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はじめに


新作「色の違う襷」は「スポーツ小説」です。
誰も死にませんし、手の込んだ策略も黒幕も登場しません(笑)

私は、自分が大学まで野球をやっていたのと、今もトライアスロンをやっているようにバリバリの体育会系の人間です。(強いかどうかは全く別物で…(^^ゞ)
なのでスポーツ系の読みモノが大好きで、小説でも…山際淳司さんの作品は全部読みました。
彼の書くノンフィクションもいいのですが、最近では実際の競技を舞台にした秀作が多く、楽しく読んでいます。
ツール・ド・フランスを舞台にミステリータッチで書かれた近藤史恵さんの「サクリファイス」「エデン」は面白かったですね。ロードレースの醍醐味が余すことなく伝わってきます。
また、映画にもなりましたが、三浦しをんさんの「風は強く吹いている」や、堂場瞬一さんの「チーム」といった箱根駅伝を題材にした小説もとても面白いです。

駅伝は、個人競技であるはずのマラソンが一つの襷を繋ぐ事で団体競技となる不思議なスポーツです。正月の箱根駅伝は毎年私も楽しみにしています。

襷を繋ぐ事で「絆」を運んでいく…
なんとなく、AKBのチーム愛なんかに繋がる部分が多いかなと思い、この題材について書いてみたくなったんです。

私自身も(遅いですが)冬はマラソンを走りますので、結構趣味に走った話になってしまうと思います。その辺り、なじめない方もいらしゃると思いますが、なにとぞご勘弁を…

また、箱根駅伝を題材にするにあたって、実際とは大きく異なる設定があります。
大学女子の駅伝では全国大会でも1区間が10kmを超えるような長丁場はありません。箱根のように一区間20kmを超す距離を走る事はないんです。なので、メンバーを全部「男」として登場させる事も考えました。
ですが、そこを変えてしまうよりは、箱根駅伝の「女子版」を設定上で作ってしまったほうがいいかな…と自分なりに考えてそうしました。お話の中でのタイムは学生女子の記録を元に設定してみました。この辺りはフィクションとしてお読み頂ければ有難いです。

それから、お話の中での先輩後輩関係は私のほうで設定しちゃいました。
何期かとか年齢とか雰囲気とか…なので、実際の呼び方、会話辺りで違和感があるかも
しれませんがその辺もお許しください。あんまり極端には違わないようにしたいと思いますが…



という感じでスタートします。
「話がわからないでつまらないなぁ…」って思われる方が多いとは思いますが、スポーツを通して垣間見れる人間関係や葛藤、友情、成長…そんなものを含んだ「青春小説」を書ければいいのですが…
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1

11月3日  東京都立川市国営昭和記念公園


残り7キロ。二人のランナーが先頭で昭和記念公園に入ってきた。
白地のシングレットシャツに濃いオレンジの襷。
東海地区No.1の強豪、栄女子大の松井玲奈、珠理奈、二人のエースだ。
スタートして2キロの地点で飛び出した二人はその後も後続を大きく引き離しレースをリードした。予選会に参加しているランナーの中で二人の力は突出していた。

残り2キロになったところで、松井玲奈が珠理奈に目配せした。珠理奈が悔しそうに頷く。
一気に玲奈がスパートをかけた。長身、長いストライドが伸びる。

追わなくちゃ…。珠理奈も必死の形相で前を向いた。



自衛隊立川駐屯地をスタートする箱根女子駅伝の予選会には40大学500名を超えるランナーが出場している。本大会に出場出来るのは20校。そのうち10校は前年順位によるシード校。1チームは全国学連選抜による混成チームなので、この予選会から本戦への出場チケットを手に入れる事が出来るのは9校だけだ。

予選会は各大学20キロを走った上位10名のタイムを合算して順位が決定される。
男子のようにインカレポイントの加算もない、単純な一発勝負だ。

栄女子大は昨年、箱根の舞台に初めて登場した。
1年生で1区を任された珠理奈がいきなり区間賞を獲得するなど、前半のレースを大いに盛り上げたが結局終わってみれば総合13位。シード権の獲得はならなかった。それでも、昨年2区を走った4年生の松井玲奈が大きく成長。大矢真那、須田亜香里、矢神久美といった昨年の経験者を残し、今年の予選会ではトップ通過の前評判が高かった。


女子大学駅伝は佛教大学、立命館大学という関西の両雄が並び立つ「2強時代」が長く続いた。しかし、高速化が加速する世界に通じるマラソンランナーを育成する事を目的に「箱根女子駅伝」が創設されると、その勢力地図を大きく塗り替える動きが始まった。
男子の箱根駅伝が正月の風物詩なら、2月に開催される女子箱根駅伝は早春の風物詩だ。
華やかな女子の戦いは年々人気を呼び、沿道には多くの応援が繰り出し、テレビの視聴率は男子をも凌ぐほどになった。

ここ5年間に渡り、女子大学駅伝界をリードしているのは、秋英学園大と慶育大の両校である。秋英大は前田敦子、慶育大は大島優子という学生界だけでなく、もはや日本長距離界屈指のエースを擁して、女王の座を争っていた。両校は二人にとっての最後の箱根へ向け、最後の調整に入っていた。

強豪が最後の調整に入り始めるこの時期に、予選会というシビアな闘いに身を置かれる各校は条件的にかなり厳しい環境に置かれる事になる。

しかし、そんな事は言ってられない。
今日勝ち残らなければ、明日はないのだから。

2



仲俣汐里は、次々に入ってくる選手の通過タイムをノートパソコンに入力していた。
瞬時にその地点での順位が出てくる。
「どう?」島田晴香が画面を覗き込む。
「15キロ地点で10位…一つ上げたけど。」
「9位との差は?」
「殆ど無いよ。一人1秒ちょっと縮まれば逆転できる。」
「1秒か…」
島田は曇り空を見上げた。この1秒がどれだけ重いか…
ここに参加しているランナーなら全員が知っている。

四ツ谷大学は創設3年目の新興勢力だ。
昨年、創部2年目で初出場を果たした事は奇跡と言われた。
しかし、大舞台に気圧されたのか、島崎遙香、竹内美宥の両エースがまさかの失速。総合20位の最下位に終わった。今シーズンも昨年8区で好走を見せた大場美奈の故障による長期戦線離脱、キャプテン島田晴香も故障と厳しいチーム状態で予選会をむかえていた。

「最後まできっちり追い込めればきっと追いつける。それだけの練習はしてきたはずだよ。」
仲俣が島田を見る。
「そうだね。みんなを信じよう。」
島田は痛めてる右膝を引きずりながらフィニッシュ地点へと向かって駆け出した。

3

松井玲奈がフィニッシュへ飛び込んできた。
テープを切るとその場に倒れ込む。何も残していない。
全てを出しつくしてのフィニッシュだった。

67分30秒76

予選会20キロの歴代3位に入る好記録だ。
20℃近くまで上がった気温を考えると驚異的な記録といっても良かった。

「玲奈!ナイスラン!スゴイ記録だよ。」
平田瑠香子がタオルを玲奈の肩にかけ、身体を抱き起こす。
「さ、アイシングしなきゃ。」
「いいの、みんなを待たなきゃ。」
玲奈は平田の肩を借りながら、今入ってきたフィニッシュラインのほうを見る。
珠理奈がラストスパートして入ってきた。

「何秒差ですか?」
膝に手を当てて珠理奈が平田に聞く。
「28秒。珠理奈、20キロのベストじゃない?スゴイよ。二人とも。」
「負けは負けっすよ。」
平田の手から乱暴にタオルを受け取りながら珠理奈が吐き捨てるように言う。
「他はどうなんすか?こんなトコでノタノタしてる訳にはいかないっすよ。」
「大丈夫。15キロ通過ではトップだから。」
「玲奈さん、箱根では栄女(サカジョ)のエースの看板、絶対降ろしてもらいますからね。絶対…負けないんだから…」
「珠理奈、またそんな事言って。私たちはチームメイトでしょ?」
平田の言葉に耳を貸すことなく、珠理奈はその場を後にした。
「まったくあの子は…」平田が肩をすくめた。キャプテンの私の言葉なんて聞いちゃいない。

玲奈はそんな不躾な珠理奈の言葉をむしろ微笑ましく思っていた。
この子の向上心は大したものだ。珠理奈は周りにも厳しいが、何より自分に厳しい。
きっと、ああいう姿は今の栄女に一番必要なのかもしれない。

4

フィニッシュラインを超える表情はどれも険しいものだった。
倒れ込む者、呼吸もままならず携帯の酸素吸入を口に当ててもらう者…誰もが全力を出しつくしていた。

栄女子大は順調にメンバーのフィニッシュを迎えていた。
上位100人に玲奈、珠理奈、須田、大矢、木崎が入ってきた。他大学と比べてもレベルの高さは際立っていた。
コンデションの関係で予選会への出場が13名と少なかったが、上位10名のタイムで順位が決まるレースだ。
特に問題はない。

平田の手元には、携帯テレビで予選会の生中継の模様が映し出されていた。
画面には刻々とフィニッシュした選手のタイムを換算し順位が表示されている。
栄女子大は15キロ通過時点でトップだった。

「最初に10名がフィニッシュした学校は…順天堂大学」
会場から意外などよめきが起こる。突出して早い選手はいないがさすが名門である。
集団を形成し、全員が中位でフィニッシュした。

東北福祉大、玉川大…次々に10人がフィニッシュした学校が読み上げられる。
「何人入ってるんだっけ?」玲奈が不安そうな顔で平田に聞く。
「9人…くーみんが…矢神が来ない。」
「え?だって、あの子15キロまでは第2集団にいましたけど…」
須田と木崎が顔を見合わせる。

上位でフィニッシュした選手が多いから、タイム的には優位のはずだ。だが、最後の一人が遅れるとそれだけ順位は落ちていく。他の3人はともかく、矢神は上位でフィニッシュするだけの力は十分持っているはずだ。それだけの実績も残してきている。

12校が通過した。その中には、黒地のウエアにに黄色の襷、四ツ谷大もあった。
栄女子大は…来ない。矢神は明らかにブレーキを起こしていた。
こうなると、玲奈・珠理奈が作った貯金は決して余裕のあるものではない。
誰でもいい…早く…1秒でも早くフィニッシュラインを超えて欲しい…

祈りの中、ようやく矢神が姿を現した。
足元がふらついている。もう歩くようなスピードだ。
必死に腕を振り、それを推進力に変えようとするが身体は全く前に進まない。
右脚を引きずっている。古傷が痛むのか…

