんだって。違うチームでも近くに住んでる同士で走ったり、独自の調整に任されてるんだってさ。それがプロというものでしょう…だってさ。」
「でもさあ…ここは日本なんだからね~。まあ、昔っからマイペースな人だったけどさ?」

秋元の説明に板野がちょっと口を尖らせて言う。板野は、当初他のメンバー程前田の加入に違和感を持たなかった。峯岸もそうだ。もともと二人は以前、前田がヨーロッパへ渡る前、スキルAで同じチームメイトだった事がある。彼女の力を知っているからこそ、その加入をある意味歓迎してもいいと思っていた。一方でエースである大島との確執は避けられない…そんな懸念を持っていた事も事実だ。だから、いつまでたってもチームに合流しない、前田に対し徐々にいらついた感情を抱くようになっていたのだった。

その時、一台のバイクが集団をすっと抜いて行った。回復走とはいえ、補給も取り終えてペースは集団で安定している。40km/h近い巡航速度で走ってる集団を一台で簡単に抜いて行けるのはそうそういないはずだ…

「あと20キロくらいでコンビニ休憩ですよね?ちょっと追いかけて行っていいですかね?なんか、気になりません?]
宮澤佐江が悪戯っ子のような表情で笑う。
「いいけど…今日は回復走なんだからね。あんま追いこんじゃダメだよ?」
秋元が一応注意しとくか…くらいの声をかける。言い出したら治まりがつかないのが佐江だ…ま、だらだら走るのが性に合わない事はわかってる。
「わかってるって。」

宮澤が前を走るバイクを追い始める。軽めにしていたギアを2段上げる。まだ余裕の走りだ。ペダルにトルクをかける。ケイデンス(1分あたりの回転数)も100辺りまで上げていく。…前との差は全く縮まらない。あれ…?おかしいな…。逆に開いていってないか?さらにギアを上げる。ダメだ、こんな緩い走りじゃ追いつかない。一体何者だ?素人じゃないぞ…

結局最後はかなり真剣に追ったものの、その差は全く縮まらず20キロが過ぎた。ちょうどそのロードも同じコンビニで休憩をするようだ。河川敷のサイクリングロードを降りていった。

「いや…速いね~。全然追いつけなかったよ。」
息も絶え絶えになって話しかけた宮澤に対し、ロードから降りた女は涼しい顔で笑顔を見せた。
「あれ…?あなたって。」
「ああ…すみません。気づいてたんですけど、ちょっとペースが違うんで先に行かせて頂きました。ご挨拶が遅れてすみません。新しくそちらに加入する事になってる、仲谷明香といいます。宜しくね、宮澤さん。」

この子が?ランスがわざわざ前田と一緒に連れてきたっていう?
全然実績もないって聞いたけど…あの走りの後でこの余裕って…
こりゃ、只者じゃないぞ…

12.



春が終わるころ、ロードレース界は一気に活気づき始める。

9月に行われるツール・ド・ジャパンがグランツールを模した本格的なロードレースで総合力を争うものなら、5月に行われるツアー・オブ・ジャパンは平坦ステージが多いため、スプリンター向けのツアーだ。全8ステージ、1ステージ辺りの距離は50~100キロとジャパンに比べ短いが、大阪・名古屋・東京と大都市で開催されるステージが多いのと、派手なスプリント合戦でジャパンに次ぐ人気を誇っていた。また、9月のジャパンに向けた前哨戦として各プロチームも出場する事が多い。ただ、山岳ステージが無い事から、総合争いをする各エースは出場しない事が常でもあった。

スキルAは、新加入の渡辺とクライマーの指原を始め主だったメンバーが欠場した。一方で宮崎美穂、増田有華、平嶋夏海、佐藤亜美菜といった有力スプリンターを擁するチームBはキャプテンの柏木、新加入の山本の他、ほぼフルメンバーでの参戦、名古屋の栄中日もベストメンバーに近い選手を送り込んできた。しかし、なんといっても注目は主力が軒並み出場を見送ったK'sレーシングから、前田敦子が一人出場してきた事だ。新加入の仲谷もスターティングリストに名前を連ねた。この事で、例年前哨戦扱いされていたレースが一段と注目を浴びる事となった。

「まあ、調整って感じじゃないの?それかスポンサー絡みだよ。きっと。」
スタート前の様子を映し出すCS放送の様子をモニターで伺いながら峯岸がつぶやく。確かに、今回のレースには、前田の加入により新しくK'sレーシングのスポンサーに加わった食品メーカーがスポンサーとなっている。国内レースへの復帰挨拶を兼ねて走るには最適だろう。もともと前田はスプリンターではない。このレースでそう無理をする事もないはずだ。

「ね。優子。何か話した?前田敦子と。」
「ん?うんにゃ。だって、前田さん、普段どこいるか知らないし。連絡先も分からないし。それに、普通挨拶してくるならあっちからじゃない?」
秋元の問いに大島は表面上だけ興味なさそうに答えた。

しっかし…面白くないなぁ…さっきからテレビじゃ、すっかりK'sのエース扱いじゃん。この大島優子の事を忘れてない?だいたい、ツールで完走したからって何なの?プロチームで大した働きもしないでたった一つのステージで5位に入ったからって快挙扱いされて。あのレースだってたまたまエースとスプリンターが場所取り悪くてラストスパートかけれなかったから自分が行っちゃったって感じだったじゃない。あそこで5位にしかなれないっていうのが甘いんだよね。私なら…他のチームの発射台を使っても1位取ってたよ。
まあ…どんな走りするかお手並み拝見っていこうじゃないの。このTOJも決して甘いレースじゃないよ。8日間スプリンター同士の熾烈なもみ合いの中でどんだけ消耗するのか…下手したらジャパンの前にスプリント合戦に巻き込まれて落車…なんてオチになっちゃうんだから。

大島が画面を睨みながら胸の中で呟いた。

13.



平坦ステージの戦い方は難しい。最後の最後、エーススプリンターによるアタック合戦の為にチームメイトはそこまでの間、ひたすらエースの脚を温存させる。1チーム8名が参加するこのTOJでは、だいたい隊列の中盤にエースを置き、先頭を4人~5人が交代で牽いて行く。時には何人かの逃げ集団が形成されるが、その逃げを容認するか潰すのか…そういう戦略的判断も求められる。よーいどんで山を登って、最初に登り切った者の勝ちというフルクライムレースのほうがある意味もっとシンプルだ。

ところが、今年のTOJはそんな例年の経験則から来る展望がたった2名の選手によってあっさり打ち破られた。

前田敦子と仲谷明香だ。

初日の大阪、2日目の堺両ステージ。ともに70キロの周回レースだが、中盤で逃げた前田と仲谷、二人のアタックを最後まで集団は捕まえる事が出来なかった。2日続けて…しかも、たった二人の逃げが決まる事は長いTOJの歴史でも無かった事だ。しかも、前田は仲谷にだけ前を牽かせる事なく交代で先頭の空気抵抗を受けながら走り切った。

第3ステージ、このままでは済ませないとばかりにスプリンターを抱えるチームBが戦略を変えてきた。柏木、河西を始めとしたオールラウンダー4名が二人を徹底的にマークし、宮崎・増田・佐藤・平嶋のスプリンター4名を逃がす作戦だ。一旦は2分近い差をつけさせ、戦略がはまったかに思えた。しかし、ほんの僅かの隙をついてアタックを仕掛けた仲谷について行けたのは前田だけであった。結局、4人で逃げた宮崎達は二人で追った前田と仲谷に残り2キロであっさり追いつかれた。

「むこうもずっと二人で追ってきたんや。相当キツいはずやで。ここで踏ん張りや!みゃお、最後で発射できるようなっちゃんと亜美菜に付いて!」
増田が叫ぶ。前田と仲谷の後に続こうとした。

「あっちゃん…」
仲谷が小声で合図を送るように前田に話す。その声に反応するかのように前田がそのまま前へと上がっていく。特に仲谷がブロックしたわけでもない、チームBの4人はあっさり引き離されていった。ゴール前のスプリントへの参加資格さえ与えないまま、そのまま前田はゴールへと独走した。

「バケモノだ…何年か前まで日本にいた時はここまでじゃなかったぞ…こりゃ、ウチひとチームだけじゃ到底立ちうち出来るレベルじゃねえぞ…」
サポートカーに乗り込んだチームBの戸賀崎はため息をこぼした。

第4.第5ステージはさすがの二人も勝負をかけてこなかった。ただ、ロードレースはトップと同じ集団でフィニッシュすればタイム差は「0」とされる。集団スプリントとなり、ステージ優勝はチームBの宮崎と栄中日の松井珠理奈の手に渡ったものの、前田と仲谷は集団の中でゴールし、3日目までの貯金をしっかりと守った。

前田と仲谷が真の意味で周囲を震撼させたのは、唯一の山岳ステージの第6ステージだった。富士あざみラインの標高差1100メートル、平均10%最大22%の斜度の山岳は本場ツールのそれに匹敵すると言われる。もっとも、グランツールでは、1日にこのクラスの山を2回登ったり、それが3日も4日も続くのだが…

ここで、スタート直後から飛び出した二人は3位以下に3分という大差をつけて逃げ切った。戦略上の逃げが決まったわけではない。ただ、単に二人のペースに各チームのエースクラスが全くついていけなかったのである。強豪チームのエースクライマーが参加していないとはいえ、この差は圧倒的だった。スプリントもこなせ山でも強い…しかも、前田だけでなく仲谷のこの強さはなんだ?ジャパンではここに大島が加わる。秋元、板野、宮澤、仁藤…アシスト陣にも全く隙がない。今年のジャパンでの興味は「どこのチームが勝つのか?」ではなく、大島と前田はどう共存するのか?そういった事に移ってしまいつつあった。