「くーみん!ラスト!」
「頑張って!」
メンバーが叫ぶ。矢神はそれに応えようとした。
その瞬間、矢神の身体がその場に崩れ落ちた。

「脱水じゃないっすか?」
いつの間にか姿を見せた珠理奈が独り言のように呟いた。
20℃近い気温は長距離走には高すぎた。1秒を争う過酷なレースの中、確かに矢神は給水を怠っていた。
給水の為にポジションを落とすことを嫌って後半は殆ど水分を摂っていなかったのだ。完全な脱水症状だった。

その時、平松可奈子が矢神をかわしてフィニッシュに駆け込んできた。
平松も明らかにいつもと違っていた。こんなタイムで入ってくる選手ではない。

平田が手元のストップウオッチに目を落とす。
「どう…まさか…?」
玲奈の問いに平田が首を振る。
「わからない…どっちにしてもギリギリ残ったかどうか…」

「ちっ」
珠理奈が軽く舌打ちし足元の小石を蹴り飛ばした。

5


「まさかサカジョが…ね。」
大場は島田の肩を借りてやっとの思いで立ちながら言った。まだ息が弾んでいる。
「怖いね…駅伝って。たった一人のブレーキがチーム全体に響いてくる。」
島田が答える。目線は仲俣がデータを打ち込むノートパソコンのモニターに注がれたままだ。

「う~ん…後半の選手の正式ラップが取れないから…概算しか出ない。
テレビでも、結果発表を引っ張る為にもうデータ出してないし…」
仲俣がいらついた顔をモニターから上げる。
「仕方ないですよ。後は結果を待ちましょ。」
大場に次いでチーム2位でフィニッシュした市川が笑う。
この子のいいところは、この無邪気さだ。素直だから、教わった事をどんどん吸収して速くなる。
だからこそ、去年立てなかった大舞台を何とか経験させてあげたい…島田は思った。

「たぶん…多分だけど、ウチと城西国際大、サカジョが僅差だと思う。」
仲俣がデータを確認して言う。
「よし。前のほうに行こうか。そろそろ結果発表だ。」
島田が言った。他の部員たちもどれに続いた。

昭和記念公園の「みんなの広場」は東京ドーム2個分の広さを持つ広大な芝生広場だ。
その中に出場校の選手や関係者、報道関係者がひしめいていた。
用意されたステージを全員が注目する。

「結果を発表します。第1位…」
壇上には手書きのボードが用意されている。上位9校までが箱根への切符を手にする事が出来る。
9位の下に引かれた赤い線が天国と地獄の境目だ。

「第1位、順天堂大学。」
会場から大きな歓声があがる。この時点で上位校はある程度結果の予想はついているが、
それでも厳しい予選会を勝ち抜いた安堵感からか選手たちからは歓喜の涙がこぼれる。

「第2位、東北福祉大学。第3位、福岡大学…」
順位の発表が進むたびに、会場の空気が重苦しくなる。

「第8位、立命館アジア大学。」
どよめきが上がる。15キロ地点では12位だった立命アジア大が8位に入った。

残り切符は1枚。
島田は両手の指を組み、それを目の前に持っていき祈った。
大場も、市川も、島崎も、竹内も…仲俣もノートパソコンの画面を閉じ目を閉じて祈った。

6



残り1校…

祈るようにステージの速報板を見つめる周りのメンバーからちょっと離れた場所で珠理奈は腕組をしていた。確かに、箱根という大舞台を経験する事は自分にとってプラスになる事は違いない。かといって、出れないからといって、今後のキャリアにとってマイナスになるわけでもない。むしろ、一番故障のリスクの高いこの時期に2度ピークを持っていく調整をしなくていい分、負担は少ないといっていいだろう。
それに、まだ私には今年出れなくてもあと2回チャンスは残っている。

「第9位…城西国際大学。」

隅のほうで歓声が上がった以外、大きなため息が会場内に響いた。

珠理奈も一瞬だけ空を見上げた。
やはり負ける事は悔しい。
もし玲奈より前にゴールしていたらこんな風に思わなかっただろうが…

珠理奈の一番近くにいた矢神がその場に泣き崩れる。
須田も大矢も抱き合ったまま顔を伏せた。

玲奈が矢神を抱きかかえて声をかける。
「この悔しさを来年活かそ?ね。きっとくーみんなら出来るからさ。」
「ごめんなさい…ごめんなさい…私が…わた…玲奈さん…最後の…最後の箱根なのに…」
矢神の言葉は涙で途切れた。

珠理奈には周りの光景が遠くの世界での話のように思えた。
冷めた目線で見てるわけではない。むしろ、自分が玲奈に遅れないタイムで入って入れば…という思いはあった。
でも、私は泣かない。泣くって事はずるい事だと思っている。
いい結果も悪い結果も受け入れる。泣きたかったらその分トレーニングすればいい。
それが珠理奈の哲学だった。

10位の栄女子大と城西国際大の総合タイム差は7秒。
一人当たり1秒も無い僅差だった。

7


「11位…か。」
島田が最終結果が打ち出されたリザルトを見ながらつぶやいた。
「10位のサカジョとは11秒差、城西とは18秒だってさ。」
仲俣もノートパソコンを畳んだままつぶやく。
「一人2秒か…ほんの少しの差に思えるんだけどね。」
大場も二人の横に腰をおろして空を見上げていた。
「さ、帰ろうか。私たちはこれで終わった訳じゃないし。
来年…来年こそこの2秒を取り戻しにこなくちゃ。」
島田が立ちあがって芝生を払った。

出場権が取れれば、2月の箱根までには怪我は完治できるはずだった。でも、これで良かったのかもしれない。自分が出れない事で間違いなく予選会で他の選手に負担がかかった事は間違いない。また一から積み上げればいい。島田の常に前向きなこの姿勢が、若いチームを引っ張ってきていたのだ。

「すまんが、先に帰ってくれないか?」
「監督、どうしたんですか?」
「ああ、陸連のお偉いさんに呼ばれてな。
顔出してくる、これでも指導者としては新参者なんでな。」

戸賀崎智信は役員テントの方へ歩き出した。彼が就任する事で四ツ谷大は短期間で実績を残す事が出来たといってもいいだろう。指導者としては若手であったが、名将と言われる秋英大の秋元康総監督の下でノウハウを学び、四ツ谷大の監督に就任すると、その熱血指導で若いチームを引っ張った。選手からの信望も厚く、彼自身今年の大会に期するものは大きかった。

「残念だったね。」
居並ぶ陸連関係者に声をかけられ、戸賀崎は実感した。自分たちは負けたのだと。
「ところで、来てもらったのは他でもない。学連選抜の監督を引きうけてもらいたくてね。」
「私が…ですか?いえ…私はまだ若輩です。他にふさわしい方が…」
そう言いかけたところで奥のほうにいた男から声がかかった。
「私が推薦したんだよ。どうだ?お前にとっても悪い話じゃないだろ?」
秋元だった。

戸賀崎は一瞬躊躇したが、結局このオファーを受ける事にした。
何か得るものがあるかもしれない。
何を得る事が出来るのか…それは後で考えればいい事だ。

8


11月4日 千葉県柏市 秋英大学総合グラウンド

「ラスト1000!ラップ45、46、47…」

トラック脇でストップウオッチを持ったマネージャーの多田愛佳が大きな声をかける。
先頭を走るのは、学生長距離界…いや、日本長距離界のエース、前田敦子だ。
2月の箱根女子駅伝に照準を合わせたこの時期は、負荷の高い練習量で選手を追い込んでいく時期だ。
夏場のハードな練習の疲労を一旦抜いたあと、この時期にもう一度地力アップを目論む。
箱根のシード権を持つ学校にしか許されない調整法だ。
シードを持たない学校はこの時期に一度ピークを作らなくてはいけない。
本番までに再度力を上げていくには、どうしても時間が足りなくなる。

「指原!ここから粘るんだよ。食いついていけ!粘れ!」
トラックの外周をジョグしながらキャプテンの高橋みなみが声をかける。
先頭をから徐々に遅れ始めた指原莉乃への叱責に近い激励だ。

3000メートルをハイピッチで走り、ほんの僅かの間をおいてまた3000を走る…これを繰り返すインターバル走はトレーニングとしてもっともハードなものの一つだ。5本目を終えた各選手は空を仰ぎながらクールダウンに入る。前田敦子、篠田麻里子、小嶋陽菜、高城亜樹、倉持明日香といった学生界の強豪ランナーからやや遅れてゴールに入った指原はその場に倒れ込んだ。

「ダメですよ~、指原さん。ちゃんとダウンしなきゃ。」
「も…もうダメ…む…無理。指原…もう限界だから…愛ちゃん…いじめないで…」
指原の目には涙すら浮かんでる。
「も~…本当にヘタレなんだから…」

「愛ちゃん。指原のラスト1000のラップは?」
「あ…はい。1本目から…3"14、"16、"15、"21、"30 です。」
「だから、何回言ったら分かるんだ。ラスト2本は落とすんじゃなくて上げるんだって。
そこで粘れないからお前はいつまでたってもダメなんだ。
苦しい時に踏ん張らないといつまでたっても伸びないぞ!そんなトコでへばってないでダウン行って来い!」

「は…はいぃ…」
指原はよろよろと立ちあがった。

「たかみなさん、相変わらず指原さんには厳しいですね。」
「愛ちゃん、あいつをあんま甘やかしちゃダメだよ~。すぐサボろうとするんだから。」
「でも、指原さん、頑張ってると思いますよ。この1年で一番記録伸びたし。
それに今期10000の学生ランキングベスト10入りしたじゃないですか。
分かってますよ、たかみなさん、わざと指原さんに厳しくあたってるんでしょ?」
「いや、私はただあいつが、いつまでたっても…」

憎まれ口をたたく高橋を見て、多田はくすっと笑った。この人はいつもそうだ。厳しくあたってるけど、中身はホントにあったかい。いつも細かい事まで気を配っている。だからこそ、この名門秋英大でキャプテンとして絶大な信頼を得ているんだろう。

だから…多田は故障を抱え別メニューで調整する高橋の焦りを思うと胸が苦しくなった。みんなが一番苦しんでるこの時期、自分だけが追い込んだ練習をする事が出来ない事が、どれだけじれったいか。多田自身も怪我で選手生活に終わりを告げた身として、高橋には無理をしてほしくなかった。

「愛ちゃん。大丈夫だよ。言われなくても無茶はしないから。」
高橋は多田にウインクして笑った。

参ったな。この人は何でも分かってるんだな。さすがだわ。
多田も高橋に笑みを返した。

9

埼玉県坂戸市 慶育大学グラウンド

「優子は?今日はトラックメニューじゃなかった?」
ヘッドコーチの野呂佳代がストレッチをする部員たちに声をかける。
「ああ、大島先輩なら今日も山ですよ。フォームチェックしたいからって、ビデオ持って出て行きましたよ。うっちー連れて。」
藤江れいなが答えた。
「またか…アイツ、今年も5区しか頭にないのかなぁ。」
野呂は秩父の山の方を見ながらつぶやいた。

大島優子は秋英大の前田と並ぶ学生長距離界のスターだ。トラック、ロードと安定した成績を残す前田に対し、大島は「山の女神」と呼ばれていた。箱根駅伝の最難関区間、箱根の山をかけ上がる5区で1年生の時から3年連続で区間新を叩きだすという離れ業を演じ、慶育大を3年連続の往路優勝に導いた立役者となった。
二人が4年生となった今年、ファンの注目は両雄の直接対決が見られるかどうかに集まっていた。前田の主戦場である「花の2区」に大島がエントリーするのか、前田が唯一持っていない称号を狙い5区に参入するのか。総合優勝の行方と同じくらい注目度は高かった。

「はぁはぁはぁ…」
秩父の山道を走る大島の横を車で伴走しながら内田真由美がビデオを回している。
いつもの事だが、大島の鬼気迫る表情に声をかける事が出来ない。
ハンドルを握るチームドクターの大堀恵も同じだ。

やがて山頂に到着すると、大島は腰に手をあて大きく空を仰いだ。手元の時計でタイムをチェックする。
軽く舌打ちをし、ダウンのジョグに入った。

「優子、今はタイムじゃないって。こんだけ追い込んでるんだからさ。それよりもフォームってアンタ自分で言ってたじゃない?」大堀がなだめるように声をかける。

「わかってますよ。ただ、やっぱ走るからには気になっちゃいますからね。」
「ねぇ、今年も5区走るつもり?」
「だって、それが一番ウチがアドバンテージを取れる作戦じゃないですか?私が2区走ったって敦子を2分も3分も引き離す事は出来ない。でも、山でなら5分の差をつける事が出来る。2区は才加か佐江に任せれば、敦子に肉薄してくれると思うし。」

「でも…No.1の称号を奪うには直接対決で…」
「そんなものには全く興味ないですよ。」
大島がきっぱり言った。
「あくまでも目標はチームが勝つことですから。今年は秋英にも劣らない層の厚さが出来たと思ってるんです。
私がどれだけ差をつけれるかで、総合に手が届くかもしれない。もう嫌なんですよね、
2日目に悔しい思いをするのは。」

「うっちー、ビデオ撮れてるよね?」
「は…はい、撮れてます。」
「早速見るよ。」
大島が車の後部座席に乗り込んできた。



10


神奈川県藤沢市 聖ヴィーナス女学院グラウンド

「集合~っ…ってこんだけしかいないの?」
キャプテンの柏木由紀が笑う。
「いつもの事じゃないですか。ま、みんなサボってるわけじゃないですから。」
北原里英が言う。
「そうね。じゃ軽くアップいこっか。」
集まった5人が海岸線へと向かって走り出した。

聖ヴィーナスはそれほど陸上競技に力を入れている大学ではなかった。
選手たちも高校時代からそれほど有名な選手という訳ではなく、毎日の練習への参加も強制ではない。
それぞれ自分の計画や都合を優先させ自主性に任せるスタイルをとっていた。
そんな彼女たちが昨年の箱根で大躍進を果たしたのは、キャプテンでエースの柏木の力によるところが大きかった。

2区で区間新を叩きだした秋英大の前田敦子に3秒差まで迫る快走を見せた柏木に触発されるように各選手が力以上の成績を残し、総合5位に食い込んだのだ。その弾けるような躍進に「湘南のお転婆娘」というニックネームが与えられた。

6区の山下りで区間賞の渡辺麻友、その他、北原、増田有華、佐藤亜美菜といった実力者が昨年の経験を活かし更に上が期待されていたが、どうもキャプテンの柏木自身、周りの尻を叩いて盛り上げるのが得意なタイプではないらしい。

「予選会、サカジョが落ちちゃったらしいですよ。」
北原がジョグしながら話しかけてくる。
「みたいだね~。びっくりした。」
柏木が頷く。
「やっぱ、怖いですね。予選会って。」
「うん、だからシード取るって事がどんだけ大事かって事だよね。」
「今年、ウチはどうなんでしょ?」
「どうなんでしょ…って。自分たち次第じゃないの?解説みたく言わないでよ~」
柏木はちょっとだけ顔をしかめてみせた。

実は、柏木自身にはちょっとした野望と自信があった。
今年は昨年よりちょっと上…ひょっとしたら3位以内も狙えるかもしれない。
前田・大島に次ぐと言われる力をつけた。だから今年こそ、ちょっとしたムーブメントを起こしたい…
そんな事を密かに考えていた。それには…

よし、そろそろ作戦を練らなくちゃ。監督の浦野とじっくり話す時期だな…
柏木はワクワクしていた。去年までの自分にはなかった感情だ。

11


11月15日 東京都内四ツ谷大学グラウンド


しかし…ひどいグランドだな…
珠理奈は四ツ谷大のグラウンドをぶらぶらと歩きながら思った。
トラックはアンツーカーでなく土だったし、更衣室もトレーニング室も決して褒められたものではない。これならウチで練習する事にすればいいのに。第一、わざわざ新幹線に乗って東京まで来て顔を合わせる意味が全く分からない。所詮、学連選抜といっても寄せ集めにすぎないのに。監督が四ツ谷大の人だから仕方ないけど…

学連選抜は、本戦の大会に出場出来ない学校から選手を選抜しチームを作る。チームとしての記録は参考記録となるが、10位以内に入ると翌年予選会から本戦出場出来る枠が1つ増えるし、個人記録は公式記録として残される。予選会トップの下馬評が高かった栄女子大が出場を逃した事で、皮肉にも学連選抜の力は上がる事になった。選抜候補として、栄女子大の主要メンバーが顔を揃えたためだ。

学連選抜の監督に就任した戸賀崎は10名の選手枠を栄女子中心で構成する事を考えた。どちらかと言うと「記念」に4年生中心にメンバーを選ぶこれまでのスタイルに疑問を持っていたからだ。引き受けたからには、勝負したい。それだけのメンバーが組めるはずだ。戸賀崎はそう思っていた。

栄女子から松井玲奈、珠理奈の両エース、須田、大矢、矢神を招集した。彼女達が今年も経験を積む事はそのまま来年、自分たちの首を絞める事にもなりかねない。でも、秋元先生はそんな小さな考えを持たないよう…そう思って自分を推薦してくれたのだろう。それに、彼女たちの持つ力なら俺にもちょっとした野望が持てるかもしれない…

四ツ谷大からは、大場、島崎、市川の他に島田に声をかけた。予選会には出ていないが、島田は故障さえ癒えれば大きな戦力になる。もちろん、チームのムードメーカー、まとめ役として期待した部分もある。

その他には、金町総合大からキャプテンの高柳明音、秦佐和子の4年生、同じ中京地区の振興校の伊勢大から1年生の木本花音を抜擢した。関西地区からは難波商科大の3年生山本彩、渡辺美優紀を招集。この中から本戦出場の10名を選ぶ。ちょっと面白いチームが作れそうだ。

12


「松井さん。」
金町総合大の高柳がストレッチをする珠理奈に声をかけた。
同じ名古屋地区の大学で何度か記録会で顔を合わせてはいるが、直接話す事は初めてだ。中京地区では名の知れた選手である高柳だったが、全国区の知名度を持つ珠理奈に話しかけるのはやはり気を使ってしまう。

「あ、珠理奈って呼んでもらっていいっすよ。玲奈さんと間違えやすいし。高柳さん、先輩なんで。」
珠理奈は高柳を見て言った。

あれ?意外とフレンドリーに話すんじゃないか…?
なんか、近寄りがたいイメージあったんだけど、結構可愛いトコあるんじゃないかな?高柳は思った。

「ね?学連選抜ってどう思う?なんか、私、いまいちモチベーションが上がらなくて…。
やっぱり駅伝って自分のチームの為に走るものでしょ?ウチの学校、今年こそって思ってたんだけど…
ここで幾ら頑張っても…ねぇ。」

「そもそも陸上競技って、個人種目じゃないですか?
私は、あんまりチームの為とか、母校の栄誉とかそんな事には興味ないんで…」
珠理奈はクールに言い放った。

「だって、あなただってサカジョのエースとして箱根目指してたんでしょ?」

「…」
まただ…珠理奈はちょっとうんざりした思いに包まれた。
大体、駅伝なんて競技でこんな風に盛り上がるのは日本だけなんだ。自分の目標はマラソンという舞台で世界と戦う事だ。オリンピックに駅伝なんて種目はない。学生時代にハーフの距離を試合で踏める機会をなるべく作っておきたいから駅伝を走ってるだけ。だから、誘われた秋英や慶育にも行かなかった。名門と言われる所は、自分を殺して走らないといけないと思ったから。

高柳には珠理奈が急に不機嫌になったように思えた。
やっぱり、噂通りの子なんだ。
高柳はそれ以上話すのを諦めた。

どうすればいい?私は何の為に、箱根という夢舞台に臨めばいいんだろう…
誰かが答えを教えてくれるのだろうか?

13


簡単な自己紹介だけで、選手たちはそれぞれ思い思いにアップに入った。
「思った以上にテンションが低いな…」
戸賀崎が横にいた島田に言う。

「仕方ないですよ。予選会からまだ10日かそこらしか経ってないんですから。
まだ、気持ちの整理がついてないんじゃないですか?それ言うならウチの学校だってそうじゃないですか。」

「じゃあ、ちょっと試してみるか。」
「試すって?何をですか?」
「よ~し、アップが終わったら集まってくれ。」
戸賀崎が大きな声を出す。トラックに散っていた選手がばらばらと集まってくる。

「これから、タイムトライアルをやる。まだ予選会の疲労が取れてない者も多いと思うので、今日は5000でどうだ?」
「監督…タイムトライアルって…」島田 が首をかしげて言う。
集まった選手も口には出さないが一様に疑問を持った表情をする。
本番のレースを走ったばかりの今の時期にタイムを取って何か意味があるのか?