残りの3ステージは二人にとって消化試合のようなものだった。5日間で作った4分以上の差は平坦ステージしか残していない状況では圧倒的な差だった。二人はただ、先頭集団から遅れないように走ればいいだけだ。最終ステージで半ばやけくそに打たれたチームB全員の逃げにもあっさり後方をキープしてゴールへ。最後は前田が大きく仲谷に前を譲った。総合優勝は仲谷の手に、前田には第1・第2・第5ステージの優勝とスプリント賞(各ステージに設定されたスプリントポイントを通過した順に与えられるポイントを蓄積したもので競う。通常フィニッシュでのポイントが最も高い)、そして山岳賞が与えられた。普通、スプリントと山岳の両賞を同時に得る事は少ない。それは前田が最強のオールラウンダーである事の証だった。

表彰台の一番高い所に立った仲谷を見ながら、前田は軽く微笑みを浮かべた。

前田敦子は強い。誰もがその事はわかっていた。しかし、これまで全く実績らしい実績を持っていなかった仲谷の見事な走りは、それ以上のインパクトを持って全国に響き渡った。

「参ったな。こりゃ。」
「あ…秋元さん。まったく、ランスもとんでもない事を…しかも、こんな隠し玉まで用意してたなんて。去年まで秋元さんのトコの選手じゃないですか?全然気がつかなかったんですか?」
「ああ…全然目立たない子だった。特にこれといった強みもなくてな。」
「天下の秋元康の目に留らなかった…いったいランスはどんなマジックを使ったんですかね?」
「まあ、逃した魚の大きさを悔やんでも仕方ない。それよりも…ちょっと相談したんだが。時間取れないか?」
「相談って…あの…これ以上選手は出せませんよ?それでなくても、渡辺を持ってかれてこっちは…」
「まあ、ちょっとつきあえよ。悪いようにはしないから。」

戸賀崎は秋元について歩いて行った。
確かに…このままじゃ、ジャパンで惨敗するのは目に見えている。
俺の首も危うくなってくるだろうな…

14.


「わ…私がK'sレーシングにですか?」
島田晴香はまだ狐につままれたような思いでいた。目の前に座っているのは、あのランス・アームストロングだ。ちょっと見学に来ないか…そう声をかけてくれたのは、高校時代、レースでよく顔を合わせていた横山由依だった。それが、まさかこんな話が用意されていたなんて…

確かに卒業後はどこかプロチームに入りたいとは思っていた。しかし、自転車部もない大学に進み普段はクラブチームで走ってる島田に特段のルートがあるはずもなかった。しかし、どこにチャンスが転がってるかわからない。まさか、国内最強プロチームからのスカウトを受けれるなんて。島田は天にも昇る心地でランスの話を聞いていた。

「アナタには見事な実績も、そして実力もありマス。残念ながら我がチームには、まだ一級品と呼べるだけのスプリンターはいまセン。K'sは総合だけ狙ってチャレンジングなレースをしない…そんな風に言われるノハ、ワタシも面白くアリませン。ぜひ、スプリントも強くしタイ。ワタシはアナタのポテンシャルを高く評価していマス。どうか、ヨイお返事をお待ちしてイマス。」
「こ…こ、光栄です。すぐに…でもお返事を…」
「はははは、慌てなくても大丈夫です。自分の人生デス。じっくり考えてくだサイ。今日は、ゆっくり見学していくとイイ。ユイに案内させまショウ。デハ、ワタシはこれで。」
応接室を出ていくランスに島田は立ち上がって一礼した。まだ、心臓の鼓動が治まらない。すぐに入れ替わるように横山が入ってきた。

「じゃあ、案内するわぁ。今日はこの後、全体ミーティングがあるから、大方の人も揃っとるから紹介もするしぃ。」
久しぶりに会った横山は相変わらず柔らかな京都弁で話す。このはんなりした雰囲気に惑わされてはいけない。レースの時の豹変したその姿には脅威すら感じるほどなのだから。
「ここが、トレーニングルームや。」
島田は目を見張った。広いスペースに最新鋭のマシン、解析用の機器…スゴイ…これがトップチームの持つ設備なのか…

「由依、お客さん?」
声をかけてきたのは、宮澤佐江だ。首にかけているタオルで汗を拭っている。トレーニングを終えたばかりなのだろうか。
「は…はじめまして…わたし…」
「知ってるよ~。島田晴香…さんだよね?」
「え…?は、はい。島田です。」
「おー!ホントだ、去年のおきなわチャンピオンじゃない。あれ?見学?ひょっとして来年からウチに来るとか?」
島田の存在に気付き秋元才加がマシンから降りてやってきた。

いや…なんで二人が私の事なんかを知ってるの?宮澤さん、秋元さん…K'sレーシングの誇るツインタワー…大島優子が強いのはこの二人がいるからだ。特に平坦路での二人の強力な鬼牽きは今すぐにでも本場ヨーロッパで通用するとすら言われてる。

「あ…今日初めてそういうお話を頂いたので。でも…私としてはぜひこちらで…」
島田がそう言いかけた時、背後から殺気のような気配が近づいてきた。その気配に島田が思わず後ろを振り込む。

「ふ~ん…スプリンターかぁ。確かにいいバネしてそうだね。でもねぇ…もうちょっと絞れそうだね。きちんとここで鍛えればモノになるかも。」
そうクールに言い放った女がまっすぐ目を見ながら手を差し出した。
「宜しくね、島田さん。私は仁藤萌乃。」
「はい、よく存じてます。ヨロシクお願いします。」

仁藤萌乃…スプリントステージではゴール直前までエースを牽き、最後は「発射台」となり、山岳では根尽きるまでエースを引っ張り最後は自らの身を潰してまで走る。自分が勝つことが出来ないどころか、完走する事すらままならない事も多いが、その力は高く評価されていた。特にスプリントステージでは決して大きくない身体で他チームのアシストに睨みをきかせポジションを死守する事から、その切れ味鋭い走りを評し「ジャックナイフ」の異名をほしいままにしていた。

「あっちにウチのエースがいるから、後で挨拶だけしといたら。今はちょっとやめといた方がいいかもしれないけど。」
仁藤が奥でひたすらマシンのペダルを回す大島優子の方を向いて言った。
この部屋に入った時、すぐにわかった。やっぱりオーラが違う。遠くにいても、大島が放つオーラは圧倒的だった。
スゴイ…こんな人たちがいるチームで私も走れるのか…島田は胸を躍らせた。

「あのさ…由依。前田さんと仲谷さんは?」
「あぁ、あの二人ならめったにここには来られへんで。いつも別行動や。」
「え?そうなの?」
「あの二人の事は、ウチらもようわからへんのよ。」

そっかあ。また違ったオーラ持ってるんだろうな。前田さん、会ってみたかったなあ。ま、いっか、ジャパンでも会えるだろうし。

島田は横山の案内で、施設内をくまなく見て回った。充実した設備、恵まれた環境、どれをとっても最高だ。島田は早くもライトグリーンのジャージに身を包む自分の姿を想像して顔を緩ませていた。

15.


「この伊吹山でどこまで珠理奈が登れるか…それを見て決めるって事でいいな?」
「私だって、珠理奈には期待してるんです。山でしっかり実績を出せるなら、私としても文句はありません。でも…今年はジャパンで勝つ…これがスポンサーから出された課題です。その力がないって判断されたら…その時は、いいですね?湯浅さん。」
「わかってるよ。さあ、もうすぐスタートだ。」
湯浅と牧野はスタート会場に設置された大きなモニタービジョンの前に陣取った。今日は地元のCS放送の中継が入ってる。恐らく先頭で走るであろうチームの様子は全部ここでチェックできるはずだ。

滋賀県の伊吹山ドライブウエイを使って行われる「伊吹山ヒルクライム」。標高差1075m、平均勾配7.6度、距離17kmのヒルクライムレースは、それほど難易度の高いコースではない。毎年トッププロが出場してくるような大会ではないのだが、今年は栄中日のレギュラー陣がこぞって出場してきた事で大きな注目を集めていた。

「珠理奈…大丈夫?淡々と登って行けば…前半の勾配の強い所で無理しなければ…」
「玲奈さん、わかってますって。ちゃんと試走もしてますし。そんな心配なんかしてたら玲奈さん、抜かしちゃいますよ?」
珠理奈にも急遽出場する事になったこのレースが意味する事がよくわかっていた。これはジャパンのエースを決める選考会だ。今日ばかりはチームメイトとはいえ敵だと思って走らないと。優勝は取れなくてもいい。せめて玲奈さんについてさえいければ…山岳ではトップクラスの玲奈さんについていければ、平坦での実績で今年も私がエースに選ばれる事には間違いない。私だってこの冬はひたすら苦手克服の為に頑張ってきたんだ。そろそろ将来性云々だけでエースを張れない事も、結果を求められてる事も知ってる。でも…これだけは譲れない。せっかく手にしたてっぺんのポジションなんだ。

号砲が響いた。最前列に並んだ栄中日の選手が一団となって先頭にたつ。勾配が強くなり始めたところで珠理奈が前に飛び出した。
「珠理奈、いきなり飛ばしちゃダメだって。前半は斜度の変化がきついんだから。」
玲奈が声をかける。そう言ったでしょ?そんな口調だったが、珠理奈は一瞬だけ玲奈の方を見てすぐに前を見上げた。さらにペースを上げる

そんな計算なんてしてちゃ駄目だ。このレースで試されてるのは結果だけじゃない。だらけた内容で勝っても恐らくは認めてもらえない。必要なのはジャパンの高いレベルでの山岳ステージで振り落とされないだけの力を見せつける事だ。このストイックな姿勢が、若くして中京地区の名門チームのエースとして活躍出来る原動力だ。珠理奈自身も、また一つ新しい壁を乗り越えようともがいていた。

「仕方ないな。もう。じゃあ、全力で牽くよ?しっかりついてきて。」

玲奈が前に出た。玲奈も分かっていた。自分はエースになれるタイプではない。もちろん、山岳には自信がある。他のチームのクライマーに比べて力が劣ってるとは思っていない。でも…どうも人と競り合うのは苦手だ。引いちゃいけない…そう思っても、誰かを押しのけて前に行く事がどうしても出来ない。ましてや、スプリント合戦なんて…アスリートとして気が弱いのは致命的だって事もわかってはいる。だから…私の本分はアシストなんだ。その為に珠理奈には頑張ってもらわないと…

16.