「いいんだ。知りたいのはタイムじゃないんだ。」
じゃあ一体…?誰もがそう思っていた。その気まずい沈黙を破ったのは最年少の木本だった。
「楽しそうですね。タイムトライアルなら誰がどんな走りなのか、身近で見れますからね~。ただペース走なんかよりみんなその気になるでしょ?私、珠理奈さんの切れ味鋭い走りに憧れてるんです~」
ほぅ…なかなかカンがいい。戸賀崎はにやっと笑った。そう、今の力を知りたいんじゃない。今、どんな気持ちでこの寄せ集めの練習会に参加してるのか。俺が見たいのはそこなんだよ…

「レディ~…ぴっ。」
仲俣の笛の合図で急きょ設定された5000のタイムトライアルが始まった。

ぽんと飛びだしたのは木本だ。笑顔が浮かんでいる。走るのが楽しくて楽しくて仕方ないといった感じだ。ウチの市川と同じタイプかな…?そう思っていたら、ほら行った、市川だ。あっという間に二人が並んで先行した。その差が徐々に広がっていく。1000を通過した時点で後続とは12秒の差がついた。

1500辺りで集団の後方にいた珠理奈がするするっと上がっていく。もう身体は十分あったまったからとでも言いたげな上がり方だった。集団の先頭にいた玲奈の顔を一瞬見てそのまま前の市川と木本との差を詰めにかかる。
2500を過ぎたところで、珠理奈が木本と市川を一気にかわした。そのまま独走する。

「さすがですね。もう誰も追いませんね。追えないって言う方が正しいんでしょうか。」
島田が戸賀崎に言う。
「そうだな。しかも闘争心も大したもんだ。木本と市川を抜くときの顔見たか?」
「いえ。どんな表情でした?」
「どや顔っていうのか?勝ち誇ったような顔だったよ。」
「噂通りって事ですか…?」
「噂?俺はとてつもなく強いって噂しか聞いた事がないけどな。」
「え?だからその噂どおりって事じゃないんですか?」
「いや…俺にはそうは見えなかったけどな。」

あの走りを見て、どこに弱さがあるって言うのだろう?
島田は戸賀崎に何が見えているのか、皆目見当がつかなかった。

14

どうしてなんだろう?
なんで玲奈さんに勝てないんだろう?

練習会や記録会では、決して負けていない。いや、実際に3000、5000、10000どれも公式のベストタイムは私の方が速い。
それなのに、ロードでの実績はどうしても玲奈さんに及ばない。この前の予選会でもそうだ。ラスト2キロ、玲奈さんのスパートに反応出来なかった。去年の箱根だって1区で区間賞を取ったけど、2区を3位で走った玲奈さんと評価がひっくり返る事はない。私はまだサカジョのNO.2としてしか扱ってもらえない。玲奈さんが卒業するまで待たないといけないのだろうか?

玲奈さんは、私がサカジョに入った時からエースだった。この人に勝てば、きっと違う世界に行ける。前田さんや大島さんに勝つ前に、この人に勝たなきゃ…ずっと、そう思ってきた。

「相変わらず怖い顔してるね~。」
不意に後ろから懐かしい声がした。
「唯先輩!」
珠理奈が思わず大きな声を上げた。松葉杖姿の松下唯の姿がそこにあった。
「どうしたんですか、今日は?あ、でも…車椅子じゃないんですね。」
「なんとかコレの力を借りて立てるようになったよ。」

松下唯は、将来を嘱望されたランナーだった。しかし、突然、離脱性骨軟骨炎という病魔が彼女を襲った。2度にわたる手術と厳しいリハビリを続けていたが、発病から1年、未だ回復のめどはたっていなかった。明るい性格と癒し系のキャラクターでチームメイトからの信頼も厚く誰もが彼女の復帰を心待ちにしていた。
また、松下は珠理奈にとっても心中を明かし相談を持ちかける数少ない先輩でもあった。

「箱根、学連選抜で出るんだって?」
グラウンドの隅のベンチに座り、松下が珠理奈に話しかける。
「ええ…選ばれちゃいました。」
「っていうか、珠理奈なら当然でしょ。でも、サカジョで出たかった…なんて事は言わないか。珠理奈は。」
「そんなことはないですよ…私だって、サカジョの一員なんですから…って、唯先輩に嘘言っても分かっちゃいますよね。」
「珠理奈らしいね。でも、そういうトコ、嫌いじゃなかったなぁ。」
松下は柔らかく笑った。思えば、この笑顔にどれだけ救われた事だろう。

「今日はどうしたんですか?あ、そうだ。またフォームチェックしてくださいよ。唯さんの目って信頼できるんで。お願いしますよ。」
珠理奈は久しぶりにはしゃいだ姿を見せた 。

「ごめんね…」
松下が寂しそうに笑った。
「実は、今日…退学届出してきたんだ。」
「退学届?なんでですか?学校やめちゃうんですか?」
「うん…ちょっと時間かかりそうだからね、この足。」
「でも…やめる事ないじゃないですか。走れなくても出来る事…あるじゃないですか?
勉強とか、ほらコーチとか。唯先輩、教えるの上手だし。」

「珠理奈…ありがと。でもね…キツイんだ。私がね。走れない自分を自覚しちゃうんだ。ここにいちゃうと。
なんか、逃げてるみたいでごめんね。」

違う。逃げてるなんて誰も思わない。先輩がどれだけ走るのが好きか、みんな知っている。
それに、私はまだ先輩に肝心な事を教わっていない…

「珠理奈…走るのって…楽しいよね?」
そう言われて、珠理奈ははっとした。答えに詰まる。
楽しい?そんな風に考えた事はなかった。
ただ、勝ちたい。勝たなくちゃ…そんな風にしか考えた事がなかった。

「わかりません…」
「ねぇ。前に言ってた事があったよね。玲奈に勝ちたいって。今も同じ気持ち?」
「はい…でも…」
「珠理奈は何の為に走ってるのかな?自分の為?」
「もちろんっす…それ以外…何があるんですか?」
「珠理奈は速いと思う。本当に速いよ。でもね…もっと強くなれると思う。」
「強く…ですか?どうすれば?そしたら玲奈さんにも勝てるんですか?」
「かもね。でも、それを見つけるのは…自分次第だよ。」

先輩…私が知りたいのはそこなんです。
自分で見つけろって事ですか…?
松下は珠理奈に笑いかけた。
いつもと変わらない優しい笑顔だった。

15


11月17日 筑波山風返し峠




たかみなさんって絶対鬼だ。それか筋金入りのサドだ。
じゃなきゃ、ここまで厳しい事を言える訳がない。


まだ明けきらない筑波山の山道を駆け上がりながら指原は思っていた。
後ろにはコーチカーがぴったりつけていた。助手席からは高橋が大きな声でハッパをかける。
ちょっとでもペースが落ちようなものなら、途端に罵声が飛んでくる。

大体、私はにはこの時期に山岳トレする必要なんてないはずだ。
どうせ、今年も箱根を走ったとしても、3区か7区…繋ぎの区間なんだ。

そもそも私がこんな名門で走ってるなんて事が間違いなんだ。
そりゃ、大分じゃ結構有名な選手だった。高校駅伝だって2回出たし、花の1区で区間4位になった事もある。でも、前田さんや篠田さん、たかみなさんを見れるかもって記念に受けたセレクションでまさか受かっちゃうなんて。この名門のユニフォームを着る事になるなんて。夢にも思ってなかった。

毎日毎日学校を辞める事しか考えていなかった。周りは高校時代から全国レベルで有名な選手ばっかり。瞬発力がある訳でもないし、持久力がある訳でもない。筋トレだって苦手だし、インターバルトレーニングなんて毎回苦しくて泣いてた。

それなのに、補欠登録されていた2年生だった去年の箱根を急遽当日のエントリー変更で走る事になった。7区を無我夢中で走ってたら、いつの間にか襷を次の選手に渡してた。区間新記録で区間賞。

訳がわからない。今年に入って10000mで学生ランキング9位に入った。なんで私が?
今もここで立ち止まって泣きだしちゃえばどれだけ楽になれるか。
「やだ―――っ」って大声を上げて逃げだせばどれだけすっとするか…


「指原さん、また泣いてますよ。」
後部座席から多田が前に身を乗り出しながら声をかける。
「愛ちゃん、よくわかるね。」
「わかりますよ。泣いてないとしても、もうやだーって顔してますよ。」
「でも、ここまですごくいいタイムじゃない?」
「え…?ホントだ。山頂まで残り2キロ、15秒以上ベストより速いですよ。」
多田が高橋を驚いて見た。ちゃんと見てるんだ。やっぱ、指原さんに期待してるって事なんだな。
多田はなんとなく嬉しくなった。

「こりゃ、5区…指原って目もあるかもよ。打倒優子の一番手だったりして。」
高橋は笑った。決して冗談を言っているような顔ではなかった。

16


指原の確かな成長に目を細める一方で高橋は例えようのない焦りに襲われていた。

順風満帆と思えた大学での競技生活だった。1年生で箱根デビュー、前田、小嶋、篠田と並んで「1年生カルテット」と呼ばれ秋英大の黄金時代の幕開けを担った。前田のような派手な記録は持っていなかったが、抜群の安定感と魂をぶつけるような走りでチームから全幅の信頼を受けた。4年生になり、名門の主将に就任してからは、後輩の指導にも当たりチーム全体のレベルアップにも大きな貢献を果たした。そんな高橋を故障が襲ったのは夏合宿の最中だった。

夏の時期、有力校は合宿を張り走り込む。涼しい高原で行う事が多く、秋英大は毎年志賀高原に籠っていた。主将になった事で自らの練習量に不安を持っていた高橋は、この合宿でのオーバートレーニングにより右の足首を痛めた。ついつい自分を追い込み過ぎてしまう事が高橋の悪い癖だ。人一倍責任感が強いため加減をする事を知らない。

多分、その辺りが、私が「超」一流になれない点なんだろうなって思った。
前田を見ていたら分かる。普段から走り込みの量も多く、実にストイックな姿勢だけど、ちゃんと抜き所を知っているし、休む時はしっかり休める。意識してやってるんじゃない。身体が休まなきゃいけない時にちゃんと休むようシグナルを出してるんだ。
それに、持って生まれたものが違う。多分「才能」ってもの。いや、妬みや僻みじゃない。私にはそれがない分「努力する才能」には恵まれたと思ってる。ただ、その才能も程度を超えると故障というリスクを伴う事に気づくのが遅かった…

痛みはもうない。実際に今月に入って徐々に走り始めている。
ただ、痛みが消えたからすぐに復帰できるかというと、長距離走はそんなに甘いものではない。ましてや、箱根は1区間20キロを超える長丁場である。しっかり距離を踏んで走り込まないとまともに戦える「脚」は出来上がらない。

最後の箱根だ。
選手としては、何としてでも走りたい。何区でも構わない。
しかし、私は同時に名門秋英大の主将だ。この3年間守り続けた女王の座を守る義務がある。
私は一戦力としてどうなんだ?私が入る事で不安要素が増すのなら…

高橋は思った。
1年生の時は楽しかったな…箱根を走る事だけを考えていたあの頃は。





17

11月20日  千葉県南房総市


学連選抜チームは1週間の合宿に入った。

本番まで2カ月ちょっとのこの時期に合宿を張る事は、各自の実力向上というよりは、チームの一体感を高める目的の方が大きい。寝食を共にする事で産まれるものは決して少なくないはずだ…戸賀崎はそう思っていた。

「まだ、このチームのキャプテンを決めてなかったな。」
戸賀崎が集まった選手を前に言った。大学駅伝における主将の役割は実に大きい。
強いチームには必ずいい主将がいる。

「誰かやりたいってヤツはいるか?1年でも2年でも構わないぞ。」
戸賀崎の言葉に誰も反応しない。まあそうだろうな。誰も火中の栗に手を突っ込むような事はしたくない…
おっと、それは言い過ぎか…

「誰も立候補しないなら、俺が指名するぞ。いいな?」
全員が頷いた。

「じゃあ、高柳。お前だ。」
「え?」

高柳が驚いた顔をあげた。
まさか自分が指名されるなんて…まぁ、確かに4年生だけど…
でも、実績とかでいえば玲奈だし、主将っていうなら監督、自分のトコの島田を選べばいいじゃないですか?
そもそも、なんで私?