これはチャンスだ…

そう思っていた選手が一人いた。エースは珠理奈。それか玲奈…チーム内で一旦定まったポジションを覆すのはそうたやすいことではない。しかし、どこかでチャンスが来る。そして、それは本当に来たんだ。ここで行ければ、私の立場が…いや、人生すら変える事が出来る。これは、私にとって関ヶ原の戦いなんだ。そう、眼下に見下ろすあの関ヶ原の。
須田亜香里は、集団の最後尾でその思いを強くしていた。

珠理奈と玲奈が前に出たのを見て、須田はするするっとその後ろについた。私がこの二人と評価を入れ替えさせるには…今日、圧倒的な差で勝つ事しかない。もう、4番手・5番手の扱いには飽きた。普段から明るいキャラクターでチームの盛り上げ役だった須田には、人並み外れる程の強い野心と強かな計算があった。
スタートして3キロ地点、もっとも斜度が強くなった所で須田が早くもスパートをかけた。

「よし。」
モニターを見ながら牧野が小さく呟いた。
「ん?よしって…おい、お前須田にも期待してたのか?」
湯浅が牧野に聞く。
「にも…って?私がエースに考えてたのは最初から亜香里ですけど?」
「なんだ。俺はてっきり玲奈だと…」
「玲奈にはきったはったの勝負は無理ですよ。力はありますけどね。それよりもジャパンで勝つためには総合力…そして一番大切なのはどうしても勝つんだってハングリーさですよ。亜香里は珠理奈に負けない精神力を持っています。なら、総合力の高いほうをエースに据えるべきでしょう。亜香里のスプリント力は湯浅さんもご存じの通り。これまで珠理奈を牽いてきたのはあの子ですからね。」
「なるほど…じゃ、見せてもらおうかな。須田の力っていうのを。」
湯浅は腕組をして椅子に深く座りなおした。


みるみる後続との差が広がっていく。須田の背中が小さくなっていくのを見て、珠理奈が叫んだ。
「玲奈さん、追いましょう。今日のレース、そんなに距離がないんだ。すぐに手遅れになっちゃう。」
「待って。中間点で一旦下る所があって、その先は傾斜が緩くなる。珠理奈はそこまで脚を残しとかないと。あかりんだって、今一人で相当無理してるはず。だったら、後半脚に余裕のある方が勝つんだから。」

そうなのか?珠理奈は一瞬躊躇した。やはり、自分は山に苦手意識がある。ここは玲奈の戦略に乗っかったほうがいいのだろう…2対1だ。山だって空気抵抗はある。こうして牽いてもらってる分私のほうが余力を残しているはずだった。

一方で須田の頭の中にはもう計算などなかった。このシチュエーションはしたたかな計算の元、予想していたものだ。でも、ここからは違う。自分の人生がかかった山場だ。人間、何かを大きく変えるチャンスなんてそう何度もやってこない。今がそうだ。華やかな舞台の真中に立つチャンスはもうこの先来ないかもしれない…

珠理奈と須田に一つだけ違いがあるとしたら、「今日の」覚悟だけだった。もちろん、珠理奈にも並々ならぬ覚悟があった。しかし、それはエースの座を守る事に向けられただけのものだった。大げさではなく人生をかけて山を登った須田のそれに敵うわけはなかった。


須田の優勝タイムは大会レコードを大幅に更新し、2位の玲奈に1分以上の大差をつけるものだった。追いつけない…徐々に小さくなる背中は珠理奈か終盤のモチベーションを奪い取ってしまった。

「どうですか?」
牧野はしてやったりの表情を湯浅に向けた。
「何も言い返せないな。これだけ圧倒的に差をつけたんじゃ。玲奈だって追いつく事が出来なかったんだ。ジャパンは、須田中心でチームを組むよ。」
湯浅が立ち上がって言う。これは…大いに嬉しい誤算なのかもしれない。



17.


戸賀崎智信の目の前で柏木由紀、増田有華が睨むような視線をぶつけていた。戸賀崎はその勢いに押されたかのように視線を落とした。行く宛を失った視線を無理やり手元の資料に向ける。

「戸賀崎さん…アンタ、なんぼでウチらを売ったんや?」
増田が問い詰めるように口を開く。
「いや…売ったなんて…俺は単に上の方向に従うしか…」
「その結果が来年のスキルAのヘッドコーチ就任ですか?」
普段は温厚な柏木の口調にも容赦がない。二人は激しい怒りをあらわにしていた。戸賀崎の口から伝えられたのは衝撃とも言える今後の展開だった。今年のツール・ド・ジャパンを最後にチームBはロードレースから撤退。パーツメーカーのチームであるスキルAと統合する。
プロとはいえ、ヨーロッパと違い、全ての選手がそれだけで食って行けるほど裾野の広い世界ではない。当然、チームの消滅はそのまま選手の生活すら脅かすという意味を含んでいた。柏木と増田の怒りは、その事だけに向けられていたのではない。景況感の厳しい昨今、スポンサーの撤退はあり得ない話ではない。二人を怒らせていたのはチーム解散の事よりも、戸賀崎から語られた最後になるジャパンでの戦略だった。

「今年、ウチはスプリントステージを取りに行かない。」
「取りに行かない?じゃあどうするんですか?総合狙うって言っても、彩と里英くらいしかオールラウンダーいないし…麻友がいない以上、存在価値を示すにはウチの強み生かしてスプリントを取りに行くしかないんじゃ…?」
何を言い出すんだ、この人は。柏木の顔はそう言っていた。増田も首を捻る。
「まあ、ええですわ。そしたらウチらスプリンターはアシストに徹しろちゅう話ですな。で?誰をエースに据えるんですかいな?」
「今年は…エースは置かない。」
戸賀崎の言葉に二人は口を大きく開けて言葉を失った。
どういう意味だ?まさか、チーム解散に抗議の意を示すために今年のレースを捨てるとでも?

「増田、宮崎、平嶋、佐藤…ウチのスプリンターは今回抑え役に回ってもらう。押さえるのはK'sだ。前田、仲谷、大島…アシストに仕事をさせないよう分断してもらえればなおいい。そして…今回のメンバーは柏木、山本、、あとの三人は石田と小林、鈴木だ。」
「きゃんと香菜、それから、しほり?あの三人、そりゃ山では多少は走れますけど…完走できるような力はまだありまへんで?しかも、実績のある智美と里英外すって…戸賀崎さん、何考えてますの?」
「完走は期待していない。山を牽いてくれさえばそれでいいんだ。」
「そういう事ですか?アシストとスプリンターだけ…全く勝つ気がないようにしか思えませんけど…?」
柏木の言葉に戸賀崎が苦々しく、しかしはっきろとした口調で答えた。
「勝つ気は…ない。お前ら5人の仕事は…渡辺のアシストだ。石田と小林、鈴木は山岳終わったらリタイアしてもらって構わない。」

「渡辺…って。麻友ですかいな?戸賀崎さん、あん子はウチを切ってスキルAに行ったんちゃいますか?それをアシストせぇって…そうか。戸賀崎さん、それを踏まえて麻友を出したんか?ウチらのアシスト込みで。随分やな、そこまで大それた事を考えとるとは思わなんだわ。」
「ウチは…今年のチームBはスキルAのアシスト集団にしか過ぎない…そういう事ですか?」

「その通りだ。」

戸賀崎はそれだけ言うと、静かに立ち上がり部屋を後にした。
怒りに震える柏木と増田は暫くその場から動けなかった。

18.


「じゃあ、ジャパンにエントリーするメンバーを発表するね。一応、もてぎ以降のレース結果とかも加味したうえで決めたんで。いいかな?」
野呂佳代がショップの作業スペースに集まったメンバーを前に立ちあがった。軽い緊張感が走る。

「えっと…大堀恵、島田晴香、島崎遥香、山内鈴蘭、市川美織、大場美奈、永尾まりや、竹内美宥、仲俣汐里。この9人でいくわね。」
順当といえば、順当な名前が呼ばれた。もてぎで島田に食ってかかった浦野の名前は結局呼ばれる事がなかった。正直総合を狙うなんてつもりは最初からないのだろう。各プロチームに比べても力が劣るのは目に見えている。それでも…序盤の平坦ステージで波乱を起こす事くらいは十分に狙えるんじゃないか…そうしたら、誘ってもらってるK'sレーシングへのいいアピールにもなる…島田はそう考えていた。

「それから…一応ツールなんだから、チームとしての戦略も持つ必要があると思うの。去年のおきなわではるぅを勝たせた時みたいにね。」
野呂の言葉に一同が頷いた。島田も背筋を伸ばす。
「今回…初日のスプリントを取りに行こうと思ってる。」

野呂の言葉にその場にざわめきが起きた。
取りに行く?って…まさかステージ優勝を狙う?島田もさすがに驚いた。確かに一日だけに集中すれば万が一くらいの可能性はあるだろうが…本当に野呂の口からその言葉が出た事で島田も興奮を隠せなかった。頭の中で手を高々と掲げゴールする自分の姿を想像するだけで胸の鼓動が早くなる。