「なんで自分が、って顔してるな?」
「え…?ええ。はい…」
「そうだな。お前が一番声が大きいからな。」

それだけなの?それだけの理由で?
幾ら学連選抜たって、マスコミの取材とかあるでしょ?
どうせサカジョの二人に集中するとはいえ、主将って事になると、少しはそういうトコに出てかなきゃ…
そっか…それってチャンス?金大の宣伝にもなる…のかな?
ま、いっか。目立つのは嫌いじゃないし。

「わかりました。お引き受けします。」
「じゃ、いっちょ合宿開始の円陣でも組んでくれよ。」

「なんて掛け声しよっか?みんな、それぞれのガッコでやってるよね?」
「キャプテンのトコのでいいですよ。たまには他のガッコのやってみたいな。」
木本が無邪気に笑う。この子は、いいムードメーカーになってくれそうだ。
笑顔がいい。高柳はそう思った。

「わかった。じゃあ…しゃわこ、やるよ。」
「了解です、まずはお手本ですね。」

「私たちは」「1人じゃない。」
「感謝の気持ちを」「いつも胸に。」
「絶対」「悔いを残さない。」
「それゆけ」 「金大!」
「突っ走れ」 「金大陸上部!」

「…ってヤツなんだけど…」
「カッコいい!」「いいじゃん!気合入る~!」
場が一気に盛り上がる。
「最後のトコなんで言おう?学連?選抜?」
「学連ってなんか響き悪いよね。選抜っていうのは素敵な響きだけど。」

「じゃ、最後のトコはアドバルーンあげちゃいません?優勝だ!とか」
そう言った市川の顔を全員が覗きこんだ。
「優勝?マジで?」
「いや、それは大風呂敷広げすぎじゃない?」

「どうしてですか?このメンバーなら全然夢じゃないでしょ?」
市川はきょとんとしていた。どうやら、真剣にそう思ってるらしい。
高柳は思った。この子も面白い。なんか、楽しくなってきたぞ…

「よし、じゃあ。それゆけ!選抜!突っ走れ!優勝だ!これでいこう。」
「オッケー!」
「じゃあ、行くよ!」

「私たちは」「1人じゃない。」
「感謝の気持ちを」「いつも胸に。」
「絶対」「悔いを残さない。」
「それゆけ」 「選抜!」
「突っ走れ」 「優勝だ!」

笑顔と歓声で円陣が解けた。

「感謝の気持ち…か。」
珠理奈は一人、考え込んだような表情でみんなから離れた。

18


慶育大 グラウンド


大島と野呂が向かい合ってる。いや…睨みあってると言ったほうがいいのかもしれない。

「わかったよ。お前はこう決めたらガンとして変えないって事を忘れてたよ。」
「すみませんね。こういう性分なんで。」
「しかしな…いや、もう言うのはやめよう。チームが勝つ事を考えるのは、お前じゃなくて私の仕事だもんな。
すまないな。」
野呂が諦めたような表情で言う。

大島の山での強さは圧倒的だった。ある意味、大島のデビューは秋英1年生カルテットのそれよりも衝撃的だった。それまでの区間記録を2分も上回る驚異の区間新を叩きだし、トップとの7分差をひっくり返した1年生の時。10位で襷を受け、山中を一人違うエンジンを搭載したかのように山をかけ上りトップでゴールテープを切った2年生。昨年は後半苦しみながらも下りに入って先頭を逆転した。3年連続の区間新。3年連続の往路優勝。世間での知名度は前田よりも大島の方が上と言ってもいいかもしれなかった。

しかし、山以外の場面では大島は一度も前田に勝てなかった。トラックでも、直接対決したハーフマラソンでも…いつも前田の後塵を拝してばかり。学生No.1、長距離界のホープの称号は前田のもの…そんな評価が定着し始めていた。

最後の箱根は、その評価を覆す最後のチャンスだった。
野呂は、大島の調子がこの4年間で一番上がってきている事を肌で感じていた。
恐らく今年もとんでもない記録を叩きだしてくれるに違いない。間違いない、山では大島は無敵だ。
相手が前田であったとしても数分の差をつける事も可能だろう。
しかし…前田は間違いなく2区を走る。今絶好調の大島をぶつけてあげたほうがいい…
私のトコの優子が一番なんだって事を世に認めさせたい。

だが、大島はチームの勝利を誰よりも強く望んだ。
もう嫌だ。1年の時は遊行寺で、2年の時は蒲田、去年は六郷橋でひっくり返された。
大手町で悔しい思いはしたくない。
そのためには…私が山でもっともっと差を作らなきゃ。

大島は今日も山へ向かった。

19



「これって…ギャンブルじゃない?復路捨てるって事?」

聖ヴィーナス大の監督浦野一美はキャプテンの柏木が差し出した1枚の紙を見て驚いた。

「捨てるとは言ってませんよ。確かに復路はタイム的に弱いメンバーになるかもしれません。
でも、競った戦いの中で粘れる子がそろってるはずですよ。」
「だからといって…それに、麻友は去年の6区区間賞だよ?
あの子の活躍があったから総合で上位争いに残ったのに…それに1区は毎年どこも様子見じゃない?
エース級を投入する意味ってあんまりないと思うんだけど…」

渡辺麻友は今期学生10000mのランク5位につけるランナーだ。下りにもめっぽう強い。
そのアドバンテージを捨てても1区に投入するという作戦を柏木は浦野に提案していた。
「麻友がトップで来れば、私がそれを死ぬ気で守ります。
ひょっとしたら、今年は前田さんとの差を広げられるかもしれない。
そうしたら、後は北原、亜美菜、有華…十分往路優勝を狙えるメンバーだと思いますよ。
大島さんだって、そう毎年爆発出来るとも限らないし。」

柏木はもともと慎重なタイプの選手だ。それがここまで言うとは…
この一年、自身の成長とともに自信まで芽生えてきたようだ。こういう自覚こそ、柏木に足りないもの…そう考えていた浦野は、この見方によっては無謀と思える戦略に乗っかる事にした。良くも悪くもこのチームは柏木にかかっている。エースと心中するのは、決して悪い考え方ではない。

駅伝では目に見えない「勢い」というものがレースを支配する事は良くある事だ。
去年のウチはそうだった。柏木の快走でチーム全体が生まれ変わったように走った。
あの震えるような感覚をもう一度味わってみたい。


そう思ってるのは、きっと私だけではないだろう。
「わかった。ただし、本番まで万全の状態を…分かってるわね?」

柏木は力強く頷いた。

20


11月22日  千葉県南房総市

「島田さん…スゴイ筋肉っすね。」

二人ひと組でストレッチをしながら島田は驚いたように珠理奈の顔を見た。
学連選抜が組まれてずっと珠理奈を注目して見てたが、こんな風に誰かに話しかけるのを見た事も聞いた事もない。

「でもね、柔軟性がないんだよね。だからずぐ怪我しちゃう。」
「もともと使う筋肉が違いますもんね。
瞬発系のスポーツやってた人って、筋力に頼った走りになっちゃうから気をつけないと…」

「え?なんで、私が…?」

「だって、有名じゃないですか。島田さん。ウチの学校テニス強かったんですよ。
でもインターハイの決勝でボロボロに負けちゃって。覚えてません?島田さんの一コ下の…」

島田は、かつて女子テニス界期待の新星と呼ばれていた。ジュニアの世界ランクで7位に入り、全英ジュニアではウインブルドンの1st.コートに立った事もある。肘を壊しテニス界を去る事になった時にはずいぶんと惜しまれたものだ。
その後、抜群の身体能力を活かし陸上に転向。戸賀崎監督のもとでぐんぐん頭角を現してきた。最初は中距離専門だったが、2年生で箱根の最短区間の7区でデビューすると、秋英大の指原に僅か7秒差の区間2位の好走を見せ、一躍長距離界のホープとして名を上げた。

しかし、今シーズンに入ってからは度重なる膝の故障に悩まされ、予選会も走る事が出来なかった。
ようやくこの合宿から本格的な走り込みを始めたばかりだ。

「そうなんだ。いや、びっくりした。覚えてるよ。そっか、珠理奈ちゃん、あのガッコだったんだ。へぇ~」

くすっ
珠理奈がちょっと笑った。

「ん?どした?私、何か変な事言った?」
「いや…珠理奈ちゃん…なんて、暫くちゃん付けなんかで呼ばれた事なかったんで。」
「あ、嫌だった?ごめんね。」
「いえ、いいんです。そのままで。」

昨夜、須田と大矢が言ってた事を思い出した。
夜中まで色んな話をした。もちろん、珠理奈の事も話題に上がった。
「あんな、とんがった感じじゃなかったんですよね。入学してきた頃は。
いつからだろう?あんまり笑わなくなったのって…」

「あの…島田さん…。テニスって個人競技ですよね? だから陸上に転向したんですか?」
「う~ん…私、個人競技やってるって感覚なかったんだけどね。テニスやってる時から。」
「え?そうなんですか?」
「インターハイって3つタイトルがあるんだよね。個人、ダブルス、団体って。」
「私…幸いその3つともタイトル取ったんだけど、一番嬉しかったのってダントツで団体だった。
シングルとかは優勝した時ほっとしたって感じだったけど、団体はホント嬉しかったもん。
私って、もともと個人競技向いてなかったのかなぁ?」

いや…向いてない人が世界のジュニアとはいえ世界のトップクラスまで行けるとは思わない。
きっと…この人は何かを知っている。
私の知らない世界を見た事がある人かもしれない…

「島田さん…走るのって…楽しいですか?」
「わからない。テニスやってる時は大っきらいだった。」
島田は舌を出して笑った。
「なんであんな苦しい思いをしなきゃいけないんだってね。大事なのは分かってたけど。
でも、最近ちょっとだけ分かってきた気がするかな。なんでこんなに走りたいんだろうって。
怪我してやっと分かりかけてきたって事かな。珠理奈ちゃんは?」

「わかんないす。でも、負けるのは嫌いです。」
「そっか…ねぇ?何に負けるのが嫌いなのかな?」

珠理奈はどきっとした。
何に?誰に?
私は一体誰に勝ちたいんだろう?玲奈さん?前田さん?大島さん?
何に勝ちたいんだろう?