「その為には、万全の態勢を初日にもってこなくちゃ。で…その場の状況次第だけど…めーたん、鈴蘭、まりや、ぱるる、仲俣で上手く集団を作って欲しいの。出来れば美織と美宥も頑張って食いついて。初日って事でチャンピオンチームのK'sが集団をコントロールすると思うけどそれに上手く乗っかってね。」
へ~…店長もさすがに大舞台で張りきってるんだな。結構具体的な戦略じゃん?今まで「がーっといって、どーんと追いこんで…」って感じの戦略なんて言えない作戦しか立てた事なかったのに。

島田がふと横を向くと、仲俣が細かく頷いていた。そうか…汐里か…まあ、汐里のたてた作戦ならあながち間違った事もなさそうだな…

「で、ひょっとしたら、大逃げ打ってくるところがあるかもしれない。その時は…はるぅ…アンタが潰しに行って欲しいの。」
野呂の言葉に場の雰囲気が変わった。

「え?店長…島ちゃんは…脚残しとかないと…最後のスプリントに備えて…」
山内が聞くいた。先ほどまでと表情を変え、ちょっと真顔に戻っている。
「そうね。逃げが出なかった時には、そのまま集団に残って脚を貯めててちょうだい。で…ラストは発射台になってもらう。」
「はい?島田さんが発射台って…?エーススプリンターに発射台を?」

市川も顔をしかめる。発射台とは、ラスト200~300mまで周囲のライバルチームと文字通り肉弾戦を繰り広げ好ポジションをキープしながらエースを牽き、最後の最後までエースの脚を温存させ前へと送りだす役割の事だ。もっとも過酷な仕事を求められるにも関わらず、決して勝利者として名を残すことがない。しかし、史上最強のスプリンターと言われるHTCコロンビアのカヴェンディッシュに史上最強の発射台と呼ばれるレンショーが居るように、強いスプリンターには必ず強い発射台が備え付けれている。

「じゃあ…ウチのエースは…」
「美奈にやってもらうから。」
市川にそう野呂が答えた。

「ちょっと待ってもらえません?確かに、大場は島ちゃんと同じくらいの力を持ってると思います。でも…ブランクから戻ってきたばかりじゃないですか。島ちゃんは、このチームに入ってからずっとアシストやったり私たちの事引っ張ったりしながら、ようやくこの1年エースとしてやってきたんです。それに、実績だって残してきた。なんで、最高の桧舞台でエースを下ろされなきゃいけないんですか?」
山内が野呂に食ってかからんかの勢いで聞く。島田も、突然の話しに戸惑いを隠せない。

「あの…私やっぱり…」
大場がそっと手を挙げて申し訳なさそうな顔で立ち上がった。

「ちょっと待ちなさい。そこから先は私が説明しよう。大人の事情に巻き込んでしまうのは大変申し訳ないからね。きちんと説明をしなくては…いいかな?店長。」

そう言って現れた男の姿。そこにいる誰もがその存在を知っている。
秋元康。言わずとしれたスキルAのGMであり、ロード界の重鎮だった。





19.


「…さん、前田さん?…前田敦子さん…?」
ホテルのロビーのソファに一人で座っている前田を見つけ大島優子が声をかける。
ツール・ド・ジャパンを1カ月後に控え、K'sレーシングの面々はヒルクライムの調整と顔見世を兼ねて国内最大のヒルクライムレース、全日本マウンテンサイクリング、通称乗鞍ヒルクライムに出場する為に現地入りしていた。
「…ん?ああ、私?ごめんね~」
「あ、こっちこそごめん、急に声かけちゃって。」
「いいの。気がつかなかった。前田さんなんて呼ばれるの慣れてないんで。」
「そうなの?…えっと、なんて呼べばいいのかな?あ…私の事覚えてる?」
大島が手に持っていたチョコレートを遠慮がちに差し出して聞く。
前田が笑顔でそれを受け取った。
「もちろん~、ね、あっちゃんって呼んでもらっていい?私も優子ちゃんって呼ぶから。」

あれ?前田敦子って、こんな感じだっけ?
ヨーロッパに行ってから2年くらいだっけ…そういや日本にいた頃には何回も一緒に走ったけど、あんまり話した事なかったな。なんか、とっつきにくいっていうが、マイペースっていうか…こんな人当たりがいいイメージなかったんだけど…

「優子でいいよ。ちゃん付けってなんかくすぐったいから。ねえ、いきなりでなんなんだけど…聞いていいかな?」
「ん~なあに?」
「なんで日本に帰ってきたの?」
「あははは~。ホントいきなりだね。う~ん…契約の事、私良くわからなくてさ。なんか、エージェントに、来シーズンはランスのチームで走るよって言われてて…そしたら日本のチームだった。」
前田は無頓着に笑った。大島にはその笑顔が理解できなかった。私からしたら、ヨーロッパのチームで走るって事はもの凄い憧れだ。しかもそれなりの実績を残した後ならなおのこと、どんな条件でも向こうに残る事を選択しただろう。この人は、そんな風な拘りが無いんだろうか…?

「それから…これは、聞きたい事って言うか、言いたい事かな…あのね、いくらあっちゃんが向こうで実績を残していて、鳴り物入りでウチに入ってきたからと言って、私はエースの座を譲るつもりはないから。私だって今年のジャパンに懸けてるんだ。」
「それは…私が決める事じゃないから…」
「そうね…チームの戦略はランスが決めるんだもんね。」

調子狂うなあ…ホントは、会ったら面と向かって挑戦状を叩きつけるつもりだったのに。日本で一番は私。ヨーロッパでの実績を持つ前田より上だって事が証明できれば、今度こそ私にだって海外から声がかかるはず。でも…同じチームではなかなかアピールする機会すら持てないかもしれない。だったら、ランスは大島を選んだんだ…そういう風にアピールするしかないじゃないか…
でも…なんか、暖簾に腕押しっていうか…直接話してても全然手ごたえがないや、この人。威圧感っていうか闘志っていうか迫力っていうか、そんなモノが全然伝わってこない。TOJで見せたあの圧倒的な強さって、どこに隠れてるんだろう?

「ね、明日、本気で走ってみない?」
大島はけしかけてみた。ヒルクライム最高峰の大会といっても市民レースレベルでの話だ。全開で走ってもダメージが強く残るレベルのものじゃない。それに、本番のジャパンでも走るコースだが、その時はこれを登り切った後も幾つかの山を上り下りするハードな設定なんだから。
「ん~。私はいつだって本気のつもりで走ってるんだけどなぁ。それなのに、やる気ないって言われちゃう事多いんだけど。」
前田が笑った。

ダメだ…この人が顔色を変えるにはどうすればいいんだろ?
大島は苦笑いを浮かべてチョコレートを口に運んだ。

20.



スタート会場近くに陣取ったエリアに置かれたローラー台でアップを済ませた島田晴香はいつものレースとは違う感覚に戸惑っていた。どことなく居心地の悪さといった違和感だ。市民レースとはいえ、ヒルクライムに特化したレースに出る事はいままで殆どなかったのだから無理もない。

「乗鞍に出て欲しい。君がどれくらい山で耐えれるかを見たいんだ。もちろん、全開でね。」
秋元康から電話を受けたのは、2週間前の話だった。乗鞍といえば、申込が殺到し抽選でエントリーが決まる人気レースだ。プロ選手でもない島田がそんな直前にエントリー出来るわけはなかった。しかし、今日のスタートリストには島田の名前がちゃんと記載されている。さすが秋元だ…でも、なんで私だけこのレースに参加しろって話が来たんだろう?で、もっと言うなら、そもそもなんで秋元さんからそんなオーダーが来るんだろう…って、それはあんとき聞いたか…ウチは実質スキルAのサポートチームみたいな扱いになっちゃったんだもんな…

「晴香!おったおった。やっと見つけたわぁ。なんやアンタの名前がスタートリストにあったから探しとったんよ。びっくりしたわ。山レースに出るなんてどういう心境の変化や?」
大きな声をかけてきたのは横山由依だった。
「ああ、由依。ちょっと…ね。ここ、ジャパンでもコースに組み込まれてるでしょ。だから…試走も兼ねてってとこで…」
「今日、ウチも主力どこみんな出とるんよお。こんなトコで一人でおらんと、こっち来ない?」
横山の言葉に島田ははっとなった。

そうだった。私、卒業したらK'sに来ないかって誘われるんだった。でも…今度のジャパン、スキルAと協調して走るって事になったって聞いたらその話もなくなっちゃうのかなぁ…

「ね…由依…?」
「ん?なんや?」
「いや…今日はやめとくわ。レース前だし、それに、まだ私部外者だし。」
「なんや、変な子やなぁ。もう身内みたいなもんやんか。もう卒業まで半年やで?遠慮する事なんかあらへんやん?」
「ごめん。またメールするわ。」

島田はそう言って横山から離れた。ジャパンの前に連絡しよう。同学年の横山になら相談を持ちかけても聞いてくれるかもしれない…


乗鞍ヒルクライムは標高差1260m、距離20.5km。最大斜度は20度を超えるハードなコースだ。プロレーサーにとっては山そのもののハードさは無いが、その分高速レースになるため過酷さには変わりはない。今回注目されたのは、ジャパン直前の調整とはいえ、前田、大島を筆頭にしたK'sレーシングのほぼすべての主力だけでなく、スキルAから渡辺麻友、指原莉乃、チームBからも柏木由紀、山本彩の他、今回のジャパンにエントリーされた石田晴香、小林香菜、鈴木紫帆里、3人のクライマーが出場してきていた。栄中日も松井玲奈、須田亜香里を始め主力を投入。本番さながらの豪華な顔触れになっていた。

ただ、あくまでも各チームにとって今日は調整と試走…その他にこのレースに意味を持たせている所は無かった。無理をせず、集団で淡々と山を登っていく。
とは言っても、さすがにプロレベルだ。興味本位で食いついてきた市民レーサーがあっと言う間に置いていかれる。そんな中、島田晴香は集団の先頭近くにポジションを取っていた。一応全開で行くようにという指示は守るつもりだ。しかし…私がどれだけ走れるか見たい…そんな事言っておきながら秋元さん、来てないじゃんか…