「島田さん、シューズ、もうちょっとクッション性が高いヤツのほうがいいと思います。
島田さんの筋力だったら闇雲に軽いヤツじゃなくてもいいと思うんで。
そのターサージャパン…いいシューズっすけど、膝にもろに来るっす。
ゲルフェザーとか案外いいすよ。見た目はアスリートっぽくないすけど。」

珠理奈は答えをはぐらかすように島田に言った。

21



11月26日 千葉県南房総市


学連選抜の合宿は最終日を迎えていた。
僅か1週間で個人の力が劇的に上がる訳ではない。それでも監督の戸賀崎はこの合宿での成果を微かに感じていた。
主将に高柳を指名した効果が見えてきた事がその一つだ。
今回はメンバーとして参加する学校の数こそ少ないが、やはり寄せ集め部隊である。チームとしてのまとまりはそれほど期待していなかった。それでも、高柳のいい意味での「暑苦しさ」が間違いなくチームのカラーというものになりつつあった。毎夜、高柳の部屋には誰かしらが集まり、箱根への思いをぶつけあった。時には白熱した議論が深夜まで及んだ事もある。

みんな、やっぱり箱根は特別なんだ…
みんな、それぞれが箱根への熱い思いを持っている。
高柳はそれが嬉しかった。

「なんで戸賀崎さんが、ちゃりをキャプテンに任命したか…わかった気がする。」

同じ大学の秦は、高柳と同じ学年だが、いつも謙虚な姿勢で人に接する子であった。
高柳に指摘され最近でこそ敬語をあまり使わなくなったが相変わらず腰が低い。
「なんか、声が大きいからって言ってたよね。まぁ、態度も大きいしね。」
高柳が笑った。自分なりにチームをまとめる自覚を持ち始めていた。
「…でも、本当の狙いはそうじゃなかったんじゃないかなぁ?」
「へ…?じゃあなんで?」

「ちゅりは、自分のために走るの上手くないから…だから、このチームをちゅりのチームにしようって思ったんじゃないかな?
そうしたら、ちゅりはこのチームの為に走るでしょ。
ちゅりが、選抜で走る意味がわからないって考えてたのがわかったんじゃないかな?」

高柳は目を丸くした。
もう4年の付き合いになるが、この子は人の心が読めるんだろうか?確かに、私はこの選抜に参加する意味が最初全然理解出来なかった。母校の為に襷を繋ぐ。それが駅伝だと思っていた。でも主将に指名された事で、自然とチームの事を考えるようになった。色んな話をみんなでして、このチームが段々好きになっている。事実、高柳のトラックでの持ちタイムはそれほど速くない。それでも東海地区で知られてるのは駅伝での圧倒的な強さがあるからだ。秦が言うように自分の為だけに走るのはどうも好きになれないし、第一燃える事が出来ない。

「しゃわこ。アンタが混戦での駆け引きに強い訳がわかったよ。」

きっと、この子は人の心が本当に読めるんだろう。だから集団で走ってても、誰がいまきつくて誰がスパートを狙ってて…なんて事がわかっちゃう。だからだ。それに、走ってる時のこの子は別人だ。普段は温厚で声も小さく私と正反対。でも、混戦から抜け出しスパートをかける姿…あの熱を帯びた走りは私なんて到底かなわない。

22



合宿での最後のメニューは25km走だ。一応個人レースとして行う。
故障明けの島田以外、全員がスタートラインに立った。

「どう予想しますか?」
伴走車のハンドルを握る戸賀崎に助手席から島田が話しかける。
「そうだな…まぁ、珠理奈が行くんだろうな。調子はずっといいみたいだしな。
玲奈がもう一つタイム上がってきてないから独走…かな。ま、誰が途中までついていくか…」
「なんか、ありきたりな予想ですね。でも、そうなっちゃうんでしょうね。」
「でも、今日はレースじゃない。みんなには、よく考えて走るようにって言ってあるからな。」

仲俣の笛の合図で選手がスタートした。
トラックを1周、そして一般道へ出ていく。観光シーズンでもないこの時期は交通量も少なく一応警察への届けも出しているが極力安全に走らないといけない。集団というよりは縦長の隊列のようになって一団は海岸沿いの道を走った。

5キロ過ぎで早くも珠理奈が飛び出した。ついて行ったのは、玲奈、高柳、大場、山本、そして矢神だった。

「お、矢神もついたか。」
戸賀崎は予選会で失速した矢神をあえてこの選抜に召集した。元々力のある選手だと知っている。予選会で負けた学校はほぼシーズンオフモードに入る。もちろん個人のロードレースはこれからがシーズンだが、駅伝への出場機会は無くなってしまうだろう。矢神が取り戻さなくてはいけないものは、駅伝の中でしかない…そう思ったからだ。


12キロ過ぎで海岸線に別れを告げ、ルートは登り坂に入る。
約5キロに渡って結構きつい登りが続く。箱根の6区とは比べようがないが、それなりに登りの特性が求められる区間だ。
実は、珠理奈は登りをそれほど得意としていなかった。今時点での唯一のウィークポイントといってもいい。といっても、平地の走力と比べて…という意味でだ。6人の先頭をずっと譲ることなく走ってる。さすがに表情が苦しくなった。
その時、一人の選手がすっと珠理奈を右側からかわしていった。
難波商大の山本だ。

山本は合宿の中でもこれまで比較的目立つ事のない選手であった。10000の持ちタイムでは上位にいながらも特に存在感を出す事が出来ないでいた。渡辺と二人だけ関西からの収集という事で遠慮してたのかもしれない。

「山本…今日を狙ってたな。あの顔はそういう顔だよ。アイツらしいな。」
「らしいって?監督、前から山本さんの事も知ってたんですか?」
「あたりまえじゃないか。俺がろくに調べもせずに選手選んだなんて思ってるんだろ?」
「はい。」
島田は笑った。なんとなく戸賀崎が可愛く見えたからだ。
きっと、色々調べたんだろうな。やっぱ、私たちはいい指導者に恵まれたみたいだ。


坂の上までに山本がちょっと差をつけた。それでも珠理奈は食い下がっていく。
10秒差…といったところだ。逆に玲奈が遅れた。やはり調子がいま一つのようだ。
高柳、大場、やや遅れて玲奈が下りに入る。

「おい、車を止めてくれ。」
戸賀崎は車を降りて、ラゲッジスペースに積んでいたミニベロに乗り換える。
「下りきったところで待っていてくれ。ちょっと見たいものがあるんでな。」
戸賀崎は後方の集団を待った。
一番後ろを走っていた、秦、島崎、須田のグループが来るとミニベロにまたがった。

23

残り5キロ。海岸線に戻ってきたところで、戸賀崎が車に戻ってきた。
「何を見たかったんですか?」
「ああ、ちょっとな。矢神頑張ってるな。」
先頭は珠理奈と矢神の二人だ。山本は下りに入ると徐々に遅れていき、逆に矢神が一気に珠理奈に追いついた。
そのあとは二人の並走が続いている。

久美さん…粘るな。この人はやっぱり走れる人なんだ。ちゃんとコンデションさえ整えれば。
でも給水を怠るなんて。あれだけ気温が上がってたんだから。
確か、去年の箱根でも…失速したよな…確か9区だったっけ?
あの時も暑かったんじゃなかったっけ?

「ラスト2キロ!」

後方の伴走車から島田の声がかかった。

その声と同時に矢神が飛び出した。珠理奈は一瞬反応出来なかった。
あっという間に5mの差が出来る。
珠理奈の表情に笑みが浮かぶ。

面白いじゃねーか…
そんな笑みだ。


陸上競技場に戻り、最後はトラックを1周してフィニッシュだ。
珠理奈はトラックの入り口で矢神を捕まえ、ラスト200で振り切った。
トップでゴールラインを超える。4秒遅れて矢神がフィニッシュする。

ここまで出し切って走る事になるとは思っていなかった。でも、練習とはいえ負けるのはイヤだ。
珠理奈はちょっとほっとしてダウンに入った。他の選手が徐々に戻ってくる。

意外に頑張っちゃったのかな?ちょっと足にダメージを感じる。
乱れた息も余り整わない。
競技場のフィールド内の芝生の上に座って珠理奈がストレッチを始めた時だ。
「さすがだね。」
矢神が声をかけてきた。涼しい顔をしている。珠理奈はちょっと驚いた。
この人…余力残してるんじゃないか…?
「久美さんこそ。一回前に出られたときは負けたんじゃないかって思いましたよ。
あのタイミングで飛び出すって、狙ってましたね?」
「ん?狙ってたって?」
「いや、だから…勝とうって。」
「勝つ?私が?珠理奈に?」
「違うんですか?」
「いや…勝つも負けるも…同じチームだし。それに今日はレースじゃないって戸賀崎さんも言ってたじゃない?」

矢神の呑気な口調に珠理奈は段々いらついてきた。
「練習だって、こうして走る以上は競争じゃないですか。走るからには負けたくない。勝ちたい。
久美さんはそんな風に思わないんですか?勝とうって思ったから、あそこでスパートかけたんじゃないですか?」
声が大きくなる。周りのメンバーが集まり始めた。
「そんな甘い事言ってるから、肝心な時に力が出ないんですよ。去年の箱根だって。今年の予選会だって。
久美さん速いのに。まともにさえ走れば…」
興奮した珠理奈が今にも矢神に掴みかかりそうになる。

「珠理奈、やめな。」
突然強い力で肩を押さえられた。玲奈だった。
「甘い?誰が甘いって?」
珠理奈は一瞬たじろいだ。玲奈のこんな怖い顔は初めて見たかもしれない。
「いいんです。玲奈さん。何度も私がチームに迷惑をかけた事は事実なんですから。」
矢神が玲奈に静かに言う。
「いや、でも…」
珠理奈が玲奈の腕を払いのけた。
「玲奈さん。私は間違ってないですよ。結局自分に負けない人間しか上に行けないんですよ。
マラソンだって駅伝だって、結局は自分の力以外頼れるものは何もないんですから。」


「高柳~。お~い高柳。今夜、全体ミーティングやるぞ。あと、打ち上げな。」
戸賀崎がそのやり取りを見ながら気の抜けた声をかけた。
「監督…」
島田が肘で戸賀崎の身体をつつく。

「雨降ってきたな。」
「え?雨ですか?」
島田は空を見上げた。そこには晩秋の澄んだ青空が広がっていた。
「いい天気じゃないで…」
島田は戸賀崎を見て、言葉を飲み込んだ。
何かを企んでいる顔がそこにあった。


24



ホテルの食堂に全員が顔を揃えた。戸賀崎が最後に顔を出す。
昼間の珠理奈と矢神の件で気まずい空気が漂ってるのかと思ったが、意外にも笑い声がおきている。
その中心には木本と市川がいた。何やら携帯電話の話題で盛り上がっているようだ。

「だからぁ。iPhoneはテレビ見れないのが残念なんですぅ~」
「みおりんさん、家にテレビないんですか?」
「そんなことないよ~。合宿所にもテレビくらいあるよ~
島田さんがチャンネル渡してくれないだけで。」
「あ~わかる~。なんか島田さんってそんな感じ~」
「ちょっと、のんちゃん?それ言い過ぎじゃない?」

島田も輪の中で笑顔を見せている。
珠理奈は…、おや?笑ってるじゃないか。てっきり一人で離れて座ってるのかと思ったら。
なんだかんだ言っても今時のコなんだな…

「さ、ミーティングしようか。と言っても、もう合宿は終わりだ。固い話は抜きにしよう…」
戸賀崎が言いかけると、珠理奈が手を上げた。さっきまでの笑顔が消え真顔になっている。
「あの…ちょっといいですか?」
「おう。どうした?」
「箱根のエントリーですが、もう誰が何区を走るか決めてるんですか?」
「まだ2カ月以上あるからな。決めてないよ。気になるのか?」
「いえ…何区を走るかによって、調整とか…変わってくるので。」
「ほう。何区を走るかによって調整法って変わるのか?良かったら教えてくれないか?」

珠理奈は顔をしかめた。
この人は時々こうしてなんかつっかかる物言いをする事がある。
私を怒らせようとしてるのだろうか?