5km地点を過ぎた辺りからヘアピンが続き一気に斜度がきつくなってくる。トップレーサー達でもフロントギアをインナーに落とさないと登れない坂だ。
「どうも。はじめまして。アナタが島田さん?」
斜め後ろからふと声をかけられた。島田が声の方向を振り向く。
渡辺麻友の姿がそこにあった。

「は…はい。島田です。」
島田は戸惑っていた。あの渡辺麻友…だよね?あの…ヒルクライム・サイボーグって言われてる。なんで、こんなレース中に私に声なんか?
「確か、私のほうが年下でしょ?いいよ~麻友って呼んでくれて。」
「いや…そんなわけには…」
「うふふふ。聞いてた通り真面目な子だんだね~。ねえ、行こっか?」

行こっか?って…どこか遊びにでも行くような言い方で…
島田が戸惑った表情を見せると急に渡辺がキツイ顔つきになった。
「モノ分かり悪いって事はないよね?どんだけ走れるか見て来いって言われてんの。こんな草レースで本気出すつもり無いんだけど、仕方ないから牽いてあげる。とにかくぴったりついてきて?」
渡辺が島田の背中をぐいっと押すと、そのまま前に出た。小さな身体を躍らせるようなダンシングで一気に加速していく。島田もそれに追いすがるように食らいついた。

21.




渡辺のダンシングは独特だ。ひらひらと蝶が舞うように身体が左右に揺れる。そう…まるで踊ってるようだ。迫力があるわけではない…しかし、速い。
10km通過の看板が見えた。丁度半分の地点だ。

渡辺の加速についてきたのは…数名だ。島田の他、スキルAから指原、チームBの石田、鈴木、小林…それから栄の松井玲奈と須田…各チームのクライマーが揃ってる。みなすらっとした体型、脂肪はもちろん余計な筋肉さえ削ぎ落としたようだ。その中で島田の身体は明らかに大きい。スプリンターにとって、体重はある意味武器の一つだ。一瞬の爆発力を身体に宿す為には速筋が必要になる。そのため、どうしても体重が重くなるのだが、登りではそれがモロに負担となる。慣性力を体重によって生み出せるスプリントと違い、山を登るには体重は1グラムでも軽いほうがいい。

鈴木や小林が必死に前に出ようとするが、渡辺は二人が横に並ぼうとすると更にペースを上げそれを許さない。島田はその様子を見て疑問を感じていた。

おかしいな…確かこないだの秋元さんの話だと、チームBはスキルAと協調するって同盟を結んだはずだ。だったら、渡辺さんは二人を前に出して牽かせるべきだ。幾ら登りで20km/h程度のスピードとはいえ、空気抵抗はゼロじゃない。それに、先頭でいるとペース配分なんかも全部自分でやらないといけない。疲労っていうのは身体からじゃなくて頭から来る事が多いものだ…

そんな事を思いながら見ていると、突然渡辺が振り向いた。鈴木と小林に何事かを呟くと二人が島田のところまで下がってきた。

「…はぁ…は…ウチのエース…が…お呼びだ…よ。」
小林の息は荒かった。残りまだ7キロある。この感じだと、最後までついて行けない感じだ。島田は鈴木の方を見る。やはり下を向いて苦しそうだ。
こんなものなのか…余り名は知れてないが、少なくとも名門プロチームでクライマーとして期待されてジャパンのメンバー入りしてる二人…その二人が渡辺のアタックに相当消耗させられている。こんな事で本番の山で渡辺のアシストとして働けるのか?

「わかりました。じゃ…上がります。」
島田はそう言ってペースを上げた。ダンシングで加速し渡辺の横まで行く。
「お呼びだそうで。」
「ふーん。なるほどね。ただのスプリント馬鹿ってわけじゃなさそう。」
渡辺の口調に島田はかちんと来た。馬鹿?私がそうなら、アンタもそうじゃん。この坂馬鹿が…。いかんいかん…島田は言葉を喉の奥に引っ込めた。
「あ、怒った?あのさ、褒めてるんだよ。わかる?島田さん。晴たんって呼んじゃおうかな?晴たん、今キツイ?」

キツイ?…いや…確かに脚に負荷は感じる。平地を巡航してる時ほど楽ではない。でも…それほどきつい感じはない。これならスプリント前のコース取りでバトルしてる時の方がよっぽどしんどいくらいだ。ラストスプリントの苦しさとは、もちろん比べようがない。

「でしょ?今のこのペース、決して遅くないよ。っていうか、周り見て。ついてきてるの…さっしーと…さっきから後ろにくっついてきたあの3人くらい。」

え?そうなの?
…ホントだ。指原さん、あ、いつの間に…大島さんと前田さん、それから仲谷さん。そっか、渡辺さん結構マジに走ってるんだ。そりゃ、鈴木さんも小林さんも置いてかれても仕方ないか…あれ?でも…なんで私がついていけてるんだろ?

「やるね…晴香。」
大島が横に上がってきた。笑顔だがもう余裕はなさそうだ。

「わかった?なん…でアンタがこのレース…に駆り出されたか。アン…タは自分にどんだけ実力があるのかをわかってない。いい?あん…なクラブチームでスプリントだけ狙ってちゃ勿体ないんだよ。はぁ…は…アンタは。」
渡辺が島田に言う。呼吸が荒い。さすがの渡辺もしんどくなってきてるようだ。
「あれ?晴香、麻友の事も知ってるの?」
大島が意外そうな顔をした。
「ええ…ちょっと…あの…私、アタックかけてみていいですか?」
島田の言葉に一瞬渡辺と大島が顔を見合わせた。
「あはははは。おっかしーヤツだな。アタックかけていいですかって?アタックのタイミングって腹の探り合いなのにさ。初めて聞いたよ。アタックかけていいですか?なんて。」
大島が笑う。渡辺もおかしさを押さえられない顔をしていた。
「じゃ…失礼して…」
島田が一気にペースを上げた。いける…まだ余力は残ってる。いや…むしろ力がどんどん湧いてきてるみたいだ。今まで山は苦手だ…勝手にそう思い込んでいた。私にこんな適性があったなんて…

「追わないの?」
「いえ。もういいっす。今日は慣らしなんで。優子さんは?」
「私もいっかな…あの二人もその気じゃなさそうだし。」
大島は前田と仲谷の方を見た。何事か会話しながら走ってる。特に前を意識する様子はなさそうだ。本気になってない相手に幾ら差をつけて勝ったところで、アピールにも何にもならない…

「って事は、新しい乗鞍チャンピオンの誕生って事ですね。」
渡辺が九十九折りの上の方へ視線をやった。歓声とともに花火が打ちあがる。島田がゴールしたようだ。

万全だ…
ここにきて、使えるコマが一つ増えた事は大きい。
渡辺は静かに笑ってペースを落とした。大島や前田を先に行かせてゆっくりとゴールに入る。

「おめでとう!スゴイじゃん!」
「あ…ありがとうございます。」
島田は大島から差し出された手を遠慮がちに握った。
今度のジャパン…私はみなさんの敵になるんです…
喉から出かかった言葉をどうしても島田は声にして出す事が出来なかった。

22.


「Nous ne sommes pas venus à Japon pour voir les vues.Le but est excaver un joueur prometteur.Nous avons déjà trouvé des joueurs prometteurs.Nous voulons examiner les gens dans cette course.Et nous commençons l'invitation si la personne peut le passer.」

記者会見の席上、代表でマイクを握っているのは、フランスの名門ロードレースチーム、AG2RのGM、マレーヌ・キャンデローロだ。AG2Rだけではない。プロチームからはカチューシャ、HTC、ガーミン・サーヴェロ、コンチネンタルチームからも数名のGMもしくはトップスカウトが顔を揃えていた。その数は12名に及んだ。

通訳が彼の言葉を訳すると集まった記者からどよめきがあがった。
今回極東のレースを見る為ににこれだけのプロチームの首脳が揃ったのは、決して観光目的ではない。何人かの有望な日本の選手をスカウトするためだという事だ。

「すでに有望選手のリストアップはされてるんでしょうか?」
「誰に注目してますか?やはり、実績のある前田敦子?それとも大島優子ですか?」

記者たちは躍起になって質問の手を挙げる。

「Je ne peux pas l'annoncer ici.Yuko et Atsuko sont sûrement un de joueurs prometteurs.Est-ce qu'il n'y a pas cependant, le joueur qui, excepté, est excellent?」

どうやら、彼らの狙いは前田や大島だけではないようだ。
グランツールの全てが終わった9月、プロ、およびコンチネンタルチームは来シーズンの編成に取り掛かる。所謂ストーブ・ツアーの始まりだ。昨今の欧州の景況感の悪化から各スポンサーの要求は厳しくなる一方だ。そこで注目を集めるようになったのが日本市場だ。欧州ではサッカーに次ぐ人気スポーツのロードレースだが、日本の市場はまだ未熟だ。最近ブームが拡大している事もあり、日本人選手を獲得し宣伝効果を高めたいという動きはごく自然なものであった。

グランツールの舞台で日本人が活躍する…興奮したのは記者だけではなかった。ニュースはもちろん選手に間を駆け巡り、間近に控えたツール・ド・ジャパンへの期待度は格段に高まって行った。

23.