「いえ…他の区間はともかく、5区6区を走る人はそれなりの準備が必要じゃないですか?」
珠理奈は何をわかり切った事を…とでも言いたげな表情を浮かべた。
「そうか…ところで、お前は何区を走りたいんだ?」

突然意外な方向に話を振られて、珠理奈は答えに詰まった。
何区?そりゃ2区…を走ってみたい。多分前田さんや各校のエース級が勢ぞろいするだろうエース区間で
自分がどこまで走れるか試してみたい。

「いえ、別に…自分は任せられた区間で全力を出す。それだけっすから。」
「そうか。まあ心配するな。お前には特別な準備を求める区間を走ってもらうつもりはないから。
特別な調整は必要ないよ。」
戸賀崎はそう珠理奈に言って、それから全員を見渡した。

「明日、俺は大会の監督座談会ってヤツに出席する事になってる。テレビ局と新聞社の企画だ。
実はな、そこでちょっと一発ぶちあげて来ようと思ってるんだ。」
「ぶちあげる…って、何をですか?」
高柳が聞く。
「ああ、今年の学連選抜は優勝を狙ってますってな。」

「優勝?監督…本気ですか?円陣の景気づけとは違うんですよ?」
島田が慌てて口を挟む。
「いかんか?」
「いや…それは…確かに今年はサカジョの皆さんもいるし、力はあると思いますけど…」
「実は、そう思ってるのは俺だけじゃなさそうだけどな。」
戸賀崎の言葉に島田は周りを見渡した。
高柳が、木本が、市川が、そして玲奈が島田を見て笑っていた。

優勝か。
確かに…このメンバーで一波乱起こすのも楽しいかもしれない。

「ねぇ、皆さん。メルアド交換しませんかぁ?」
突然市川が明るい声を上げた。
「あ、みおりんさん、いい考え~。しましょうよ。次にこうして会えるのも暫くないですからね~」
真っ先に木本が賛成した。
「いいねぇ。しようか。」高柳もジャージのポケットから携帯電話を取り出した。

「珠理奈さん。アドレス教えてください!」
「いや…私は…」
「え?私とメールするのって…迷惑ですか?のん…珠理奈さんに色々教えて欲しい事あるのに…」
仕方ないな…木本の悲しそうな顔を見て、珠理奈は携帯を取り出した。
「えっと…いいかな?アドレスはね…」
「ありがとうございます~やったぁ。嬉しいなぁ。メールしますね。やったぁ。やったぁ。
ね~珠理奈さんにアドレス教えてもらっちゃった。」
「ホンマ?私もええかなぁ?」
「あ…はい。山本さん。いいですよ…」
「じゃあ、珠理奈ちゃん、私もね。」
「島田さん…」
「私、名古屋にもよく行くんだ。近々遊びに行くから連絡するよ。」

そんな様子を戸賀崎は黙って笑いながら見守っていた。

25

1月5日  愛知県熱田神宮

年が明けた。正月の箱根駅伝は今年もものすごい盛り上がりを見せた。
優勝候補の筆頭と目された駒澤大が前半から大きく失速。早稲田、中央といった古豪が順位を伸ばせない中、往路優勝の法政大が区ごとにトップが入れ替わる激戦を押さえ初の総合優勝を果たした。
また学連選抜が一時復路でトップに立つなど波乱の展開に一役かった。
世間の話題は早くも2月の女子箱根駅伝に移っていた。
秋英の4連覇か慶育か。
「優勝を狙う。」そう戸賀崎が公言し、話題を呼ぶ学連選抜の男子に続く活躍にも期待の声が上がっていた。


「あけましておめでとうございます。」
高柳と秦が戸賀崎を始め、四ツ谷大の一行を迎えた。
「わざわざ名古屋まですみません。」
玲奈を先頭に栄女子大のメンバーも揃った。珠理奈もいる。
「おめでとう。しかしなぁ…年頃の女の子がこれだけいて、揃いも揃ってジャージかよ。
一人くらい振袖着てくるとか…なかったんかなぁ。」戸賀崎が苦笑する。
「あ、そないな事言うたら、セクハラ言われますで?監督。」
山本の言葉に笑い声が起こった。

本番まであと1ヶ月。
学連選抜のメンバーは箱根での必勝祈願と最後の全体練習を行うため名古屋入りをしていた。

合宿から1ヶ月ちょっと。

珠理奈の調整は上手くいっていた。
調子は悪くない。いや、むしろ絶好調と言っても良かった。
今すぐ大会があれば…そう思う位だ。

合宿以来大きく変わった事が一つある。走る事の他これといった趣味のない珠理奈は練習時間以外の時間の使い方が下手だった。映画を見るわけでもない、本を読む訳でもない。買い物に行くわけでもなく、友達とカラオケに行く訳でもなかった。そんな珠理奈が合宿が終わってからというもの、携帯電話を握りしめる時間が増えたのである。

メールだ。

それまで珠理奈の携帯に登録されていたアドレスは、実家の両親くらいだった。
それが、毎日のようにメールが飛び込んでくるようになった。特に木本からのメールがひっきりなしに。珠理奈は最初、どう返事していいのかすらわからなかった。だって「今から授業です~。寒いよぉ~(+_+)」なんてメールになんて返事すればいいんだろう…島田からもよくメールが来た。膝の具合や、新しいシューズを買う事の相談、他のメンバーの様子…こちらへの返信はすぐに出来た。

こんな風に、誰かとコミュニケーションを取る事なんてなかった。
いつの間にか、珠理奈も自分から取りとめのない事をメールするようになっていた。

同じサカジョのメンバーとも良く会話をするようになった。
もちろん、ぶつかる事が無くなった訳ではない。特に玲奈と矢神とは、合宿の一件以来ちょっと気まずくて話をするのを避けていた。玲奈も矢神も特に気には留めていなかったのだが。それでも、これまではした事もなかった、テレビの話や好きな音楽の話なんかを食事の後延々とする事が増えていた。

「珠理奈さんって、結構マメですよね~」
本殿にお参りした後立ち寄った茶店で木本が言った。
「マメ…?そんな事初めて言われた。」
「だって、メール、すぐに返してくれるじゃないですかぁ。なんか、どうでもいいような内容のメールにだって、そうなんだ~って。のん、感動しちゃってます~」

え?メールって、基本的にすぐ返すものじゃないの?だって、相手だって返事来ないと気分悪くなるだろうし、第一失礼じゃ…
いや…あんな律儀に返さなくても良かったの?

「そうだよね。珠理奈ちゃんとメールしてるとチャット状態になっちゃう。」
島田も木本に同意する。
「あ、私は…」
「珠理奈は真面目なんだよ。ね?」
急に矢神がにっこり笑った。
「あ、真面目っていうか。」
「あ~珠理奈、赤くなってるよ。へ~こんな可愛いトコあったんだ。へ~」
高柳も笑う。

珠理奈は周りのメンバーを見渡した。
みんな笑ってる。いい顔…してる。みんなこんな風に笑うんだ。
走ってる時の苦しい顔…と違う。

あれ…なんか心地いい…楽しい。
なんだろう、この感覚って…

26

1月20日  秋英大陸上合宿所

「高橋。そろそろ決めようか。」
総監督の秋元康が目の前に置かれた資料を見ながら言う。
細かいデータがびっしりと書き込まれている。

「はい。決めました。今年は…走りません。いえ…走れません。」
「いいのか?本当に。」
「冷静に秋英大のキャプテンとして判断しました。ベストに近い力で走れるかもしれません。しかし、ブレーキを起こしてしまうリスクは残ります。ウチの戦力では私がリスク要因を抱えたまま走るより他のメンバーに走ってもらう方がより優勝の可能性が高いという判断です。」

「そうか…高橋。良く辿りついた。私はお前を誇りに思うよ。」

「ありがとうございます。では、私はこれで…」

高橋は部屋を出ると、唇を噛みしめた。

本番まで僅か。明日は最初のエントリー提出日だ。大会前々日と当日にエントリー変更が認められている。当日までエースクラスを補欠に回し他校の様子を見るのはよくある常套手段だ。しかし、大体の戦略、主要区間に主要メンバーをどう配するかはそろそろ決めておかなくてはならない。走れるとしたら…4区…いや、最近の4区は距離の短さから各校スピードランナーをつぎ込んでくる。ハイスピードのレースになると膝への負担は大きくなる。じゃあ…5区か。高橋自身、登りには自信を持っていた。2年の時に走って区間3位の実績もある。最後に下りがあるとはいえ、登りは意外に膝への負担が少ない。だからリハビリでも積極的に山を走ってきた。

しかし…

「入るぞ。」
高橋は指原の部屋のドアをノックした。
「あ…あ、たかみなさん…どうぞ。」
「しかし相変わらずだな、お前の部屋は。敦子や麻里子はわかるけど。同じチームだからな。
でもな、大島や柏木の写真はないだろ?仮にもライバル校のエースだぞ?」
「あ…すみません。でも、私にとっては憧れの選手なんで…」
「お前…ヲタクだな。もはや。でも、何で私の写真がないんだ?」
「たかみなさんは…毎日夢に出てきますから…」
指原は微妙な顔をした。
「どういう夢だか…ま、いいや。ちょっと話したいんだけど、いいか。」
高橋と指原は合宿所を出て、競技場のスタンドに並んで腰かけた。

「5区、走ってもらうからな。」
高橋は前置きなく切りだした。
「はい。」
指原は驚いた顔を見せることなく返事をした。

お?無理です~。ダメです~とか、そんな泣きごと言うのかと思ったけど…
「あれだけ、叩きこまれましたからね。山ばっか。最近クロカンの選手って思っちゃうくらい。どこまで行けるかわかりませんけど。きっと2区で前田さんがいっぱい貯金作ってくれると思うんで。たかみなさんは?何区なんですか?4区とかで来てくれると嬉しいな。たかみなさんから襷受け取ったら気合い入りそう。っていうか、ひゃ~って走りだせそう。」

「指原…私は今年は走らないんだ。」
高橋は言った。顔は正面を向いたままだ。指原には横顔しか見えない。
「え…?たかみなさん。足…が?」
「いや…もう痛みはないよ。でも、いつまたぼんってなっちゃうかわからないからな。」
「そんな…じゃあ、そうだ。5区、5区走ってくださいよ。登りなら膝への負担少しはないですよね。
最後下りちょっとあるけど…5区ならたかみなさん、走った事あるし。」

「指原。私だって走りたいよ。最後の箱根だしな。でもな。私は秋英のキャプテンなんだ。
チームが勝つ事が私の一番望む事なんだよ。だから…私は走らない。
勝つために…その為に私はキャプテンとして、秋元監督に言ったんだ。」

高橋は指原の方に顔を向けて力強く言った。
「今年の5区は…指原。お前だ。」

指原…おい、泣くなよ。
まったく、お前は本当に泣き虫なんだから。
こっちまでぐっときちゃうじゃないか。これでもな、ガマンしてんだよ。泣くの。
でもな。私は今は泣かないよ。
きっとお前が泣かせてくれるんだろ?
芦ノ湖のゴールでお前を待ってるからな。大島より先に入ってきたら…

お前の前で大泣きしてやるよ。
だから、今は私は泣かないよ。


27



2月1日

箱根まであと10日。
学連選抜は大会前最後の全体練習の為、四ツ谷大グラウンドで汗を流した。
ここにきて全員の調子も上がってきている。戸賀崎は微かな手ごたえを感じていた。

「じゃあ、区間エントリーを発表するぞ。」
練習後のミーティングで戸賀崎が切り出した。
待ってました。全員が戸賀崎の方を向く。
どうやら、いい感じで気合いが乗ってきているようだ。

「1区、木本花音。2区、矢神久美。」
2区で矢神の名前呼ばれると、メンバーからどよめきが起きた。矢神も戸惑った表情だ。
戸賀崎は間を置かす発表を続けた。
「3区、市川美織。4区、大場美奈。5区、島田晴香。山は島田に登ってもらう。」
島田が目を丸くしている。私が山を登る?
「え~…それぞれの起用の狙いを理由を言いたいところだが復路も発表しちゃうぞ。
待ちきれんって顔が並んでるからな。」
戸賀崎はそう言って手もとの資料に目を落とした。
「6区、須田亜香里。7区、松井玲奈。8区、山本彩、9区、松井珠理奈。10区、高柳明音。」

発表を終えると、微妙な沈黙が場を包んだ。
選ばれた者、選ばれなかった者。もちろん、その気遣いから来るものもあった。
「すみません。監督。それぞれが選ばれた理由っていうか…
監督の狙いを教えてもらえませんか?」
それだ…全員が聞きたい事を主将の高柳が立ちあがって戸賀崎に聞いた。

「そうだな…なぁ、俺が優勝を狙うってぶちあげたのは…無謀だと思うか?」
「え…いえ、それは…もちろん出るからには少しでも上を目指して走りたいですけど…」
質問したつもりが逆にそう聞かれて高柳は答えに詰まった。
「まあ、普通は厳しいって思うわな。だから、俺は色んな仕掛けをこのラインナップに盛り込んだ。奇襲って言ってもいいかもしれんな。それぞれのメンバーは自分に仕掛けられたものが何なのかよくわかった上で走って欲しい。まず…木本。」
「は…はい。」
木本が立ちあがった。いつもの笑顔だ。
「お前は好きなように走れ。いいか。好きな・ように・だぞ?周りは関係ない。
自分が楽しいと思えるような走りをすればいい。それが俺のお前に期待するただ一つの事だ。逆に3区の市川。お前に与えるテーマはガマンだ。いいか、俺が伴走車から合図するまでひたすらガマンしろ。ただし、Goが出たらそっからは糸の切れた凧になっても構わん。」
戸賀崎の言葉を聞いて、木本と市川は頷いた。もっと細かい指示が出るものと思っていたのか、ちょっと拍子抜けした表情だ。

「矢神。わかってると思うが、2区は各校のエースが集結する。お前は…前にいる誰かを照準にしろ。
誰でもいい。出来れば柏木とか前田がいいな。」
「照準って…前田さんや柏木さんについて行けって事ですか?そんな。私には無理です。」
「無理だと思ったらいいよ。他の選手でも構わん。でもな、矢神。せっかくだから挑みかかってみろよ。
お前はもっと自信をもっていい選手だ。俺はそう思ってるよ。」

戸賀崎の話を聞きながら、珠理奈は一人考えていた。
なるほど…この人は本気でこの箱根で何かを起こそうとしている。
一つ一つのパーツを組合わせると…確かにこのオーダーは的確だ。
ただ、幾つかわからない事がある。亜香里さんの6区と玲奈さんの7区だ。
ま、このあと話しがあるだろう…

珠理奈はそう考えながら突然はっとした。
今まで駅伝のレースの前にチームがどうなるとか、戦略がどうだとか考えた事があったっけ?…ない。自分は任せられた区間をどう走るか…それだけじゃない。駅伝なんて。もちろん、今回もそのつもりだ。元から母校の名誉とかそんな事には全然興味はない。でも、今は…なんでだろう。頭の中に他のメンバーが走ってる姿が思い浮かんでくる。

なぜだろう…私、ワクワクしてる。

28


「大場。お前の責任は襷を島田に渡す事だけだ。」
「え?それだけですか?」
「そうだ。順位が上がろうが下がろうが構わない。とにかく島田の所までしっかり襷を届けるんだ。いいな。」
「はい。当然です。しっかり届けるよ。はるぅ。」
大場が島田と頷きあった。

「島田。お前はこの2カ月、徹底して登坂のトレーニングをしてきた。それは膝に負担をかけないため…だけじゃないはずだよな?俺の計算だと、大島はお前の後ろにいるはずだ。いいか、大島に並ばれてから…そこからが勝負だ。喰らいついていけ。」

「大島さんが後ろって…4区まで慶育より前にいるって事ですか?」
「ああ。ひょっとしたら一番前かもしれんがな。」
どっと笑い声がおこった。島田はみんなの顔を見渡した。
驚いた。みんな戸賀崎の言葉を疑っていないような顔だ。私も同じ顔をしてるんだろうな。

「そして、俺が仕掛けた一番の仕掛け…爆弾が、須田。お前だ。」
須田はそう言われて、ポカンとした表情になった。
「ひょっとしたら不発弾かもしれん。でも、それは気にするな。
お前はただ気持ち良く山を下ればいい。」
須田は今回参加したメンバーでは決して速いタイムを持っているわけではない。下りに特化した練習を積んできた訳でもない。それでも、戸賀崎の自信に満ちた言葉に、きっと何かあるんだろうな…メンバーは納得した。須田自身も、訳はわからないけど何かが出来るんだろうな…戸賀崎さんが言うなら。という感じで頷いた。
珠理奈もそうだ。なんでだろう?この人が言うと、本当に何かがあるような気がする。

「玲奈…みんなも知ってる通り、玲奈はこの中では実績も実力的にも一番の選手だ。
しかし、実は玲奈から今回の箱根は出場を辞退したいという申し出を俺は受けていた。」
みんな驚いて玲奈の顔を見た。玲奈は静かに笑っている。いつもの柔らかい微笑みだ。

「故障…?」
高柳の言葉に玲奈は静かに頷いた。
「ちょっと股関節をね。予選会が終わったころからずっと違和感があってさ。」
「でも、走れないほどじゃないんだよね?ずっと練習には参加してたし。」
「うん。でも…もしブレーキになっちゃったら…って思って。」
「そこで、7区だ。みんなも知ってる通り7区は復路で一番波乱が起き辛いコースだ。差がつきづらい中、各校がちょっとやんちゃな選手を出してくる。去年の秋英の指原みたいなヤツだな。ああいうヤツににらみを利かすには玲奈みたいな実績のある選手が一番だろう。玲奈にはタイムを期待しない。無事に次に渡してくれればいいんだ。で…山本。」

「はい。」
「お前、本当は5区を走りたかったんだろう?」
「あ…いや。そんな事…まぁホンマは…」
「でもな。8区にも美味しい登りは用意されてるぞ。」
「遊行寺ですよね?わかってま。」
「お前の強みは長い坂を登っていく事よりも、緩い坂でスプリントできる爆発力だ。遊行寺の坂は死ぬ気で登ってくれ。」

29

「珠理奈。」
「はい。」
「俺のもう一つの大きな仕掛け花火は、お前だよ。」
「わかってます。恐らく、秋英や慶育は9区10区には安定感のある選手を出してきますよね。
秋英は小嶋さん、慶育は宮澤さん辺りかな。競った展開をそれほど予想はしてないでしょうからね。
そこを引っ掻き回せ…って事ですよね。」

戸賀崎は笑って頷いた。
「どうだ?出来るか?」
「やりますよ。それがチーム…いや、私の仕事なら。負けるのは嫌いですから。」
チームの為…そう言いかけて珠理奈は言葉を引っ込めた。
チームの為?私は何を言おうとしてるんだ。陸上競技は個人種目なんだ。
誰の為でもない。私は自分の為に走るんだ。

「10区、高柳。」
「はい。」
「ここまで、よくチームを引っぱってくれた。このチームのアンカーはお前しか考えられなかったよ。お前の所まで襷が来たら…あとはお前のものだ。わかってるな。」
「はい。わかってます。」

「学連選抜の襷だ。」
戸賀崎が一本の襷を頭の上に掲げた。
赤字で全国学連選抜と染め抜かれた襷の色は真っ白だ。
「なんで学連選抜のが白なのか…みんなわかるな?」
「私たちが色をつけちゃいましょう!」
市川が立ちあがって叫んだ。
「どんな色になるかなぁ?」
木本も立ちあがって笑顔を見せる。

楽しみだ。今までで一番。
珠理奈は武者震いのように気持ちが高まっているのを感じた。
もちろん、自分の調子がいいからだ。
でも…今までのレースとは何かが違う。

何だろう?
きっと…走れば答えが見つかる。そんな気がしていた。



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