「仲谷さん。仲谷明香さんですよね?すみません、サイン頂いていいですか?」
街中で突然声をかけられて、仲谷は驚いて振り向いた。
サインなんて今まで求められた事がない。しかも、サイクルイベント会場でジャージを着てる時ならまだわかる。スキルA、K'sレーシングという有名チームのジャージを着ていればそういう事もあるだろう。もっとも、ジャージ姿の時ですら経験がない事だったが…

振り返ると、そこには車椅子姿の若い女性の姿があった。
「はい。でも…私なんかでいいんですか?」
仲谷が中腰になって、女性が差し出した色紙とサインペンを受け取った。慣れない手つきで色紙にサインを書く。
「えっと…○○さんへって入れましょうか?」
「はい、お願いします。恵玲奈って言います。小野恵玲奈。」
「恵玲奈さんへ…っと…??小野恵玲奈…さん?あれ…どこかで…」
仲谷が記憶を辿るように眉間に皺を寄せた。すぐに頭の中に小野のジャージ姿が蘇ってきた。グリーンのジャージに身を包んだ小野恵玲奈の姿だ。

小野も自分の事に仲谷が気付いたのがわかったようだ。舌を出して笑う。
「ちょっとお時間頂いていいですか?実は、アナタに大事な話があるの。」
仲谷が頷いた。


込み合った喫茶店の隅のテーブルに二人は向かい合わせて座った。むしろ、サインをもらいたいのは私のほうだ。仲谷はそう思った。大怪我で引退したが、私にはこの人の眩い活躍シーンを幾らでも思い出せる。確か、私より年下だったはずだ。でも、何年も前から国内メジャーレースで何度も表彰台に上ってた。今では大スターになった大島優子と肩を並べる…いや、将来性では大島よりも上だと言われてた逸材だった。

「ごめんなさいね。突然。」
「いえ…構いませんよ。多分、最初から私に何か話をしたくて声をかけてきたんですよね?」
「ばれてた?」

仲谷は静かに頷いてコーヒーカップを口に運んだ。どうやら、ファンが憧れの選手とおしゃべりを楽しみたい…そんな雰囲気ではなさそうだ。小野の話に耳を傾けた。




「あっちゃんが危ないって…?」
「ごめんね。こんな藪から棒な話で。でも…私にはそう思えて仕方ないの。」

小野の話は仲谷にとって突拍子も無いものとしか思えなかった。もちろん、小野としても確証があっての事ではない…そういう前置き付きの話であった。

「じゃあ、小野さんが巻き込まれた事故…あれも仕組まれたものだって事?」
「私はそう信じてる。」
「どうして…?そんな風に思えるのかしら?」
「笑ったのよ。あの人。血まみれになって倒れてる私を見てね。」
「でも…チームメイトでしょ?なんの為にそんな事…?」
「エースは一人でいい…そういう事なんだと思う。」

そうか…だから、あっちゃんを…。新参者がエースとして君臨する事を嫌って、今度は彼女が狙われる…そう言いたいのか。確かに理屈が通らない話ではないが、それにしても無理が多すぎる。恐らくこの人は、自分がもう走れない事の理由を探してるうちに錯綜してしまったんだろう。誰かのせいにしないと気持ちが治まらない…そんな小野の状況に同情は出来ないでもないが…とにかく、この話はこの位でいいだろう…そう仲谷は思った。

「うん。ご忠告ありがとうございます。気をつけますね。」
「あの…私の事信用出来ないのもわかる。でも…」
「小野さん…一つだけアナタに教えておきたい事があります。」
仲谷が小野の言葉を遮った。
「新しいK'sレーシングのエースはあっちゃんじゃないわ。」
「…?どういう意味?」
「それは…ツール・ド・ジャパンを見てればわかるわ。」

そう言って仲谷はレシートを持って立ち上がった。

24.


ツール・ド・ジャパン  スタートリスト

参加チーム プロチーム17 実業団登録チーム3
出場選手 180名

K'sレーシング

1 大島優子 2 秋元才加 3 宮澤佐江 4 板野友美 5 峯岸みなみ 
6 横山由依 7 仁藤萌乃 8 仲谷明香 9 前田敦子

スキルA

201 渡辺麻友 202 指原莉乃 203 高橋みなみ 204 篠田麻里子 205 片山陽加
206 岩佐美咲 207 小嶋陽菜 208 倉持明日香 209 前田亜美

チームB

301 宮崎美穂 302 柏木由紀 303 増田有華 304 平嶋夏海 305 佐藤亜美菜
306 山本彩 307 小林香菜 308 鈴木紫帆里 309 石田晴香

栄中日バイク

701 須田亜香里 702 松井珠理奈 703 松井玲奈 704 高柳明音 705 矢神久美
706 桑原みずき 707 中西優香 708 木本花音 709 大矢真那

サイクルショップ4(実業団登録)

2201 大場美奈 2202 島田晴香 2203 島崎遥香 2204 山内鈴蘭 2205 大堀恵
2206 市川美織 2207 永尾まりあ 2208 竹内美宥 2209 仲俣汐里

25.


「それデハ、みなさんにワタシがこのレースで望む事をお話しマス。」
ランスがミーティングルームに集まったメンバーに向かって話を始めた。
出場する選手だけでなく、控えに回りサポートを担当する選手、メカニック、マッサー…30名近い人数が集まっている。

「今回、我々がもっとも重要視するミッションは、総合優勝のタイトルを守ることデス。最終的にトウキョウのゴールでリーダージャージを着る事。それダケです。」
ランスの言葉に異論があるはずもない。ここにいるメンバー全員がその思いで一致している。ただ問題は…そのジャージを誰に着せるのか…だ。

「初日・二日目の平坦ステージは無難にいきまショウ。ここで無理をする必要はマッタクありません。もちろん、総合を争うような選手が飛び出すようナラ、阻止しなくてはなりまセンが…その可能性は低いでしょう。」
ランスは淡々と戦略を説明していく。かつては世界最高峰の頂きに7度立った偉大な先駆者の口から語られる言葉には重い説得力が伴われていた。
「3日目以降の山岳ステージが勝負デス。ユウコ。」
ランスが大島の名前を呼んだ。秋元と宮澤が大島の顔を見る。そうだよな。今年もエースは優子だ。幾ら前田と仲谷が強いとはいえ、ウチのエースは優子以外考えられない。
「アンタには、レースを作ってもらいマス。山に入る前に飛び出してくだサイ。」
「何?登りの前にアタックかけるの?逃げるって事?まあ、作戦としてはアリかもしれませんけど…ディフェンディングチャンピオンが取る作戦としてはリスキーじゃないですか?だったら、わざわざエースの優子が仕掛けなくても…?」
秋元がランスに忠言するかのように聞いた。

「ユウコが飛び出せば、恐らく他のチームのエースとそのアシストも追いかけるでしょう。その為には飛び出すのはユウコでなければ意味がありません。そして…ユウコは山に入る前に、ついてきた全員に脚を使わせるのデス。」
「でも…そしたら、優子さんの脚も消耗しちゃいません?」
菊地あやかが手を挙げて質問した。ふと、大島の方を向く。その瞬間菊地は思わず身を竦めた。何かに気付いた大島の形相が歪んでいるのを見たからだ。
「アヤカ、アナタは実に頭がイイ。そうです。ユウコの役割は各チームのエースとアシストを山に登る前に潰してしまうことデス。」

「なるほど…やっぱりそういう事ですか。あなたがこのチームに前田さんを連れてきた時からこの構想があったわけですね。」
大島が感情を殺すような口調で言った。しかし、その身体は怒りで震えていた。
「ワタシの仕事は、このK'sレーシングを勝たせることデス。アナタの3日目の仕事はそこまでです。といっても、そのままリタイヤしてもらっては困りマス。4日目以降も仕事をしてもらわないといけません。何とかカットされないよう完走はしてくだサイ。」

屈辱だ…前年のチャンピオンが「潰し屋」を務める。確かに他チームを出し抜くにはこれ以上の撒き餌はないだろう。間違いなくどこも喰いついてくる。そこに大きな釣り針が隠されてるとも知らずに。しかし…その為には大島のプライドは泥に塗れなくてはならない。

「大丈夫デス。このレース、必ずアツコとサヤカがモノにしてくれマス。」
ランスの言葉に大島は無言で背を向けた。そのまま部屋を立ち去って行く。秋元と宮澤が一瞬ランスを睨みつけてその後を追った。
「他のみなさんは?もし、この戦略に異を唱えるなら遠慮なく言ってくだサイ。今からでも選手エントリーの変更は可能デス。」
ランスの言葉に残されたメンバーは黙り込んでしまった。
前田と仲谷は表情を変えずにその場に座っている。
「無いですよ。異論なんて。私たちはチームの戦略に従うだけです。あの3人だって、ちゃんとわかってますから。私たちはプロですからね。」
仁藤萌乃が腕組をしたまま発言した。大きくはなかったが、メンバー全員に言い聞かせるような声だ。藤江も菊地も板野も黙って頷いた。

「デハ、健闘を祈りマス。」
ランスはそう言ってミーティングを終わらせた。

あっちゃんが危ない…か。
もし、あの人が言ってた事が本当なら…
仲谷は思った。用心するだけはしといた方がいいのかな…


26.



暑い…
島田晴香は額の汗を拭った。

まだ朝の6時なのに、太陽から照りつけてくる日差しは真夏そのものだ。今年の夏はとにかく暑かった。そしてそれは9月に入っても変わる事なく続いていた。

「おはようございます~」
明るく声をかけて仮設のハウスの中に入る。さすがは国内最高峰のレースだ。実業団枠のアマチュアチームにも専用の部屋が設けられている。中ではトレーニングウエア姿のメンバーがテーブルに向かい談笑しながら朝食を摂っていた。
島田もケータリングのテーブルに並んだメニューから自分の更に食事を盛りつけていく。レース前のロードレーサー達の食事はある意味異常である。レース10日前から1週間前にかけて炭水化物の量を極端に減らす。そして一旦体内を飢餓に似せた状態にし、そこから炭水化物中心の食事に切り替えるのだ。お米やうどん、パスタを毎食大量に摂取する。これはカーボローディングといって長時間の運動に必要なエネルギーを効率的に体内に蓄積させるための工夫である。1日のレースは5時間~6時間にも及ぶ。人間の体に貯めておけるエネルギーには限界があるため、選手はレース中も補給を取りながら走る事になるが、効率は少しでも高いほうがいい。

島田は普段は和食派だが、レース前に簡単にカロリーを摂取できるのは洋食のメニューの方が多い。パスタを大量に盛り付け、トーストにたっぷりと蜂蜜を塗りたくる。ダイエット中の女性が見たら気を失ってしまいそうな乱暴さだ。

「おはよ、晴香。体調はどう?」
「ん。絶好調。良く寝れたし、朝からお腹すいてるし。大場は?」
「…緊張してる。」
島田は大場のトレイを見た。山のように食材が盛られてはいたが、なかなか食が進んでいないようだ。
「そっか。意外と大場ってデリケートなんだよね。イメージと違って。」
「何、それ。私見ての通り繊細じゃん?」
「うんにゃ。見た感じ、デリケートっていうよりバリケードって感じ。」
ようやく大場の顔に笑顔が浮かんだ。
「ま、喉通んないのも分かるけどさ。食べとかないとハンガーノックになっちゃうよ。」

わだかまりが無いと言えばウソになる。やはり、エースは大場と公言された事はショックだった。しかも、初日のスプリントを狙いにいくとなれば尚更だ。今日のゴールは京都市内の繁華街のど真ん中、恐らく大観衆の声援に迎えられてのフィニッシュになるだろう。その時、先頭で称賛を受けるのが自分だったらどんなに気持ちがいいだろう…
しかし、その一方で別の感情が島田の中に生まれつつあった。先日の乗鞍で見せた…いや、自分自身でもまだ驚いている。あの山での訳の分からない勝利が島田を変えようとしていた。何かが自分の中で生まれようとしている。そんな期待と困惑。それも、秋元GMがあのレースに出てみろと言ってくれたから抱けた感情だ。その秋元が立てた戦略に乗ってみるのも悪くはない。ただ…その結果、せっかく話があった卒業後のK'sレーシングへの加入話が消えてしまう可能性もあるのだけど…

初日のコースは147.3km。スタートの大阪・ユニバーサルスタジオ内特設会場を出ると、1周7キロ程の臨海地区周回コースを3周したあと、大阪市内を走りぬけゴールの京都へ向かう。途中府県境の所で一か所小さな登りがあって山岳ポイントが設定されているものの、カテゴリーは一番低い「4級」。ポイントも低く、クライマーが山岳賞狙いで取りに来るものでもない。やはり勝負のポイントは京都市内に入ってからだ。細かいアップダウンが続く市内周回を3周。ラストの直線では壮絶なスプリント合戦が予想される。そこで、いかに自チームのエーススプリンターを爆発させるか…そういう意味では、スプリンターとして実績のあるチームBの宮崎辺りが優勝候補になる…世間ではそういう予想であった。もちろん、まだ誰もスキルAとチームBが協調しK'sレーシング包囲網を敷いてる事を知らない。

恐らく…野呂店長は、その協調に自分のチームが協力する為の条件として初日を狙う事を出したのだろう。そして、秋元GMは私をコマとして使う事が出来るなら…とその条件を飲んだ…だったら…私はやれる事をやろう。逃げ集団が出来るようなら潰してやる。発射台になれというならなってやる。せいぜい派手に大場を発射させてあげるよ。

島田は食後のコーヒーにたっぷり砂糖をぶちこんだ。
甘いものが好きなのかって?違う。コーヒーはブラック派だ。
味なんか関係ない。これは…走る為のガソリンなんだから。






27.


午前10時華々しいファンファーレが鳴り響くと、スタートライン並んだ集団から一斉に金属音が響いた。ビンディングシューズのクリートがペダルにカチッとハマる音だ。180台のバイクから同時に鳴るとなかなか大きな音となる。長いレースの始まりを告げる音でもある。

スタートして暫くは先導するアウディのオープンカーに従ってのパレードランだ。後部座席に乗り込んだ橋下大阪市長がフラッグを振りおろすまでは集団は和やかに走行する。年に一度のお祭りを待ちわびた沿道からは大きな歓声が飛ぶ。選手たちは笑顔で手を振りながら声援に応えていた。
一番前を走るのは昨年のチャンピオン、今年も栄えあるゼッケン「1」をつけた大島優子だ。チャンピオンチームだけに許されたひと桁ゼッケンをつけたK'sレーシングのメンバーがそれに続く。黄色のリーダージャージを着るのも大島だけに許された特権だ。

1周7キロの周回コース、半分来た辺りにフラッグポイントがある。そこからいよいよレースが始まる。徐々に先導のアウディのスピードが上がる。フラッグが振られた。
暫くは腹の探り合いだ。一人が前に出てはすぐに集団に戻り、すぐに別の選手が前に出る。そんな事を繰り返しながら集団は2週目に入る。有力どころのチームはまだこの段階では動かない。
2週目の半分手前でいきなり3人の選手が同時に飛び出した。地元大阪のプロチーム、Namba吉本、通称N吉の渡辺美優紀、九州。福岡を拠点とする、福鷹Bestの若田部遥、そして唯一の海外枠での出場、インドネシアの新興チーム、ジャカルタエアラインのシンディ・グラだ。
島田がインカムを使って本部の野呂に声をかける。選手は無線を使って監督とコンタクトを取る事が許されている。現代のロードレースはある意味、知略戦の要素が高い。監督の指示をリアルタイムで把握できる無線はもはや欠かすことのできないツールだ。

「3人逃げました。どうします?泳がせますか?」
「福岡とジャカルタはいい。力からしても目くじらをたてるレベルじゃないから。でも…N吉の渡辺は危険だね。チームBに来た山本のアシストをやってた子だけど、平坦にはめっぽう強い。地元で一発逃げをカマそうって作戦できたかもね。」
「じゃあ、あんまほっとく訳にはいかないって事か…追いますよ?」
「わかった。頼む。」
「了解。」
島田が集団の前に立つ。一口ボトルのドリンクを口に含んだ。

「え?晴香、逃げに乗らはるの?今日のステージはど平坦もいいトコや。勝負に出るならラストのスプリントやあらへんの?」
横山が声をかけるた。K'sレーシングのトレイン(隊列)の先頭を牽いている。後ろにつく秋元も宮澤も横山の言う通りだとばかりに頷く。
「うん、なんかね、ちょっと。」
島田は意味の通らない言葉で返事をして、一気にペダルを強く踏み込んだ。前を追う。後ろは…ついて来ない。そりゃそうだわ。スキルAとチームBの連合軍はこういう展開になった時、私が潰しに行く事を知っている。K'sもターゲットはこのステージではない。ここでアシストの脚を使わせてまで前を追うメリットは何もない。ついてくる可能性があるとしたら、松井珠理奈を擁する栄中日くらい…今年の栄はエースナンバーを珠理奈が背負っていない。須田亜香里という選手がエースのようだ。確か、須田はオールラウンダー…どちらかというと山岳タイプの選手だったはずだ。だとしたら、今日の平坦ステージを取りに珠理奈に好きに走れと言うオーダーが出てもおかしくはない…


しかし、珠理奈は来なかった。先頭の3人のコンセンサスが生まれる前に島田が追いついた。思った以上に今日は脚が軽い。無言で渡辺の背中を軽く押す。「先頭交代しながら行こう。」実業団の選手にその場を仕切られた気がして、渡辺は一瞬表情を厳しくした。しかし、すぐに頷いて島田の言葉に従った。インカムで島田の情報を得たのだろう。アマチュアとはいえ、島田の実績は無視できないものがあった。平地に強いだけでなく、先日の乗鞍では錚々たるメンバーを押さえて優勝をかっさらっている。警戒すべき相手だ…

4人対180人弱。普通に考えれば集団が大きいほうが一人ひとりの負担は楽だ。しかし、こういう風に集団が逃げを容認した場合、一旦は大きな差が生まれる。後方のメイン集団は終盤に備えてペースを上げない。逃げ集団は少しでも差を広げようとスピードを上げる。みるみるうちに差が開いていくのだ。
ところが、実際にはここにも緻密な計算が働いている。後方集団をコントロールするのは、そのレースをコントロールできるチーム。今日の場合はリーダージャージを着ている大島のチームであるK'sだ。彼女達は逃げ集団の選手の力、人数、天候等の状況を冷静に分析した本部からの指示でその差を実に巧みに計算している。おおよそ多くのレースでは逃げ集団はゴール直前数キロという所で集団に吸収される事になる。こういう点が近代ロードレースが頭脳戦と言われる所以である。
また、今日の島田のように敢えて逃げに加わりコントロールする場合もある。この場合、逃げ集団の中で最も力の強い選手に極力脚を使わせて消耗させるのが狙いだ。今日のステージ、サイクル4は是が非でも取りたいステージだ。逃げ切る可能性のある選手を前方で消耗させるのは実に大切な仕事であると言える。もちろん、それを悟られてはならない。だから、力のある島田が前にでて、渡辺に警戒させなくてはならないし、逃げ集団に乗っかってるという演技力も求めらるのだ。

周回コースを終え、大阪の市街地へ入っていく。マラソンなどと違い、ロードレーサーはあっという間に観客の前を通り過ぎる。時速40km/h以上のスピードで走る自転車の集団。凄まじい迫力だ。歓声にはどよめきが混じっていた。
難波から大阪駅周辺を通過、新大阪から吹田方面に入った頃、逃げ集団とメイン集団の間には3分半の差がついていた。








28.


「まだ様子見って事なのかな?」
秋元才加が柏木由紀に声をかける。
「そんなトコですね。そちらはどうなんですか?確か、逃げてる子…島田さんって言ったっけ?あの子、来年大学卒業したらK'sに入るって噂じゃないですか?身内みたいなモノでしょ。今日はこのまま集団コントロールして追いつかせないって考えなんじゃないですか?」

秋元は柏木の言葉には答えず苦笑だけを返した。

…相変わらずカンがいい女だ。今まで何回この笑顔に騙されてきた事か。
スキルAに移籍した渡辺が若くしてあれだけの実績を出せたのは、間違いなくこの柏木の力だ。澄ました顔をして何度となく渡辺の勝利の裏で色んなトラップをしかけてきた。それが全てこの女の策略だと気づいてる者はまだ余りいない。渡辺が居なくなったとはいえ…この柏木がいる限り、チームBから目を離すわけにはいかない…
それに…確かにウチが島田を無理に追う必要はない。ウチにとってこの第1ステージで勝つことは選択肢の中にすら入ってないんだから。でも、チームBは違うはずだ。渡辺麻友という存在がない今年、取れるステージは平坦コースだけのはず。だったら、初日とはいえ今日は取りにいかなくてはいけないステージのはずだ。なのに、余りにも簡単に逃げを容認しすぎてる。まるで、島田を勝たせようとしてるのは、ウチやサイクル4じゃなく、チームBなのかと思うくらいだ。
なんでだ?島田がチームBと協調する理由も接点も何もない…不気味だな…

秋元はちょっと柏木から距離を取ってインカムで呼びかけた。
「ランス…集団のペースを少し落としますよ?」
「わかりましタ。デモ、ハルカ・シマダのサポートですか?まだ、チームメイトになるのは先の話ですヨ?」
「いえ…Bの動きが気になります。ここでウチがペース落としても集団を牽こうとしないなら…今年のジャパン、Bは勝つ気すらないって事になる。何を考えてるか気になって。」
「イイでしょう。ただし、逃げ集団との差は八幡のポイントで5分以内にしてくだサイ。」
ランスが指示を出した。
「ラジャー。」
秋元が集団に手信号で合図を送る。K'sのトレインがすっと後ろに下がった。

上手いね、さすがだわ。早速探りを入れてきたってトコか。
う~ん…まだこの段階で手の内を見せるのは得策じゃないわね。ウチがスキルAの軍門に下ったって事はまだ伏せておいたほうがいい…
もちろん、その事に納得したって事じゃないんだよ。うん。有華じゃないけど、こんな面白くない話はない。まるで私たちが二軍みたいな扱いだしね。でも…私たちはプロなんだよね。プロなら与えられた仕事をしっかりこなしてから自分の意見言わなくちゃ。
有華もさ…そんないつまでもふくれっ面しないで。まだ先は長いんだから。何が起こるのかわからないのがロードレースでしょ?それに…何かが起こる…いや…起こすのか…にはまだ早いよ。ここは大人しく羊の皮かぶっとこうよ。暫く集団引っ張るフリしとこうね…

柏木がすっと集団の先頭に立った。

29.



いいのかな…このままじゃ、この逃げが決まっちゃう…

インカムを使う現代のロードレースではメイン集団はしっかりとした情報分析を元に逃げ集団との差をコントロールする。そのおかげで逃げが決まる事は少ない。

島田の仕事はこのまま逃げる事ではない…はずだ。
八幡の登りの手前でメイン集団との差は4分半まで広がった。だが、それ以上縮まる事がない。島田は巧みにN吉の渡辺をコントロールしていた。自分が先頭を牽く時はほんの僅かだけペースを落とす。福鷹とジャカルタはもう限界近い。催促しないと先頭に立つこともしなくなっている。決して強い逃げ集団ではない…それなのに、後ろとの差が縮まらないのはなぜなんだろう?

「店長。後ろどうなってるんですか?」
「K'sが集団のコントロールをやめたんだよ。Bが牽いてるけど、今日は出るつもりがないから…協調がバレないようただ前に出てるだけ…って感じになってる。」
「秋Gからの指示は?」
「今のところ…何も。」

何もない…?ホントに?待てよ…確かにウチのチームはスキルAとの協調に入るって話だけど…メイン集団がそんな感じなら、私がここで勝っちゃっても問題ないよね…?
確かにウチのエースは美奈って話になったけど…
参ったな。店長もきっと参ってるんだよな。でも…

あー、なんかすっげーめんどくさくなってきた。つまんない。頭の中でぐちゃぐちゃ考えて…なんか詰将棋でもやってるような気持ちになってきた。こんなの私らしくないよ。うん。
もーいいや。怒られたら謝まりゃいいや。勝っちゃってすんません…って。
勝っちゃってトコが私らしくていいんじゃね?

4人は京都市内へと入ってきた。残り50km弱。ここからは細かいアップダウンをこなしながら京都市内を3周回する。一般にロードレースにおいて、逃げとメインの差は10kmで1分というのが一つの目安になる。それ以内なら射程圏内という事だ。しかし、それはあくまでもメイン集団が追いつこうという意思を持ってコントロールされている場合だ。どうやら、今日のメイン集団にはその意思が無いように見えた。

「こんちは。」
先頭を牽く渡辺美優紀の横に並んで島田が声をかけた。
「どーもです。」
渡辺が笑顔で答える。

お?まだ余裕なんだ。しかし…可愛い顔してるなぁ、この子。
アイドルみたい。
おっと、いかんいかん、そんなんで騙されちゃ。顔は可愛いのに、勝負になったら人が変わる…この世界、そんな人ばっかじゃないか。騙されんなよ、島田。

「まだ余裕っぽいっすね?」
「いや、ほんまはしんどいですわ。うまい事島田さんに脚使わされてますから。」
「あれ?気づいてました?」
「ははは、でも…メイン集団、あんまやる気なさそうやないですか?島田さん、後ろに追いつかせようって野暮やめにしません?」
「それもばれてる?」
「最初からわかってますわ。」

やれやれ…やっぱりそうだ。可愛い顔しててしたたか…この世界によくいるタイプ。Bの柏木さんとか栄中日の須田さんとか…そんな感じか。私みたいに、見るからに勝気そうな顔だと警戒されちゃうんだよな…って、そんな事考えてる場合じゃないって。

「じゃ、逃げちゃいましょ。このまんま。となると…あの二人…」
島田は何とか後ろに食いついてくる二人の方を一瞬見た。
「足手まといですね。ふりきっちゃいましょか?」
渡辺が頷いて言った。
島田が渡辺の前に出る。西京極競技場を右折し、京都市内を北上すると暫く緩い登りが続く。二人はそこで一気にペースを上げた。短いサイクルで先頭を代わりながら重いギアでまるで平地のように加速していく。若田部とシンディがあっという間に千切れていった。

30.

サポートカーに乗っている戸賀崎の携帯が鳴った。秋元からだ。
「少しは考えて指示を出すんだ。島田を逃がすのはいい。しかし少しは追わせないと、Bに勝つ気が無いって事がばれるだろ?いずれは協調が明るみに出るのは仕方ないのかもしれんが、今はまだ早すぎだ。柏木にペースアップの指示を出せ。」
戸賀崎の中にはまだ迷いがあった。というより、明確な指示をどう出せばいいのか分かっていない…と言ったほうが正しいのかもしれない。もはや、このチームの監督は自分ではないも同然なのだから…

「…わかりました。でも、ここからじゃ追いつくのはキツいですよ?遅すぎました。」
柏木がインカムから聞こえてきた戸賀崎の指示に答えて言う。
「ああ、わかってる。でも、今ならBは追い始めるタイミングを誤った…そう思われるだけで済む。協調が早い段階でばれるよりはマシ…だそうだ。」
戸賀崎はそう言って少し自己嫌悪を感じた。俺は…自分の判断力の甘さを他人のせいにしている…ダメだな。こりゃ、監督下ろされたほうがいいよ、どっちにしても。

「有華聞こえてたよね?いこっか。」
「なんや、空しいペースアップやな。追いかへんってわかっとって…」
「ま…あね。」
「ゆきりん、ゆったん、行こう!」
後ろから声をかけてきたのは、宮崎美穂だ。今回チームBのエースナンバーを初めて背負っている。それが、真のエースではないという事を知りながら…だ。
「今からでも追いつく可能性はゼロじゃないでしょ?追いついて勝っちゃったら…それはそれで仕方ないでしょ?行こう!まだ脚全然使ってないし。今まで楽しすぎて居眠り運転しちゃうトコだったよ。」
「おっけ。じゃ…チームB、集合~ってか?」
「じゃ、トレイン出動するよ?」
増田が先頭に立った。空になったボトルを投げ捨てる。9人のバイクからカシャカシャと金属音が響く。ギアをシフトアップした音だ。

「やっと?ホント、眠くなりかけてたよ。ようやくサイクリングできるね。しかし…ゆきりんいるのに仕掛けドコ間違えるかなぁ…何やってんだか。今年のBは。」
大島優子が前田敦子に声をかける。
前田は無表情で補給のパワーバーを咥ていた。それを口の中に押し込みボトルの水で喉に流し込む。
「そうかなあ?最高のタイミングでのペースアップだと思うけど?」
「え?遅いでしょ?今からじゃ。」
「本気で勝つ為なら…遅いけど。」

ん?意味がわかんないよ。勝つためって当たり前じゃん。そもそも今年のBは総合を狙う布陣じゃない。平坦ステージで勝たなきゃ存在感すらアピール出来ないじゃん?それわかってて、慎重になり過ぎただけの話じゃないか。最高のタイミングって?何を考えてるんだ、この子は?

まあいいや。今日はこのまま集団の中でフィニッシュすればいいだけだ。
先頭を牽くBにとってはしんどいペースでも、集団の中に埋もれてる分にはサイクリング程度の負荷しかない。あとは落車に気をつければいいだけだ。



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